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月の下のお話(4)

 世話になった者に挨拶でもと、珍しく律儀な考えを起こした桜。襖を開けると、右手側廊下の壁に寄りかかり、狭霧紅野が立っていた。


「おはよーさん。すっきりした顔で何よりだ」


「そういうお前は寝不足の様だな。なんだ、夜っぴて覗き見か?」


 あくびを噛み殺しながらの挨拶に、桜は卑賤な冗談で答える。けっ、と払い飛ばす様な笑い声を上げて、紅野は壁から離れて歩いてきた。


「あんたの連れの見張りだよ、馬鹿。お陰で二日も寝不足だ、もっと声を抑えさせろ」


「村雨には言うなよ。羞恥で死んでしまうぞ、あいつ」


 品の無さでは紅野も十分に張り合える性質の様で、思わぬ反撃に、桜はかかと笑い返した。

 ひとしきり二人で笑った後、先に笑顔を崩したのは紅野。腰に吊り下げていた煙管を咥え、指先に火を灯し、煙を噴かす。


「で、行くのか?」


「ああ。遅くなればなるだけ、奥州の冬は辛くなると聞く。雪は慣れているが、この国で装備が手に入るかも分からんしな」


「治ったら戻って来いよ? 数日分の飯代、確り働いて返してもらうぞ」


 応、と桜は答え、廊下を軋ませもせずに歩く。草履を履き、外へ出て、雲一つ無い空を見上げた。


「……あんたが死んだら、どうしたらいい? どこに知らせをやれば良いんだ?」


「考えんで良い。私は死なんさ、そういう約束だ」


 己の死など、考えの内に無い。負けを知って尚も、己の武への信頼に、僅か一片の曇りも無い。

 だから桜は、保証など無い約束を誇らしげに語って胸を叩いた。


「ではな。戻ったら幾らか手伝ってやる」


「最後まで手伝え、こっちは人手不足なんだから」


 背に投げつけられる文句を軽く払って、桜は比叡の山を東へ降りて行く。まずは江戸へ戻り、そこで改めて旅支度を行い奥州へ。桜には珍しく、考えの有る旅である。

 己ばかりの身では無い。もはや己の身も命も、己の好きには捨てられない。

 これまでの生に於いて、殊更に己を守ろうと考える必要は無かった。自分より強い者がいなかったのだから。

 ならば、初めて負けを知り、心から愛する者を見つけて――桜は漸く、自愛という概念を知ったのかも知れなかった。

 手負い、一人旅。然し〝帰らぬ〟などは有り得ない。保証は無いが確信を抱いて、桜は東海道を逆向きに行くのであった。






 それから遅れること三刻後、日が高くなってから、村雨は布団から這い出した。

 借り物の小袖は布団の外に脱ぎ棄てられ、今は一糸纏わぬ姿。部屋の片隅には、普段身に付けていた、西洋風の衣服が畳まれている。

 どちらに袖を通そうかと迷い、何気なく小袖に鼻を近づけてみる。愛しい人の匂いが強く残っていて――思わず赤面し、洋服を着る事に決めた。

 目の下の隈も消え、体は軽い。走ろうと思えば、一晩でも走り続けられそうな程だ。玄関先へ向かい、自分の靴を探した。


「お、こっちも起きたか。飯はどうする?」


「おはよー……今朝は良いや、降りてから食べる」


 背後から聞こえた声の主は、直ぐに匂いで分かった。煙管の煙の臭い――紅野で間違い無い。

 靴を履き、紐をやや硬く結び、爪先と踵の具合を調節する。全力で走っても脱げない様に、用心に用心を重ねる形だ。

 適切な具合に調整出来たのか、とんとんと小さく飛び跳ねた村雨は、満足気な顔で頷く。


「色々ありがとうね、桜の分も。あれって絶対、お礼とか言わないで出て行ったでしょ」


「……そう言えばそうだな。手伝ってくれるつもりは有るらしいけど」


「あはは、やっぱり。ごめんねー、どこまでも自己中心的だから、あの人」


 長く連れ添った夫婦の様な事を言う村雨に、紅野は砂を吐く様な顔をする。

 その表情さえ気にならぬのか、村雨は今朝の晴天より晴れやかに笑った。


「で、どこへ行く? あいつに付いて行かないのか?」


「うん。それより、やらなきゃ無い事を見つけたから。だから……私も、此処を離れるね」


「そうかい」


 深く語り合った事も無い。些か遠く感じる距離に立って、二人は話している。

 然し、言葉の淡白さ程に、声の響きに余所余所しさが無いのは、それぞれの気性が為だろう。

 何くれと無く世話を焼きたがり、だが人見知りでもするのか、あまり深くまでは踏み込まない紅野。

 人当たりは良いのだが、踏み込んで欲しく無いという様子が見えれば、一先ずは立ち止まる村雨。

 適度に距離感が噛み合って、互いにそこそこ、居心地の良い会話だった。


「じゃ、行って来るね。京のどこかには居るから、気が向いたら会いに――いや、無理かな」


「無理だ、無理。あと数日でグルリ包囲されて兵糧攻めだよ。ほらほら、さっさと抜け出しちまえ」


 遠巻きに山を包囲している軍勢は、日に日に僅かに陣を進めている。

 今ならば、東側から抜け出して大回りをすれば、洛中へ戻る事も叶うだろう。然し、紅野の見立てでは後四日で、この山は鼠一匹逃げられぬ程、厳重な包囲網の中に置かれる。

 足音軽く走り去る村雨の背を、まだ眠たげな目で見送って、


「……結局届かなかったなぁ、追加の煙草」


 暫くは仕事が無くなるであろう、己の煙管に同情した。






 洛中は、昼から物憂げな気配に閉ざされていた。

 ほんの十日程度の間に、京の人口は激減していた。死んだ者、逃げだした者、比叡の山に籠った者――戸を閉ざしたままの建物が多い。

 それでも、人は生活を続ける。大きく移動できる財力が無かったり、土地に愛着を持っていたりと、簡単に離れられない理由がある者達は、今日も近代化しつつある街を生きている。


「ううん、食事に困る……作るのは面倒なんだけどねえ」


 そんな中、両手を真っ赤に濡らして、恐ろしく物騒な女が――松風 左馬が歩いていた。

 退屈しのぎに何処ぞの剣術道場に殴り込み、素手で全員を叩きのめし、その帰り道。空腹を覚えたが、馴染みの飯屋が山へ逃げてしまった為、どうしようかと悩んでいる最中である。

 手に付いた血も、そこで手拭いでも借りれば良いかと思っていたのか、そろそろ乾いて肌にこびり付き始めた頃合い。慣れた感触だが何となく不快で、適当に近くの壁に擦りつけた。


「……お」


 と――幾分か離れた場所に気配を感じる。大方先程の道場の関係者か、或いは過去に殴り倒した怨みでも晴らしに来たか。そう思い、誘いを掛ける為に、人通りの少ない細道へ入った。


「出ておいで、遊ぼう。私は空腹だ、好機だと思うよ?」


 振り向かないまま呼び掛けて、そっと拳を握り、修羅の笑みを浮かべる。確かに空腹だが、食欲よりも満たすべき闘争欲求を抱えた女だ。至上の楽しみに巡り合えたと気を高ぶらせたが――何か、おかしいと気付く。

 足音の質は硬質。恐らくは西洋か中華風に、靴を履いたものだろう。然し音が軽い――武芸者のものとは思えない。

 両足が石畳に擦れる音の間隔から、歩幅の小ささも分かる。走って来たのか、幾分か荒い呼吸音の出所は、左馬の口より更に低い位置だ。

 子供に付け狙われる覚えは無い。訝しげに振り向くと、其処には灰色の髪の少女が、ただならぬ表情で立っていた。


「……なんだ、桜の連れじゃないか」


 良く知った友人が、戯れに連れ歩いていた少女――村雨。左馬からすれば、あまり好ましい存在ではなかった。


「どうしたんだい、迷子かな? 吠えれば見つけてもらえるだろう、あいつはあれで耳も目も良い。そうじゃないなら――」


 体重を踵から爪先へ移し、拳に力を込め――肩と肘は緩めて。四間の間合いなど、左馬の脚力を以てすれば、一足で踏破出来る距離。言外に殺傷の意図を漂わせ、愉快さとは無縁の顔を作った。

 じ、と焼けた様な音がした。左馬の靴底が、強過ぎる摩擦に熱を発し、落ちていた枯れ草を焦がしたのだ。

 村雨より四寸高い背を低く縮め、矢の様に馳せ、拳を突き出す。幾度も肉が抉れて作られただろう丸い拳は、村雨の鼻に触れる寸前で止まっていた。


「帰りたまえ、私は気が短い。お前の連れよりも、もしかしたらね」


 良く知らぬ相手を、こうも嫌えるものか――それが、出来るのだ。松風 左馬は確たる理由を以て、村雨という生き物を嫌っている。去らねば打つ、加減して尚も顔を叩く風圧が、言葉も無く告げていた。

 だが村雨は怖じる事無く、そして退きもしなかった。代わりに、その場に膝を付き、額が地に触れる寸前まで頭を下げ、


「――弟子にしてくださいっ!」


「はぁ……?」


 あまりと言えばあまりに、左馬の予想の他の答えであった。

 村雨の側からすれば、この結論は必然だった。桜が負けを喫した相手に、自分の力で一矢報いたいと願うのであれば――桜より強い師を見つければ良い。そんな人間がそう居る筈も無いのだが、条件を限定すれば、村雨は丁度一人を知っていた。

 それが、松風 左馬。素手での争いに限るなら、桜にも勝る達人であり――加えて体格も、決して優れているとは言えない。力と速度で破壊力を生む技術体系――小柄な村雨が習い覚えるには、きっと理想的なものであろう。


「……ふざけるなよ、半獣」


 然して左馬は、村雨に自分の技を教える気などさらさら無かった。寸止めした拳を降ろし、地に伏す村雨の肩に触れさせる。

 左馬の足元の石畳が砕けた。一寸拳を突き出しただけで、左馬は村雨を一間も跳ね飛ばした。

 一歩と動かず、足を地面へ捻りこむ事による無寸勁――踏み止まれず、村雨は仰向けに転がる。


「ぁ――っ、ぐ……っ!」


「桜の連れじゃなきゃ殴り殺してた所だ、まったく冗談じゃない! 帰るんだ、与太話に耳を貸す気は無いよ!」


 武術家にとって、己の技は命より重い。軽々しく他人に教えられるものではない。増してや教えろと言いだした相手が、自分が酷く忌み嫌う存在であれば――左馬の怒りを、激し過ぎると謗るも、或いは的を外したものとなろう。


「……った、たた……やっぱり、これが――」


 腹を鈍器で打たれた様な痛み――これさえも恐らく、本気で打ったものではないだろう。村雨は、この技が欲しいと心底願った。

 呼吸を整えながら立ち上がり、去り行く背に追い縋る。足音を一つ立てただけで、既に左馬は、重心を僅かに後ろに傾けていた。


「桜が負けたって、聞いた!?」


「……あいつが?」


 その背に、村雨は叫ぶ。左馬の肩が、小さく跳ねた。


「刀を抜いてて、刀を持った相手に負けた! 脇腹を斬られて、血が沢山出て、もう少しで死ぬ所だった! 一度も斬り返せないで、たった一振りで、桜が負けた!」


 左馬にとって、その言葉は、俄かには信じ難い事だった。桜は化け物染みた人間であり、自分以外で勝てる者の存在など無いと信じていた。ましてや、刀を抜いた桜に、勝てる生物など存在しないとさえ。

 実はその思考は、自分の力量への信頼の裏返しでもある。自分にしてからが、桜が武器を持てばもう勝てない。ならば余人が勝てる筈無いと――論理を構築していたのだ。


「本当に、かい?」


 振り向き、訊ねる。村雨は無言で頷く――嘘が有る様には思えない。


「それで、何でそんな事を言う。私に仇を取れとでも?」


 今度は、村雨は首を左右に振った。拳を握って、顔の高さでぐいと突き出した。


「私が、桜より強くなればいい。だけど、強くなる方法が分からないから……だから、あなたに教えて欲しいの。

 その代わり、何でもするよ。錆釘が回してくる仕事も代わるし、食事の用意だって洗濯だって、小間使いがやるような事は何でも――出来に自信は無いけど。

 お金だってどうにかする、私はどうしても――」


 突き出された拳に、左馬が拳を突き合わせた。体重差はそう大きくも無い筈だが、押しつぶされんばかりの圧力に、然し村雨は意地でも退こうとしない。


「桜より強くなる? 生憎と桜は、今の私よりは強いんだよ。つまりお前は、私に教えを乞いながら、私より強くなろうって言ってるんだ」


「……そうだよ、そう思ってる。あなたより強くならなきゃ意味が無い。それに……そう言うの、愉しむ方でしょ?」


 図星だ。左馬の険しい顔に、一片の笑みが混じる。確かに強者をより強い力で蹂躙するのは、最大の娯楽と考えている。この考えは、桜と左馬を友人たらしめる共通見解だ。

 ならば――敵が強ければ強い程、その愉しみも大きくなる。自分より強くなると宣言したこの小娘を――叩き伏せれば、どれ程に愉しいか。


「今の私を殴っても蹴っても、多分あなたは愉しくないよ。でも、あなたが教えてくれれば……桜より、あなたを愉しませてあげられる。

 だからお願い、あなたの技を教えてください。その為だったら何でもします」


 個人的な好悪の感情を、愉快な未来予想が塗り潰し――友人の敗北という信じ難い事実も、また気紛れの引き金となる。


「……まず一つ。何でも、と軽々しく言うな。出来ない事を言われた時、その対応に困るだろう?」


 一歩踏み出し、拳を押し込む。村雨は下がろうとせず、その為か、伸ばした腕がじりじりと顔に近づけられる。


「二つ。武術を志すならば、どこまでも我儘になる事だ。決して他人に譲らず、決して我慢せず。節制は悪徳、強欲こそは美徳、意を通せずの敗北は、意を通しての死よりも劣ると知りたまえ」


「――! じゃあ……?」


 武術を――こうまで言うのならば、その裏の意味を、取り違える事もあるまい。重ねられた拳から力が抜け、つんのめった村雨の横で、左馬はさっぱりとした笑い顔を見せていた。


「三つ、〝あなた〟と呼ばれるのはむず痒い。私の事は師匠とでも呼ぶように良いね?」


「……はい!」


 左馬は細道を抜け、広い通りへ戻って行く。その後ろを村雨は、子鴨の様にぴたりと追い掛けた。

「腹が空いた、昼食の用意だ。獣の肉が食べたいね、狩って来い」

 師匠から弟子へ、最初の命令。村雨は師匠の言葉を反芻し、その意を酌もうと気を回して――


「はい、嫌です!」


 存分に、己の我儘を振るった。次の瞬間、突風の様な回し蹴りを喰らって、村雨は引っ繰り返っていた。


「生意気言うんじゃない! 私が食べたいと言ったら、真冬の山中だろうが新鮮な秋刀魚を用意する、それが弟子ってもんだろうが!」


「季節的に無理です、師匠!」


 我儘の度合いで言っても、まだまだ遠く及ばない。この女を超えるのは難儀しそうだと、痛む頬を撫でながら、村雨は街の外へ走り出すのであった。

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