表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
92/187

我儘のお話(6)

 意識を失っていた間、相当な時間が経過していたのか、既に日は傾いている。夕日に照らされながら、村雨は深く息をついていた。

 複数種の敵意に晒され、命と尊厳を失い掛け――身体より精神が、疲労の極みに達している。木を背もたれにして、村雨は空を仰ぎ、深呼吸を繰り返す。

 目は閉じている。何かを見たいと思えないのだろう、瞼を下ろした上に、更に腕で顔を覆っていた。


「……助かった、かな」


 誰も答えない。否も応も、些細な軽口も聞こえない。代わりに何か、唸るような音だけが聞こえた。


「みつ……?」


「むー、むー!」


 言葉が聞こえない訳である――村雨は目を開けて、みつの口の猿轡を外してやった。


「ぷはっ! ……はー、はー……はい、多分……?」


「あー、ごめん、気付かなかった……大丈夫?」


 追手の臭いは無い。安全を確保出来て、やっと村雨にも、他人を心配する余裕が戻って来たらしい。地面に手を着いて荒く呼吸するみつの背を、とんとんと軽く叩き、撫で擦った。


「大丈夫、っです……ふぅ。ちょっと手首痛い、ですけど……怪我は、してません」


「そう、良かったー……」


 安堵の溜息を、ようやく一つ。緊張のし通しで引き攣っていた喉が、大量の空気を要求する。木では固くて背が痛いと、村雨は草の上に寝っころがろうとした。


「……みつ、何してるの?」


「えへへー」


 着地する予定より随分早く、村雨の首の下降が止まる。みつが自分の脚を、枕の代わりに差し出していた。


「嬉しいけど、何もそこま――」


「あのっ、ありがとうございましたっ!」


 遠慮する声を掻き消し、みつは座ったまま、深々と頭を下げた。あまり長くない前髪が、村雨の鼻の先に触れる、


「……お礼言われる事、してないよ」


 村雨からすれば、事実であった。結局逃げ切る事は出来ず、捕まって連れ戻され、あわや身を穢される寸前まで――助かったのも幸運が重なったからである。


「いいえ、そんな事ないです! 村雨さん、助けようとしてくれました!」


 だが――みつが礼を述べたのは、結果ではなく過程に対してであった。


「急に踏み込まれて、縛られて、担ぎあげられて……本当に、本当に怖かったんです。誰も助けてくれない、見てたのに、見ても目を逸らして――」


 結果が伴わずとも、無謀にもみつを救おうとしたのは、あの場では村雨だけだった。多くの者は事なかれを貫いて、近づこうとさえしなかったのだ。

 賢いのは、近づかなかった者達である。結果的に何も出来ないのなら、巻き込まれないようにするのが賢明だ。

 然し、賢いからといって何になろう。少なくとも、みつの心を捉えたのは、無謀な愚か者であった。


「村雨さん……私の為に、こんなに傷ついて……」


「痛、沁みる沁みる……」


 そう――捉えた。捉えてしまった、というのが正しいのだろう。

 村雨が転んだ際にできた、かすり傷や僅かな痣。そんなものをみつは、愛おしげに指でなぞった。大きな痛みではないが、ひりひりと断続的に痛みが起こり、村雨は顔をしかめた。


「私、どうしたら良いんでしょう」


「……どうしようね、そういえば」


 みつの伯父は行方をくらました。僅かな時間に仏典も仏像も、その他さまざまな証拠を隠滅した手立ては見事であったが、然し行方を示す手がかりも無い。有ったのかも知れないが、探す余力は無かったのだ。


「んー、んー……どうしようどうしよう、『錆釘』に回す……無理かなぁ、うーん……」


 父母も無く、頼れる親族を失い、天涯孤独となった少女。道を示してやれる程、村雨も大人では無いのだ。

 が――年少の筈のみつが、この時は大人びて言った。


「村雨さん、お傍に置いてください」


「うん、だね――えっ」


 反射的に安請け合いしてから、何を言われたか理解できずに聞き返し、体を起こそうとする。みつの顔が邪魔をして、起き上がる事は出来なかった。


「……えっ?」


「私、行ける所はありません。行きたい場所も……どんな場所が有るか、知りません。じゃあ、好きな人と一緒に行きたいです」


 村雨は、口をぽかんと開いたままで硬直した。


「えーと、今、なんて言った?」


 実際は聞こえていたのだが、聞こえた言葉を信じられなかったのだ。小指で耳をほじり、もう一度の言葉を促す村雨に、


「好きです! 初めて会った時から! だから――だから、お傍においてください!」


「……却下ぁっ! そういう事は少し考えてからにしなさいっ!」


 みつは、あまりに堂々と叫び返した。自分は村雨に一目惚れしたから、傍に置いて欲しいというのだ。

 当然、村雨が受け入れられる筈もない。それもそうだろう、彼女とは今日が初対面だし、思い人は別に居るのだ。何より、みつの直情は、世間知らずのお嬢様の、ほんの気の迷いだと決めつけていた。


「大体ね、出会って一日も立ってないのに、そういうのはおかしい! いや、その前に女同士だし――あ、いや」


 が、否定の内容を言いかけてから、それは自分にも返ってくると村雨は気付く。結局、言葉は最後まで続けず、代わりに頭を抱えて胡坐を掻いた。


「迷惑はかけません! お料理だってお裁縫だって、それにお掃除だってちゃんと覚えますから!」


 その背中に縋り付き、みつは必死に懇願する。振り払う訳にもいかず――涙の滲む感触を、背中に受けた。


「じゃないと……私、もう、何処にも……お願いです、村雨さん……」


「あー、なんでこうなるかなー……」


 この少女は、自分とは違う育ち方をしてきたと、村雨はそう思っていた。それは間違っていないが――少しずつ、境遇は似てきたとも。

 異郷の地に住まうか、親族を失ったかの違いはあるが、自分一人で生きねばならぬのは同じ。良く知らぬ相手を、出会ったその日に好いたのも――悔しながら、同じ。


「……私が決められる事じゃないんだ。けど……頼んでみる」


 そう思えば村雨は、彼女を無碍には出来なかった。


「あ……ありがとうございますっ!」


「行こう、結構歩くよ」


 道すがら、腕に纏わりつく体温は、鬱陶しいが悪くないと、村雨はそう感じていた。そう感じる程度には、どこぞの女好きに毒されていたのであった。






「――成程、成程、そんな紆余曲折が有ったから、酒の代わりに子供を連れ帰ったと」


 松風 左馬は、何処に隠してあったものか、安酒を浴びるように――というより、実際に顔に浴びながら――村雨の話を聞いていた。

 買い出しに出てより、赤心隊と遭遇し、鬼が介入し、そして見逃されるまで。一部始終を、分かる限りで事細かく、村雨は左馬に伝えたのだ。


「でも、仕方が無く――」


「ああ、はいはい、確かに。仕方が無いのかもね、お前は弱すぎる。切り抜ける技量も無いんだろう? 仕方無い、仕方無い」


 その返礼が、これである。酒臭い息を村雨の顔に吹き付けながら、左馬は小馬鹿にしたような顔で、村雨とみつを交互に見た。


「で、酒は?」


「だから、その……逃げる途中で、多分どこかで落として……」


 村雨は手ぶらである。街へ降りた理由も、酒を買いに行く為だったのではあるが、村雨からすればそれどころではなかった。

 然し、他人の事情を斟酌する左馬ではない。さもつまらなさそうな顔をして、空の酒壺を壁に叩き付ける。


「役に立たないね、お前。 ……それと、そっちの尼っ子。みつって言ったかい?」


「は、はいっ!」


 板の間に正座していたみつは、名を呼ばれて居住まいを正す。目の前ののんだくれは、座るどころか上体を起こしさえしていないというのに。


「お前、金は持ってるのかな?」


「え……と、もしもの為にって、これくらい……」


 金銭の話題になると、みつの表情は一息に曇った。保護者を全て失った今では、彼女が収入を得る手段など無い。外出の予定も無かった為だろう、そっと取り出された財布には、一分銀が二枚ばかり入っていた。


「ふん、話にならないね。それじゃあ、炊事に洗濯、掃除、狩り。酒代の調達くらいは出来るんだろうね?」


 みつは、無言で首を振る。蝶よ花よと育てられた娘なのだ。

 左右に揺れる首が止まる前に、左馬は足で枕を引き寄せる。肘の下に枕を置いて、脇息の代わりに凭れ掛かって、


「村雨、捨てておいで」


 犬か猫を扱うような口ぶりで、たった一言言い捨てた。


「は……?」


 何を言われたのか――しばらくは理解が及ばず、村雨は瞬きを繰り返すばかりだった。

 だが、左馬の冷たい声、目。分かりすぎる程に、言葉の意図が分かってしまう。


「……ふざけないで!」


「ふざけているのはお前だよ、村雨。ただでさえ一頭、面倒なものを背負い込んでるんだ。この上に無駄飯喰らいを増やしてどうする?

 お前が養うのならいいけれど、その娘の分の家賃は私に払ってもらおう。前金で、今この場で、ついでに言うなら買ってくる筈だった酒と一緒に」


 出来る筈も無い事だと、左馬自身が良く知っているだろう。何せ要求する〝家賃〟とやらは、左馬の一存でどこまでも吊り上げられる。無理難題を突き付けて、みつを追い出そうとしている――村雨は、そう受け取った。


「こんなところで、放り出せるわけないじゃない! ここをどこだと――」


 ここは夜の山だ。大型の獣こそ居ないが、慣れぬ身で歩くのは危険に過ぎる。村雨の健脚であれば、四半時で市街地との往復も出来るが、箱入りの令嬢では、一刻かかって山を下りられるかどうか。

 更に言えば――山を下りた後、どう生きれば良いのだろうか。

 働き口を見つけるか? 身元の保証も無く、雑巾がけの一つも満足に出来ない少女には酷な事だろう。

 寺に駆け込むか? 自分が罪人であると――理不尽だが、悪法も法だ――証明する事になってしまう。第一、駆け込めるような大きな寺は、洛中にはもう残っていない。

 残るは一か所、比叡山ばかりだが――数千の兵士が包囲する山へ、みつが辿り着ける方策など有りはしない。

 端的に言えば、左馬は、緩やかに野垂れ死にしろと、みつへ言ったも同然なのだ。


「ここがどこか? 私の家だよ、居候。捨てに行かないならそれでもいい。が、私がお前に何かを教える事は……ああ、二度と無いだろうね。

 さあ、行ってこい、併せて酒も買っておいで。寝静まってる頃合いだ、どうにでもなるだろうさ」


 言うだけ言って、左馬は万年床に潜り込んでしまう。反論を聞く耳は持たずと、すぐに寝息を立て始めた。


「この、お前は……っ!」


 腹を立てれども、村雨は何も出来ない。

 仮にも師と仰ぐ相手だ。まだ何を教わった訳でなくとも、村雨が一人で立つ為に、これより学ばねばならぬ相手なのだ。

 苦渋の表情を浮かべる村雨の、肩をそっと、みつの手が抑えた。


「……ごめんなさい。やっぱり私、お邪魔なんですよね……だから、良いんです」


 さも殴りかからんばかりの権幕に見えたのだろう。実の所、村雨が左馬に、何を出来る筈もなかったのだが。


「良いって……言い訳ないでしょ!?」


「いいえ、本当に良いんです。これ以上は、村雨さんが……だから」


 みつは、村雨の制止を振り切って、小屋の出口へと向かう。礼儀正しく頭を下げて――それっきり、夜の山へ抜け出して行った。


「あ――待って、待ってってば!」


 すぐさま、村雨も後を追おうとする。靴に踵を滑り込ませ、臭いを頼りに走り出そうとすると、


「然し、お前も情けないね。なんだいあの様は」


 眠ったかと思えた左馬が、壁の方を向いたままで言った。


「……え?」


 あの様は、と。左馬は確かに、見てきたように言った。


「罪人みたいに縛られて、犬っころには組み伏せられて、おまけに途中で諦めた。衆目の中で犯されるのが、そんなに楽しみだったかい?」


「――っぐ、ぅ……っ!!」


 見てきたように――などでは無い。左馬は自分の足で街に下り、村雨とみつが捕らわれているのを見て――何もせず、ただ帰っていたのだ。

 もはや村雨に、平常の心など望むべくもなかった。扉を閉めるなど考えもせず、みつを追って走る。

 その背を見送りもせず、左馬はまた寝息を立て始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ