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山ン主のお話(4)

 獣の体力は無尽蔵だ。

 いや、限りは有る。だがその臨界点は、人間の遥か向こうに置かれているのだ。

 人が逃げようと耐えようと、獣が本気になれば、やり過ごすなど出来はしない。どちらかが死ぬか、捻じ伏せるか、そうでなくては終わりはしない。

 朱色の大猿は、いよいよ猛り狂っていた。


「はっ……はぁ、くそ……、どうしたものか……」


 桜は肩で息をしていた。

 未だ目立った外傷はないが、それは鉄のごときかいなが盾となっていたからで、大猿の打を全て避けたのではない。

 寧ろこの足場の悪条件で、斧の刃に裂かれていない事は驚愕すべきであろうが、それでも桜は追い詰められていた。


「私より強い者が、よもや二匹もいようとはなぁ……一人と一匹か?」


 否、技量の程を鑑みれば、この大猿は然程の難敵では無い。勝てぬ理由は、桜自身に有る。

 新雪も、徒手という条件も、呪いによる痛みも、確かに桜に祟っている。だが最大の理由は、似合わぬ仏心であった。


「ギッ、ギギッ、ギッ!」


 大猿が嗤う。獣の表情は読めないが、愚弄されている様に桜は感じた。

 事実、その通りだった。大猿は桜に背を向け、再び盆地の中央にある小屋目掛け走り出した。

 これ見よがしの搖動――桜は反射的に、大猿の正面を目視し、炎の壁を出現させる。


「うぐぁっ、がっ、あああぁっ!?」


 遂に顔の右半分は、全て紫の痣に覆われた。眼球も白と黒の境目が無く、ただ一色の球体と化す。僅かな光をさえ受け取らぬ、飾りと成り果てたのだ。

 然し、見えぬ事さえ意識出来ぬ有様である。槍で刺された傷口を、錆びた釘で押し広げられる様な苦痛は、桜の喉を傷つけ血を吐かせていた。

 小袖を紅に染めながら、桜も己の温さを嗤う。

 顔も知らぬ、名も知らぬ、誰かを庇おうなどするからこうなる。どだい人殺しの技など、守る為に振るうのが間違いなのだ。小屋の連中が喰われている間に、背後から猿の延髄を叩き折ってやれば、こんな苦戦などしなかったではないか。

 ひゅ、と頬が風を感じた。咄嗟に身を沈めた桜の頭上を、大猿の腕が通り過ぎた。間合いが近すぎると気付いた時には、座布団の様に巨大な足が、桜の脇腹を蹴り上げていた。

 今度は悲鳴さえ零れない。塞がりきらぬ傷を打たれ、無理に縫い合わせた糸も解れる。横に二間も弾き飛ばされ、新雪には血の飛沫が撒き散らされた。

 殺そう。桜は腹を括った。

 大猿だけではない。どこの誰とも知れぬ輩は、己の為に死んでもらおう。獣の爪牙への盾となり、肉の塊に変わってもらおう。無残な死の看過を決めた。

 小屋の板戸の隙間から、漏れる光は弱くなり始めた。松明が尽きてきたのだろう。全て消えてしまわぬ内にと、これまでは遠ざかる様に動いていた場所へ、敢えて自分から近づいて行く。

 背後に大猿の気配を感じる。折って来ているのは分かっていたが、振り向くだけの距離の猶予は有る。気に掛けず走って――視界の隅に、人影を三つ見た。


「おいこら、余所者ォ!!」


「お前は……!」


 富而青年が、妹二人を肩に担いでいた。

 深閑たる山に、彼の叫びは良く響く。大猿にも当然の如く察知された筈で、桜は幾分か疎ましく――また、好都合だとも思ってしまった。

 何故死にに来たかと思う反面、的が増えたと安堵する自分も居る。幼い少女二人など、逃げ足も遅くて実に実に――


「こっち、早くこっち!」


 暗い思考が首を擡げ、さきの声がそれを切り払った。まだ見える左目をそちらに向ければ、見慣れた黒を二つ見つけた。


「重いのよ、さっさと取りに来てよ! 早く!」


 さとの声はきんきんとやかましいが、今の桜には頼もしい響きだった。さきが脇差『灰狼』を、さとが大太刀『斬城黒鴉』を、それぞれに高く掲げていた。


「ちぐしょう、夜だぞ、夜のお山だぞ、入っでんじゃぁねえ余所者! だがらこんな事さなってんだべがぁ!」


 どんな事だ、と桜は軽口を返したくてならなかった。

 富而達の父親が、小屋にすし詰めにされている事か。それとも桜が獣ごときに打ち据えられ、血まで流している事か。はたまた――文句を言う富而自身が、禁を冒して山に踏み込んでいる事か。

 雪の上で直角に向きを変え、三人の方へと桜は走る。走りながら、自分の気まぐれの理由を思い出していた。


「は、はっはっは……ああ、そうかそうか。全く気弱になったものだ……さき、さと!」


 そうだ、人殺しの技ばかり磨いた筈の自分が、らしくも無く誰かを助けようなどとしたのは――


「お前達、良い女になるぞ!」


 ――どこぞの狼に、堂々と顔向けをしたいからだ。

 跳躍、富而の頭上を越える。着雪した時には、桜の右手に『斬城黒鴉』の柄が握られていた。

 刃物の重さが心地良い。だが――それ以上に、邪魔者達の存在が心地良い。雪を静かに踏みしめ、桜は大猿の前に立った。


「ギッ、ギィイイイアアァッ!!」


 もはや獣とは思えぬ程、色濃く浮き出た嘲りの色。弱者を嬲って楽しむ嗜虐的な顔。振り下ろされる斧を、桜はもはや避けようともせずに微笑んで、


「――しゃっ!」


 傍目には、一閃と映った。黒の刀身はただ一度、左から右へ走っただけに見えた。だが――大猿の手に有った斧は、四つに切り分けられて雪上に落ちた。

 いや、斧ばかりではない。一瞬遅れて手の体毛が、一拍遅れて指の皮膚が、爪が、牙が。全てが同時に見える程迅速に、黒太刀の切っ先に切り落とされていた。


「ギ――キッ、キィイッ!?」


 嘲りから驚嘆、恐怖へ、大猿の表情は面白い様に変わる。これまで自分が絶対の強者だと思い込んで、負ける事など思いもせず、〝戦い〟ではなく〝蹂躙〟を楽しんでいた獣が――


「……ふーむ、醜く見えるものだなぁ」


 今は、死を恐れて怯えている。

 大猿の喉元に黒太刀の切っ先を突き付け、桜は小さく溜息を零す。勝利の愉悦も何も無い、疲れ切った表情であった。


「失せろ……言葉は分からんでも、この状況は分かるな? 分からぬなら良いが、その首は取れる事になるぞ」


 大猿は呻きながら、動く事も出来ずに居る。まだ自分には勝ちの目が有ると、そう信じているかの様で、逃げ去ろうという様子は見えなかった。


「失せい老翁、これは情けぞ」


 然し、背後から届いた声を聴けば、大猿は見て分かる程に震えを起こした。


「疾く去るが良い。この人間、慈悲は有るが躊躇が無い。そなたの負けぞ、負ければ追わるが道理よのう?」


 大猿の背に隠れ、声の主が桜達には見えていない。


「お前、一度会ったな」


「うむ、如何にも。余り無体を働くでない、此の山全ては此方のものぞ。

 ……百年も一所におっては、身も心も鈍になろう。北へ落ち延びよ、鬼赤毛」


 ぐおう、と一声大きく吠えて、大猿は雪を散らし馳せた。背後の声に従順に、只管に北を目指しての奔走であった。

 後に残されたのは、桜に富而、さきとさと。それから――降る雪の中で髪も乱さない、常盤色の着物の女。


「久方振りの人よ、褒めて遣わす。長の退屈も紛れ、この八竜権現、すこぶる機嫌が良い」


 わらじと足袋、北の地にそぐわぬ装いながら、女は足を濡らしてさえいなかった。






 小屋の戸板が剥がされる。立てこもる為の防壁は、中の者が外へ出る妨げにもなったが、命の危険が去った今は、多少の手間を惜しむ者など居なかった。


「お父さーん、良かったー……!」


「おうおう、さと!? なんでお前こんな所に……おう、富而もか!?」


 がっしりとした体格ながら、小柄な男が小屋から出てくる。途端、いきなりさとはその男に飛びつき、男は強靭な足腰でそれを受け止めた。


「どうした富而、お前があの猿仕留めた訳じゃあねえだろ? なんでまたこんな夜中によぉ。と、さきは居ねえのか?」


「おっ父ぉ、助げられて言うのがそれか……さきはあっちだあっち」


 富而が指さした方向を見れば、狩りに出ていた者達で一番若い一人――今年で十四になるらしい――とさきが、抱き合って再会を喜んでいた。


「……健坊、後でぶん殴ってやる」


「大人げねえぞ、おっ父ぉ」


 一人山を下りた茂蔵以外、死んだ者はいない。楽しげに笑う気分では無いが、安堵の微笑みくらいは零したとて、誰も咎め立てはしなかった。


「良いのう、良いのう、人の情は。賢しら顔よりあの顔が良い」


 その様を、手を打ち叩いて誉めそやす女に、事情を知らぬ者の視線が突き刺さる。

 何せ、見るからに尋常でないのだ。風雪の中に在りながら、その女だけは袖をはためかす事も無い。かんじきさえ履かぬというに、雪上に足跡さえ刻まない。夜の山にあっては寒かろう軽装でありながら、頬は健康的にべにが差しているのだ。


「屍も愛らし、生くるもめぐし、愛しや、山の子らよ。久しく来なんだが健勝かえ?」


 ただ一人、富而の父――晟雄だけは、懐かしげに目を細めた。


「……あんた、本っ当に老けないのな」


「そなたは程良く渋みが出たのう……あの童がもう村長むらおさとは、人の生は早いものよ。何故に斯様にぞならずや?」


 何処から取り出したか、女は扇を一度仰ぐ。振り続ける雪が、女の周囲だけ止まった。止んだのではなく、空中に雪の粒が静止したのだ。


「言うも虚し、かの。これ童ども、そなたらも山を下りよ。夜の山は此方こなたの領地ぞ、聞かされてはおらぬか?」


 ゆうるりと舞う様に、女は扇子で斜面を指し示す。富而は漸く相手の素性に気付いたらしく、飛び跳ねる様に平伏した。


「さ、ぬし様でごぜえますか!? この度は代々の禁を冒し、夜の山に――」


 女は平伏する富而に近づき、その頭の横にしゃがみ込む。


「そなた、村長むらおさの家のものかえ?」


「へ、へえ! その通りで!」


 ふんふんと頷きながら、女は富而の顔を覗き込み――


「……てりゃっ!」


「あだっ!?」


 閉じた扇の骨で、高くも無い鼻を打ち据えた。


「固さは良いが曲がっておるのう、曲がった方に真っ直ぐすぎる。まだ父親には及ばぬわい、精進する事じゃ。

 さあて娘子むすめごどもも、何時まで夜遊びなどしておるのじゃ? 早う早う床に着けい!」


 再開を祝う者達の感涙も蹴散らす様に、女は場を解散させようとする。殆どの者は怪訝な顔をしていたが、村長むらおさの晟雄に促されれば、皆粛々と従った。

 去り行く背を満足気に見送る女は、ふと思い出したように数歩ばかり走り、


「おーうい、さき! そなた、今年で幾つになったー!?」


「え、私、え……じゅ、十三ですー!」


「そうかー、分かったー!」


 十数間も離れた場所から、姉妹の姉の方に尋ねた。帰って来た答えにもまた頷き、そして扇を広げて口元を隠し、ただ一人残った桜を見やった。


「……あの猿では無かったのだなぁ、主とやらは」


「あれも童よ、齢は百五十、幼い幼い。力任せに我儘に、何をも恐れず生きて来た獣よ」


 似ておろう、女はそう続けた。桜は静かに頷き、見解の同意を示した。


「名を、なんと言う?」


「じゃから申しておろう、八竜権現じゃと」


 一度聞かせた名前を繰り返す女は、言葉とは裏腹に、面倒だという表情はしていない。


「それとも、此方〝自身の〟名を聞きたいと、そうのたまうかや?」


「如何にも。女を呼ぶのに家名や、ましてや官職で呼ぶなど味気無い。呼ぶに足る名が有るのだろう?」


 扇を僅かに持ち上げ、女は暫く肩を震わせた。些細な事で良く笑う性質らしい。


「此方が名は八重やえ、人の風習に合わせればのう。野の獣は此方を呼ぶに、名など必要とせんわえ。

 ……名乗らせたからには、そなたも名乗る気はあるのじゃろうな」


「伏すまでも無いな。雪月 桜だ」


「ほう、真名らしからざる響きよの」


 二者の距離は三歩。八重は一歩だけ足を動かし、三歩の間を全て埋めた。突如、己の胸に凭れ掛かった八重に、桜も幾分かは驚愕の色を浮かべる。


「死毒の色か、広がっておるの。半端な慈悲で己を殺す所じゃが、何故に端から殺しに行かなんだ?」


「見ていたなら手伝え、趣味の悪い」


「此方は平等に、山の神ゆえな」


 小袖の上から、八重は桜の傷に触れる。糸が切れて開いた脇腹の傷は、手で押さえて漸く血を止めている有様だ。


「……猿だろうが犬だろうが、殺すと嫌な顔をする女が居てなぁ。嫌われたくないから殺さない、では駄目か?」


「いいや、上等よ。心にも無い仏心を語るより余程良い。来やれ」


 八重の手が離れて行く。桜は、傷の痛みが失せていく感覚を味わっていた。

 実際に傷口が塞がりきった訳ではないが、皮膚を繋ぎ合せて出血を抑え、痛みも抑えられている。何をされたかと訝る桜に、八重が手招きをしていた。


「その傷を癒すが望みじゃろう、無残な顔を見れば分かるわえ」


「話が早いな、頼めるのか?」


「そなたは気が早いのう」


 招かれるまま、火も消えて暗闇となった小屋に入る。先程まで中に人が居た為か、外よりは空気が暖かい。


「その程度の呪い、造作も無く消して見せようが……然しそなたが耐えられるかまでは、此方の知る所では無い。

 多少の無謀はしておる様じゃが――覚悟は良いかえ?」


「何を今更。そうでなくては、奥州くんだりまで来ぬわ」


 床板の上に、桜は胡坐で腰を下ろす。


「そうか、では――」


 八重は、桜の胸に手を触れた。


「――まずは命から貰おうかの」


 胸から背へ――一振りの刃が過たず、桜の心臓を貫いた。

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