坂口安語の推理(1)
完璧な論理だった、と思う。
少なくとも、何処にも突っ込む余地がない。これが全て真実という保証はなく、ただ忘れられた物語の終わりを、私たちが勝手に犯人当てと同じようにして楽しんでいるだけだから、結局全て『解釈』であり、想像でしかないのだけど、それにしても山田君の論理と解決はあまりにも鮮やかすぎる。これは納得するし、どうしても信じずにはいられない。
平野さんは完敗だと言うように、畳に手を突いて脱力している。
私は彼の解決に痺れて、正座したまま動けない。
山田君はなんとかやり遂げたとお茶を飲み、微笑んでいる。
「どうですか先生。今の僕の推理は」
彼が嬉しそうに先生に問うた。山田君は先生の本の愛読者だから、意見を求めたいらしい。それか、満足できる解決だったから先生に褒められたのかも。もしくは、先生に勝てたのかもしれないと喜んでいて、先生を困らせたいのかもしれない。山田君の可愛らしい考えである。けれど、さすがの先生もこの解決には……。
ところが。
先生は、今も浮かない表情だった。
「どうした安語先生。山田の解決に負けを認められないのか。さすがにこれを上回る解決は無理だろう?」
平野さんが煽る。しかし、先生は答えない。
「あの、先生?」
私も恐る恐る反応を窺った。
先生は長い間沈黙し、それからやっと口を開いた。
「上手く行き過ぎだ」
■
「なんですって?」
「君の推理は多分、概ね正しい。そして面白い。解決としては申し分ないよ。僕も好きだ」
先生は山田君を褒めた。
「だが」
否定が強く、響いた。
「上手く行き過ぎだ。君の推理は、最後の解決を『偶然』に頼りすぎている」
「偶然、ですか」
「そう。小梅が野沢を殺すために毒を饅頭に入れ、刑部様が女中たちを皆殺しにするために野沢と協力して饅頭に毒を入れた。これだけの要素が、同時期に、まったく同じ様相を象って、偶然一致するなんてことが有り得るか?」
先生は続けた。
「これが物語ならば、そんな偶然や運命が味方したり悪魔になったとしても構わない。だが、これは現実であった物語なんだろう。そんな魔術的な力や、不可思議な偶然の力が働いたとは、僕にはどうしても思えない」
「じゃあ、いったいなんだと言うんですか?」
「山田君、君は言ったね。――今までと違うのは、『野沢は、小梅が自分に渡してきた菓子に毒を入れている場面を目撃していない』ということなんです、と。だが、本当にそうだったのかな。もしかしたら、野沢は小梅が饅頭に毒を入れていることを知っていながら、刑部様から受け取った毒も饅頭に仕込んだのかもしれないよ」
野沢さんが、知っていた?
だとしたら、小梅さんが生き残ることを見越していたということになる。小梅さんは、自分が野沢さんに渡した饅頭が茶の席で振る舞われることを知らなかった。そして、自分の食べる饅頭が毒入りかわからなかった。だから食べなかった。結果として女中が皆死に、後に自分はたった一つしか毒を入れていないはずなのに、全ての饅頭に毒が入っていたことが発覚する。だけど、小梅さんは自分の食べるものが毒であるかもしれないと考えて食べなかった。だから生き残った。
もし野沢さんが小梅さんの毒の仕込みを知っていたとしたら、そうやって小梅さんが饅頭を食べないことも予測できたはずなのに。
「でも、そうなると小梅さんが生き残ってしまいますよ」
山田君が私の考えを代わりに述べた。
先生は落ち着いた反論をする。
「この事件は、事実を目的に転換すべきだよ。いいかい、小梅が生き残ってしまったではない。『小梅が生き残る』ことを目的にした犯罪だった、と考えるのはどうかな」
「小梅が、生き残るのを目的にした……だと?」
平野さんが眉を寄せる。
「さっき山田君が言ったように、刑部様が女中を殺すように犯罪を企てたのなら、商人の介入は避けたかったはずだ。彼が参考人として呼ばれてしまうと、野沢には毒を買う資金がなかったことが暴露してしまうからね。だからこそ、小梅が生き残ったことは刑部様にとっては誤算だった。小梅が生き残ると商人が呼ばれてしまうからだ」
「そうですよ。だから小梅も殺す予定だった。だけど、実際は生きていた。殺せなかったんじゃありませんか」
「逆だ。結果こそが目的だった見るべきだ。小梅が生き残ることでいったいどうなった? 刑部様は処刑された。つまりだ、『小梅が生き残り、刑部様が処刑されること』――これが目的だったんだ」
それが、目的だなんて。
「これは、野沢による刑部様殺人事件だったんだ」
■
「君たちは言ったね。刑部様はとても女性に好意を寄せられる存在だった。だから、彼と特別な関係になった野沢は、他の女中たちから嫉妬され、もしかしたら苛めなどがあったのかもしれないと。確かにそうだったかもしれない。野沢は嫉妬され、苛めにあっていたのかもしれない。じゃあ、野沢はいったい誰を恨み、殺意を抱くと思う? 莉麻子君」
「それは、苛めてくる女中たちでは……」
「それも一つだろう。だが果たしてそれだけだろうか? 全ての元凶は刑部様じゃないか? 酒に酔った勢いで自分と無理やり関係を結んだ刑部様。野沢は彼に対して殺意を抱くとしてもおかしくはないだろう? 彼が自分と無理に関係を結ばなければ……あの夜に間違いがなければ、自分は苛められず、平穏に、女中たちとも仲良くやって行けたのに、とね。つまり、全ては刑部様の過ちから始まったんだ。野沢が彼を恨むのは妥当だよ」
「でも、野沢さんは刑部様が好きだったのでは」
「そんなこと、誰も言っていないよ。君たちは彼女が他の女中たちと同じだと考えすぎたんだ」
確かに、彼女を他の女中たちと同一視したきらいはある。
彼女は事件の渦中にいて、かつ話の中では刑部様への好意が明言化されていなかった。
盲点だった。
「話をまとめようか」
先生は堂々と言い放つ。
「まず、刑部様の奥様が女中たちに殺された。これは恐らく正しい。そして落ち込んだ刑部様は、間違いで野沢と関係を結ぶ。それから少しして、亡くなった奥様が女中たちに殺されたことに気付くんだ。そして彼は、野沢以外の女中たちを皆殺しにして、野沢をその犯人として晒しあげられる役割を押し付ける計画を立てた。野沢には彼女を犯人にするとは言わず、女中たちを皆殺しにする計画を教え、協力を依頼する。そして、ちょうど時期よく、小梅が饅頭を野沢に送ってきたと野沢が言ってきたので、彼は人数分の毒を商人から買い込み、それを混ぜるように野沢に命じる。しかし、その饅頭のうちたったひとつにだけ小梅は毒を仕込んでいた。小梅は野沢に嫉妬しており彼女を殺すつもりだったからだ。だが、刑部様はその小梅の計画を知らない」
ここまでは山田君の推理と同じだ。
「だが、野沢は小梅の計画を知っていた。見ていたんだ」
そこから、まったく違う推理が展開される。
山田君は敗北を知ったように、張りつめた表情をしていた。
「恐らく刑部様は、『どうにかして女中たちを殺したいが、何かいい機会はないだろうか』と野沢に漏らしていた。そんな時、野沢は小梅が饅頭に毒を入れる場面を目撃したんだ。しかも、饅頭のうちたった一つだけに毒を入れる場面を。そして、その饅頭を自分に渡してきた。野沢はこれを利用して、刑部様を殺すことが出来るのではないかと考えたんだ。まず、饅頭の箱包みを刑部様に見せて、ひとつに毒が入っていることを伏せたまま『刑部様、小梅がこの饅頭を渡してきました。これに毒を入れましょう。そして、茶の席で女中たちに振る舞いましょう』と進言する。刑部様も『それがいい』と返し、商人から毒を手に入れ、すぐに毒を仕込むよう命じる。刑部様は、そのうちたった一つに毒がすでに仕込まれていることを知らないし、野沢を犯人にする予定まで考えていた。だが、野沢は饅頭の一つに毒が入っていることを知っていた。野沢には小梅が生き残る未来が見えていたんだ」
「女中を皆殺しし、かつ小梅が生き残り、そしてそのことで刑部様が処刑される。それが目的だったのか!」
平野さんがようやく納得して、感嘆の声を上げる。
「そう。小梅があの饅頭に毒を入れ、さらに刑部様の命令で同じ菓子に野沢が毒を入れるなんて――しかもそれらが、誰も知らないまま一致するなんて、そんな偶然があり得るか? それが本当に偶然であるとしても、それが起こり得る確率などたかが知れている。しかし、実際に起こっている。だとすれば、それには何らかの意志が働いたと考えるのが妥当だ。野沢は、小梅が毒を入れていることを知っていた。そして、知っていながら刑部様に『毒を入れましょう』と進言し、彼に毒を買わせ、毒を饅頭に入れた。そして、小梅が生き残るように演出し、刑部様を処刑に追い詰めた」
先生は、息を吐いた。
「野沢は小梅が生き残るとわかっていて、そして商人が介入し、真犯人として刑部様が挙げられ、彼が処刑される。その結末を望んでいたんだ。これは一見毒殺事件だが、それに隠れて、敢えて真犯人を暴露させることで殺人罪に追い込み、その罪による『処刑』という手段で殺人を犯してみせるという、もう一つの思惑が隠れていたのさ」
もう一つの思惑。
確かに。
偶然の一致――同じ饅頭の箱包みに、小梅と刑部様が毒を仕込むなんてこと、本当に有り得るの?
先生は、推理小説をパズルだとしていた。だとすれば、そんな偶然が殺人に寄与するはずがないと信じている。何もかもが成功に作られている、そしてそれを紐解く時、一寸の狂いもなくそこに意志が介在すると信じたいのだ。だからこそ、そんな狂気の発想が生まれる。偶然なんてない。それが先生の論理だ。
山田君の推理では、偶然が招いた因果応報が、刑部様に跳ね返って彼を陥れた。
けれど、それが野沢さんによる黒衣の糸で操られたものだったなんて。
「それに、これが刑部様による女中殺人事件、そして野沢に罪をなすりつけて刑部様自身は助かろうとする――いわゆる完全犯罪の計画であったのならば、彼はそれに失敗している。彼の復讐心が満足しうるのは、彼が憎き女中たちを皆殺しし、自分はその後無事に生き続けた場合のみだ。自分が死んでしまったら、それは殺人の成功ではない」
先生は続けた。
「処刑こそ殺人の結果であると僕は見る。偶然は排除するんだ。そして、残った推理こそが正しい。偶然が消えれば、そこにあるのは意志だけだ。最終的に誰かが殺されたのなら、それは全て、誰かが望んだ死なんだ。最後に死んだ人間、毒であろうと処罰であろうと、最後に殺された人間は、確かに誰かの意志によって殺されたんだ」
全部、誰かの望んだこと。
殺人を見過ごす。
失敗すると知っていて。
最後に処刑されることを知っていて、見過ごす。
それが、彼女の意志だったというのか。
「自らを間違いで犯した刑部様への復讐、そして自分たちを苛めてきた女中たちへの復讐。野沢はその手を血に汚さぬまま、それらを完璧に遂行したというわけさ。よって僕の解答を纏めよう。この事件の真犯人は野沢であり、彼女は処刑によって刑部様を殺した」