ショコラとかわいいの日
「すげぇ」
あ。坂井君のポカーン顔、ゲット。気が抜けちゃってかわいい。見慣れない私服のせいかな。表情、いつもとちょっと違って見える。
坂井君の、わたしよりもずいぶん高い位置にある視線は前方の長い行列へ向かっている。
短い髪は上のほうだけクシャッて散らしてて。Tシャツに裾を折り上げたベージュのパンツ。グリーンのカーディガン似合いすぎ。わたしもカーディガンにして良かった。合わせたみたい。
なにを着て行くかで散々悩んでたわたしを見兼ねてアドバイスをくれたお姉ちゃんいわく、「男の子はひざの辺りでヒラヒラしてるものに弱い」らしい。
持ってるなかでなるべくヒラヒラ? してるスカートを選んでみたけど、効果のほどはどうだろう。なんかフツーにスルーされてる気も。わたしはドキドキしたのにな。さっきだって。
たくさんの人が行き交う駅でも彼の姿が目に入った瞬間、パッて綺麗にピントが合った。キョロキョロする坂井君がわたしに気づいて、ちょっとだけ顔を緩ませてくれるのが嬉しい。でもそこまで。
近くに来られたら顔を上げられなくなる。恥ずかしくて。目をそらさずに見つめるには少しだけ距離がいる。そうしていた時間が長かったせいかな。
今もそう。横に立っているだけで苦しいくらい胸は落ち着かない。こんなふうに学校以外で会うの初めてだから、今日はとくに。
だから。お姉ちゃんにデジカメを借りた。意気地のないわたしの目に変わって、私服姿の坂井君のその勇姿をしっかり残しておきたいって、大げさかな。でもその前に坂井君、撮らせてくれるかな。
「大丈夫?」
立ち止まったままずっと無口な横顔が心配になって聞いてみたら、「おお……」ってなんとも頼りない声。
たしかにこれ見たら不安にもなるよね。まさかここまでとは。多いだろうとは覚悟してきたけど。やっぱり。
「ゴールデンウイーク恐るべし」
呟いた坂井君に、うん、激しく同意。
一ヶ月前にオープンした大型ショッピングモール。食料品、衣料品、雑貨に家具。フードコートに映画館などなど。
お城の門のような入り口には町中の人がここに集中してるんじゃないかって思うくらいの人、人、人の列。整理係の拡声器ごしの声が行列のあちこちから飛び交って、もはやなにを言ってるのかわからないほど。まだ開店前だっていうのに。
五月五日、こどもの日。天気はすこぶる快晴でお出かけ日和。じっとなんてしてられないのはみんな同じなのかも。
GWは様々なイベントが開催される。今日のメインはミニライブ。坂井君はこれがお目当て。説明されたけどちょっとわかんないジャンルだった。
わたしが行きたいのは初出店で話題のカフェ。一番人気のガトーショコラは数量限定でお持ち帰り不可だから、お店に行かないと食べられない。オープンの広告を見るたび、一緒に行きたいなって思ってた。
この春から念願のレギュラー入りを果たした坂井君は忙しい。
バスケでは一応、名の知れた強豪校であるからして、メンバーに入れたからって安心なんか出来ない。試合も近いからこの連休もずっと練習三昧で、今日が唯一の貴重なお休み。
見上げる先にはちょっと不安げな、あきらか引いちゃってる横顔。 ……考えてみたら、疲れてるだろうにこの人混みはダメだったかも。
遊びに行こうって言ってくれて、すぐここを提案した。いいよって言われてはしゃいでしまっていたけど、失敗、したかな。
「すぐ食える?」
声が近い。うつむくわたしを覗きこんでくる坂井君と目が合って、息が止まった。
「なんとかチョコ。混むだろうから先に行っといたほうがいいと思うけど、腹に入る?」
ぜったい、いま、かお、あかい。
「大丈夫、朝ご飯、半分にして来たから」
プって坂井君が吹き出した。言わなくてもいいようなことを言ったのは自分なのに、恥ずかしくってつい責めるような目を向けてしまう。
「なんとかチョコじゃなくてガトーショコラです」
「ようはチョコだろ」
……ずるい。さっきまで不安そうだったくせに。わたしの顔が赤いことにも気づいてるはずなのに。そんなに柔らかく笑いかけられたら。
沢山しゃべるほうじゃなくて。バスケが大好きで。朝が弱いから一限目よく居眠りしてて。輪の中心にいるわけではないけど、いつも隣には誰かがいて楽しそうで。飼ってる犬のクロの話になると目尻が下がって。でもボールを追いかけてる顔はちょっと怖いほどで。
いつから、とか。どうして、とか。自分でもよくわからない。
意識してしまうと言葉が出なくなる性格が災いして、せっかく席が近くなったときも交わすのは挨拶や連絡事項。友達には呆れられてたけど、ゆっくりでもひとつずつ彼のことを知っていくのはうれしくて、ドキドキした。
廊下で呼び止められたのは二年に上がってすぐ。
――紺野さん。つき合ってください。
目の前に立つのは確かに坂井君、だ。なのになのか、だからなのか。彼から告げられた言葉はなかなかわたしのなかに入ってこなかった。クラスが離れて落ちこんでいたのもあるかもしれない。
――はい。
でも口からするりとこぼれて。すると坂井君は真剣な表情をほころばせ、照れくさそうに笑った。
頭が追いつく前に返事をしてしまっていたわたしは、そのあとの授業も友達との会話も一日分、ほとんど記憶にない。
そっか。あの日からまだ一ヶ月もたってないんだ。 ……やっぱりあれは夢だったんじゃないかな。遠くから見ていた彼の隣にいま、自分が立ってるなんて。
夢でもいい。こんなに胸がいっぱいになれるなら。
「整理券もらってからチョコ行って……」
ひとり言を言う坂井君は試合で作戦を組み立てているときみたい。
どんどん人は増えて、わたしたちはどんどん追い越されていく。そのことに気づいたらしい坂井君も歩き出した。
「紺野」
「うん」
後ろのわたしを坂井君は気遣かってくれる。はぐれないように見失わないようについて行かなきゃ。
「紺野」
背中を追うのに必死だったから、それを差し出されていたことにすぐには気づけなかった。
「……うん」
緊張って、行き着くとこまでいっちゃうと逆にしなくなるものなのかな。初めてだ。そう冷静に思いながら自分のとは違う、大きな手に触れた。
力加減がわからない。触れてもすぐに指がぬけそうになって慌てた瞬間、ぎゅって握られた。
伝わる熱さは坂井君? それとも、わたしから?
あ、早足になった。見上げると真っ赤な耳たぶ。かわいくってつい笑ったら聞こえちゃったかな、またスピードが上がった。坂井君の動きは早い。ディフェンスをかわすみたいに華麗に人を避けていく。
風が気持ちいい。
勇気だして、写真、頼んでみよう。一緒にも撮りたいんだって。今日の日をたくさん、たくさん――。
ふたりで軽く駆けりながら行列の最後尾に滑りこんだ。わたし達の後ろにも列は続いていく。人波に息苦しいけど笑顔は止まらない。
だって。繋がってるから。
※※
「かわいい」。
弟が生まれて数年の間はよくそう言ってた。生意気になった今じゃ、かわいいの前に憎たらしいがくる。
家には犬がいるけど、アイツの威圧感バシバシのルックスをそう評すのはばあちゃんくらい。そんなばあちゃんですらさすがに男子高校生の孫つかまえて、「かわいい」とはもう言わない。いや、ベツに言われたいとかではなく。
とにかく今まであまり縁のなかった言葉。それがここのところひんぱんに浮かぶのは、ある人物のせい。
待ち合わせの駅の案内板の前。姿を見つけて目が合った瞬間、ドクンって心臓の音が耳に響いた。彼女――紺野に笑いかけられたから。吸い寄せられるみたいに側まで行ったら、照れくさそうにうつむかれてしまったけど。
もっと見たくて覗きこもうとしたらそこでやっと私服なことに気づいた。上手く言えないけど良く似合ってる。色も形も。なんつうか、女の子っぽくて。あと。制服でスカートは見慣れてるはずなのに、あのヒラヒラはヤバイし。
うつむいてくれてて助かった。沈黙にしては不自然な数秒間、俺はガチで紺野に見とれていたから。
「行こっか」
どうにか平静を装いつつ、ちょっと上ずってしまった声に気づかないでくれと切実に願った。
――酔いそう。
「美味しい」
口に入れたチョコに。
つぶやいた向かいの紺野はすっかりこの濃厚さにヤラレてる模様。そのさまをカップに隠れて観察する俺にも気づかないほどに。
有名ならしいカフェはただいま満席。その九割は女子で埋まり、男といえばいかにもカノジョに連れて来られました的なカンジでどいつも落ち着きがない。自分もだけど。はっきり言って居心地はビミョー。
紺野も最初こそそわそわしていたのにチョコ……ガトーショコラが運ばれてきた途端、目が輝き出した。同じものを頼んだ俺が早々にフォークを入れても、紺野はパチリパチリとデジカメでガトーショコラを撮影。なんで?
「お姉ちゃんに見せるのと、あとは記念に」
見渡せば他のテーブルでもデジカメやスマホによる撮影会が開催されている。 ……オンナノコの考えることはよくわからん。
白い皿によく映える真っ黒なブロック。その存在感は仰々しささえ醸しだしていて。味は、旨い。ガツンとくる濃さだけどビターだから甘ったるすぎないし。でもだからといって紺野みたいに、ガトーショコラを食べながらホットチョコレートドリンクを飲む気にはなれない。レモンを効かせてあるから想像より甘くないよ、と言われても、ちょっとなぁ。
「美味しいっ」
真っ正面からさらされるとろけっぱなしの笑顔は、口のなかよりずっと甘くて。なんでか思わずさっき繋いだ手の感触をリアルに思い出して、顔が熱くなった。
目が合うな。はじまりはなんとなく感じたそれ。
教室で。廊下で。体育館で。振り返ったり視線を上げると一瞬だけパシっと合う。合うんだけどすぐそらされて。なんどもそんなことがあると、こっちも多少は意識してしまう。
体育館とか互いの距離が遠いとそらさないんだな、とか。よく笑ってるな。あ、髪きったんだ、とか。授業中の真面目な横顔にギャップ感じたり。最初はただの観察みたいなモンだったのに、いつからか――。
学年が上がってクラスが離れると、当然ながら目が合う機会はぐんと減る。いないはずの教室のなかをついクセで見渡してしまうようになって、自分の気持ちに気づいた。
だからって、廊下で彼女を呼び止めたとき、まさか告白までするなんて思わなかった。彼女も驚いたろうけど、俺も自分の行動にそうとう驚いた。
「ライブ良かったね!」
余韻を引きずった興奮ぎみな声に赤くなった頬。さっきまでの、ちょっとズレた手拍子で楽しんでいた彼女が脳裏に浮かんで、笑いをこらえるのに苦しい。
馴染みのないアーティストのラブソングを初めて聞いたとき、彼女が思い浮かんだ。それ以来ハマってるその曲を彼女の隣で聞いてることが不思議で照れくさくて。きっとこれからこの曲を耳にするたび、今日のことを思い出すと思う。
駅を出て、日も暮れかけた帰り道をふたりで歩く。もう当たり前みたいに手を繋ぎながら。俺と紺野の空いたほうの手にはカフェのロゴが入った紙袋。中身はクッキー。
話の流れでつい口を滑らせた弟にだと紺野が言うから、じゃあ俺もお姉さんにと、それぞれの家族への土産として買うことにした。
紺野には内緒だけどこれ、弟の口には入らない。アイツにはやりたくない。今朝、出かけようとした俺に向かって、「とうとう兄ちゃんもオトコになんのか。ヘマすんなよ」なんてほざきやがった小六の弟にだけはぜってぇやりたくねぇ。
「疲れた?」
え。
「なんで」
「人、多かったから」
「全然」
人混みは苦手だけどこのくらいでへばる鍛え方はしていない。まして隣には彼女がいるのに。笑っていてもどこかまだ不安げな紺野に、言葉を重ねた。
「すげぇ、楽しかった」
照れるけど素直な思いを。返してくれた笑顔は今日いちばんかもしれない。そっか。恥ずかしがらずに言って良かった。
「わたしも。ありがとう、写真」
「うん」
やけに真剣な顔で撮りたいと言われたときは面食った。めちゃくちゃ恥ずかしかったから一枚だけ撮って、あとはずっとふたりで写ったけど。
「明日も練習だね」
「冷やかされんなぁ」
「え?」
さすがは話題の人気スポット。ショッピングモールのあっちこっちで、同じ学年や部活のヤツらをけっこう見かけた。小首を傾げて見つめてくる彼女はなぜかそのことに気づかなかったらしい。
「なに?」
とりあえず、連休明けの悪友どもからのうっとうしい詮索を回避するのは諦めた。それよりもこっち。悩む。恥ずかしがりやの彼女に今、そのことを伝えるべきかどうか。
答えない俺を不思議そうにうかがう紺野と、図らずも見つめ合う形になる。
なにか言わないと。
「まゆ」
「はい。あ」
「あ」
俺いまなに言った?
街灯や店の明かりの手を借りなくても、彼女の顔が真っ赤になっていくのがわかる。いつもと違ってうつむいたりしないから。 ……やべ。固まっちゃってる。
確かに名前呼びしたいとはずっと思ってた。思ってたけど思いすぎて無意識? ああ、いいや、もう。なに話してたか忘れたし。呼びたかったのは確かなんだから。
「まゆ」
あ。動き出した。ワタワタ慌てて、なんでか俺から距離をとろうとして、でも手で繋がってるから上手くいかないようで。 ……かわいい。
「まゆ」
わかりやすい反応につい笑ったら、困ってるふうにしか見えない睨みを向けられる。いま俺、情けない顔してんだろうな。ま、いっか。彼女の家の屋根はもう見えてる。あと少しのあいだだけだから。
「さ、坂井君も、顔、赤いよ」
バレたか。
了