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我儘のお話(5)

 鼠が猫を恐れる様に、虫が鳥を恐れる様に。或いは、人が闇を恐れる様に。本能からの恐怖とは、常に理屈の外に君臨する。


「白昼よりの無法、蛮行! 貴公達、そっ首叩き落されようと異論は無いな!?」


 怒声一つが柱を揺らす。眼光一つが室温を引き下げる。兵士数人を蹴り散らした鬼――波之大江なみのおおえ 三鬼さんきは、まさにその恐怖を体現した怪物だった。

 巨体が屋根の下に収まる為に、背を撓めては居るが、今にも後頭部が梁を押し上げそうな程。天井近くに有る顔は、人を睨み殺さんばかりである。鬼の激昂の程が伺えた。


「お、ま――待て待て待て、白槍隊が俺になんの用だ、援軍なんざまだ頼んじゃいねえぞ!?」


 暴虐の絶頂に居た冴威牙が、見るからに怯えている。組み伏せられている村雨さえ、痛みより恐怖で動けずにいた。

 鬼は一歩で――並みの人間の二歩より遠いが――冴威牙に近づくと、座布団の様な手で頭蓋をわし掴む。砂利を掴むかの如き無造作振りであった。


「あたた、痛っ、痛え! 何すんだよ、コラッ!?」


「知れた事、無法者を断首せんが為、川原まで引っ立てる所存よ」


 手足をバタつかせて吠える冴威牙だが、怒りの程は三鬼が遥かに上だ。威嚇が届くべくも無い。

 背から体重が消えて、村雨は咄嗟に立ち上がる。兵士達を突き飛ばして、みつを抱え上げると、すぐさま茶屋の隅に積み上げられた、座布団の影に入り込んだ。

 兎角、何からも隠れたかったのだ。赤心隊からも、冴威牙からも、割って入った鬼からも。みつの猿轡を外すより早く、村雨は自分の膝を胸に抱え、きゅうと身を縮めていた。


「止めろこの筋肉馬鹿! 俺もアンタもどっちも部隊長、権限は同じだろうが!? 大体そこの雌餓鬼二匹は――」


「言い訳は地の獄卒に述べよ。拙者は唯、洛中の治安を守る者なれば」


 喚き散らす冴威牙の声に、三鬼は耳を傾ける様子も無い。簡素な答えの代わりに、指の力を僅かに――頭蓋がへこまない程度に強めた。


「あたたたたた絞めるな痛え放せ! そこの餓鬼は大罪人だ、兵部の旦那が決める分にはよぉ! んじゃあ殺す生かすは俺の勝手で――ぎゃあっ!?」


 ぶおう、と突風が起こった。三鬼が冴威牙を、屋内から路上目掛けて投げ捨てたのだ。固い地面にぶつかった筈が、石の水切りの様に弾んで、冴威牙は十間も先の石畳に落下した。

 既に赤心隊の兵士達は、蜘蛛の子を散らす様に逃げ出している。自分達の長が、鬼に襲撃されたと言うに、助けに入るつもりは毛頭無いらしい。


「娘子、怪我はござらんか。賊徒崩れの兵が無礼を――む?」


 人一人を小石の如く投げ捨てた鬼は、それが僅かな労でさえなかったかの様に、平然と視線を屋内に戻す。


「……ふむ、奇縁に御座る」


 戻して――一人、合点した様に頷いて、積み重なった座布団に背を向ける。その端から見えていた灰色の髪を、鬼が見咎める事は無かったのだ。

 ずうう、ずううと地響き鳴らし、鬼は冴威牙に詰め寄って、拳を振り上げた。平屋の屋根より高く置かれた拳は、子供の頭蓋より巨大であり――それを三鬼は躊躇せず、冴威牙めがけて振り落とす。

 生き物一頭、肉塊にしてのけるだけの威力が有る――根拠など無用、村雨にはそう断言出来た。だが、冴威牙の足は器用にも拳を受け――止めず、体の横へ流した。


「あっぶねぇ! てめぇこの、本気で殺しに来やがったな!?」


「左様」


 吠えながら冴威牙は跳び退さり、両手を地に触れさせる。正しく猛獣の、それも肉食獣の取る構えである。蹴りを主体とする冴威牙の戦法には、似つかわしく無い様にも思えただろうが、然しこれこそ冴威牙の、獣性を解き放った姿であった。

 対する三鬼も、得物の大鉞こそ備えていないが、徒手にても無双の大怪物である。一触即発、引き絞られた弓、矢を放てば何れかが死ぬ――いっそそうなれと、村雨は強く願った。

 然し、悪運の強い奴というのは、悪人であるものだ。


「お待ちください、三鬼様、冴威牙様」


 歌うように話す女が、二人の間に割って入った。

 当世風に、肩に届く前に切り揃えた髪。振袖の空色は鮮やかだが、鵲の柄は派手に過ぎず――だが、右肩から背中に掛けてを、大きく露出させている。異装の程は冴威牙と同等であった。


「人目に付きます。燃えるのは分かりますが、床の外も見ませんと」


 右手には、大工の使うような錐――を、倍も伸ばした様な凶器。磨かれているが輝きが鈍く、拭い切れない脂が見える。小綺麗な見た目通りの女では無いらしい。


紫漣しれん、すっこんでろ!」


「紫漣殿、下がりなされ! この距離では拙者、巻き込まぬ自信が御座らん!」


 血走った目の二人に警告されても、女はそこを動かない。戦いの気配も怪物二人も、何恐れんやと言わんばかりの面構えである。


「冴威牙様、貴方でもこの方には勝てません。けれど三鬼様、貴方はこの人を殺せませんよ」


「それは、如何なる所以に御座る」


 ふふ、と女は短く笑い――白い背中から、それよりも尚白い一対の翼を広げ、冴威牙の体を覆い包んだ。


「私が庇いますから。三鬼様に女性は殺せないでしょう? 奥様が怒りますからね。

 いえ……怒られるというなら二人共。公衆の面前で、どうして喧嘩なんてするんですか、もう」


「喧嘩って……いや、俺は別によぉ、んな事したいわけじゃ……」


 幼子を諭す様な物言いに、冴威牙がばつの悪そうな顔をする。


「喧嘩じゃないですか。途中から聞いてましたよ、あんな子供二人の事で……」


「え、待て、何処で聞いてた」


「屋根の上です。早い話が、その二人が異端者、賊教の信者だと示せば良いのでしょう。冴威牙様は何故、そう判断したんです?」


「そりゃあ、踏み込んだあの部屋見りゃ分かるだろ。仏像やら経典やら、古市かと思ったぜ」


 冴威牙がそう言うと、女は幾度か毬のように頷いて、それから三鬼の巨躯を見上げた。


「お聞きの通り、という事です。確認もせず、独断での処罰というのは、如何に三鬼様でも怠慢ではありませんか。

 それに、冴威牙様も。女の子とみたらそういう事ばっかりして……めっ、ですよ?」


 今にも戦いが始まりかねない場に、自分が害されない自信でもあるのか、紫漣という女は大の大人二人を叱る。

 すっかり機を失したと、いつの間にやら三鬼も冴威牙も、構えを解いて立っていた。何とも言えぬ表情をする二人を後目に、紫漣は茶屋の暖簾を潜る。

 屋内に居ると、この女の小柄さが目立つ。村雨とさして変わらず、身長は五尺程しか無い。その為か、無遠慮に広げられた翼は、実際より一回りも大きく見えた。


「ご自分の目で見て。黒と決まればその場所で……それでよいでしょう、ね?」


 細い手を伸ばし、村雨とみつの腕を掴む。か弱く見えた紫漣だが、爪は猛禽類のように分厚く、指は大蛇の如く強く絡み付いた。






 あまりに場が変わりすぎて、村雨の思考は現状に追い付かないでいた。

 拘束は解かれ、腕を掴まれているだけ。単身で逃げようと思えば、逃げられない事は無い筈だったが、そうしようという発想さえ無かった。

 同時に捉えられたみつも、同じ境遇に有るのは気付いていたが――どうでもいい、とどこかで思っていた。

 出会ったばかりの赤の他人に、慮る余裕など向けられない。用意された境遇は、死ぬか、弄ばれてから死ぬかのいずれかなのだ。

 ならば何も考えず、何も感じぬままにやり過ごそうと――無意識に、村雨は殆どの事を諦めていた。

 思えば、諦めを知ったのは何時の事だろう。幼少期の我儘をたしなめられるような、些細な事ではなく――心からの願いを、諦めざるを得なかったのは。

 最初が何時なのかは、思い出す事も出来まい。だが、一つだけ言えるのは――この旅を始めてから、村雨は諦めの感情を忘れていたという事だ。

 何時も傍らに桜が居た。理不尽なまでの暴力で、いかに些細な我儘だろうが押し通す女が。その無法の分け前を得て、村雨も意を通してきたのだ。

 今は、誰もいない。

 包囲網を蹴散らす拳も、爪牙を防ぐ太刀も無い。自分がこんなに弱い生き物だと、村雨はこの日まで思った事も無かった。思う事さえ虚しく、ただ腕を引かれるまま歩いて、辿り着いたのはあの酒屋だった。


「冴威牙様、ここなんですね?」


「おう、間違いねえ。おら、鬼さんよぉ! がっちりと証拠を見せてやるよ!」


 床板は、力任せに剥ぎ取られたそのままになっている。冴威牙は意気揚々と、そこから床下を覗き込んだ。


「……ん? ありゃ?」


 すぐに、間の抜けた声が聞こえた。


「あらあら、どうしました冴威牙様」


「……ねぇ。ねえぞ、ねえ!」


 覗き込むだけでは飽き足らず、冴威牙は床下の空間に上半身から降りる。続いて紫漣が足から、三鬼は巨体の為に頭だけを押し込んだ。


「ふむ……これが、証拠に御座るか?」


「あら、信郭の新書。良く買えましたね」


 成程確かに、そこには人が生活していたと思しき空間が有るのだが――有るのは布団が一組と、それから卑俗な艶本が幾つか。とても仏僧が隠れ潜む様な、そんな雰囲気ではなかった。


「な、ちげっ、こんなんじゃねえよ! もっとこう、仏像なんかゴチャゴチャ置いてあって――ああ!?」


 書物から衣類から布団から、冴威牙はひっくり返して探すのだが、何も見つかる事は無い。そればかりか――


「くそっ、あの親父、逃げやがった! 逃げやがったな畜生!」


 酒屋の店主さえ、どこかへ姿を消していた。

 紫漣がくすくすと笑っている横で、鬼の顔がより凶悪に変わった。冴威牙目掛けてぬうと手が伸びる。襟首を捕まえ、引き揚げようとする腕は、さながら数間もある大蛇の如しである。


「おいっ、止めろ! 逃げられたんだ、嘘じゃねえ! 一切合財持ち出して――」


「この短時間に、斯様な真似が出来るとぬかすか」


 もはや聞く耳持たず。三鬼は冴威牙を引きずり出し、今にも捻り殺そうとする。

 巨大な手で頭を掴み、もう片手で胴体を掴み、雑巾のように絞ろうとした――その手を止めたのも、やはり紫漣であった。


「持ち出された、かも知れません。最初から無かった、かも知れません。誰も分からないでしょ?」


「……ぬ」


 吊り上げられた冴威牙の足にぶら下がり、体を振り子のように揺らして遊ばせながら、紫漣は変わらず窘めるような言い方をする。


「冴威牙様、諦めましょう。職務熱心は良い事ですが、物証無しに動くのは良くない事です。

 それに三鬼様。冴威牙様が悪かった、という確証も無いのですから……あまり酷い事をしないでくださいね」


 捉えられている村雨からすれば、これは好機だった。縄も鎖も無い。掴まれているだけならば、振り払って逃げる事は出来る。が――それに思い当たるより先、村雨は部屋の隅に取り残された小さな仏像に目が向いていた。

 着物の影になっており、しかも本当に、角にぴったりと収まっている。良く見れば気付く程度のものだが、見落とすのも無理は無い。

 もし、それが冴威牙の手に収まれば。今度こそ改めて、無法の執行に道理が付与される。

 だというのに、村雨は未だに、能動的に動けずにいた。

 さりげなく足で隠すなり、もしくは喋って周囲の意識を引き付けるなり、出来る事はあった筈なのだが――何もせず、無為に、それを見ているだけ。

 一度諦めてしまったからか――全て、成るがままに流されているだけなのだ。一点をぼうと見つめる村雨の視線は、やがて誰かに気付かれてしまうだろう――いや、気付かれてしまった。


「……ですから、お二人とも」


 紫漣は、村雨の腕から手を離し、部屋の隅へと歩いて行く。

 あれを拾われて、お終いだ。そんな事を思いながらも、村雨は何をするでも無かったが――紫漣は小さな仏像を、振袖の裾に隠してしまった。


「もう、喧嘩は程々にしなさいっ! どっちもお勤めがあるのに、たった二人相手に何してるんですかっ!

 ほら行った行った、皇都守護隊が指示待ちで動けないでいますよ!」


「ぬぬ、ぬぅ……ええい、紫漣殿に出られてはどうにもならぬ!」


 三鬼は、怒りとも苛立ちとも取れぬ呻きを漏らし、冴威牙を地上に投げ出した。


「私でなくとも、ね? 三鬼様は優しい方なんですから、無理な事はしちゃ駄目ですよ。さあさ、冴威牙様も先に帰っててください、みんなを一度集めないと……どこ行っちゃったのかしら」


「ん、おう。悪いな、助かったぜ、紫漣!」


 まず三鬼が、普段にさらに倍する足音を立てて去っていく。危険から脱したと見るや冴威牙も調子を取り戻し、肩で風切って走り去った。


「お役に立ててなによりです、冴威牙様……」


 床下の空間から、紫漣はその姿を見上げていて――どこか夢見心地の、乙女のような顔をしていた。冴威牙の影が角を曲がって見えなくなったころ、やっと視線を現に戻し、裾に隠していた仏像を拾い上げる。


「……ふう。駄目ですよ、本当に間が抜けてるんだから。見つかってたらどうするつもりなんですか?」


 掌よりも小さな仏像を、ぽんぽんと弾ませながら、紫漣は村雨に言う。立場上、敵対する相手への言葉でさえ、やはり窘めるような響きがあった。


「え、あ……あり、がと……ぅ」


 助けられた――これも受動的な結果だ。村雨は何をしたでも無いが、情けを掛けられて助かった。その事にさえ、何の感慨も無い。


「そうか、見つかってても良かったんでしょう? そうです、そうに違いないです。だって見つかれば、あの人の事だから、もしかしてって」


「え……? あの、ちょっと」


 だが――ただ二歩だけ歩いて近づいてきた紫漣から、村雨は後ずさりして逃げようとした。


「いつも、いつもそうですからね。みんな若いし、そういう目的で従ってるから、長として当然の事だって。でも、あの人は絶対に、こんな痩せっぽちの餓鬼なんて選ばない筈なのに」


 狭い床下部屋だ、すぐに壁にぶつかる。無事を拾ってようやく、村雨に感情が舞い戻ってきた。この女は、冴威牙より三鬼より怖い、と。


「……この屑雌が」


「ひっ……!?」


 しなやかな指が、猛禽の爪が、村雨の襟を掴んで、体を壁に押し付けた。紫漣の目は、薄暗い床下部屋の中で、爛々と丸く光っている。


「冴威牙様に色目を使うな、痩せ狼! 罪人ぶってまで、あの人のお情けを頂こうなんて――汚い、汚らわしい! お前なんか野良犬相手に腰を振って、餌を集ってるのが似合いなんだ!」


「ぁ――やっ、離れろっ!」


 どれほど猛ろうとも、紫漣の力は然程強くない。村雨が腕を振るえば、体ごと紫漣は吹っ飛んだ。

 紫漣が壁に叩き付けられ、床に倒れ伏す。その間に村雨は、みつを肩に担いで跳躍。床の上に戻ると、脇目も振らずに駆け抜けた。


「待て、淫売っ! 目を抉ってやる、冴威牙様を見た目を抉ってやる――っ!!」


 背を叩く呪詛を振り払い――足を止める頃には、既に市街地を抜け、神山のふもとに辿り着いていた。

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