雪原の夢のお話(1)
「太平、太平、天下太平。あっちの騒ぎも対岸の火事、ってかねえ。でがしょう、傘原様?」
「いや、全くだ源悟。ただね、出来るなら向こうの火も消してしまいたい。どうしたものかねぇ」
十月三十日、江戸の町。京の町は人死で大騒ぎだが、こちらは未だに緩やかな日々を送っている。今日も大八車がガラガラと、西へ東へ駆けまわっているのだ。
だが――奉行所の縁側で茶を啜っているこの二人は、心の平穏とは無縁であった。
現状、幕府は政府の下部機関となっている。故に政府の意向は、幕府も汲まねばならぬのだ。然し――そんな事を実行できる筈も無い。
深く考えずとも当然の事だ。仏教から真っ当な基督教から、その他雑多な宗教まで片っ端から皆殺し。それを真面目に実行したらどうなるか――江戸の町から人はいなくなるだろう。
京の治安維持部隊とて、馬鹿正直に仏教徒を殺し尽くしている訳では無い。信仰心の大小を問わねば、日の本の人間の九割以上は、仏教と何らかの縁が有る。だから手抜きは許されるが――全く一人も殺さない、という事も難しい。
「傘原様、どうにかならねぇんですかい? あっしら盗人なら平気で斬りますが、それ以外はちょいと、ちょいと」
「どうにかしたいねぇ。私も無体な事はしたくないんだが……どうもお奉行様が真面目で」
「真面目な方なら、こんな馬鹿げた命令は出しゃせんでしょうに!」
源悟は腹立ち混じりに、手にした巻紙を庭に叩きつけた。奉行直筆の命令書――特に信心深い何人かを選んでの殺害命令である。
罪状というならば、政府への反逆罪という事で、国家が認めた大罪を被せられる。だが――その正当性がどこに有るのかと、源悟は腹を立てているのだ。
源悟自身、善良な人間では無い――無かった。数十年の人生で、数百の人間を殺した立派な悪党だ。
生まれついて他者に化ける力を持ち、他者の記憶を奪い取ることが出来た源悟。その代償故か、彼は自分だけの人格を確立する事が出来なかった。殺人犯や狂人や、有象無象の記憶を取りこんで、殺人こそが愉悦であると信じる異常性を帯びていた。
それを――十年以上を掛けて矯正したのが傘原同心であった。牢に閉じ込め何年も何年も、数百の人格の内の一つとだけ対話をし、その一つだけに〝源悟〟という名前を冠する事で、他の人格を薄れさせ――やがて、主人格へ全ての記憶を統合するに至った。
元が悪党であるだけに、悪党のやり口は良く知っている源悟だ。今回の異教徒皆殺しの意味も良く良く分かる――半分ほどは娯楽目的だろう。本当に効率良く目的を為すならば、殺す相手はもっと選んで良い筈だ。
「お奉行様は結婚が遅かったからねぇ、奥様は若いし娘さんも幼い。今から閑職に落とされるのは嫌だろう、良く分かるんだよ」
「だからと言って傘原様が、貧乏くじ引いて良い道理は有りゃんすめえ」
上司の面目を保つ為、幾らか仕事はしなければならない――然し真面目に仕事に取り組めば、罪も無い町人を惨殺する事になる。どちらも選び難いが、選ばねばならぬ――傘原はそろそろ、自分が動かねばと思っていた頃合いだった。
丁度、その時の事である。奉行所の表が、俄かに騒がしくなる。岡っ引きの一人が、庭を大回りに走って来た。
「おや、仁八。どうしたね、事件かい?」
「事件じゃねえですが――源悟、姐さんがお戻りだ」
「ほう? 随分と早いお帰りだ、ちょいと失敬」
戻るのは年が明けてからになるだろうかと、のんびりとした予想を立てていただけに、突然の訪問に驚きを隠せない。兎角挨拶だけでもと表に走った源悟は――そこに居た桜の姿を見て、顎が外れたかの様に口を開けた。
「よう、源悟。久しいな」
「あ、あ、姐さん、どうしたんですか、そりゃあ」
桜の草履は、ズタズタに引き千切れていた。濡れ羽の黒髪は風に乱され、雨粒も合わさって頬に張り付き――だが、そんなものは些細な事だ。
荒事になれた源悟は、桜の小袖の左脇腹に血が滲んでいるのを容易に見つけていた。決して大量では無いが――うっかり怪我をしたとか、その程度の負傷で無いのは確かだった。
「箱根を越えた辺りでな、糸が持たなくなったらしい。済まんが医者を呼んでくれんか? 後は飯だ、四日分」
「四日――まさか、京から江戸まで四日で!?」
「うむ。……流石に眠い、勝手に上がるぞ」
残骸となった草鞋を脱ぎ棄て、畳の部屋に上がり――二歩だけ歩いて倒れ、そのまま眠り始める。
代わらぬ身勝手さに呆れつつ、連れの少女が居ない事に戸惑い、
「たっはぁ、分かんねえやこのお人は」
結局は頭を抱えて、どっかと座る源悟であった。
桜が目を覚ますと、もう夜も更けていた。
要求していた食事は、拳より大きく作られた握り飯十個で用意されている。大雑把で良い事だと被りつくと、やや強めの塩気が、流した汗を程良く埋めた。
脇腹の傷は、寝ている間に医者が縫い合わせたらしい。少なくとも血は止まっているし、痛みもかなり引いている。然して傷口を見てみれば、皮膚の変色は一片も収まっていなかった。
平らげて、直ぐに立つ。立ち上がり、自分の足で廊下を歩きまわる。勝手知ったる奉行所――江戸に滞在していた頃は、度々訪れていたのだ。
傘原が雑務に使っている部屋は、この時間まで魚油の火が灯されている。野暮ったい袢纏を纏った傘原同心は、書類の前で腕を組んで唸っていた。
「ううーむむむむ……そろそろ握りつぶすのが難しいぞー……いや、はや」
「難儀している様だな」
無遠慮に部屋に上がり込み、畳の上に胡坐を掻く。傘原は顔を上げ、人の良さが滲み出した様な表情を作った。
「本当にねぇ、役人はこれだから困る。上の命令がもう少し人間思いなら、こうも悩まずに済むんでしょうが」
傘原は立ち上がって、襖を閉め、障子の隙間から外の様子を窺う。近くに居るのは源悟一人、そう見て取って、また座った。
「本日は、何が御入用で?」
「北へ向かう。装備が欲しい」
傍若無人に生きる桜だが、やはり幾人かは、良好な関係を築いた者も居る。
例えば源悟の様に、舎弟紛いの扱いではあるが、互いに助けたり助けられたりの関係。燦丸の様に、利益での繋がりという側面は大きいが、それなりに親しく付き合っている関係。
そしてまた一つの形が、傘原同心との――言うなれば、純粋な取引相手としての関係だった。
「……今年の初雪は早い、もう降ってると聞きますが。生半の防寒着では持ちませんよ?」
「大陸でも通用する程度の物が良い。関東では無い、奥州まで足を伸ばすのだ」
奥州、と傘原は復唱し、天井を仰いで嘆息した。
「物自体は直ぐに揃いますが、丈を合わせるのに暫し掛かる。今から始めさせましょう、明日の朝にお渡しします。
その代わり、お代は今宵の内に頂きたい。出来ますかね?」
「物による。誰を、斬れば良いのだ?」
桜は、傘原に無心をする。傘原は桜に、真っ当な手段では片付かない厄介事を押しつける。それ以上は殆ど踏み込まず、他人の前でだけ、親しい知りあいの様な振りをする。それが、この二人の間柄である。
傘原同心は、善良さと細やかな気遣いで、町人からの支持も厚い。裏表の無い人と言われているが――とんでもない、こうも分厚い裏が有る。
「少し北に、お奉行様のお屋敷が有る。ご存じですね? あそこの奥方とご息女を、少しの間借り受けて欲しいのですよ。
寝所にはこの手紙を置いてきて下されば、後は私がどうにかします。……つまり、人攫いの真似事をしてください」
「ああ、あの茶店小町と乳飲み子だな。何処へ隠す?」
「目隠しをして、東に一町のボロ小屋へ。源悟を使って、屋敷の者にはそれぞれ、別の用事を与えてあります。貴女なら手間取ることも無いでしょう、桜さん」
傘原が仕上げた書面は、器用にも常の筆跡を、完全に誤魔化して仕上げられていた。几帳面に畳み、桜に渡して、本人はさっさと布団を敷き始める。
「源悟、お手伝いなさい」
「心得まして。ささ、姐さん、行きやしょう」
うむ、と応じて、桜は奉行所の庭に出る。そこには源悟が、顔も髪も覆ってしまう様な、幅広の黒い布を持っていた。
「……して姐さん、あのお嬢さんは一体?」
「話せば短い事ながら、話してやるには勿体無い」
「ちゃちゃ、酷え酷え。全く変わりやせんねぇ」
提灯などは持たず、夜の町を歩き始める二人。辻斬りも好んで寄らぬ異装である。
奉行の妻子が誘拐されたと、奉行所に知れ渡ったのは夜明けごろ。昼にはもう、妻子は無傷で奉行に返されたが――それ以来、この町奉行は、政府からの督促を無視するようになった。
邪教と誹謗して良民を虐殺するならば、次は必ず、妻子は骸となるべし。そんな脅し文句を読まされて、刃向う気骨は無かったのである。
翌朝には、既に北へ向かう装備は整えられていた。
年老いた猪の堅皮を用いた長靴、毛皮を三重に重ねて水も通さぬ脚絆、藁編みのかんじき。真綿をたんと詰めた洋風の外套を、腰丈の短い物を内側、膝丈の長い物をその上に。
成程これならば、例え野兎が凍りつく様な凍土であろうが、凍える事はあるまい。江戸の町では使い道が無い程の、防寒の一式であった。
「……こんなもの、どこから出てきたのだ?」
「私は物持ちが良いんでしてねぇ。まま、存分にお使いください、お代は確かに頂きました」
朝の冷気に襟巻で対抗している傘原同心は、それでもやはり寒いのか手を懐に、白い息を吐き出していた。
縄で括られ背負い籠に纏められた装備を、桜はひょいと右手に担ぐ。利き手を塞ぐのは本来好む事ではないが、やはり傷口に近い左腕は、思う様に動かせない。
「姐さんはまったくせわしねぇなぁ。来たと思えばもう行っちまう、余韻もくそも有ったもんじゃねえ」
「長居をする用件も無くてな。それに、そろそろ私の首も、相応の値打ちが付く頃だろう」
「はは、ずばりその通りで。奉行の野郎、騙し討ちして来いだのと尻を突っつきやがる」
二日や三日、体を休める為に滞在しても良いのだろうが――狭霧和敬も抜け目がない。既に江戸の幕府には、桜の首に賞金を掛けろと手を回していた。慎ましく生きるのならば、十数年は生きられる程の高額である。
尤も、その金に目が眩んで桜を突き出そうとする者はいなかった。仁徳が故では無く、自分の命を惜しんだが為である。加えて桜を物理的に拘束する手段など、日の本に幾つあるかという大問題も有った。
兎も角も、二度目の江戸出立。前回とは違って一人旅、向かう先も西ではなく東。急がねば雪が積もると、交わす言葉も少なに歩き始めた桜の耳に――しゃらん、と鈴の音が。続けて笛太鼓、賑やかな祭囃子が聞こえた。
長屋の戸が開き、物見高い野次馬が飛び出してくる。幾人かは屋根に上り、好奇の目をらんと輝かす。何事かと桜が振り向けば、朱と金と黒の絢爛の、大行列がそこに有った。
「いよっ、達磨屋ァ!」
髭の男が囃したてれば、若い旗持ちが応と答える。岡場所、品川、その中でも大店。達磨屋の花魁道中が、はるばると奉行所の傍まで足を伸ばして来たのだ。
早朝からの遠歩き、眠そうな顔の者もちらほら見えるが、何れも粋と酔狂に生きる連中。己の店の栄華を江戸中に誇らんと、あらん限りの騒がしさで、手に手に楽器を鳴らしていた。
「お久しゅう、主様……わっちにお顔も見せず、何処へ?」
その先頭を歩くのは、達磨屋の遊女、高松であった。
つんと棘の有る口調。だがその顔は、腹を立てているというよりも、子供の様に拗ねた表情で――艶やかな打掛姿に釣り合わず、桜は思わず、ぷっと吹き出す様に笑った。
「何だ、わざわざ見送りに来たのか?」
「わっちから来なければ、会わぬままになさいんしょう?」
心の内を言い当てられた様で、苦笑いを浮かべながら、桜は隣に立つ源悟を睨む。
「お前の仕業か?」
「へっへ。姐さんが寝てる間にちょいと走って……あいてっ!」
ごん、と小気味よい殴打音。たんこぶの出来た頭を抱えて、源悟は唸りながらも、してやったりという感情を顔に現していた。
江戸に滞在していた二年。その大半の夜を、桜は達磨屋の二階で過ごした。他の宿へ足を運んだ事も数度では無いが、必ず数日で飽きが来て、また達磨屋へ戻っていた。
店員達とは顔馴染みだ。客と店の間柄というより、隣人同士の様に気心の知れた関係である。客引きの若者など、今朝の別れに鼻をずずと啜りあげ、大袈裟に泣いて他の者に冷やかされていた。
何故、こうも足繁く通ったか――いや、留まったか。それは一重に、高松の存在が故だった。
色濃く血の香りが漂う女。倫理も道徳も投げ捨てて、欲の侭に生きてきた女。その生き様が魅力的だったから、桜は高松を幾度も抱いた。
「……もう、お前を抱いてやれん」
だから桜は、高松に会わぬままで、再び江戸を離れようとしていた。
人に生まれて獣に堕ちて、獣の侭で生きようとする女より――獣に生まれて、人と生きようと足掻く少女に、桜は強く魅せられた。己の心変わりを自覚したが故に、顔を合わせるのが気まずかったのだ。
「存じ上げてございんす。憎しや、わっちと飲み交わすより、幾段も色めいて美しき御髪……ほほ」
高松は口に左手を、桜の髪に右手を添えて、飽く迄慎ましやかに笑う。
惚れた相手が男か女か、その程度の違い、如何程の事も無い。ただ高松は、自分の傍らにある桜よりも、今の桜の方が美しいと感じたのだ。
だから――諦めた、諦めるしかなかった。せめて好いた女の、無事を願って見送りたかった。
店の者達まで付いて来たのは、これは完全に余興の延長か。些細な事でも賑やかしたがる、江戸の町人の悪い癖だ。賑やかで無ければ泣き崩れてしまったかもと、高松は店の者に感謝していた。
「……奥州の雪は重いと聞きんす。どうか、どうか、ご自愛を」
「ああ、行ってくる」
長く留まれば後ろ髪を引かれ、僅かにでも心が揺らぎそうになる。桜は新しい草鞋で、さあと土煙を上げて歩き始めた。
「主様!」
数歩ばかり行って、呼び止められ、立ち止まる。
高松は、桜に背を向けていた。打掛を剥ぐように脱ぎ棄てて、襦袢から腕を抜き、腰まで引き降ろす。野次馬達のどよめきが、倍以上も大きくなった。
高松の背には、多色刷りの鮮やかな刺青が施されていた。血を吸ったかの如く赤い桜の花を、丸い月が見降ろす夜景色。文字一つ無いが、それは起請彫りであった。
「お戻りの暁には、これに雪原を書き加え、わっちの誠の仕上げを致しんす。その折りには是非とも」
「ああ、是非とも見届けよう。楽しみが一つ増えた」
見送る者も無く、たった一人連れて江戸を出た朝と――嫉妬やら羨望やらの視線を、存分に背負って旅立つ今朝。
今の方が余程心地好いと、桜は笑いも止まらず東へ向かうのであった。




