雪原の夢のお話(4)
所変わって、日は遡り。桜が出立して二日後の、京の山中の事である。
「困った、実に困った。いや、本当に考え無しに動くのはいけないな……困った」
松風 左馬は、地面に胡坐を掻いて唸っていた。
悩みごとの元凶は、気紛れ混じりに拾った弟子――つまり、村雨の事である。
困らされる様なじゃじゃ馬では無い。寧ろ、少々の視野の狭さは有るが従順で、扱いやすい弟子である。
然しながら――従順故に、教えた事を片っ端からこなして行く。
それ自体に問題は無い。が、教える事が早々に尽きたのだ。
「……こんなのは初めてだしなぁ」
元々俗世に交わらず、隠者染みた暮らし方をする左馬である。他人に自分の技術を教える――未だかつて、そんな経験は無い。
勿論、左馬自身、体術を独学で身に付けた訳では無い。師匠と呼べる人物は何人か居て、それらから技術を譲り受けたのだが――
「あいつ、私より動けるじゃないか」
基本的な技術を教えこむ前に、左馬は村雨の〝性能〟を試した。
筋力、持久力、柔軟性、敏捷性、五感の鋭敏さに四肢末端の強度。即ち、技術を叩き込む前の段階、基礎体力である。
幾ら細く小柄だとは言え、亜人であるならば、真っ当な人間と比べられる体力では無い。左馬自身、そうは分かっていたが――少々、予見が甘かったのだ。
弟子入りを赦した初日、まずは鼻を圧し折ってやろうと、走り込みに付き合わせた。たんと食事を取らせた後、日の入りから日の出まで、山から山へ走り続けたのだ。
が、一晩走り続けて尚も、村雨はまだ動けそうな様子を見せていた。汗を流し、呼吸も荒いが、走れと言えば直ぐに走り出しただろう。
人狼は天性の狩人である。雪原で一晩だろうが得物を追い回し、一刻に駆け抜ける距離は約八里。低く、そして硬い土に覆われた日の本の山など、村雨にとっては平地と同じ様なものなのだ。
翌日は早朝から、薪を割らせて運ばせた。が――こちらも、同世代の少女達に比べてみれば、目を見張る様な重量を動かしてのける。筋肉の構造が、どうやら生まれ付いた時点から、人間とは違っているらしい。左馬が担げるのと然程変わらぬ量を運んでいた。
昼食は手短に済まさせて、次は積み上げた薪を跳び越させる。跳躍力に関して言えば、これはもう明らかに、村雨は左馬を上回っていた。
家屋の屋根まで軽く飛び上がる脚力、積み上げた薪など柵にもならない。膝を軽く曲げ、伸ばす程度で伸び超える姿を見せられれば、もう呆れて溜息を吐くしかなかった。
「これだから半獣は嫌いなんだ、全く……ああ、もう帰って来た」
修行を付けると決めて三日目の今日は、街に酒を買いに行かせた。とある店でしか置いていない銘柄で、左馬が走っても往復半刻は掛かる距離だが――
「戻りました、師匠!」
「おつかれさま、早いな化け物、合格だよ」
四半刻と少々。見送る際に飲み始めた酒が、まだ回っても来ない頃合いである。
そう、左馬の困り事とは、この弟子の体力の水準が、ものによっては自分を大きく上回っている事であった。
まずは体力、忍耐力。技術を叩き込むのは後と考えていたが、然し体力は、この時点ですでに合格点に達している。
「それじゃ、今日こそは……?」
「ああ、二言は有るけどその気分じゃない。飲んだら始める、余所行きの用意をしてで待っておいで」
かと言って、何を教えれば良いのか。酒壺を受け取った左馬は、顔に浴びる様に白酒を煽りながら、未だに悩んでいた。
時間を掛けて良いならば、例えば三年も使って良いのならば、これだけの素材、ひとかどの武芸者に仕立てる事は出来る。だが、時間が無限に有る筈も無い。
最初は、適当に体力を付けてやって、幾つか簡単な技でも教えてやれば十分かと思っていた。弟子入りの際の啖呵も、己を知らぬが故の大言壮語だろうと見くびっていた。
ところがどっこい、大言壮語を実現出来そうな体力である。これは〝適当に〟教える訳には行かないな、と思ったのだ。
「……だけどなぁ、拳打一つで五年は掛かるだろうに」
ぶつくさ言いながらも左馬は、着物の上に一着、分厚い羽織を重ねて立ち上がった。
「行こうか、一番大事な事を教えてあげる。……これで辞める奴が多いんだ、また」
「……? 分からないけど、分かりました」
足早に山を降りはじめる左馬を、村雨は普通の歩幅で追いかける。
「ところで、師匠」
「ん、なんだい?」
「どうせ降りるんなら、別に私がおつかい行かなくても良かったんじゃ」
ごつん、鈍器染みた音がした。石より硬い、左馬の拳が音源だ。
「生意気言うんじゃない、きりきり歩けい」
「私は罪人じゃないです、師匠!」
左馬とは全く違う理由で、村雨も頭を抱えるのであった。
活気の消え失せた京の街を、それでも西へ西へと進めば、ようやく幾分か喧しい所へ出る。
かの金閣より更に西、中心から外れた代わりに、粗野な雰囲気が漂う町――その一角に、奇妙な通りがあった。
店が無い。反物、骨董は言うに及ばず、端切れも紙も櫛も、軽食さえその通りには売っていない。宿も無ければ遊女屋も無く、然して民家の一つも無いのだ。
代わりに、道場が幾つも並んでいた。大小、扱う武芸の種類を問わず、道の左右にずらりと看板が並ぶ――正に壮観である。
「はりゃー……何ここ凄い、汗臭い」
「男所帯ばっかりだからね。良い遊び場だ、もう見られてる」
当然の様に、治安は悪い。ゴロツキが力欲しさに武術を学んでいる、そんな連中ばかり集まった場所だ。
いや――武術を身につけようなど思い立つ者なら、力を振るいたがるのは寧ろ自然。寧ろ人格者の方が珍しいだろう。
「じゃあ、今日は何処に殴りこもうかな。希望はあるかい?」
「待った、師匠。いきなりにも程が有ると思います」
当然の様に松風 左馬も、力を振るいたがるゴロツキ崩れに分類される。心底楽しそうな顔で、直ぐ近くの道場の門へ足を向けた。
「村雨、お前に教えておくよ。この通りにはたった一つだけ、絶対に守らなきゃいけない規則が有る」
「それは?」
「やられたらやり返す事――たのもー!」
薄っぺらな板戸に、いきなり蹴りを打ち込む左馬。こういう手合いには慣れているのか、慌てもせずに大柄な男が出て来て――左馬の顔を見れば一転、鬼の形相となった。
「貴様ッ、何をしに来たァッ!?」
「弟子の教育。今日はとりあえず、全員潰して行こうと思うから……まあ、覚悟したまえよ」
互いに知った顔なのであろう。左馬の挑発に、大柄な男は、寸鉄を握りこんで殴りかかる。右の、巨大な拳であった。
「ちょ、ししょ――」
いきなりの事に、村雨は何が何やら分かっていない。せめて状況を知りたいと、左馬を制止しようとして――まるで無意味だと、直ぐに気付かされる。
左馬の左腕が、男の右手首をかち上げる。そうしてガラ空きになった脇腹へ、硬い靴を履いた爪先が突き刺さった。
「えげ、ぇっ……!?」
大柄な男が体を折り曲げる。頭の、顔面の位置が低くなった。左馬はそこへ、跳ね上がりながら右膝を叩き込んだ。
仰向けに男は倒れ、大量の鼻血を噴きあげる。前歯が幾つか口の外に飛び出し、鼻は無残に折れ曲がっていた。
「と言う事で、こいつらは私にやり返してきます。はい、迎え討ちましょう」
おどける様に左馬は言って、拳を腰の高さに留める構えを取った。小さく細かな跳躍を繰り返す、日の本にはあまり見られぬ武芸の型であった。
治安の悪い通りでは有るが、然しこの通り、秩序立っては居る。道場ごとに互いの力の程を知り、自然と順列を付け合っている。あまりに順列が遠い相手へは、喧嘩を仕掛けぬが暗黙の了解なのだ。
然し左馬は、順列など全く気に掛けず、どこへも問答無用で上がり込む。言うなれば鼻つまみ者、この通りでは酷く嫌われた女であった。
それがいきなり門弟を殴り倒したとあっては、黙っていられぬのが道場主と、その高弟達である。どかどかと足音がして、長い廊下の向こうに、数人ばかり姿を現した。
「村雨、お前はハッキリ言ってずるい、気に入らない。だから馬鹿正直に、技なんて教えてやりたくない。
その代わりに、私や桜の様な人間になる為に、一番大事な事をこれから教えてやる」
「え……は、はいっ!」
ぴ、と反射的に背筋を伸ばしてしまった村雨。その姿は、もはや左馬の視界には入っていない。彼女が見ているのは、血走った目の男達だけだ。
「不作法者めが、土足で上がるかァッ!」
「最初の文句がそこかい? 薄情な奴ら……はいやっ!」
大声と共に最初の一人が、容赦無く槍で突き掛かってくる。心臓を狙った穂先を右に避け、喉仏へ左一本貫手。一撃で沈黙、体がゆうと傾いた。
次の男は刀を持っていた。踏み込みは早く、中々の腕前であることは見て取れたが――左馬は、槍の男が倒れ切る前に胸倉をつかみ、あろうことか盾の代わりにして飛び込んだ。
「なっ、三笠――ぎあっ!!」
上段に構えた刀は、同胞を斬る事を恐れたか、結局振り下ろされる事は無かった。代わりに左馬の右手が、刀の男の顔に触れていた――?
「……あれ、え、そんな……?」
「がああっ、あああぎああいいい、いっ、貴様、貴様ァアァアアッ!」
村雨には最初、ただ、左馬は手を触れさせただけの様に見えた。
だが、男が苦しみ過ぎている。何故か――左馬の右人差し指と薬指が、第二関節から不自然に曲がっている事に気付いた時、村雨は背筋に寒気さえ走った。
「あー、生温い。雪の日には悪くないんだけどね」
人差し指は右目に、薬指は左目に。左馬は容赦なく、刀の男の眼球を潰し、視力を奪い去っていた。
苦痛に身を丸めた男の首筋に踵を打ち込んで、指に付いた血は衣服で拭う。それからニヤリと笑って、再び拳を腰に添えて――
「さあ、次だ! 安い看板だが、酒代の足しにはなるだろう!?」
もはや男達も、我から飛びかかろうとはしていない。左馬の立つ位置は、同時に二人が襲いかかれぬ、狭い玄関口。もう少し手前に来なければ――恐ろしくて、戦えないのだ。
それを分かってか、左馬は事も無げに踏みだそうとした。行きがけの駄賃とばかり、槍の男の喉にもう一つ突きを入れ、意識の無いまま血を吐かせてからである。
「……待てこの馬鹿ぁっ!!」
この無法を、村雨が耐えられる筈は無かった。無防備に晒された左馬の後頭部へ、石を投げる様な格好で殴りかかった。
途端、村雨は、世界の天地が入れ替わるのを見た。
拳を取られ、足を払われ、頭から床に落とされる。接地の瞬間、左馬の右足が顎へ添えられるのを感じ――その足が、最後の加速を与えた。
床板に頭を突き刺され、逆さになったまま硬直し、それから棒切れの様に倒れ伏す。一連の過程を左馬は見届けもせず、残る得物へ襲いかかった。
悲鳴も怒声もこの通りでは、公権力を呼ぶ引き金とはならない。影も伸びぬ程度の時間の後、左馬は己の獣性を存分に見たし、四肢の全てを朱に染めて嗤っていた。
「――はっ!?」
村雨は、意識を取り戻すと同時に立ちあがっていた。何故、自分は意識を失っていたかを暫し考え――頭が床に叩きつけられた事を思い出した。
思い出した瞬間、村雨は顔を青ざめさせながら、鼻で息を吸い込んだ。周囲から漂う血の臭い、激情は沸点に達する。
「や、もう起きたのかい。やっぱり蘇生も早いな、ますます気に入らない」
「……なんで、あそこまでするのよ」
教えを受ける立場だ、という事は忘れた。上下関係など意に介さぬ程、巨大な怒りが村雨を突き動かしていた。
目を奪う、喉を潰す、そこまでせずとも左馬は勝てた筈だ。
今になって考えれば、この道場の――剣術道場らしいが――門弟達は、然程強くも無かった。左馬にして見れば、それこそ朝飯前に片付けてしまえる程、技量の隔たりは大きかった。
だのに左馬は、殊更に残酷な技を用いて、過剰に相手を破壊したのである。それが、村雨には気に入らなかったのだ。
返答次第では殴りかかると、言葉の外で叫ぶ様な視線。左馬は、意識を失った大男、道場主の背を椅子に座りながら答えた。
「これが、私の武術の本質だからさ」
「弱い者虐めの、こんなやりすぎなのが本質!?」
無慈悲な響きだった。村雨は大きく詰め寄って、正面から左馬を睨み据える。
「ああ、そうだとも。大体にして大成しない奴は、この本質を履き違えるからそうなるんだ」
左馬は――信じ難い事だが、常よりも真摯な表情で、諭す様な口ぶりで村雨に言った。
「武術は、勝つ為の武器だ。より迅速に、より確実に、そしてより大量に打ち倒す為の道具なんだ。
例えば、子供でも刃物を持てば大人を殺せる様に。例えば、非力な女でも魔術を身につければ、大男を捩じ伏せられる様に。
元々弱い奴が使う事で、元々強い生き物に勝てる様になる道具――そう、道具。それが武術の本質だ」
左馬は、自分の言葉に一片の疑問も持たず言い放つ。強固な持論への信望は、揺れぬ視線に現れていた。
「刀を首に振るったら、死ぬのは当たり前だろう。槍を心臓に突き刺したら、死ぬのは当たり前だろう? なのに武技を相手に用いて、相手が死なないと高を括っている方がおかしい。違うかな?」
丸く変形した拳――幾万もの受打の末、骨から皮膚まで全てが、壊す為に特化した手。左馬は、そんな凶器を村雨の顔に翳す。
「お前が欲しがってるのはこれだよ。牛若になれる笛じゃない、大楠公の景光でもない。〝目的〟は好きに選べるが、〝手段〟はぶっ壊す事しか選べない、酷く面倒な道具だ。
……いいかい、武術で強くなろうって言うのはつまり、『これから私は人殺しの道具を、日夜離さず身に付けます』って宣言するのと同じ。殺しても殺されても仕方が無い、そんな生き物に成り下がる決意なんだ。良い鉄は釘にならないって言うが、つまりお前はロクデナシの仲間入りをするんだよ。
だから、今日はまず見せてやった。この凶器を存分に使うと、どういう事が起きるかを、さ」
眼前で、錐より鋭そうな指先が蠢くのをぼうと見ながら、村雨はその言葉を受け止め、噛みしめていた。
本音を言うならば、まるで承服できぬ言葉であった。左馬の人生哲学がどうあれ、村雨は、殺さぬ為に武術を求めたのだから。
じゃれつく幼子を取り押さえるのに、殺してしまう大人は居ない。互いの力量差が大きければ、殺さず、負傷すらさせず、相手を無力化する事は可能だ。村雨が求めているのは、この生ぬるい流儀を貫ける抑止力である。
が――同時に、心の奥深い部分では、左馬の意見に賛同しても居た。
強く無ければ貫けない目的とは――即ち、暴力無しに達成できぬものだ。
平和的解決は理想だが、誰もが聞く耳を持つ訳ではない。そうせねばならぬ時は、躊躇わず力を振るわねばならない。目的がどれ程に正しかろうが、力無くては達成は覚束無いのだから。
村雨は、自分が為そうとしている事が、間違っているとは思っていない。だが、今の自分の力で、それを達成できるとも思っていない。
「――――……っ!」
だから、何も言えなかった。
まだ痛む頭を抱えながら、床板を思い切り殴りつけた。少し板は軋んだが、罅を入れる事も侭成らない。
「お前はまだ、その程度だ。三月耐えてごらん、人を殴り殺せる様にしてやる。その後で――殺すか殺さないかは、好きにすれば良いとも。
さあ、分かったら立て、昼食にしよう。強くなりたければ唯々諾々、暫く下積みを続けることだね」
「……分かりました、師匠」
弱ければ何も貫けない。自分の流儀も意地も、力を得るまでは眠らせておこうと決めて――村雨は奥歯を強く噛みしめ、血臭漂う道場を後にした。




