山ン主のお話(3)
ただの猿など素手で事足りる――桜の見立てに間違いは無かった。
確かに怪物。だが、鬼とまで渡り合った桜にして見れば、力も速度もまるで物足りない。容易く屠り去れる――筈の相手だった。
「キィァアアアッ!」
「と……、ふっ」
身の丈が八尺も有る大猿は、桜の頭蓋目掛けて斧を振り下ろす。桜の目なら見えぬ速度では無いが、然し交わし切れず、袖口を刃が掠めた。
足元が悪すぎる。積もり、その後に全く踏み荒らす者の居なかった雪の上だ。桜の本来の動き方は、爆発的な脚力に任せて、自らの体を射出する様に移動する物。この足場でそれを行えば、いかにかんじきを履いていようとも、間違いなく足が雪に埋まる。
だから、歩法一つさえ常の様には出来ず、足元に衝撃を加えない様に動かねばならない。見えていようとも、体を従わせる事が出来ないのだ。
ならば、受け止めれば良い。刃は無理だろうが、斧の柄ならば掴める。そうして生まれた隙に、大猿の胴体に打撃を打ち込めば良いと、桜も算段を整えていたが――
「ちっ、思ったより〝分厚い〟な!」
大猿の体の厚みが、桜の決断を鈍らせていた。
巨木の様に太い胴体は、決して人間の様な脂肪太りでは無い。野生が培った筋肉の塊である。
元来、人間と野生動物は、筋肉の作りからしてまるで異なる。人間より体の小さな猿が、人間に数倍する物体を動かす事を鑑みれば――耐久力もやはり、人に数十倍すると見て良いだろう。
今の桜には、この大猿を捻じ伏せる術が、無いとは言わぬが乏しいのだ。
傷口から身を蝕んだ毒――呪い。軽く殴りつけようとするだけの意思が、刃に身を斬られる以上の痛みを引き起こす、厄介な代物だ。如何に桜の意思が強靭であろうと、二度三度と繰り返してあの痛みに襲われれば、動きを止めざるを得ないだろう。
「はっ、一撃で仕留めれば良いだけではないか!」
言うは容易く、行うは難い。如何に桜の剛腕でも、この大猿を打撃のみで倒すには、少なくとも数度は打ち込まねばなるまい。どうしても一撃と言うのなら――眼球を狙うか、喉を指で潰すか、延髄を叩き折るか。何れにせよ、巨体に用いるには難儀する。
避け続け、大猿が体勢を崩すまで待つ。平常ならば容易いが――
「キキッ……キィイイアアアアッッ!」
斧の刃が、桜の膝を狙った。跳躍して避けようにも、足元が柔らかすぎる。刃の腹を手で叩き、桜は反動で宙に舞った。
これぞ待ち望んだ好機。大猿の一撃を回避しつつ、無防備な頭部を狙う位置に付く逆転の妙手。人差し指と中指で、大猿の眼球を潰さんと突きを放ち――
「キ――ゴアアァッ!!」
「ぐぉ、ぁ……っ!?」
届くより前に迎撃される。左腕の一振りで桜は打ち上げられ、数間も離れた雪の上に落ちた。
腕の長さも違う上に、踏込を速度に変えられない空中。この局面での跳躍は、寧ろ悪手であった。
そして――刻まれた呪いが目を覚ます。
「う、ぐぐ、ぅ……あが、あぁあっ!」
左脇腹の傷周辺を染める、毒々しい紫色が、桜の右手にまで浸食していた。
重度の火傷の様に、或いは広範囲の擦過傷の様に。だが、痛みの程はその比でなく、骨を内側から突き刺されるかの如く。
歴戦の桜をして、戦いの中に在る事を忘れる程の痛みだ。心の弱い者ならば、自ら死をさえ選びかねない。
「……っは、成程……。これなら、戦争など起こらんな……」
桜はこの呪いの意図を、完全な形で理解した。
他者を傷つけようとする度、それ以上の痛みを味わう。こんな事を幾度も繰り返せば、やがて人は牙を捨て、力に諦めを以て接する様になるだろう。そして人間の全てがこの呪いを浴びれば、その世界に戦争など起こりえないだろう。何故ならば、人を殺さんと欲する者は、呪いによる痛みで狂い死にしてしまうからだ。
争わぬ、では無い。争えぬ事による強制的な平和。全く素晴らしいものだと桜は冷笑し――漸く、己の居る場所を思い出す。
「うおっ――そうか、居たな!」
雪の上でも大猿は、足場の不利をものともせずに駆け回る。足の裏の面積の差が為、足が沈む事が無いのだ。
巨木の様な腕の打撃を受け止める桜。踏み留まれず、また弾き飛ばされる。腕を十字に組んで胴体を守ったが、右腕に残る痛みが増した。
また五間も間合いを離され、これ幸いと桜は息を整える。自分から向かうのでは無く、やはり相手から先に手を出させ、生まれた隙を突く狙いであったが――
「キキ、キッキキ……キァッ!」
大猿は甲高い声を上げながら、桜では無く小屋へと向かって馳せた。
「……!? おのれ、知恵は有るらしいな……!」
既に壁には罅が入り、もう一押しで崩れ去る様な脆い小屋。元より桜は、その小屋の中に居るだろう者達を助けに来たのだ。
深雪の上では、大猿に追い付けない。止むを得ず――桜は、小屋の周囲を〝見〟た。
瞬時に炎の壁が立ち上がる。熱量、明るさ、そして強度、何れも桜に利す筈の火だが――
「くぁ、は……、っは、はぁ、あっつ……!!」
右目を起点に、顔に紫の痣が広がる。
これまで脇腹や腕を刺していた痛みが、眼球から頭蓋までを貫き――桜は顔を手で覆って蹲った。
呼吸さえ侭成らぬ痛み。耐えて立ち上がろうにも膝が笑い、しゃんと背筋を伸ばせない。
「おのれあの女……後で散々に殴ってや、っぐおぉっ……!」
自らに呪いを掛けた『大聖女』に悪態を吐いても、苦痛は一向に収まらない。
大猿は炎を見て猛り狂い、高らかに奇声を上げた。山肌の粉雪が震え、ぱらぱらと散る。
我こそは山の王であると、誇るが如き声であった。
「畜生、俺は」
富而青年は、足を引きずりながら、家族の眠る小屋への道を歩んでいた。
桜に投げ飛ばされて、強かに打った背が傷む。
「俺は、なんなんだ」
だが――それ以上に、胸が痛かった。
矜持は有る、郷土への愛着も有る、自分の信念も有る。それを――〝壊さないように〟扱われたのが悔しかった。
家族より掟を優先するのか――否。掟など、法令など、肉親の命に比べれば軽いものだ。
然し、それを言えば矜持を曲げていた。己の言葉を己で覆す、恥を晒す事になっていた。
「何が有ろうと、か……っはは」
冷笑は、肺の痛みに引き攣る。
大きな口を叩いてみた所で、結局、あの女を止める事は出来なかった。
そればかりか――あの女に、自分の言葉を遮られ、富而は救われたとさえ思ってしまったのだ。
安っぽい反発心の所以は、父親への劣等感の現れ。自分が絶対と信じている――信じたがっている基準に背き、尚も皆に称賛される男への敵愾心だった。
だから、本人に期す所が無くとも、父親と同じ様な事を言う女に負けたのは、悔しさばかりが募るのだ。
いっそ完膚なきまでに叩き潰してくれれば、少しは楽になっただろう。憎悪だけ抱いて、すぐにあの女の背を追い、あわよくば斬りかかる事も出来ただろう。勝てるとは思っていない。だが、小さな自尊心は保てた筈だ。
逡巡しながら家の戸を開ける。
火は落ち、暗い小屋の中。布団の上に獣の革を被せ、母親の横に太い背は、規則的に上下を見せていた。
「……おっがあ」
返事は無い、眠っているのだろうか。呼び掛けた理由も分からず、富而も眠ろうとして――人数が足りない事に気付いた。
「さき? さと? どごさ行った?」
妹達が居ない。
夜も遅い、雪は深い、よもや外へ出る事は有るまいと思ったが――悪寒がした。即座に富而は踵を返し、再び降雪の中に舞い戻る。
暗がりの中、姿勢を低くしてみれば、薄れては居るが足跡が二つ。かんじきを履いているとは言え、かなり体重が軽い者であるらしく――妹二人だと確信した。
「あん馬鹿ども……氷室か!」
足跡の向かっている方向は、村の中央に建っている氷室。冬の降雪を地下に溜め込み、食品を保存する為の施設である。
他に幾つも向かう先は有るだろうが、何故に氷室だと富而が断定したか? 来訪者、雪月桜から取り上げた装備を隠したのがそこだからだ。
まさか、然し、思考が単語となって連なる。あってはならないと願いつつ、きっとそうだろうと確信してしまい、はらわたを持ち上げられるような錯覚さえ起こる。
「……っちぃ、くそ、くそ、くそ!」
雪を蹴立てて辿り着いた氷室、その片隅の倉庫。果たして富而の予想通り、鍵が開けられて、中に隠していた装備が盗み出されていた。
氷室の裏手からは、お山へ向かって点々と、小さな足跡が二つ向かっている。
富而が小屋へ戻るまでの時間を考えれば、そう遠くへは行っていない――行けない筈だ。山の雪の深さでは、小柄な妹達はろくに歩けないのだから。
だから、富而は必死に走った。凶暴な獣が人を襲った山に、逃げる事さえ出来ない妹が二人――兄として心安らかには居られない。走って走って、何時しか掟も何も忘れ、夜の山に入り込んでいた。
梟の声に、自分の足音。それ以外には音も無い筈の夜。山に踏み入る程に、猿叫が強まっていく。寒さよりも骨に染み渡る恐怖が、富而をがたがたと震えさせる。
夜のお山に踏み入ってはならぬ、掟の合理性に頷かざるを得ない。ここは人の世界ではなく、獣達の為に作られた領域だ。木々の枝が揺れて擦れ合う音、それだけでも叫びだしたくなる程の恐怖に襲われる。
不安を掻き消さんと富而は叫び、重い雪の中を突き進んだ。
やがて、小さな背中が二つ見えた。
雪に膝上まで埋まり、動けなくなっている妹と、それを引き抜こうとしている姉と。肩にも頭にも雪が積もり、見るからに寒そうだった。
「ふん、ぬー! ちょっとさき、早く助けてよー!」
「よいしょ、よい、しょ……っ! 抜けないよー……」
富而は呆れつつ安堵する。雪と格闘する二人は、紛れもなく妹二人だったからだ。
か弱い両手で雪を払いのける二人の後ろに、富而は息を整えながら立ち、
「お前達、何やってんだ!」
「きゃぁあっ!?」
「ひっ!?」
さとの襟を掴んで引き揚げながら、思い切り二人を怒鳴りつけた。
「に、兄さん、どうしてここへ……!?」
「俺が聞ぎてえ! んなもんさ持ち出して、どういうつもりだ!」
吊り上げられたさとの手には、黒い鞘の脇差。兄の顔を見上げるさきは、背に黒太刀を括り付けていた。
間違い無い。富而が隠していた装備を持ち出したのはこの二人だ。
家に居ろとの言葉も無視し、夜の山に入るという禁を冒し――無事だったから良いようなものの、それは運が良かっただけだ。
また遠くから、猿叫が聞こえた。先程より近い位置から聞こえた声は、鼓膜ばかりでなく肌をも震わせる。
「帰るぞ! 山ン主様がお怒りだ、こん馬鹿んせいで!」
今の富而は、もう妹二人を連れ戻す事しか考えていない。山ン主がどうのと言ったのも、飽く迄方便に過ぎなかった。
妹二人の手を掴んで引っ張り、山を下りようとする。
「……おい、お前達」
予想より手応えが重い――踏み止まられたのだ。
「とっとと帰る言ったべや、歩け!」
さとが――勝気な妹が、涙を浮かべて首を振った。
「こんなとごさいたらなぁ、夜にお山さいたらなぁ、駄目だってのは知ってんだろ!?」
富而は苛立ち、更に強く手を引く。
ここに居れば、妹共々死んでしまうと――そう思える程、夜の山は恐ろしかった。
獣に拠る死だけではない。掟を破った事による災いとやらも――何が起こるか分からないだけに恐ろしい。そして何より、掟に背くという事自体が、富而には耐えがたい禁忌であった。
だが、さとはやはり首を振り、か弱い脚を突っ張って留まろうとする。
「馬鹿こぐな、こら!」
もう一度怒鳴りつける。びく、と体を震わせ、さとはその場にしゃがみ込んでしまった。苛立ち混じりにその腕を掴み、富而はさきと持ち上げようとして――
「……いや、嫌だ!」
さき――大人しい妹が、初めて叫ぶのを聞いた。
「嫌だ、帰らない、嫌!」
「……さき? お前、どうした」
呆気に取られた、というのが相応しいだろう。引きずろうとする手も緩む富而に、さきは激情をぶつけ続ける。
「私達だけじゃ、やだ! 皆でじゃなきゃやだ! 助けてくれるって、言ってた!」
断片的に叩きつけられる言葉に、富而は何も返せなかった。
次女のさとは、昔から気が強く、主張の激しい妹だった。何かとぐずって泣き騒ぐような事もあり、散々に手を焼かされた。
だが、さきはそんな事が無かった。何時も聞き分けが良く、大人しく、妹の後ろに隠れる様な姉で――
「これ、無くて困ってる、から……! これで、助けてくれるんだから、届けるの!」
――それが、こうして叫んでいる。誰とも知らぬ女にまで便り、ただ父親の無事を祈っている。
富而は己を嘲った。何が男か、何が次代の村長か。妹の様に素直になれず――掟を破る度胸も無く。
己の手を振り払い、さきは雪を掻き分けて行こうとする。その背に、富而は駆け寄った。
「ぐずが、いっちょまえこぐな!」
「え――えわっ!?」
さきを左肩に、さとは右脇に抱え上げる。妹達の短い脚ではここから先の雪で動けなくなる。
それならば、自分が担いで走った方が余程早い。富而は自棄になったかの様に、叫びながら走っていた。
ここに居るのは誰でも無く、自分であると知らしめていた。




