我儘のお話(6)
意識を失っていた間、相当な時間が経過していたのか、既に日は傾いている。夕日に照らされながら、村雨は深く息をついていた。
複数種の敵意に晒され、命と尊厳を失い掛け――身体より精神が、疲労の極みに達している。木を背もたれにして、村雨は空を仰ぎ、深呼吸を繰り返す。
目は閉じている。何かを見たいと思えないのだろう、瞼を下ろした上に、更に腕で顔を覆っていた。
「……助かった、かな」
誰も答えない。否も応も、些細な軽口も聞こえない。代わりに何か、唸るような音だけが聞こえた。
「みつ……?」
「むー、むー!」
言葉が聞こえない訳である――村雨は目を開けて、みつの口の猿轡を外してやった。
「ぷはっ! ……はー、はー……はい、多分……?」
「あー、ごめん、気付かなかった……大丈夫?」
追手の臭いは無い。安全を確保出来て、やっと村雨にも、他人を心配する余裕が戻って来たらしい。地面に手を着いて荒く呼吸するみつの背を、とんとんと軽く叩き、撫で擦った。
「大丈夫、っです……ふぅ。ちょっと手首痛い、ですけど……怪我は、してません」
「そう、良かったー……」
安堵の溜息を、ようやく一つ。緊張のし通しで引き攣っていた喉が、大量の空気を要求する。木では固くて背が痛いと、村雨は草の上に寝っころがろうとした。
「……みつ、何してるの?」
「えへへー」
着地する予定より随分早く、村雨の首の下降が止まる。みつが自分の脚を、枕の代わりに差し出していた。
「嬉しいけど、何もそこま――」
「あのっ、ありがとうございましたっ!」
遠慮する声を掻き消し、みつは座ったまま、深々と頭を下げた。あまり長くない前髪が、村雨の鼻の先に触れる、
「……お礼言われる事、してないよ」
村雨からすれば、事実であった。結局逃げ切る事は出来ず、捕まって連れ戻され、あわや身を穢される寸前まで――助かったのも幸運が重なったからである。
「いいえ、そんな事ないです! 村雨さん、助けようとしてくれました!」
だが――みつが礼を述べたのは、結果ではなく過程に対してであった。
「急に踏み込まれて、縛られて、担ぎあげられて……本当に、本当に怖かったんです。誰も助けてくれない、見てたのに、見ても目を逸らして――」
結果が伴わずとも、無謀にもみつを救おうとしたのは、あの場では村雨だけだった。多くの者は事なかれを貫いて、近づこうとさえしなかったのだ。
賢いのは、近づかなかった者達である。結果的に何も出来ないのなら、巻き込まれないようにするのが賢明だ。
然し、賢いからといって何になろう。少なくとも、みつの心を捉えたのは、無謀な愚か者であった。
「村雨さん……私の為に、こんなに傷ついて……」
「痛、沁みる沁みる……」
そう――捉えた。捉えてしまった、というのが正しいのだろう。
村雨が転んだ際にできた、かすり傷や僅かな痣。そんなものをみつは、愛おしげに指でなぞった。大きな痛みではないが、ひりひりと断続的に痛みが起こり、村雨は顔をしかめた。
「私、どうしたら良いんでしょう」
「……どうしようね、そういえば」
みつの伯父は行方をくらました。僅かな時間に仏典も仏像も、その他さまざまな証拠を隠滅した手立ては見事であったが、然し行方を示す手がかりも無い。有ったのかも知れないが、探す余力は無かったのだ。
「んー、んー……どうしようどうしよう、『錆釘』に回す……無理かなぁ、うーん……」
父母も無く、頼れる親族を失い、天涯孤独となった少女。道を示してやれる程、村雨も大人では無いのだ。
が――年少の筈のみつが、この時は大人びて言った。
「村雨さん、お傍に置いてください」
「うん、だね――えっ」
反射的に安請け合いしてから、何を言われたか理解できずに聞き返し、体を起こそうとする。みつの顔が邪魔をして、起き上がる事は出来なかった。
「……えっ?」
「私、行ける所はありません。行きたい場所も……どんな場所が有るか、知りません。じゃあ、好きな人と一緒に行きたいです」
村雨は、口をぽかんと開いたままで硬直した。
「えーと、今、なんて言った?」
実際は聞こえていたのだが、聞こえた言葉を信じられなかったのだ。小指で耳をほじり、もう一度の言葉を促す村雨に、
「好きです! 初めて会った時から! だから――だから、お傍においてください!」
「……却下ぁっ! そういう事は少し考えてからにしなさいっ!」
みつは、あまりに堂々と叫び返した。自分は村雨に一目惚れしたから、傍に置いて欲しいというのだ。
当然、村雨が受け入れられる筈もない。それもそうだろう、彼女とは今日が初対面だし、思い人は別に居るのだ。何より、みつの直情は、世間知らずのお嬢様の、ほんの気の迷いだと決めつけていた。
「大体ね、出会って一日も立ってないのに、そういうのはおかしい! いや、その前に女同士だし――あ、いや」
が、否定の内容を言いかけてから、それは自分にも返ってくると村雨は気付く。結局、言葉は最後まで続けず、代わりに頭を抱えて胡坐を掻いた。
「迷惑はかけません! お料理だってお裁縫だって、それにお掃除だってちゃんと覚えますから!」
その背中に縋り付き、みつは必死に懇願する。振り払う訳にもいかず――涙の滲む感触を、背中に受けた。
「じゃないと……私、もう、何処にも……お願いです、村雨さん……」
「あー、なんでこうなるかなー……」
この少女は、自分とは違う育ち方をしてきたと、村雨はそう思っていた。それは間違っていないが――少しずつ、境遇は似てきたとも。
異郷の地に住まうか、親族を失ったかの違いはあるが、自分一人で生きねばならぬのは同じ。良く知らぬ相手を、出会ったその日に好いたのも――悔しながら、同じ。
「……私が決められる事じゃないんだ。けど……頼んでみる」
そう思えば村雨は、彼女を無碍には出来なかった。
「あ……ありがとうございますっ!」
「行こう、結構歩くよ」
道すがら、腕に纏わりつく体温は、鬱陶しいが悪くないと、村雨はそう感じていた。そう感じる程度には、どこぞの女好きに毒されていたのであった。
「――成程、成程、そんな紆余曲折が有ったから、酒の代わりに子供を連れ帰ったと」
松風 左馬は、何処に隠してあったものか、安酒を浴びるように――というより、実際に顔に浴びながら――村雨の話を聞いていた。
買い出しに出てより、赤心隊と遭遇し、鬼が介入し、そして見逃されるまで。一部始終を、分かる限りで事細かく、村雨は左馬に伝えたのだ。
「でも、仕方が無く――」
「ああ、はいはい、確かに。仕方が無いのかもね、お前は弱すぎる。切り抜ける技量も無いんだろう? 仕方無い、仕方無い」
その返礼が、これである。酒臭い息を村雨の顔に吹き付けながら、左馬は小馬鹿にしたような顔で、村雨とみつを交互に見た。
「で、酒は?」
「だから、その……逃げる途中で、多分どこかで落として……」
村雨は手ぶらである。街へ降りた理由も、酒を買いに行く為だったのではあるが、村雨からすればそれどころではなかった。
然し、他人の事情を斟酌する左馬ではない。さもつまらなさそうな顔をして、空の酒壺を壁に叩き付ける。
「役に立たないね、お前。 ……それと、そっちの尼っ子。みつって言ったかい?」
「は、はいっ!」
板の間に正座していたみつは、名を呼ばれて居住まいを正す。目の前ののんだくれは、座るどころか上体を起こしさえしていないというのに。
「お前、金は持ってるのかな?」
「え……と、もしもの為にって、これくらい……」
金銭の話題になると、みつの表情は一息に曇った。保護者を全て失った今では、彼女が収入を得る手段など無い。外出の予定も無かった為だろう、そっと取り出された財布には、一分銀が二枚ばかり入っていた。
「ふん、話にならないね。それじゃあ、炊事に洗濯、掃除、狩り。酒代の調達くらいは出来るんだろうね?」
みつは、無言で首を振る。蝶よ花よと育てられた娘なのだ。
左右に揺れる首が止まる前に、左馬は足で枕を引き寄せる。肘の下に枕を置いて、脇息の代わりに凭れ掛かって、
「村雨、捨てておいで」
犬か猫を扱うような口ぶりで、たった一言言い捨てた。
「は……?」
何を言われたのか――しばらくは理解が及ばず、村雨は瞬きを繰り返すばかりだった。
だが、左馬の冷たい声、目。分かりすぎる程に、言葉の意図が分かってしまう。
「……ふざけないで!」
「ふざけているのはお前だよ、村雨。ただでさえ一頭、面倒なものを背負い込んでるんだ。この上に無駄飯喰らいを増やしてどうする?
お前が養うのならいいけれど、その娘の分の家賃は私に払ってもらおう。前金で、今この場で、ついでに言うなら買ってくる筈だった酒と一緒に」
出来る筈も無い事だと、左馬自身が良く知っているだろう。何せ要求する〝家賃〟とやらは、左馬の一存でどこまでも吊り上げられる。無理難題を突き付けて、みつを追い出そうとしている――村雨は、そう受け取った。
「こんなところで、放り出せるわけないじゃない! ここをどこだと――」
ここは夜の山だ。大型の獣こそ居ないが、慣れぬ身で歩くのは危険に過ぎる。村雨の健脚であれば、四半時で市街地との往復も出来るが、箱入りの令嬢では、一刻かかって山を下りられるかどうか。
更に言えば――山を下りた後、どう生きれば良いのだろうか。
働き口を見つけるか? 身元の保証も無く、雑巾がけの一つも満足に出来ない少女には酷な事だろう。
寺に駆け込むか? 自分が罪人であると――理不尽だが、悪法も法だ――証明する事になってしまう。第一、駆け込めるような大きな寺は、洛中にはもう残っていない。
残るは一か所、比叡山ばかりだが――数千の兵士が包囲する山へ、みつが辿り着ける方策など有りはしない。
端的に言えば、左馬は、緩やかに野垂れ死にしろと、みつへ言ったも同然なのだ。
「ここがどこか? 私の家だよ、居候。捨てに行かないならそれでもいい。が、私がお前に何かを教える事は……ああ、二度と無いだろうね。
さあ、行ってこい、併せて酒も買っておいで。寝静まってる頃合いだ、どうにでもなるだろうさ」
言うだけ言って、左馬は万年床に潜り込んでしまう。反論を聞く耳は持たずと、すぐに寝息を立て始めた。
「この、お前は……っ!」
腹を立てれども、村雨は何も出来ない。
仮にも師と仰ぐ相手だ。まだ何を教わった訳でなくとも、村雨が一人で立つ為に、これより学ばねばならぬ相手なのだ。
苦渋の表情を浮かべる村雨の、肩をそっと、みつの手が抑えた。
「……ごめんなさい。やっぱり私、お邪魔なんですよね……だから、良いんです」
さも殴りかからんばかりの権幕に見えたのだろう。実の所、村雨が左馬に、何を出来る筈もなかったのだが。
「良いって……言い訳ないでしょ!?」
「いいえ、本当に良いんです。これ以上は、村雨さんが……だから」
みつは、村雨の制止を振り切って、小屋の出口へと向かう。礼儀正しく頭を下げて――それっきり、夜の山へ抜け出して行った。
「あ――待って、待ってってば!」
すぐさま、村雨も後を追おうとする。靴に踵を滑り込ませ、臭いを頼りに走り出そうとすると、
「然し、お前も情けないね。なんだいあの様は」
眠ったかと思えた左馬が、壁の方を向いたままで言った。
「……え?」
あの様は、と。左馬は確かに、見てきたように言った。
「罪人みたいに縛られて、犬っころには組み伏せられて、おまけに途中で諦めた。衆目の中で犯されるのが、そんなに楽しみだったかい?」
「――っぐ、ぅ……っ!!」
見てきたように――などでは無い。左馬は自分の足で街に下り、村雨とみつが捕らわれているのを見て――何もせず、ただ帰っていたのだ。
もはや村雨に、平常の心など望むべくもなかった。扉を閉めるなど考えもせず、みつを追って走る。
その背を見送りもせず、左馬はまた寝息を立て始めた。




