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山ン主のお話(1)

 日が大きく傾いてきた。太陽の恩恵が消え、寒さが増す時間帯である。小屋の中には竈の炎が、揺れ動く影を作っていた。


「おーい、暇だ」


「やがましい」


 間延びした声を発したのは、天井の梁に逆さに吊り下げられた桜。慳貪な声で返したのは、この家の長男、富而とみじである。

 何故、この様な状況になっているかと言えば、富而青年の独断だ。父親が山に入り不在の今、家長は彼が受け持っている。

 村の外部の人間への警戒――にしては、やはり過剰に映る。少々ならず石頭のきらいがある富而とは言え、この様に極端な行動に走らせたのは、やはり桜の余裕が故だろう。余所者に大きな顔をされたくないと言う意地が、度を超えて滾っているのだ。

 だが、富而にして見れば、これでも生かしているだけ寛大な処置なのだ。

 富而やその父母、そして近隣の者達が寄り添って暮らすこの集落は、名を〝青前あおのまえ〟という。

 寒冷だが土は富み、夏は日高く雨量は多く、多量の米を産出する。その内、次の秋を迎えられる程度の量だけを備蓄し、残りは殆どを売り捌いてしまう。

 主たる取引先は、やや南方にある小都市――主に仙台藩。雪が降る前に運んで現金化し、銃器弾薬や防寒具、燃料の購入費用に充てるのだ。

 長い冬を超える為の燃料、雪の重みに歪む柱や屋根の補修。金は幾ら有っても足りないが、貧しい土地とも言い難い。そんな村の中で、最も重んじられているのが、山に入る者達の決まり事であった。

 山――東西にそれぞれ山を抱く土地だが、この村の者が〝山〟とだけ言った場合、大概は西の山脈を指す。

 背の高い広葉樹に埋められ、夏は数間先の見通しを聞かない獣の楽土。然して冬は一点、木々が葉を落として視界が開け、無限の恵みを青前にもたらす狩場となる。

 この山へ入る者達は、先祖代々の掟を、その最も些細な一つに至るまで決して破るまいとする――破ったとて、罰則は何も無いのだが。

 人が人に罰を与える様な、近代的な制度ではない。山が、そして〝山ン主さんぬし〟という存在が、人に罰を与えると信じているからこそ、彼らは自らを厳しく律する。

 例えば、山に入ろうとする者は、その前後一週間、村の外部の女を見てはいけない。山ン主さんぬしが嫉妬をするという理由のこの掟だが、破った者が罰を受けた事は無い。だが、破ってしまった者は自発的に、例え餓えに苦しもうとも、山に入る事を控える。

 例えば、冬の山に女を踏み入らせてはならない。冬の山は山ン主さんぬしの庭であり、男だけが歩く事を許される。女達が山に入って良いのは、蕨が顔を出してから初雪が降るまでの間だけだ。

 他にも、蛇を見掛けたら道を譲らねばならないだの、木の実を山で喰う前には柏手を打つだの、雑多な決まりは幾つも有る。その中で今、富而の頭を最も悩ませているのが、〝外の者を村に留め、夜を越させてはならない〟という決まりだ。

 そも、この村を訪れる者など居ない。辺鄙な土地で名産も無く、村の者が外へ行く事はあれど、数十年、逆は無かった。だからこの決まり自体、知っては居ても意識はしない程の、適当な扱いだったのだ。

 だが、実際に余所者が舞い込んでみれば――しかも、相当に物騒な武器を携えていれば、富而青年も心安くは居られない。村の掟に忠実たらんとする彼は、叶うならばこの来訪者を、家にも入れず捨て置きたかった。

 そう出来ぬ理由があるから、彼は桜の存在自体に腹を立てているのであった。


「おーい、何時までこうしていればいい? そろそろこの格好にも飽きてきたのだが」


「やがましいっちゅうとるがぁ!」


 逆さ吊りにされていても、桜はやはり桜である。まるで普段と変わらぬ物言いのまま、自らの体を振り子の様に揺り動かして退屈を主張していた。


「いーじゃない、暫くこのまんまでいなさいよ。まだ一房しか作れてないんだもん」


「私は結うのは好きで無いのだがなぁ。量が量だ、洗う前に解くのが面倒で面倒で」


 三尺の黒髪は床に広がり、それをさきとさとの姉妹が、やはり三つ編みにして遊んでいる。未だに人見知りの気が強いさきとは裏腹に、さとはすっかりこの遊びに熱中してしまい、顔も上げずにせっせと手を動かしていた。


「ったぐ……さと! こんな奴とそう話すでねえ! そもなぁ、余所者に夜を越さすのは掟破りだぞ!」


「知ってるわよ! でも私が決めたんじゃないもん、お父さんだもん! あっちに文句言ってよ!」


 咎めだてする兄の言葉も、珍しい玩具を気に入ったさとには届かない。その上に、苛立ちの原因を再認識させられ、富而の不機嫌面はより一層色濃くなった。

 そう。石頭の富而が、然し桜を無理にでも叩き出せない理由は、彼の父親の意向が原因であった。

 富而の父親は青前の村長むらおさであり、腕利きの狩人である。山へ入る者達の指導者的立場となり、村の者達を牽引する、富而からすれば誇るべき父親だ。

 だが同時に、富而から見た父親は、許し難い一点も併せ持つ。村の掟を、長たる者が蔑ろにするという悪癖である。

 例を挙げれば、狩りの獲物の分配。まずは止めを刺した者、次いで狩りの指導者に、良い肉を分配するのが、この村の風習だ。だのに富而の父親は、その時々の己の差配で、肉の分配を左右する。

 雪降ろしの当番も、平等に回す訳ではない。冬の間に一度も仰せつからない者がいれば、ほぼ毎日駆り出される者――富而青年の事である――も居る。

 村の掟は、村長むらおさの元の平等。これはおかしいではないかと、富而も幾度か、若い正義感を翳した。その度に彼の父親は、『これが平等だ』と一言だけ返すのだった。

 父親であり、村長むらおさである男の言葉に、強く逆らう事も出来ないのが、掟を重んずる富而である。結果、言いたい事は多々有れど、腹の中で不満を抱えるだけで――堪忍袋の緒が切れたのが、たまたまこの日だったという事だ。


「おうい、ふくとやら。吹き零れるぞ、鍋を上げろ」


「おうとと、あんぶねえ! はあ、良く見てること」


 富而の母、ふくは、すっかり桜と親しげになってしまっている。山に入らない女衆は、外の者を遠ざける理由など無いのだ。

 鍋の中では、雪国にしては珍しい程の量の米が、獣の肉と共に煮えている。空腹をそそる暖かな湯気は、寒々とした小屋を天井から満たしていた。


「っちぃ、おっとうもどーこほっつぎ歩いてだ……!」


 家長が戻らない為、何時までも夕食が始まらない――始めて悪い道理はないが、掟だと富而自身が止めさせている。


「さあてな。狩りならば一晩くらい泊まっては来んのか?」


「おさ聞いてねえが――んあ、あ?」


 父親の愚行の象徴とも思えば、聞く事さえ煩わしい桜の声だが――富而は何かに気付いたかの様に、小屋を飛び出し空を見上げた。


「日が落ちてる……ヤバい、日が落ちてる!?」


 音の曇る東北訛りではなく、桜にも聞き取りやすい言葉で、富而は驚嘆を叫んだ。


「えっ……もうそんなに!?」


「あれ、父さんまだ、帰って来てないのに……」


 さきとさとの姉妹が、つられてやはり小屋の外へ出る。空には既に幾つもの星が、濃紺の下地に光を落としていた。


「ふく、どうしたのだ? 日が落ちるのがそんなにまずいか」


 尋常ならざる様子に、逆さにぶら下がったままの桜は、自らの髪を手に巻き取りながら尋ねる。


「夜のお山は……絶対に、居ちゃなんねえ所だ」


 答えるふくの顔色は、寒々と青白く変わっている。重苦しい空気が、小屋の中を支配した。

 果たして予感に答えるように、桜の目が鋭く変わる。


「……おい、裏手だ。腐臭がするぞ、急げ」


「腐臭――おうっ」


 小屋の中に有るとても、桜は手練れの剣客である。何者か――玄関まで回る事さえ出来ない程疲弊した、何者かの気配を感じ取っていた。

 富而は咄嗟に、雪降ろしに用いる櫂を掴んで雪を馳せる。十数歩で小屋の裏手に回り、そこに、血塗れで倒れている男を見つけた。


「茂蔵さん、なした!?」


 富而の父と共に山に入っている筈の、熟練の狩人。それが、この男である。鉈を軽々と振り回す太い腕は、骨が見える程に肉を抉られ、血を溢れさせていた。


「と……戸を閉めろ、家さ入れぇ……。降りてたら、皆、皆やられちまうぞぉ……!」


 血の泡を吹き出しながら、茂蔵は必死に言葉を紡ぐ。助け起こそうとした富而の胸は、忽ちに赤の一色に染まった。


「茂蔵さん、しっかりせえ! 茂蔵さん!」


「ありゃあ鬼じゃ、鬼赤毛じゃあ……。すまね、晟雄がどおのもんに、詫びて――」


 びく、びくと痙攣を起こし、筋骨逞しい体は、それっきり動きを止める。騒ぎを聞きつけた村の者が幾人か、駆け寄って来て悲鳴を上げた。






 村長である富而の父の家――小屋と呼ぶべき広さの代物だが――には、村の長老格が三人集まっていた。

 何れも髭は白く頭髪は薄く、背中は曲がって居て、往年の力強さは何処にも見えない。眼光の鋭さだけが、山に於いて獣と戦ってきた戦歴を示すような、そんな老人達だった。


「故はどうあれ」


 特に歳を重ねた一人が、重苦しく口を開く。


「最大の禁を、晟雄どぉの組は破った」


「仕方ねえでねか?」


 言葉が終わるやいなや、別の一人が口を挟んだ。


「仕方ねぐね。なんぼの事さあろうと、誰が死のうと、夜の山さ留まるはならね。村長むらおさならばわがってる筈だ」


 最長老の老人は、静かに首を左右に振って答える。


「〝日入り後のお山に留まってはならぬ〟〝日の出前のお山に踏み入ってはならぬ〟……おらが餓鬼の時分、破った阿呆がおったでよ。たすげさ行ったもんが十人、揃ってばらっばらで戻って来た」


「帰って来たんけ、ごん爺?」


 もう一度、最長老は首を振る。


「戻って来た――拾われて来た。運べねえがら、頭だけ拾われて来た。山さ入った阿呆は、結局最後まで見つかんねがった。

 なんも誰も、十日はお山さ入る事はなんね。冬だ、なきがらさ見つかっども綺麗に――」


「じじい! なんちゅうたが!?」


 ふくは、殴りかからんばかりの権幕で吠え、最長老の髭を掴んだ。


「おっがあ、止めろ! 長老様だぞ!」


「長老だがらなんだじゃ、たーだのじじいでねが! なきがらだと、よぐも言ったなこのぉ!」


 激しているが、然し掴みかかる以上の事は出来ない。行為の消極性が、自らもまた、最長老の言葉を認めてしまっているとの裏づけであった。

 上下逆さの視界のまま、桜は暫く会話を聞き続け、事の顛末を理解していた。

 富而、さき、さとの父、そしてふくの夫である晟雄は、皆を引き連れて狩りに出ていた。いつもならば日が沈む頃には、もうそれぞれの家に戻っているのが常だ。

 ところが、この日に限って何時までも帰らない。日が沈んでから山に留まる事は、この村の最大の禁である。

 この禁ばかりは、咎こそ無くとも、村の誰も破ろうとしない。最長老が語って聞かせた様に、破れば必ず村に害が及ぶと言い伝えられているからだ。

 事実、数百年に渡って綴られてきた、村の記録を見れば分かる。この禁を、明確な意図の有無に関わらず破った者が有れば、必ずや十日以内に、村に害が降り注いだのだ。


「今夜は火を消すな、明日からは舌さかぐして寝ろ。山ン主さんぬし様のお怒りさ静まるまで、お山ぁ上らんでやり過ごす……しか、無えべさ」


 長老格の残り一人、しわくちゃの老婆は、それだけ言って目を閉じる。動じていないのかと桜は思ったが、然し直ぐに、小さな手の震えに気付いた。

 小屋の隅では、さきとさとの姉妹が、身を寄せ合って座り込んでいる。数歩離れて富而が、激する母をどうにかなだめようとしていた。


「茂蔵とやらの傷は、どういうものだった?」


 逆さ吊りの体を振り子の様に揺らしながら、桜は会話の中に割り込んだ。余所余所しい視線が幾つか向けられたが、それは敵意などではなく、意図が読めぬとの困惑を多分に孕んでいる。


「……大ぎな噛み傷だ。腕と、腹と、脚、ぜーんぶがっつりとやられとった」


「ふむ、獣か。傷口から種類は分かるか? その大きさは? 夜行性だとは思うが、村まで降りて来た事は有るか?」


 矢継ぎ早に繰り出される質問に、顔をしかめる老人達――と、富而。桜はその雰囲気にまるで配慮せず言葉を続ける。

「聞く限り、余程凶暴な獣の様だ。降りてくれば戸板では防げんだろう? 山に入った連中も、襲われて動きが取れぬのやも知れん。

 この土地の事は知らんが、夜に人間は無力だぞ。早くせねば本当に、屍が幾つも増える事になる」


「……聞いて、どうするだ」


 桜の言は、風習など気にも留めず問題を解決する為の、いわば合理的思考の産物だった。富而はその言の意図を、分かっては居るが再度確かめる。


「私が山に入る。獣が居るなら仕留めて、お前の父親達を連れ戻す。それで通行料の代わりにしろ」


「馬鹿こぐでねえ!」


 一声、富而は吠えて、それから長老達の前で頭を下げた。


「……集まって頂き、ありがとうごぜえました。俺がお送りします」


「うむ」


 それが当然と言わんばかりに、長老達は立ち上がる。のそりと歩く彼らの後ろを、富而は松明を持って追いかけ――小屋を出る前に一度振り向き、桜を強く睨み付けた。

 二重構造の玄関口から、二度、戸を閉めた音がした。先ほどまで怒り狂っていたふくは、さっぱりとした顔をして見せ、


「さき、さと、何時まで起きてんだぁ。さっさと寝んべさ!」


 率先して布団を敷くと、何も言わずに潜り込んでしまった。


「え……うん」


「ちょっと早くな――ん、ううん、分かった」


 さきもさとも、異を唱える事は出来ない。普段とは明らかに様子の異なる母親に、負担を掛けたくないのだろう。それぞれ素直に、母親の隣に潜り込む。


「……やれ、私はこのままか」


 桜は相変わらず逆さ吊りのまま白い溜息を吐き――心を澄ませ、山の声に耳を傾ける。

 山そのものが獣であるかの様な、太いうなり声が聞こえた、そんな気がした。

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