我儘のお話(8)
「では、第一の講義を始めよう。臆病な奴は大体、この段階で諦めるんだ」
「ししょー……私、始まる前からボロボロです……」
午後、昼食を終えて。村雨は小屋の外で、草の上に正座させられていた。
頭には一つ、大きなこぶ。昼食の当番をさぼり、逃げた罰として殴りつけられたのだ、
「自業自得だね。さあ、立て、立つんだ。踵の腱を切らないように、体を慣らしながらね」
左馬は川で水浴びでもしてきたものだろうか、髪を僅かに湿らせている。体温は十分に上がっている様子で、秋だというに、首には一筋の汗が伝っていた。
「まずは、村雨。殴り合いをするのに、何が重要だと思う?」
「何が……? えーと、力と速さと技の……どれか一つ?」
「外れだ」
左馬は、顔の横に右手を、掌を村雨に向けてかざした。
「この手を、殴りつけてごらん。力一杯、目一杯にだ。ほんの僅かの手加減もしてはならないよ」
「……? はい、分かりました」
力一杯――良しと、村雨は拳を握る。二歩ばかり後退し、息を肺にたっぷり吸いこんだ。
「ふー……、りゃあぁっ!」
助走をつけて飛び込み、一撃。大きく山なりに繰り出された拳は、左馬の掌にぶつかり、盛大な破裂音を生み出した。
「おお、良い感じだね。もう一発!」
「せりゃあぁっ!」
もう一度後退、飛び込みながら突き上げる拳。銃声と聞き違えたか、方々の茂みが揺れ動く。
「良し、続けろ! 止めろと言うまで繰り返すんだ!」
「はああぁっ、ああっ!」
打ち続けるにつれ、村雨はこつを掴んでいく。獲物は逃げないのだから、どれ程に大振りでも、より体重を乗せられるように。次第に村雨の拳は、耳を塞がんばかりの炸裂音を響かせるようになり――
「『佩也ッ』!」
「え――あぐっ!?」
振りかぶった拳が届く前に、左馬の掌底打ちが、村雨の腹を捉えた。ただの一歩も踏込はしなかったが、腰を落とす勢いを、側面への力に変えての一打――軽量の村雨では、足も容易く浮いて跳ね飛ばされた。
背を丸めて着地しようとも、一度弾んで、うつ伏せに落ち直す。
「……とまあ、これが有名な寸勁だね。ちょっとコツを掴めば、腹筋を貫いて内臓を叩き潰す技になる。これ、覚えておくように」
「けほっ、こほ……ぅえ。師匠ー、反撃は無しでしょー……?」
「誰がそんな事を言った」
朝の優しさはどこへやら。眉一つ動かさず、左馬は言う。
「さあさあ立つんだ、続き続き。まだ止めて良しとは言ってないよ」
「うー……ぅらぁっ!」
腹の痛みは然程でもない。恨み言も呟きたかろうが、村雨は左馬の手へ、再び拳を打ち込み始める。
だが――勢いは、先程より劣る。回転数は変わらないが、一発ごとの音が軽いのだ。
左馬の目に、その理由は明らかだ。腰が引けている――重心が後ろに置かれている。いつでも飛び下がれるように、村雨は構えているのだ。
「……『刺ッ!』」
「わっ!? ……あ、その、ごめんなさい」
案の定、左馬が踏み込むそぶりを見せるだけで、村雨は大きく飛び退いた。
指示に背き、おまけに怯懦まで見せた。罰の悪そうな顔をする村雨だが――その色はすぐに失せた。左馬が満足気に頷いていたのだ。
「村雨、怯えたのは何故だい?」
「何故って……殴られたくなかったから、ですけど」
両腕を組み、近くの木によりかかり、左馬は無闇に格好をつける。村雨の言に、やはり頷きを幾度か返した。
「喧嘩の基本だ、殴れば相手も殴り返してくる。自分が一方的に殴るなんて、普通だったら有り得ないんだよ。自分が殴られるのは嫌なもんだ。が、殴られるのは仕方が無い。じゃあどうする?
流石にお前は半獣だ、逃げ足に全く躊躇が無い。正解の一つと見なして良いだろうね」
「……? ええと、今のは逃げるので正解……?」
「いや、逃げるのでも、だ。殴り合いをするのに重要なのは、考え方を変える事。逃げるのは恥ずかしい事じゃあないし、必要なら不意打ち騙し討ちも良し。後ろ頭を殴って逃げれば、お前が殴られる事は無い。簡単だろう?
敢えて言うなら、少し怯えすぎだがね。もう少し腹を据えておかないと、勝てるものも勝てなくなるよ」
軽く武をたしなんだ程度の人間と、全く武を知らぬ人間と。肉体の素質に然したる差が無くとも、徒手にて競えば優劣は明白。何故か?
それは、僅かな技量の差よりも、むしろ思考の差異が結果を生んだのだ。
眼前に拳が迫った時、目を瞑るか、顔を手で覆うか、打ち払うか。隙を見せた相手へ、背を向けるか、鼻っ柱を殴るか、顎を打ち抜くか。一瞬一瞬の選択を、『倒す』ために傾けられるか否か――それが、武を知る者と、知らぬ者の差なのである。
「だから、まずお前には……殴り合い、そのものに慣れてもらう。いきなり殴りかかられて、面食らってしまわないようにね。今日は日暮まで、これ一本に絞ろうかと思うよ」
「分かりました、師匠! ……で、どういう特訓をするんですか?」
村雨が訊ねるや、左馬は木から離れ――日の本ではあまり見掛けない構えを取った。
踵を浮かせ、拳は高く、そして小刻みに跳ねるように体を揺する。前後左右全ての方向に、思うが儘に馳せるための構えであった。
本来ならば、敵対者の刃を避けつつ、確実な打撃を打ち込むのが狙いなのだろう。然しながら村雨は、左馬が誰からも逃げるつもりは無く、寧ろ追うための構えを取ったのだと悟った。
「……師匠。先に特訓の内容を聞いていいですか?」
「日が暮れるまで、私に殴られろ。防ぐも避けるも全て赦すが、私は絶対に手を止めない」
ああ、やっぱり。視界を拳が埋め、暗転するまでの短い間、村雨はそんな事を思っていた。
結局、日が暮れるまでの間に、村雨は八回ばかり昏倒する羽目になった。
一度殴り倒され、起き上がってからは、まず頭を徹底的に守った。腹への打で意識を散らされ、顎を手刀で打ち抜かれた。
二度目に目を覚ましてからは、間合いを取る事を意識した。速度では村雨が上回る筈だが、どうしても引き剥がしきれない。暫くは上手く身を躱していたが、何時の間にか小屋の壁に追いやられ、壁と靴に頭を挟まれた。
三度目ともなると、村雨は逆に、左馬を組み伏せようと踊りかかった。頭を腕で守り、速度に任せて飛び込み、地面へ捻じ伏せ組み討ちに持ち込む。戦術に誤りは無いが、実現出来る計画では無く、膝を顎に合わされた。
こうも繰り返し叩き伏せられると、村雨の目も次第に慣れてくる。もはや完全に避けようなどとは思わず、腕や肩を打たれるのは諦める。その代わり、急所だけは必死で守りつつ、撃たれっぱなしにならぬよう、蹴りを幾つか返した。
が――最後は結局ジリ貧になり、自棄になって突き出した拳の外から、足を回しこまれてこめかみを蹴りぬかれる。視界の外からの一撃は、反応さえ叶わなかった。
その時点で、まだまだ日が高かったのだから、後は推して知るべし。大きな怪我が無いのは左馬の技量が故だが、それでも体が傷むのは避けられなかった。
「村雨さーん、大丈夫ですかー……?」
「あんまり大丈夫じゃない、かなー……あったたたたた」
みつが手ぬぐいを水に濡らし、村雨の顔を拭っている。打たれて腫れた頬は、触れられれば痛むが、冷たさが心地良い。
「うー、頭がガンガンする……いくらなんだってありゃ無茶だー……」
ぶうたれながら、村雨は小屋の床に、仰向けに転がったままで居る。まだ起き上がれる程に回復していないのだ。
夜が更ける前に、夕食の用意もしなければならない。痛む体に鞭打ち、厨房まで這って行こうとすると、既に美味そうな臭いが漂ってくる。
「あ、もうお料理は出来てるみたいですよ?」
「……だね。何あれ、どんな体力よ」
せめて食材を切るだけでもと思っていた筈が、既に全ての段階を、左馬が終わらせて皿に盛りつけている。
動いていた時間は同じだというに、どうしてこうも動き回れるのかと、村雨は体を引きずりつつも嘆息した。
「体力じゃあないさ。お前みたいに殴られてたら、私だっていずれそうなる」
朝食の時程は優しくなく、左馬は自分の茶碗に白米を盛り付けると、一人で食べ始めてしまった。変わらず箸使いは丁寧、動きは美麗なのだが、早回しのような食事の光景である。たちまち茶碗の半分まで、見事に空にしてしまった。
「じゃあ、もっと手加減してください……」
「却下。なんで私がお前に合わせるんだ。お前が殴られないようになれば、それで万事が解決じゃあないか。
ほら、さっさと座ってお食べ。食べるのも特訓の内……いやまあ、お前には不要かもしれないけれどね」
やっとの事で村雨も、丸机の前に座る事が出来た。一度体を起こしてしまえば、程良く体温も上がり、意識も鮮明になり始める。
「なんたってお前達は、鍛えるまでもなく強いんだ。ああ腹が立つ、半獣なんて全部くたばってしまえばいいのにね。
俊敏性も持久力も――基礎筋力なんて、比べるだけ馬鹿馬鹿しい。お前を鍛えるのに、体作りなんて無意味なんだが」
時折、左馬は酷い憎まれ口を叩く。その時だけ、彼女の声は、呪詛を紡ぐように暗くなる。
だが、すぐに声音は元に戻り、床板の一枚を引っぺがす。引きずり出された酒の壺を見て、どれだけの備蓄が有るのかと、村雨は呆れ果ててものも言えなかった。
「ところで、村雨」
「はい?」
上品に食事を勧めながらも、飲酒の時だけは、この女は見苦しくなる。浴びるように酒を飲みながら、左馬が村雨の名を呼んだ。
「お前、武器の類に心得は有るかい?」
「武器ですか? えーっと、護身用に短刀を持たされた事なら、何度かありますけど……まともに使った事は一度も……」
「ふん。じゃあ防具だ、鎧に袖を通した事は?」
身軽さが身上の村雨だ、そんな経験は無い。問いの意図が分からぬのか、言葉を発せず首を振った。
「そうかい、それじゃあちょっと大変かも知れないね」
「……? 鎧、着るんですか?」
「そのうちだ。みつ、食器を片づけておいてくれるかい。私はちょっと、食後の運動に行ってくる」
十分に喉を潤し、頬に赤みも差し始めた左馬は、足取りは確かに立ち上がる。
「あ、行ってらっしゃいませー!」
「ししょー、行ってらっしゃーい……」
にっこりと笑顔を見せて手を振るみつを見て、村雨も同じように、疲労の浮かんだ作り笑顔を見せる。
「おや、何を言ってるんだい?」
が――引きつる村雨の頬を、左馬は楽しげに掴んだ。
「ひひょー、いふぁいれす、うあ、え」
「眠くなるまで続きだよ、続き。さーあ今夜は寝かせないぞー」
「ねふぁへて、おへはいらからねかへてー……!」
頬を引っ張られたままの叫びは、それはそれは悲痛な響きを伴って、夜の神山に響き――
それが、三日続いた。
朝食を食べ、ひたすら殴られて倒れ、目を覚まして昼食を取り、また倒れて起きて、夕食を食べて殴られる。
他の事など出来る筈も無く、ただ拳の雨に晒されるだけの生活が、三日も続いたのだ。
「うーん、飽きたねぇ。そろそろ次にしようか」
呑気に言う左馬の横では、村雨が大の字になって倒れている。
「だったら、ひー……、もうやめましょうよ、こんなのー……、ぜー……」
意識は有る。口を動かせるだけの余力も有る。が――腕には青痣、顔は腫れと切り傷で、年頃の少女らしからぬ面相になっている。
「なんだか、顔の形、変わってきた気が……」
「気のせいだ、少なくとも骨格は無事の筈だよ。手応えで分かるもの」
「でも、左目開くのが大変なんですけどー」
瞼が腫れ上がっている為だろう、村雨の視界の左側は、普段の半分程しか見えていない。
これでも打たれる数は随分と減ったのだ。日の出から昼まで打ち合いをしても、昏倒するのは二度で済むようになった。
最低限、打たれてはならない場所だけは確実に守り、例え打たれたとしても、大きな痛手に繋がらないように。それは、勝つ為の技術などでは無かったが、少なくとも武の一端だった。
即ち、負けない事。敗北を喫せず、やがて訪れるだろう好機を待つ為の、逃げの技術であった。
「ははっ、確かに凄い顔だ。暫くはその顔を休ませてあげよう、外出するよ、みつも付いておいで」
「はいっ! ……左馬さん、どこへ行くんですか?」
みつもまた、山の生活に適応してきたらしくで、手際良く食事の後片付けを澄ませていた。皿は既に井戸水で洗い終わった後らしく、棚に戻すのは後回しにされている。外出という言葉が、余程心を弾ませたようだ。
「まあ、ちょっと街に出ようかと思う。明後日は朔だ、装備も整えないとね」
「装備ですか……? あ、っていう事は……!」
左馬の言葉に、村雨も思い当たる所があり、ぽんと両手の掌を打ち合わせる。
「ああ、『錆釘』に顔を出そう。給金も欲しい所だし、堀川卿の胃も心配だ」
「そんな事言うんなら、もっと足繁く顔を出しても――あたっ!?」
拳骨を頭に落とされ――そうになり、咄嗟に村雨は、腕で頭を覆った。痣が出来ていた箇所を殴られれば、防いだとはいっても、やはり痛いのであった。