初陣(3)
葛桐は、本陣に居た。
当初の希望を押し通し、比叡山西側に敷かれた本陣で、狭霧兵部の護衛を務めていた。
「……おい、おっさん。どういうつもりだ」
「なんだ、無礼な野良――あー、野良……なんだ、〝野良何か〟」
が――想定した光景と、今見ている物が違い過ぎた。
「前線、総崩れじゃあねえのか? 相手は町人崩れの雑兵、って話だったが」
「そうだなぁ、役に立たん連中だ。音を聞くに、爆発で粉微塵に砕け散ったのだろうよ」
狭霧兵部は呑気に、側近の膝を枕に転がりながら、葛桐の問いかけに応じた。
既にこの男は、数十の斥候を用いて、前線で何が起こっていたかを十分に理解している。埋め火と火薬丸太で約二百の兵が死に、煙幕に隠されての奇襲で更に百人以上が死に。今この瞬間も、石段の途中で兵士達は、比叡山側の兵を食い止めている。
だが――地形の高低差に士気の多寡。政府軍の前線部隊は押されている――いや、押し切られようとしている。
「おっさん。此処に集めた兵はどれだけだ」
「二千五百。恐らく三割は死んだだろうな。これが平地の野戦なら、とうに遁走している所だろうよ」
三割と、兵部はこともなげに言った。葛桐はそれを頭の中で、七百五十という数字に直した。
死体は見ておらずとも、死臭は山ほど嗅ぎ付けた。だが――実感は未だに湧かない。日常から外れすぎた数字だからだ。
「……おい、どうすんだ?」
「どうもせん。どだい正面から攻め込もうなど、勝ち目が無いのは分かっていただろうに。前線を選ぶとは酔狂な馬鹿どもだなぁ。
然し流石は俺の娘。最低限の基礎だけはおろそかにしていない……飛角金銀全て落としては、やはり勝ち目が無いな」
狭霧兵部もまた、己が一晩で生んだ損害を、まるで重要事と思っていないようだった。
兵員の無為の損耗を、良しとする指揮官が居る筈も無いが――この男は、七百五十の兵を死なせ、顔色一つも変えていない。そればかりか――心地良さそうに、笑みさえ浮かべているのだ。
「このままじゃあ、負けるんじゃねえのか?」
「そうだなぁ、前衛は負けたな。ほれ見ろ、ばらばらと逃げて来ている。次は督戦隊を用意せねばならんかなぁ……。
まあ良い。無学なお前に教えてやるが、向こうの手は下策だ。戦が今宵だけ、それも一刻足らずで終わるならば良かったが――」
欠伸と共に兵部は立ち上がり、己の後方に居並ぶ兵――狭霧兵部自身の、真の精兵達に目を向けた。
「――鬼殿よ、ご用意は」
「白槍隊、候補生も含めて二百。拙者を先頭とし、錐の如く駆け抜けましょうぞ」
波之大江 三鬼を筆頭とした、皇都守護の最精兵。野戦も攻城戦も、恐らくは防衛戦も、戦をするならば日の本で最強であろう部隊だ。彼等は皆、戦の音に緊張しながらも、決して怯えては居なかった。
「上々。ならばその中から、一人だけ俺に貸して頂きたい。宜しいか」
「無論の事、ご令嬢はお返し致す。戦地で死なせては、拙者も奥方に顔向けが――」
人の腹を揺らすがごとき重低音。三鬼の声を、兵部は大鋸を突き付けて遮った。
「〝亡き〟妻だ、良いな?」
「……承知。失礼致した」
巨躯の腰を直角に折り曲げて、三鬼は己の失言を詫びる。そうしたとて、まだ兵部より頭の位置が高いのは、鬼の体躯のなせる業であった。
「鬼殿よ、貴公は勘違いをしているぞ。確かに借り受けるのは蒼空だが――おれはあいつに、『錆釘』の精兵を追わせる気でいるのだ」
「……なんと。真に御座るか?」
「おうよ、当然の事。何もこちらで雑兵相手に、あれを縮こまらせる事も有るまいに、なぁ?
足跡の追い方程度は身に付けさせた、あれ一人で北側は十分。東と南は十分な兵を置いた――ここの雑魚とは違い、練度も装備も十分なものをな。押し切れはせんだろうが、山の半ばまでは進むだろうさ」
それに、と言葉を付け加え、狭霧兵部は歩き始めた。のんびりと散歩に出るような風情で――登山道の石段に足を掛けた。
「兵部殿、何をなさる」
「小隊責任者を斬首しに行く、あまりにも役に立たん。『錆釘』の役立たず共は、俺の後ろで俺を護衛しろ。遅れた者も斬首刑だ――特別に朽ち刃の斧でな。
では行こう俺の下僕共。進軍、進軍、血の池地獄を進軍だ。きっと心がときめくぞ、素晴らしい死が待っている」
大鋸を携えた兵部は、石段を駆け下りる自軍兵士に近づき――撫でるように、その首を切り落とした。
「……まだ前線の方がマシじゃねえか……!」
先へ先へ進んでいく大将を追って、葛桐も止むを得ず走った。可能な限り戦うまいとしていたが、荒事は不得手では無いのだ。
だが――誰が好き好んで、死の海に飛び込むのだろうか。楽な仕事と踏んでいただけ、葛桐の苛立ちは強かった。
「道を開けろ雑魚共、俺が通るぞ! ……ふむ、全滅する程度の少数にしておけば良かったか」
「進め、進めい! 兵部殿に遅れを取っては、我ら白槍隊の名折れぞ! 進めい!」
比叡山側の進撃は、斜面を駆け下りる勢いも加わって苛烈なものであり、既に政府軍の陣形は崩れ去っていた。そこへ――先に居た兵を払い散らして、狭霧兵部以下、二百名弱が躍り出た。
その攻勢は――例えるならば、大鉈で草を刈り取るが如き有様であった。
比叡山軍の最前列と、白槍隊の最前列が衝突し――次の瞬間、比叡山側の二割以上が、地に倒れ伏す。そうして崩れた所へ、楔を打ち込むかのように、白槍隊は先へ先へと進んでいくのだ。
乱戦であるが為、火薬も矢もおいそれとは使えない。白兵戦で全てを決めるとなれば、職業兵士に、町人が叶う筈は無い。
中でも恐るべきは、やはり狭霧兵部の鋸捌きと、三鬼の大鉞であった。
まるで歩を緩めず、一歩進むごとに一人を切り倒す兵部。ただ一度得物を振るえば、数人を纏めて肉塊に帰す三鬼。この二人の修羅振りだけで、比叡山側の兵には怯えが浮かび――そこを突かれ、死んでいく。
「こりゃあ、洒落にならねえな……がああぁっ!」
葛桐は、己から敵を仕留めようとはしない。突きかかってきた男を捕まえ、その喉を食い千切って投げ捨てながら、先を行く兵部の背を見ていた。
最初からこうしていれば――きっと、死ぬ兵士は何割も減らせたのだろう。それを分からぬ無能ではあるまい。
だが、先に弱兵を進ませ、無為に死なせた事で、精鋭たる白槍隊は、主たる戦力を大きく失う事なく進軍出来た。
敵の中で、兵部に背を向ける者が増え始めた。無防備な背中に、白槍隊の攻性魔術――主たる属性は、これまた火である――が吸い込まれ、哀れな身を燃やして行く。
「よう、野良何か。お前は随分と無精なようだが、どうだ、この祭りは?」
「……最ッ低だ」
「そうかそうか、それは良い。追え、逃がすな!」
ほんの僅かの間に覆った戦況――とはいえ、これも所詮は、広い戦場の一角に過ぎない。勝利をより盤石なものとする為、狭霧兵部は更なる進軍の指令を出した。
「赤いなあ、空が赤い。素晴らしい夜だ、酒が飲みたいな」
火を好むのは、狭霧兵部と――比叡山側指揮官との、共通した性質であるらしい。西も東も南も北も、空は悉く燃えていた。
薊を先頭として、『錆釘』の前線組――の内、合流できた六人は、山肌を伝って北を目指していた。
成程、酷い道程だ。箇所によっては数間もある崖を、岩に指を引っ掛けて上らねばならない。常人ならば進む事さえ出来ぬ――だが、彼等の前では平地も同様である。
「村雨、伏兵は居るかい?」
「……分かりません、鼻が麻痺して」
「お前は肝心な時に……はぁ」
進行方向から争いの音が聞こえるようになった頃、左馬は村雨に訊ねる。村雨は僅かに鼻をひくつかせ、直ぐに首を振った。血と火薬の臭いで、村雨の鼻はろくに働いていないのだ。
「仕方ねーさ、風も悪い。腹が立つことに無風だぜ……どーすっかねえ、無警戒で突っ込む? 勿論あんた達だけで」
八島が冗談めかした口調で混ぜ返す。言葉が上っ面のものだけだというのは、まるで笑いもしない口元と、常に左右に動き続ける目が語っている。
「こういう時こそ男が前に立つべきじゃないかい? か弱い女に酷い事を言うね」
「俺は狙撃手、盾が無いと先に進めねーの」
そりゃそうだ、と左馬は素直に納得し、近くの木の枝に飛び乗った。
視点を高くして目を細めても、肝心の戦場の様子は伺いにくい。やはり月の無い夜、加えて木々の生い茂る山。夜目が利こうとも限度は有るのだ。
「眺めはどうです? 人死には良く見えますか?」
「下よりは見えるが、見たければ近くまで行く事を進めようか」
離堂丸は必死に背伸びをして、行われている殺し合いを愉しもうとしている。左馬の言葉を聞くと、かくりと一つ頷いて、早速とばかり歩き出した。
「ん? お、おいおい待て待て、待てってんでぃ。先陣は俺だ、一人で何処へ」
「ちょっとあそこの殺し合いに混ざりに。早くしないと終わってしまいますよ?」
「終わるんならいーんじゃねえの? 楽に金だけ貰えて」
いいえ、と離堂丸は首を振り、真新しい傷のある手で、まだ良く見えぬ戦場を指さした。
「……おぅ、傷はどうした。血も止めやしねえで、危ねえじゃねえか」
「ちょっと槍が掠めました……それはどうでも良いんです。問題なのは、あそこから逃げ出しているのが、殆ど政府軍の兵士だという事なんです」
六人の内、浮世から離れた離堂丸を除き五人が、一斉に顔を強張らせる。
「……良く見えるね、村雨でも無理な距離と暗さだ」
「まあ、私も魔術師の端くれですから。……殆どの兵士が、山を下っている。山を登って逃げる者は居ない……不思議ですね。ここの敵の腕は、西側に待機してた者達より優秀です、武器も良い」
合流すべき味方が総崩れでは――ここに留まるのは、危険ではないか。息を整えながら、五人は無言で視線を交わす。
奇妙な事は、最も進軍しやすいだろう西側の兵より、進軍に向かぬ北側にこそ精兵が配置されている点だ。如何なる采配かは分からねども、先程より厄介な敵の中に飛び込むのに、味方が弱兵となっては――
「いっそ、大将首を狙うかの?」
老人が突然、散歩に誘うかの口調で言った。薊と離堂丸は目を輝かせ、村雨と八島は何を言うかとばかりに目をひんむく。左馬は木から降りて、手足を曲げ伸ばしながら、どちらかと言えば薊達に近い顔を見せていた。
「おじいちゃんに賛成です。少数の利を押しましょうよ」
「無論、俺が先頭でだ。柵だの堀だの、俺達にゃあ何でもない。どうせ寺だぜ、奥まで入りゃあこっちのもんよ」
先へ進みたがる二人は、早くも得物を構え、今この瞬間にも交戦を始められそうな様相である。
「いやいやいや、危ないっしょ。俺達は鬼じゃないのよ、流石に死ぬっての」
「……私も、味方がこれだけで進むのは遠慮したいかなーって……ねえ、師匠?」
一方で、これ以上の無茶を厭う二人は、味方が居る方角に目を向けていた。どうにか他と合流するか、叶わぬならいっそ敗走してしまおうさえ思う――自分の命こそ、至宝なのである。
「………………」
ただ一人、左馬だけは結論を急がなかった。腕を組み、暫し思案に耽り、
「……良いんじゃないか? 今となっては良案だろう」
穏健派である村雨の肩を叩き――言外の拒否を許さぬと意を示しながら言った。
「おいおいおいおいおい、まともなのは俺だけかよ? いや、死ぬって、死ぬっつーの! せめて東側にでも合流するか――」
「生き延びるだけなら、確かに退くのが良策だろうね。この人数ならそう気取られない、逃げ足だって十分に有る……が、今夜で終わる戦でも無いだろう?」
ぐいと親指だけで示すのは、自分達の後方の空。松明と火薬と魔術の火で、空は赤々と燃えている。
「今夜の内に指揮系統を潰せたら、後は私達が出るまでも無い。今夜、然したる成果を上げられなかったら、次の朔にも私達は駆り出されるだろう……私は構わないけれどね。
今宵から次の朔までは一月。その間に向こうが、どれ程の防備を整えられるか……誰か、正確に分かるかい?」
当然だが、誰も答えられない。
完全に包囲された山の中で、どの程度の軍備を整えられるか――ここが比叡山でなければ、皆がそう断言できよう。
だが、此処は日本仏教の一大拠点。長きに渡って蓄えられた武器・弾薬・資材はどれ程になるだろうか。時間を開ければ開ける程、陥落は難しくなるかも知れず――
「……うむ、決まりじゃあ。ならば行くぞ、わっぱども。真っ直ぐ斜面を上がれば、何れ森も開けるわい」
「おうよっ! ……こらまて爺さん、先頭は俺だって言ってんでい!」
「あらあら、お爺ちゃんも童貞の人も元気ですねぇ。腰を痛めないでくださいよ」
三者三様、意気揚々――薊のみ一抹の悲哀も混ぜて――山の斜面を、音も無く駆け上がる三人。その背を、村雨と八島が、そして進軍を提案した筈の左馬が、暫し見送る。
「……怖いねーちゃん、あんたは行かねーの?」
「行くさ。だが、何か頭に引っ掛かっててね……なんだと思う?」
横目で視線を向けられて、村雨は首を傾げる。左馬の抱いた懸念が、まるで見当が付かないのだ。
「さーあな、あんたの頭の中の事は分からんよ。ただ……」
「ただ?」
「俺は正直、広い所に出るのは勘弁して欲しいんだがねぇ……はーあ」
溜息を吐き、肩を落とす八島。怠け癖の奉公人のような事を言うが――細い目に宿るのは、決して弱い光では無い。
「大体さぁ、おかしーと思うんだよねぇ。今日び戦争なんて、誰が好き好んで近づいて斬り合い刺し合いするってーの。海の向こうじゃドンパチ鉄砲で撃ち合って、バンバン火の玉だ雷だって、魔術ぶつけ合うのが主流だぜ?
そういう戦争する時は、まずは身を隠す所を確保した上で、十分な数を使ってじわじわ押し込むのが常套手段だと思うのよ、俺」
「妥当だろう。この国では採用されていないが」
「それよそれ、採用してねーのがおかしいんだってーの」
愚痴は多大に零しながらも、八島は先を行く三人を追う。左馬と村雨も、それに追随した。
軽快に馳せながら、八島の声は蚊の羽音のように小さくなる。それでも、村雨の耳であれば、十分すぎる程に聞き取れた。
「こっちの大将はアレだもの、そりゃ戦術の杜撰も頷ける。だがさー、向こうさんは命がけの筈だろうよ? それがあんな素人崩れの、当たらない矢しか打てない連中を、古風な大盾の後ろに控えさせてさぁ……。あんまりチョロ過ぎて、逆に俺様の脳裏には、酷い未来予想が立っている訳よ」
悲観的な予測――だが、理が無いとは言えない推理。
比叡山側の兵士達に、ここから逃げる先など無い。負ければ蹂躙され――恐らくは、命まで奪われる。最悪を極めた結末が待っているのだ。
此処へ来て、何を惜しむ事が有るのか。だのに、先に遭遇した敵兵は、明らかに戦術を考慮しない集団だった。
「……ああ。あれは釣り餌だ。埋火や油壺を効率的に使う為に、〝捨て兵〟として置かれたに過ぎない。私らはまだ、向こうの真っ当な連中と交戦していない」
「そーゆー事。やんなっちゃうねぇ、あいつらクソ足はえーわ……って、おい」
遠くなった背を追い、気付けば少し先には、木々の列の終わりが見えた。その向こうには赤々と松明の火――きっと敵陣営だろう。
「お喋りの止め時かい?」
「ちっくしょ、舌を止めると心臓まで止まりそうでやーなのよー」
今更、音で察知されるなどは懸念していないが、衝撃で舌を噛むのは避けたい。八島と左馬は、奥歯がぎぃと悲鳴を上げる程に歯を食いしばった。
斜面を駆け上がり、木々の列から抜け出して、開けた空間へ。戦に先立ち提供された地図を信じれば、そこから暫くは遮蔽物も無い空間で、その先にまた森が有る筈だった。
そうならなかったのは――思えば、不可思議でも何でもない。数十年前ならばいざ知らず、魔術が普及した現代に於いて、千以上の人手を用いれば、実現不能とは言えまい、が――
村雨達の前方、おおよそ五十間先。十丈を超える城壁が、ずうとそびえ立っていた。




