化けて出たお話(1)
引っ手繰り男との一悶着から二日が過ぎ、今日も江戸の町は平穏無事に喧しい。日は中天に達し、道を行く男どもは、額に汗して走っていた。
江戸に住むものからすると当たり前の光景だが、やはり男ばかり良く見かける。女を一人見かけたら、男は七人か八人は居るのだ。
これでも鎖国していた時代に比べれば、随分とまともな比率になっているのである。男が出稼ぎに向かう土地が増え、また、そもそも出稼ぎをせずとも一家を養う手段が増えているのだ。開国から五十年が過ぎた今も、この町は将軍様の下、変わらぬ日々を過ごしている。
さて、ここは達磨屋の一階。『錆釘』の少女、村雨は、畳に胡坐を掻いて唸っていた。
「ううぅぅぅ……遅い!」
「しゃあねえよ嬢ちゃん、まさか起こしに行く訳にもいくめえ」
客引きの男が、なだめるように声を掛ける。こうなった原因は、村雨の雇い主、雪月桜にあるのだ。
「そりゃそうだけどさ! そうだけどさぁ……あーもうやだあいつー!」
「眠ってはいねえんだろうがなぁ……寝てるって訳だ、お疲れさんなこって」
天下の人々は勤勉に労働に従事しているというのに、桜はいつまでたっても降りてこない。村雨も確認したい事は多々有るのだが、起きろと催促しに行くのが憚られるのだ。ここは品川宿、岡場所である。村雨が喚いているのも、周囲が静まりかえれば、良すぎる耳が聞きたくない声を拾うからなのであった。
「もう帰ろうかなぁ……旅の手配とか、どうせもう殆ど済んでるんだしさぁ……」
あの軟膏の効果は本物だった様で、既に痣などは引いて、体も自由に動くようになっている。午前中の内に、村雨は残しておいた用件を片付けてしまったのだ。それを報告するだけだったら、今日でなくとも良いだろう。既に気持ちは、『錆釘』の宿舎で読書をして過ごす、優雅な午後に向いていた。
と、その時である。からり、ころりと下駄の音がする。客引きの男が反射的に表に飛び出して行って、おお、と知人に向けるような気安い声を出した。
「ごめん、桜さんはいるかな? ちょっと相談が有るのだけれど……」
「あのお客人は二階だよ……まあ、一先ずこっちへ。ちょっと茶ぁ出させるからよ」
「ん、ありがたいね」
暖簾を潜って入ってきたのは、赤地に白梅柄の振袖を纏った麗人であった。下駄を脱ぎ、鼻緒を指に引っかけた姿が、いやに様になっている。
「横に失礼、座るよ」
「あ、どうぞ……桜の知り合い、かな?」
隣にすうと腰を下ろした振袖美人を、村雨は、何か違和感を覚えつつも眺めた。化粧は派手にならない程度で、元の顔立ちの美しさを引き立てる。すっと伸びた背から柳の様な腰へ続く曲線は、女性的な丸みこそ薄いものの、強く抱けば折れてしまいそうな儚さの演出にも見える。が、やはり何かおかしいのだ。直ぐに何とは言えないが、村雨は引っ掛かるものを感じながら、来訪の用件を尋ねる。
「ああ、少々ね。彼女に頼みたい事が有るのだけど…………もしかして、まだ寝てる?」
「……眠ってないけど寝てますよー。誰かあれ、殴ってきてくれないかな」
直ぐに部屋に案内されず、一階で茶を出された事でそう推測したのだろう、振袖美人は程良く首を傾げた。鏡の前で角度を測って決めたように、愛嬌のある仕草だった。仏頂面で物騒な事をいう村雨と並ぶと、尚更その華が目立つ。
「よおし、僕が引き受けた。手が砕けない程度にげんこつを落としてくるよ」
冷たい茶をくっと飲み干し、振袖美人は立ちあがる。階段へ向かっていくのは、本当に実行に移すつもりなのだろうか。
「……ん、僕? ……えーと、私が五尺くらいだから……」
と、同時に村雨は、違和感の正体にようやく辿り着く。下駄を脱いでも振袖美人の背は五尺三寸。桜の様な例外を除いては、高い部類であるだろう。それだけでなく、村雨と比べると一回りは肩幅が広い。首から肩への曲線の角度が、村雨に比べて随分小さい。
声も、女性として聞くには低過ぎるかも知れない。桜も声は低い方だが、この振袖美人は、それをまだ下回る。その声は女性というよりむしろ、少年期に特有の高音に近い。
「ねえねえ、ちょっと。もしかして、あの人って……」
振袖美人が階段を上っていたのを確認して、村雨は客引きの男に、最後まで口にはしないが問いを投げる。
「おう、あいつかい? 燦丸って言ってなぁ、日本橋の陰間だよ」
「……ああ、やっぱり……」
陰間、身も蓋もない事を言ってしまえば男娼である。昔は男らしい格好の陰間が好まれたともいうが、当世は華々しい女姿が流行と見える。女である自分より、顔立ちも起ち居振舞いも女らしい男。世の中はまっこと不公平であると、村雨は嘆息するのであった。
二階からの声に村雨が呼ばれたのは、それから程なくの事であった。部屋へ向かえば、桜の右手には遊女高松がしな垂れかかり、燦丸少年は左手に静かに正座していた。絵だけを見るなら両手に華。然し、一輪は擬態する華である。
「やれ、いきなり踏み込んでくるから何事かと……賊と間違えて切りかけたぞ」
「お楽しみを邪魔して申し訳ないね。でも、君のご友人が困っていたようだったから……」
ひたすら腰の低かった源悟とは違い、燦丸は桜とあくまで対等に口を聞いている。言うならば一般の友人同士の様な、と見えるだろうか。少なくとも、桜の寝室に上がり込んで、殴られもせずに居られる程度には親しいようである。
「で、本当なのか?」
「ああ。この商売だ、お客の顔を間違えるなんて有り得ない。断言するよ」
「……何の話?」
村雨が上がる前に、既に幾らか会話は進んでいた様だ。内容が理解できず、村雨は口を挟む。
「ええと、桜。彼女を呼んだという事は、話に参加させるのかい?」
「うむ、雇った以上は働かせる。鼻は良く利くぞ、あいつ」
「ふうん。君がそう言うのだから良いだろう、彼女も交えて話す」
燦丸は、内密な話であると言外に匂わせ声を潜める。村雨は膝で畳を歩き、耳を近づけた。
「桜は、僕の仕事は知っているね。そっちの彼女――」
「村雨だ、『錆釘』で雇った」
「――そう、村雨か。話の前提として教えておくけど、僕は『大紅屋』の陰間なんだ。自分で言うのもなんだけど、そこそこには贔屓にしていただいてると思ってる。この前の夜も、新しいお客さんが付いたんだけどね――」
次に発するべき言葉を選びかねているのか、あの計ったような首傾げで、 燦丸は口を閉じる。人差し指で唇を塞いだままの逡巡、視線が何処かへ飛んでから、言葉と共に戻ってきた。
「――そのお客さんがどうみても、半年前に死んだ筈のお客さんと同一人物なんだよ。腹の傷から背の刺青まで、一つ残らず同じなんだ」
言葉を選ぶ為の思考時間を幾度か挿みながら、燦丸が語ったのは以下の通りの内容であった。
遡ること五日、陰間茶屋の営業時間としては早い段階で、燦丸に指名が入っていた。
何時ものようにまず飲み食いをさせる為、料理を運んだ者達が、何処かで見た顔だと言い合っていた。久しく顔を出さなかった客なのかと思い、寂しかったから始まる決まり文句を用意して、燦丸は座敷に入る。
そこにいた男は、料理番も見た事はある顔だったろう。一年前からたびたび大紅屋を訪れ、燦丸を指名して遊んでいた、垣右衛門という客である。が、燦丸は青ざめた。半年前に男の足が途絶えた理由を覚えていたからだ。
或る雨の夜、身内の祝い事の帰りだったらしい垣右衛門は、酔って足を滑らせたのか、川に転落する。助けを呼んだかも知れないが、雨音の為、聞く者は誰一人いなかった。流れが早すぎた為だろう、二日後、数里も離れた下流で、垣右衛門は水死体となり、橋脚に引っ掛かっていたという。顔は蟹に喰われて見分けも付かなかったが、衣服と身につけていた小物、知人の証言から身元は割れた。
垣右衛門は、京で舶来品を買いつけ、江戸に降ろす仕入れ問屋を営んでいたらしい。中々の商売上手で、父親から継いだ小さな店を、住み込みの丁稚・手代合わせて二十人程の大店に育て上げた剛腕だった。
然し、四十を過ぎたころから、少し異常を来し始める。店を番頭と親族に任せきりにして、自分は毎日毎日、陰間茶屋に入り浸りになったのだ。
陰間茶屋の料金体系は遊女屋と違い、陰間の格による差が小さく、そして基本的に高額である。いかに大店の主と言えど、土産を欠かさず通い続ければ、遠からず蔵を空にしてしまうのは目に見えていた――そんな折の、不幸な事故であった。
それだけの良客の顔を、金をむしり取る事を生業とする者が、見間違える筈がない。それでも万が一も有るかと思い、燦丸は夜の趣向を、灯りを消さずの交わいとしたのだった。男は、背に小さな昇り龍の刺青、腹には喧嘩での刺し傷が有る。若いころはやくざ者紛いの荒事もしたらしい。
果たして、燦丸の記憶に過たず、刺青も傷も同一箇所に存在したのである。他人の空似ではもはや済まされない。化けて出たかと翌朝は、店中上を下をの大騒ぎだった。
「――そのお客さんは、五日連続で僕の所に遊びに来た。半年前と同じだね、朝は遅くまで居座って、日が落ち切る直前にやって来る。お金は有るんだ、無碍に断るのも店としては惜しいけど、幽霊に取りつかれてるとなったら人聞きが悪い。他の子達も怖がってるんだ、どうにかしたいんだけど……」
額を抑え、真実困り果てている様に、燦丸は俯く。陰間茶屋の経営事情などは知らない村雨だが、他の商売に置き換えて想像してみた。毎朝早くから蕎麦屋に幽霊が居座り、ひっきりなしにお代わりを繰り返し、閉店ぎりぎりに代金を支払って帰る――どうも、しゃきっとしない。
が、不気味であるというのは頷ける。死んだはずの男が隣で蕎麦を啜っていたら、味など分かったものではないだろう。
「……で、私にどうしろというのだ」
「殴れぬ切れぬ幽霊では、主様もいかんともしがたいかと……ほほ、難儀な事でありんすなあ」
話を聞かされた桜は、珍しく辟易した表情を見せていた。理由はそのまま、高松が語った通りである。正面から突っ込んで、力で解決できる物事なら、桜ほどの適役もいないだろう。が、相手は幽霊。坊主の真似をして祈れ、とでもいうのだろうか。
「ううむ、ルカの11章2節でも読むか? 仏教徒には効き目も無さそうだが」
「なんでそんなもの知ってるのよ……ええと、燦丸? まさかこの力馬鹿に、力で解決しろって言いに来た訳じゃないでしょ?」
村雨は、燦丸が言葉を続けたがっているのを感じとった。物事を語る際に、最初から始めて順に説明せねば気が済まない者がいるが、燦丸はその代表例に思えたのだ。
「ああ、桜だけに手伝ってくれ、とは言わない……けど、考えて欲しい。そのお客さん、僕を抱けるんだよ? ちゃんと触れられるって事だし、体も暖かかった。殴ろうと思えば殴れるだろう、そこを念頭に入れておいてくれるかな」
「ほう? 殴れる幽霊か、それは面白い」
流石に思考が単純な桜である、殴れると聞いた途端、難渋の気配は消え去った。
「もう一つ。君は幸運な事に、友人は少ないが際物が揃っている。その中に……そう、どこかへ潜り込む事に掛けては、天才的な男がいるだろう? いや、彼は男なのか女なのか、僕はまだ分からないのだけどね」
「源悟か……つまりお前は、力ではなく人を借りに来たのだな?」
「ご明察」
よし、と桜は手を打ち合わせ、立ちあがる。しな垂れかかっていた高松は、畳にうつ伏せになってしまい、恨めしげに桜を見上げた。
「村雨、詰め所まで走れ、お前の方が早い。私は燦丸と共に、先に大紅屋へ向かう……ふむ、夜までは退屈をしそうだ。書の一つも持っていくか」
「了解、場所は源悟が分かってる?」
「あれは、江戸の町の地図は全て頭に入れている。案内させればいい」
問題の客が訪れるのは日没前、まだ数刻の猶予がある。さっそく動き始めた村雨の後ろでは、桜と燦丸が、何やら指を曲げたり伸ばしたりして、数字を作って見せ合っている。
「……ああ、有料なんだ」
友人とは言っても薄情なものだ。自分の雇い主は男には冷たいと、改めて村雨は認識させられるのであった。