山ン主のお話(2)
月も中天を超えた、深夜。桜もそろそろ逆さ吊りの体勢に飽き、梁をよじ登って横になっていた。
視界の下には、幾層にも重ねた布団に入る母娘の姿がある。が――どうにも、その内二人ばかり、眠っていないらしいと桜は気付いていた。
呼吸の間隔が不揃いで、身動ぎの回数が多すぎる。狸寝入りを決め込む者に、よく見られる様な特徴だ。それが、母親を挟んで二つ――さきとさとの姉妹だった。
「おい」
梁の上から呼び掛ける。ぴく、と姉妹の体が震え、暫しの沈黙が流れる。それから、妹のさとが体を起こし、
「……さっさと寝なさいよ、煩いわね」
赤く腫らした目を擦りながら、桜へ向けて吐き捨てた。
「眠っておらんな、お前」
「煩い!」
叫んでから、反響した自分の声に狼狽するさと。隣で眠る母親に、起きる様子が無い事を見て取り、安堵の溜息を零した。
「眠れる筈なんて、ないじゃない……」
安堵すれば、また悲しさが込み上げて来る。さとは顔を背け、落ちる涙を隠そうとしていた。
母親を挟んで反対側では、姉のさきが鼻を啜っている。これも、寒さばかりが原因ではあるまい。
「お前達の兄はどうした。おらんぞ」
「分からないわよ、お山を見てるんじゃないの?」
母と娘と、それから来客と、小さな小屋の中には四人だけ。確かに富而が居ない。
「山を見て楽しいのか?」
「……そんな訳無いでしょ!」
桜も、分かっていて聞いている。分からないのは、楽しくもない筈の行為に、何故富而は拘泥するかだ。
何時までも戻って来ない父親を待つ為――では、無い。日が落ちてから山に入る者が居ないかと、富而は目を光らせている。
一体にして掟をそこまで遵守する必要はあるのか、桜にはまるで理解が出来ない。社会の規則というものは須く、何らかの形で破られるものだと考えるのが桜だからだ。
だが、富而はそうではないらしい。
村人達は皆、夜の山の恐ろしさを知っている。身の危険を冒してまで山に入ろうとする者は、少なくとも日が昇るまでは居ないだろう。だというのに、僅かな可能性だけでも摘み取ろうと、夜を徹して寒風の中に立つ――行動の意図が見えなかった。
「……兄さん、頑固だから」
さきが、体を起こさないままに言った。
「だから、絶対に……絶対に、朝まで、戻ってこないよ」
「おかしな話だ」
梁の上で胡坐を掻き、右瞼を指で引っ掻きながら、桜は白い溜息を吐いた。
「助けにいかぬ、それだけならば分かる。夜目が聞かぬなら自殺行為だろうからな。
だが、何故に私まで止める。余所者の一人や二人、野垂れ死のうが知った事ではあるまいに……父親と不仲とでも?」
反射的に、さともさきも、桜をきっと睨み付けた。そんな事は無いと否定する意思が、幼い顔にはっきりと表れていた。
桜には、未だにこの家族の事情が掴めていない。どう動いて良いものか、暫くは悩んでいたのだが――
「そうか、分かった」
――少女二人の涙を見て、ひとまず悩む事は止めた。
足首に結ばれたままの縄を、解くのではなく引き千切る。無造作に束縛から抜け出して、そして音も無く梁から飛び降りた。
「あれ? あ、あんた、逃げられないんじゃ……」
「飽きたのでな、散歩に出る。私の刀は何処だ?」
姉妹は顔を見合わせ、それから二人同時に、首を左右に振った。
「そうか、分からんか。腰が寂しいが……ふむ、止むを得まいな」
小屋の隅に放置されていた、丈の短い外套を羽織り、長靴にかんじきを結びつける。雪国に適応するには、いささか薄着にも思えるが――
「ちょっと、ちょっ……何やってんのよ!」
「だから、散歩だ。ついでにお前達の父親とやらも連れ戻してくる。早い方が良かろう?」
「でも、それは……」
慌てて立ち上がり、桜の袖を掴むさと。さきは言葉に詰まりながらも、やはり首を左右に振り続ける。
然し、桜は足を止めず、風除室の戸を開けて言った。
「寝てろ、風邪をひくぞ」
それっきり、掴まれた袖も引いて払って、桜は積雪の上に歩み出る。取り残されたさきとさとは、何も言えず立ち尽くす他は無かった。
夜の山の入り口、二重の柵の内側に、富而は松明を持って立っていた。村の者が闇に紛れて、山に入らないかと見張っているのである。
実際の所、そんな事をしでかそうという者は、村の中には一人もいない筈だ。狩りに出ている者達の他に、夜の山で獣と戦える者は居ないのだから。
だが――この夜ばかりは、彼の父親が招いた外憂が有る。僅かな可能性さえ摘む為、富而は寒さに耐えていた。
「馬鹿親父が……」
悪態を吐く富而の言葉に、過剰な東北の訛りは無い。
外の者と接する機会も、無いとは言えない村だ。或る程度以上の世代を除けば、江戸者が違和感を覚えない程度には標準語を話せる。
それを、敢えて方言を用いるのは――おかしな形での発露だが、伝統保守の精神だった。
人間、風景、気象環境から風習に至るまで、富而は村を強く愛している。
村長である父親に育てられる過程、青前の美しさは幾度も教えられた。
雪の下から顔を出したバッケ(ふきのとう)を集め、蝶を追い回して走る春。
村の中央を走る川に、友人一同を引き連れて、魚と水に戯れる夏。
両脇を山脈に囲まれて、起伏激しく面積の小さい水田に、黄金の稲穂が実る秋。
視界全て白一色に染められて、朝に夕に雪降ろしに追われ、人肌の恋しさを感じる冬。
楽ばかりではない、寧ろ生きる事を思うなら、年中働き続けねばならない土地だ。だが、寧ろだからこそ、富而はこの土地に骨を埋めたいと思っていた。
狭く小さな世界、変わる事などほぼ存在しない日常。その中で、小さな小さな変化を見つけて喜び、また不変に安堵する。富而は若くして、老人の様に保守的だった。
だから、些細な事であれ掟を厳守するし、古臭い口調も意識して用いる。それこそ正しい事だと思い込んでいるのだから。
『掟なんかより、人間が大事だ』
そんな生き方と対極にあるのが、彼の父親の晟雄だった。
村長という立場からか、外の者と接する機会が特に多い晟雄は、流暢な標準語を話す。寧ろ村の方言を聞き取れず、妻に笑われる事もある始末だ。
掟に対する姿勢は――おそらく、歴代の村長の中でもかなり適当だ。自分の裁量で、何もかも決めてしまう事が多い。年功序列だとか、家の格付けだとか、そんなものを全く意識もせず気儘に動く父親を、富而は苦々しく思っていた。
山に連れていく者の選抜もそうだ。富而は留守番をさせられて、富而より二つも年若い少年は、銃を担いで山を歩いている。誇らしげな少年を見るにつけ、富而は歯軋りを堪えられずにいたのだ。
村の祭りの篝火持ち――巨大な松明を荷車で引き回す役――も、常ならば村の若者から一人を選んで行わせる所、そもそも役目自体を無くしてしまった。
とかく晟雄は、伝統を重んじない人間であり、それが富而の反発心を煽り立てた。
「……さっさと戻って来いよ……!」
本当の所、富而も分かっているのだ。
篝火持ちの役目は、台車から大松明から油から、全てを自腹で用意させられる。選ばれた家の者は、負担ばかり大きく利益が無い。そして、晟雄が村の者達の家を周り、篝火持ちの為の貯蓄を行おうとしていた事も、富而はよく知っている。
年功序列も、老人より若者の力が強いのは明白であり、そして若者の方が胃袋が大きいのも道理。老人に過剰な資産を与えるより、若者が多く喰える様にするのも、これも一つの配慮なのだろう。
狩りの面子の選考も――悔しさが込み上げるが、正しいと富而は思っていた。自分の銃の腕は未だに未熟で、既に山に入っている少年は、過去に例を見ない程に上達の早い撃ち手だった。
『掟なんかより、人間が大事なんだ』
自分の思う〝正しさ〟とは、まるで方向性を異にしながら、父親のやり方は正しいと言わざるを得ない。その上で――掟の絶対を、富而はやはり捨てきれない。
思春期に於ける父親への反発も合わせて、富而は悉く、父親の意見に異論を唱える様になった。
きっと父親ならば、自分だけでも夜の山に入り、残された者を助けだそうとしただろう。
きっと父親ならば、敵わぬだろうと知りながらも、姿さえ知らぬ化け物相手に、臆せず戦おうとする筈だ。
夜の山に入るべからず、破ったならば山の怒りが収まるまで山に踏み入る事なかれ。理屈で考えるあらば、危険を冒して死ぬ者が出ぬ様にとの、先人の知恵を表した言葉なのだろう。
自分ならば、従わざるを得ない。熊一頭とさえろくに戦えないのだし――夜の山に踏み入る様な、そんな度胸は無い。
その上で、もしも自分の父親ならばどうするか、それも分かっている。
自分で助けに行く事も出来ず、村の者の力も借りられず、かと言って一刻と無駄に出来ぬ危急の時ならば――
「よう、お前も散歩か」
「……んだぁ、余所者が」
迷わず、外の者にだろうが力を借りる。
「やはりな、まだ帰らんか。当然だろう、夜の下山は命がけだ。足を取られて沢にでも落ちれば、まず助かる見込みは無いからな」
桜は雪を踏み分け、一直線に山の入り口へ向かってくる。富而はその前に立ち塞がった。
「なんねえ、帰れ!」
「お前こそ、下がれ。何をせねばならんかは分かるだろう?」
分かっている――その上で、富而は場を譲れなかった。
決して出来の良くない富而が、村の者達に認められている点が一つ――掟に忠実である事だ。
父親と対極にあり、そして父親程の力量も器量も無いと自覚している富而が、唯一己の矜持を保てる一点がそこなのだ。
「煩え、夜の山さ入るはなんねえ!」
「掟とやらか。そんな者に何故、後生大事にしがみ付く」
規則とは集団社会を円滑に運営する為の概念であり、規則そのものに絶対の価値が存在するのではない。
富而が称賛を受けているのは、飽く迄も掟を記憶している事であり、〝掟を正しく運用している事〟ではない。
十分に自覚は有った。枝葉末節に拘っていると、自分の間抜けさを理解はしていた。
「掟などより、父親の方が大事ではないのか。掟などより、人間を優先すべきではないのか?」
「……っ、かぁ――っ!!」
それでも。いけ好かない女の口から、父親が口癖の様に発する言葉を聞かされて、富而は激昂――いや、逆上した。
「煩えっ、お前には関係無い事だろっ!? 何だろうと、誰だろうと、夜のお山に踏み入る事はならねえっ!」
桜の胸倉を掴み吠えたてる富而。途端、桜の顔に多分の憐みが混じり――富而は、自分が痩せ犬に成り下がった様な錯覚さえ受けた。
「……それでは、お前は」
落胆の響きを滲ませて、桜は溜息と共に問う。
「掟とやらの為ならば、父母も妹も見捨てるというのか?」
声が詰まった。
問いを突き詰めれば、そういう事になってしまうのだ。助けに行かぬ、助けに行こうとする者を妨げるならば、つまりはそういう事なのだ。
富而の顔は一瞬で赤熱し、言い返せぬ怒りに涙まで滲む。手は震え、気付かぬ内に膝も笑っていた。
それでも、こうまで通して来たからには曲げられない。今更己の言葉を覆す事も出来ず、開いた口から〝応〟と発しようとした刹那――
「……すまん」
富而の体は宙に浮き、背中から雪の上に叩きつけられていた。
「くほ、っあ……っ!」
柔らかい雪の上に落ちたとは言えど、その速度が尋常ではなかった。衝撃で肺から空気が逃げ、酸欠で視界が明滅する。
投げられたのだと悟って、だが体の痛みは然程でも無い。おそらくは暫しの休息で、怪我一つ無く立ち上がれる様なものだ。
そんな痛みより、富而を強く強く傷つけていたのは、
「すまん、お前を無意味に追い詰めた。今の問いは無かった事にしろ」
憐れむ様な桜の目と、氷の容貌に似合わぬ優しげな声であった。
「……おい、なんでだ……おい、おい!」
道を塞ぐ障害物は無くなり、積雪の上を軽快に走って行く桜。その背を睨んで、富而は何故と繰り返し叫ぶ。
「親無しの子供など、少ない方が良かろうが」
当然の様に言い放った言葉は、寒風に切り刻まれて掠れて散った。
山の傾斜を、桜は駆け上る。
積雪量は多いが、どうにもならぬ程では無い。極寒の地で育った桜ならば、寧ろ慣れ親しんだ光景である。
身を切る寒さも、走り続けて程良く温まった体であれば、寧ろ適度に頭を覚ましてくれる。
「ったた、塞がってはいる筈だが……」
但し、傷の痛みだけは別だった。
紫の刃に臓腑を抉られ残った、〝独善的な呪い〟――他者を害する行為に対して痛みを与える、獣を躾ける鞭。
桜に取っては戯れにも劣る、富而への投げ、たった一つ。そんなものが桜の左脇腹に、火箸を押し当てる様な痛みをもたらしていた。
傷は既に塞がっている。糸も抜け、傷痕ははっきりと残ったが、日常の動作に全く支障は無い。だのにいざ他者に危害を加えようとすると、激痛が体を苛むのだ。
鏡に映し、幾度か眺めた。傷口の周辺の肌は、黒に近い紫に変色している。これで壊死していない事が、寧ろ不思議でさえある色合いだった。
叶うならば、やはり刀が欲しかった。素手でも人外じみた強さを誇る桜とは言え、本質はやはり剣士である。
「……まあ、良かろう」
然し、どうにかなるだろうと自分に言い聞かせ――半ば以上、そう信じていた。
結局の所、これまで生きてきた中で、苦戦の経験は一度か二度なのだ。
ましてや知恵を持たぬ山の獣が敵となれば、卓越した技量だけで戦えるだろう。己自身の強さへの信頼が、そう結論付けさせていた。
だが、一抹の不安を振り払えない。
傷の痛みと共に、目の前に幻影がちらつく。己より、悪友より、愛しき人外より、誰よりも迅く馳せた光彩異色の影。
身動きが取れなかった、不意打ちであった、理由を幾ら並べようが――負けは負けだ。それだけは変えられない。
生まれてこの方敗北を知らず、花を摘み取る様に勝利を掴んできた桜の手。今は徒手空拳、三寸の刃すら帯びては居ない事が――心細くてならなかった。
「はっ、愚かしいな……!」
自分に似合わぬ懸念を笑い飛ばし、意識的に歩幅を広げて加速する。一歩毎に積雪を吹き飛ばし、白塵を引き連れて走る様は、さながら一頭の奔馬であった。
暫く走り続けていると、凍りついた足跡を見つけた。
大きさ、形状、雪に刻まれた深さ、まず確実に人間の物だ。重荷を背負い、かんじきを履き――それが数種類。
ちょうど桜の視界の右手側から始まって、左手側へと進んでいるのだが――どうにも、気にかかる事があった。
一歩一歩の間隔が広すぎる。先程まで走っていた桜の歩幅と、そう遜色が無いのだ。
雪の上を走るのは、体力の消耗が激しすぎて、可能ならば避けたい行為である。つまりこの複数の足跡は、走らねばならない理由があったのだろう。
「これか……これだな」
まず、間違いないだろうと見て取った。足跡に併走し左手側――木々の少ない方へ向かう。
暫く一直線に刻まれていた足跡は、途中で細い道の方へと進路を変え、やがて坂を下り始めた。あまり急な角度になっているものだから、桜も二回ほど躓きそうになる。無理に脚力で抑え下りきると、暗がりの向こうに小さな灯りを見つけた。
閉ざされた窓から漏れる灯り、というような性質の細い橙――おそらくは火の色。誰かが小屋に籠っているのだろう、桜は息を整えながら近づいて行く。距離にして三十歩の地点で、〝それ〟に気付いた。
小屋の扉は外側からも、恐らくは内側からも、大量の木材で補強されている。それが、今にも破られそうになっていた。
太鼓の様に轟く音は、扉を〝それ〟の拳が打ち据える音。明らかに手加減していると、桜は見た瞬間に気付いた。
当然の事だ。あれだけの巨躯であるならば、小屋の壁を毟った方が早いだろう。いや――右手に持っている斧を、ぶんと振り回せば片が付くだろう。
そう、〝それ〟は馬鹿げた巨体と、斧を作って扱う知性、更には獲物を弄ぶ残虐性を併せ持つ――
「おう、喰ったら不味そうだ……成程、鬼赤毛とは良くも言った」
「キィイイイイイィィ――キァッ!!」
朱色の毛皮を持つ、大猿であった。
一声、大猿は斧を大上段に構え、新たな獲物へと馳せ寄る。やけに人間臭い目には、凶悦の表情がありありと浮かんでいる。
「近隣の山の主、か。老人苛めは気が引けるがな」
桜は両手を真っ直ぐに、拳を作らず伸ばして身構える。口元に浮かべた愉悦の笑みは、未だ続く傷の痛みに引き攣っていた。




