異能のお話(4)
達磨屋二階、廊下の最も奥の部屋が、桜の宿泊している部屋である。村雨は『錆釘』の宿舎からそこへ通っていく形になっていた。部屋は広いのだから泊まっていけばいいと桜は言うが、村雨にしてみれば、遊女との情交を襖の向こうに夜通し聞くなど、寝不足を引き起こす拷問でしかない。全く検討の余地も無く遠慮したのだった。
そんな村雨だが、今はその部屋で、布団の上に仰向けに寝かされている。他に部屋にいるのは桜だけだ。太陽が一度てっぺんまで登り、折り返しを始めたころ合いである。
「……本当に、効果はあるんでしょうね?」
「かなりな。少々冷えるが、これ一つで打ち身、腫れ、青痣はたちどころに良くなる」
村雨の枕元にでんと置いてあるのは、白い軟膏の入った壺。怪しげな薬にありがちな悪臭は無いが、やはり効能書きも無ければ疑いの目は向けたくなる。さりとて、自信に満ちた桜の態度を見ると、どうにも強く出られなくなってしまうのだ。
「というわけだからさっさと脱げ。服の上から塗りたくる訳にもいかんだろう」
「……袖捲りとかでいいじゃない。どうして脱がしたがるのよ」
「私の趣味だ」
「顔蹴るぞ顔。自分でやるからいいってば、もう……」
が、相手が同性とは言え、肌を曝して身を任せろと言われると、頷き難いのが本心である。打撲の箇所は体の前面ばかり、他人に任せる様な場所でもない。直ぐに逃げ出さないのも体が痛むからで(ついでに言えば、どうせ捕まるのが見えているからで)、そうでなければ今すぐにでも、窓から飛び降りて通りを掛け抜けているところだ。
結局のところ、こんなやり取りを何度か繰り返した末に、腕と脚だけ塗らせるという事で、不毛な争いは決着を見る。江戸ではあまり流行らない西洋風の衣服は、下着の種類が豊富であり、こういう時に手足を曝すには都合がよかった。
「はぁ……なんでこうなるかなー、もう」
「それは私の台詞だ。打たれ過ぎだぞお前は……これが刃物だったらどうするつもりだ」
「好きで打たれてる訳じゃないですよーだ。あー、ぬるぬるするー……何これ、本当に材料なんなのこれ」
「私も知らん。薬屋に聞いても答えてくれんしな」
腕に塗りたくられる軟膏は、加減を知らない桜が両手いっぱいに塗りつけているのも大きいだろうが、やけに滑りの良い薬だった。後で紙か何かでふき取りたいところである。材料が不明だと聞かされれば、拭いとりたい欲求は尚更に高まった。
「……桜さぁ、なんであそこに居たの?」
ただじっとして、腕に薬が塗られていくのを見ているだけ。退屈で仕方がない村雨は、兎角何でもいいから、会話の糸口を探す。
「あの時か。源悟に任せた荷物が届かなかったのでな、散歩がてら人伝に探していたら、引っ手繰りを追いまわしているのを見たと聞いた。よもや、ああも痛めつけられているとは思わなかったのだぞ?」
「ふぅん……じゃあ、知ってたら?」
「近くの家の壁をぶち抜いてでも走ったわ。急ぎの様なら最短距離を行くのが私のやり方だ」
「心の底から、知らないでいてくれて良かったと思いました。頭下げるのは自分でやってね」
もう少し早く来てくれていれば、と思わないでもなかった。おかげで体はこの通り、あちこち打ち身青痣だらけで、正直寝返りを打つだけでも痛む。
だが、もしもの話とは言え、知っていれば急いでいたと言われると、不満を言う気も起きなくなる。雪月桜という人間は、きっと自分の言った事はやってのける性質だろう。本当に民家の壁をぶち抜いてやってきた可能性が高い。桜が誰かに謝罪する姿など想像もつかないから、その場合に詫びて回るのはきっと自分になるのだろうとも、村雨は思ったのだが。
「はぁ、源悟も苦労させられたんだろうね……そういえば、いつからの付き合いなの?」
「源悟か。私が十六の頃からだから、二年だな」
「へえ、二年……え?」
「ん?」
付き合って二日目でこのありさまの自分。二年も付き合っている源悟は大したものだと感心した所で、何か耳を疑うような事を聞いてしまった。その言葉が本当なら、桜の年齢は十八歳という事になる。これまで受けていた印象と食い違いすぎる、有り得ない。村雨は敢えて、年齢の問題を追及する事を止めた。
「え、ええと……うん、何でもない……源悟のあの、変身? あれ、なんなのさ。私とかにも化けられるの?」
「何なのと言われても困るが……あれのおかげで、同心の傘原にも重宝されている様だな。誰にでも化けられるというわけではなく、私やお前になるのは無理だが……私が知る限りで二十か三十以上は、化ける姿を持っていた筈だ」
「そんなに……そこまで自分がいくつもあると、どれがどれだか分からなくならないの?」
「なるらしいな。源悟がいうには、使わないで忘れている姿もあるだろう、だそうな。あんまり姿を増やしすぎたのが失敗という訳だな」
「増やせるんだ、あれ。そのうち、全部見せてもらおうかな。一つくらい、私の国の人間も居たりして」
「どうだろうなあ、あいつのは日の本の人間ばかりだから……と、腕はこんなものだろう、次だ」
何時の間にやら村雨の両腕は、白い膜に覆われたようになってしまっている。薬でさえなければ、布団に擦りつけてでも落としたいところだ。大量に塗れば効果もあるだろうと考える辺り、桜の思考は年寄りのそれに近いのかも、と思ってしまう村雨である。
「出立な、数日ばかり遅らせる事にしたぞ」
「え、なんで?」
足首から大腿の付け根まで軟膏を刷り込みながら、脈絡もなく、桜はぽつりと口にした。あと二日か三日もすれば江戸を立つと思って用意をしていた為、村雨は肩透かしを食らったような感覚だった。
「これで歩かせる訳にもいくまいが。まさか、私におぶって行けというのか?」
「いや、言わないけどさ……明日か明後日には治ってると思うよ?」
骨折した訳ではない、打ち身である。老齢ならば兎も角、若く回復力のある村雨なら、当初の予定の日までには十分傷は治る筈だ。村雨自身はそう見ていたし、桜もまた、同じように考えてはいた。
「いいや、大事を取る。折れてはいなくとも、骨に罅でも入っていたらどうする。はらわたに傷が有ったら? 二日三日での判断は早計だ、馬鹿」
然し、素人である自分の見立てを信じる程、桜は楽天的でもなかった。これが自分の怪我なら、明日にでも立つと言い出したのかも知れない。怪我をしたのが村雨で、外から見て判別できないものだからこそ、桜は万が一を思ったのだろう。
「んー……分かった」
「そうそう。それでいい……脚は少し痣が少ないな、こんなものだろう」
上半身に比べ、下半身の打ち身は少ない。それでも、特に痛みの大きかった右足は念入りに軟膏を塗り、桜は手当を済ませる。村雨からしてみれば、暫く動き回る事も出来ない程べっとりと軟膏を塗られただけで、これを手当てと呼ぶのも癪だったが――
「桜って、変な方向にだけ優しいんだね」
「今更か。私は全ての少女の味方なのだ」
耳をパタパタと指で弄ぶ桜は鬱陶しいが、今回の様な形の好意なら受け取るのもやぶさかではない。もう少し長くなった江戸の町で過ごす時間を、どう使おうかと、村雨は今から計画を立てていた。何もせず、だらだらと寝て話すだけの午後。みいんと一つ、蝉の声。