月の下のお話(3)
穏やかな寝顔とは裏腹に、村雨は血生臭い夢を見ていた。
夢の中で村雨は、何百もの人間に取り囲まれている。槍を構え、刀を腰に下げ、憤怒の表情をした人間だ。
彼らの顔は三種類しかない。二つは、喉を喰い破られて血を流していて、片方は若く片方やや年嵩。後の一つは、部品が歪んで幾つか欠けて――何れも見覚えのある顔だ。
数百人の彼らの一人が、槍を構えて村雨に近付く。村雨は自分からも近づいて、その喉を食い千切って殺した。
その辺りで思い出す。この三つの顔は、どれも自分が殺した人間のものだ。
途端、記憶が波の様に押し寄せる。皮膚の厚み、血の温度、調理せぬ肉の味。思えば忌わしい記憶で――
――忌わしい、本当に?
無造作にまた一人、村雨は頭蓋を踏み砕いて殺す。零れ出た脳漿を手に掬った――いやに鮮明な夢だ。
背後から迫る槍を跳んで避け、つんのめった兵士の目に指を突き込み、抉り抜く。眼窩の空洞を指で掴んで、引き倒し、喉に踵を打ち込んで潰した。
砂の城を崩す様に、雪の像を打ち壊す様に、あまりに人間は脆く死ぬ。村雨は子供が虫を弄ぶように、次々に三つの顔を殺し続けた。
夢の中だからだろうか――嫌悪感は無かった。口を濡らす血は直ぐに流れ落ちるし、喰っても喰っても腹は満ちない。疲れも感じないし、後ろから近づく槍もはっきり見える――感じ取れる。
殺す度、五感も手足も研ぎ澄まされる。爪は剃刀、脚は鉄槌、触れるだけで殺せる。殺して殺して殺し続け――やがて周囲には、死体の他に何も残らなくなった。
漸く村雨に、人の心が戻る。死臭と血の海の中で、彼女は声が枯れんばかりに叫び、恐怖に涙を流した。血に濡れた手がおぞましく、無くなってしまえとまで願った。
だと言うのに、地平線を埋める程の軍勢が、地鳴りと共に現れた時――村雨は涙に濡れた頬を、ぐいと吊り上げて嗤っていた。
「あ、あぁああああっ!? ……あ、れ」
自分の叫び声で、村雨は跳ね起きた。障子の向こうからは、ほんの僅かの月明かりと、それを掻き消さんばかりの松明の赤が流れ込んでくる。
掛け布団は跳ね飛ばしてしまい、秋の夜の涼しさも相まって、冷気が肌を撫でている。然し村雨は寝汗が酷く、額に手を当てると自分で熱さを感じる程であった。
全力で長距離を走ったかの様に、心臓が早鐘を打っている。胸に手を当て、荒く息を吐き――
「気分はどうだ?」
「……着心地は良いね」
一尺と離れず横に居た桜の声に、顔も向けずに答えた。
何時もの西洋風の衣服は、梁に張られた縄に下げられている。洗ったのだろうが――血の汚れが落ち切っていない。
代わりに着せられていたのは――真っ白の、襦袢ではなく小袖。厚手の布で作られている為か、一枚でも十分に寒さは防げそうだ。
「……これは? あなたのじゃないよね?」
「紅野の服だそうだ。白槍隊の制服――の、女用らしい。私が着替えさせたかったがなぁ」
「それは遠慮したい」
立ち上がり、肘を膝を動かす村雨。睡眠時間が短かった為だろうか、体が鈍った感覚は無い。然し立ち上がってみると、脚に力が入らないのだ。
「んー……何か、気持ち悪い」
「飯を食わんからだ。二日も飲まず食わずだったそうだな? 少し待て、私達の分を持ってくる」
飲まず食わず――加えて、眠らず。如何に体力に優れた人狼と言えど、それで思う様に動ける筈が無い。桜は襖を開けて部屋の外へ向かい――暫くすると、盆を一つ運んでくる。
茶碗と皿、箸が二つずつ。茶碗には白米がうず高く盛りつけられ、皿には茹でられた山菜と味噌。簡素だが、戦を前にした砦で食べるは上等だ。
桜は盆を置くなり、白米を一息に掻き込み始めた。二日の絶食は桜も同じ事。眠っていたとは言え、やはり腹は減っていたらしい。あれよあれよという間に平らげて、一息付いて箸を置く。
「……早いねー」
「まあ、この量ではなぁ。お前はどうした?」
その様を、村雨はただ眺めるだけで、箸を持とうとすらしない。
「食わんのか?」
「んー……」
山菜を手で摘み、味噌に付けて口へ運ぶ。それから、橋を手に持って、炊かれてそう時間も経っていないだろう白米を食べ、
「やっぱり、いいや。後は食べていいよ」
ほんの一口で箸を置いた。
十四歳の健康的な少女が、例え全く動かず座り込んでいたとは言え、二日も飲食を断っていたのだ。空腹を覚えない筈が無い。だのに村雨は、幼児でさえ満たされない様な量だけ食べて、立ち上がってしまった。
「……どこへ行く?」
「水飲んでくる、後……ちょっと散歩」
止める間も無く障子を開けて、素足のままで堂から出て行く。桜はその背を、沈痛な面持ちで見送って――拳を、自分の膝に打ち降ろした。
村雨は、常の様に振舞おうとしていた。だが、その様に出来る筈も無い。その事を桜は良く分かっているし――そうさせてしまった自分が、腹立たしくてならない。
何故なら――村雨は、人の命を奪ったのだ。不可抗力などでは無く、明確な己の意思と殺意で、三人の人間を殺したのだ。
桜とて初めての殺人の後は、精神の根源的部分から湧きあがる恐怖、己の行為に対する嫌悪感、罪悪感に押しつぶされそうになった。
二人、三人と殺すにつれて慣れて行き、殺人の後に平然と食事を取れるようになったのは、四人目からであった。言いかえれば――〝真っ当な人間〟から抜け出すのには、四人の命が必要だった。
何も出来ぬ苛立ちが募り、それを誤魔化す様に、村雨が残した食事も平らげていると、桜の背後で襖が開いた。
「よ。連れは元気か?」
「……煙臭いな、あいつは顔をしかめそうだ」
煙管をふかしながら、紅野が襖を足で開けていた。行儀の悪い来訪者――寧ろこの屋根の下では招待者だが――に背を向けたまま、桜は呟くように答えた。
「だろうな、鼻は良さそうだ。やっぱり大陸ってのは凄いもんだな、あんな生き物まで生まれちまう」
紅野は、驚嘆を押し留めずに言った。生まれてこの方、堺より西に行かず、伊勢より東に行った事の無い少女だ。幾許かの羨望も、その声には込められている。
「あれは、人だ。あれがそうなりたいと願った、だから村雨は人だ」
「通じると思うか?」
その口振りが気に入らぬと、桜は語気を強めた。然し紅野は怖じず、その言に異を唱える。
「私はさ、年寄り連中とは違う。亜人を半獣だなんだと言って、蔑む様な趣味は無いよ。だけど……あんたの連れは、ちょっとさ、困る」
「何がだ」
桜の左手は、脇差の鍔を押し上げていた。右手を使おうとすると痛むのだ――他者への害意を、身を蝕む呪いが咎めるかの様に。
紅野は煙管を逆手に持つと、懐に片手を入れて、何かを探る様な動きをする。針が飛び出すか、短刀が飛び出すか、身構えた桜に向けられたのは、結局は言葉だ。
「怖すぎるんだよ、あいつ。あんな子供みたいな顔をして、鬼より凶暴に嗤ってさ。なんにも躊躇わないで迷わないで、武器も無しに正規兵三人を血祭りだ。……私の元部下だし、強かった筈なんだけどなぁ。
あいつの技は、人のものじゃない。人はあんなに強くなれないし、あんな風に血に狂う事も出来ない。多分あいつは、人間よりずっと優れた生き物だ」
亜人を蔑むのは、東洋でも極めて一部の国にだけ見られる風潮で――亜人の側からすれば、それは愚かしい事なのだ。
人間は、身体能力で遠く亜人に及ばない。数を集め、武器を揃え、魔術を身に付けて初めて対等か――或いは、ようやっと競う舞台に立てる程度。亜人に取って人間など、非力で愚昧な、外見が自分達に似た生き物でしかない。
それを紅野は良く知っていた。いや、彼女ばかりではなく――もしかすれば日の本の人間は、皆その事に気付いているのかも知れなかった。
無条件で蔑むべき生き物が、その実は自分よりも遥かに優れているとなれば、心安く居られよう筈も無い。増してやその生き物が自分へ向ける目が、獲物を見る捕食者の目であるのなら――
「……あれは、人間になりたがっている。下手な人間よりも強く、人間らしくありたいと願っている」
「願うのは悪い事じゃないさ。私だって一つや二つ、いや十や二十は願いを持ってる。でもなー、私は欲が薄いからさ」
混ぜ返す様に言って、紅野は桜の正面に、胡坐を掻いて座った。
「私の願いは、私が叶えられそうなものばかりだ。誰の助けが無くっても、私だけで、きっと何時か叶う様なものばかり。だからさ、自分から必死に掴もうとか、そういう事は考えない。簡単に手に入る物って、そんな強く求めないんだ。
だから――あんたの連れが強く願うのは、きっと」
「きっと、なんだ」
桜はもう、脇差から手を離していた。両手を膝の上で重ねて、そこに視線を落とす。喉の奥に何かつっかえている様な気がして、小さく咳をしたが、違和感は消えなかった。
「きっと、自分が一番分かってるのさ。どうしたって無理な願いだ――あれが、人と生きるのは。何時かまた、あれは人間を殺して喰って――また、自分に怯えて狂う。繰り返させるのか?」
人の様に在りたいと願う村雨に、殺人の記憶とは、最も忌わしいものであろう。もう一度、その記憶を現実のものにさせるのか――それが、紅野の問いであった。
先送りにして来た己への問いを、眼前に突きつけられて、桜は身動きも出来ずに居た。
とうに気付いていた事だ。江戸を発つ前夜、異形の怪物を嬉々として屠る姿を見た時に――この生き物は人では無いと、心の何処かで知っていた。
極力残虐に、極力凄惨に、苦痛を与えて殺す。殺しそのものが娯楽であるかの如く、異形の怪物をさえ嬲り殺す。正しく魔の呼び名を冠し、魔獣と称すべき存在だと――桜はあの夜、歪んだ悦びと哀れみと、相反する感情に併せて悟ったのだ。
それが村雨の本願であるならば、桜は何も思う事は無かった。己も血濡れた身である故に、血生臭い連れと行く道中を、心の底から愉しんだ事だろう。
然して村雨は、人の死を忌み嫌う、極めて真っ当な心を持っていた。初めの日、賊徒の潜む洞窟へ踏み込んだ時も――血臭に目を暗く輝かせながら、然し村雨は桜の前に立ちはだかり、誰も殺すなと我を張った。
全く矛盾した生き物で――矛盾は己もであると、桜はこの夜、漸く気付いた。
血に餓え、肉に餓え、殺しに悦びを見出す獣――確かに、そんな生き物に、桜は恋い焦がれている。
「繰り返せば、あいつは悲しむと思うか?」
だが同時に、人から外れようとした村雨を、桜はこれまで二度静止している。己が恋慕する姿、死を呼ぶ魔物の姿から離れる事を、桜自身が願ったのだ。
「さあな、私は知らないよ。そりゃあんたの方が分かる事だ。だから――」
紅野は体をぐいと捩じり、俯く桜の顔を見上げた。煙管の煙が、夜より暗い黒髪を撫でた。
「――行ってこいよ。何時戻ってきても良い」
「ああ、そうする」
桜は、脇差も太刀も、掛台に載せて立ち上がった。縁側に置いてあった草履を引き寄せ、夜気の中に踏みだす。
「……世話好きなのだな、お前は」
「かもな、ウジウジしてる奴らは苦手だし。朝飯は一応用意させとくよ」
月はあの夜、血に横たわって見上げた時より、幾らか細くなっていた。
大きな獣に見降ろされている様な、そんな月だった。
本堂から離れて木柵を超え、一つの村の様になった民家群れを抜け、僅かに森に踏みこんで。梟の声に押されて歩けば、小高い丘に辿り着く。その頂上で村雨は、夜の空を見上げていた。
闇雲に歩いた訳では無い。人の臭いの少ない方へ、少ない方へと歩いて、いつの間にか辿り着いたのだ。
静かで、居心地が良かった。だから村雨は、一人でそこに佇んでいた。
孤独なのではない。孤独であることを選んでいる。贅沢な在り方であった。もうすぐ、選ぶことも出来なくなると――村雨自身が信じていた。
終わりを告げる様に、慣れた匂いが近づいてくる。振り向いて正面から出迎えた。
「桜、来たんだ」
「探したぞ、随分歩かされた」
夜に溶けて紛れる黒も、丘を照らす月明かりの下では、寧ろ色濃く存在を叫ぶ。光を全て吸い込む黒が――何故か眩しくて、村雨は目を細めた。
丘を登り、向かい合う。互いに手を伸ばして、僅かに届かない程度の距離を開け、桜は右瞼を中指で引っ掻いた。
「戻るぞ、喰わねば身が持たん。喰わず嫌いを押し通すなら、押さえつけてでも食わせてやる」
軽く放りだす様な言葉。こきりと指の骨を鳴らす桜は、負けを知った後も、常と何も変わらない。村雨はそれが好ましくて、久しぶりに屈託無く笑った。
「駄目、戻れないよ」
だが――首を左右に振り、村雨は桜を拒絶した。
「何故だ」
「分かってるでしょう? 私は、あなた達とは違うんだもん」
笑顔を崩さないままの答えに、桜は一度声を詰まらせ、だが直ぐに否定する。
「私は気にせんぞ。少々の違いがなんだ」
「……少々なら、良かったのにね」
とっ、と地面を小さく蹴って、村雨は桜から数歩も離れた。桜は直ぐに、その距離を半分だけ追って詰めた。
「見たでしょ、私を。三人も殺した所も、その後も」
「私はもっと殺してきた。きっと百より多く、無造作に」
「理由はなんだった?」
殺人の理由を問われ、桜は暫し考え込む。確かに桜は、幾度も幾度も殺人を重ねてきた。だが、その理由は、その対象は――
「道場破りで加減を間違えたり、山賊を突き出す手間が面倒だったり。殺して良い様な人間ならば、然程考えもせずに殺してきた。強いて言うのなら――深い理由など無い。〝それが楽な手段ならば〟躊躇わず実行しただけだ」
――桜に、殺人に対する感慨など無い。確かに、殺さず済ませられる様な場面でも、殺人を選ぶ悪癖は有る。だがそれは、面倒事を取り除くだけの、いわば無精から来る殺人であった。
他は、例えば剣術家同士の手合わせの末の殺害、過剰防衛による斬殺――感情を動かされる何も無かった。桜は他者を蹂躙する事は好むが、殺害そのものには然程の興味も無いのだ。
「じゃあ、やっぱり違うよ。私とあなたじゃ、全然理由が違う」
「お前は、私を守っただけだ!」
桜は、血を吐く様に叫ぶ。
「お前は……自分の為にではなく……」
悲しい叫びであった。自分の言葉は間違っていると、知りながらの叫びなのだから。
「それも違うよ、桜」
果たして村雨は、桜が思っていた通りに、
「私は、楽しいから殺したんだ」
己の本質を、誰よりも正しく認めていた。
借り物の小袖を、村雨は抜け出す様に脱ぎ捨てる。月光に晒された裸身は――灰色の体毛に覆われていた。
背は厚く。胸や腹、喉は薄く。雪原の中に有ろうと、寒さを感じる事は無い体。微笑む口元から覗くのは、分厚い肉も切り裂く牙。
「私、ご飯食べなかったでしょ。なんでだと思う?」
亜人の本質を示した村雨。その問いに桜は答えられず――僅かな沈黙の後、村雨は自ら語った。
「美味しくなかったから。口に合わなかったから、食べられなかったの。
今まで、いろんな生き物を食べてきたよ。鹿とか猪とか、群れで暮らしてた時は熊だって食べた。自分で仕留めた獲物って、すっごく美味しいんだよ。残すのが勿体無いからって、骨も噛み砕いて中身を啜るくらい。
でもね……あの夜に食べた人間は、何よりも美味しかった」
歌う様に、弾む様に。村雨が告げた真実は、残酷なまでに単純だった。
ただの狂人であれば、人を殺して悦ぶのも頷けよう。だが、村雨の殺傷本能は――突き詰めれば、生きる為のものなのだ。
存在の本質と切り離し得ない、〝殺人〟というよりは〝狩り〟を愉しむ心。ならば、仕留めた獲物を喰らうのも当然であり――言葉を変えれば村雨は、〝そう〟生まれて〝そう〟死ぬべき存在であった。
「だからさ、桜。私達の旅は、今夜で終わりにしよう? あなたは江戸に帰って、私は大陸に帰るの。それが一番いいんだよ」
人と共には生きられない。村雨は、雪原に戻る事を選んだ。二度と戻らぬ覚悟で――微笑みながら、涙を流す。
村雨とて本当は、人として生きたいのだ。
それが、叶わぬ夢と気付いてしまった。共に居たいと望む程に――殺したいと願う自分を見つけてしまう。
「……村雨」
「近づかないで。殺しちゃうから」
桜は無防備に、ふらりと村雨に近付いた。村雨は身を撓め警告をする。警告はしながら――自分から離れようとはしない。
より強い者と戦い、殺害する事が何よりの悦び。例え一度の負けを知ったとて、雪月桜という女は、村雨が知る中で最も強い人間――いや、最も強い生物だった。
だから、村雨は桜を殺したい。今この瞬間にでも、喉笛に喰らい付いて噛み裂きたい。耐え難い衝動を、拳を握りしめて抑えていた。
桜は留まらず、また一歩、身構えぬまま村雨に近付く。
「離れて! 早く!」
答えは返らず、代わりに桜は、村雨の肩に手を伸ばした。その指先が届くより速く、村雨は桜に飛びかかっていた。
小さく鋭い跳躍。あまりに近い距離だ――村雨の牙は、確かに桜の喉に触れた。
「私が――お前に殺される筈があるか?」
顎に力が込められ、触れた牙が喉へ食い込むより速く、桜は村雨の腕を掴み、脱ぎ棄てられた小袖の上に投げ落とした。
背を強かに打ち、大量の息が肺から逃げる。咄嗟に酸素を求めて口を開いた村雨の、胸へ拳が打ち落とされた。
「かっ、ぁ……!?」
息を吸う事が出来ず、村雨は打ち上げられた魚の様に、口をぱくぱくと開閉させる。桜は、他者へ危害を加えた事に寄る呪いの痛みを耐えながら、村雨の体を跨いで座った。
「忘れるな、お前は私が買い上げた。私の許し無しに、私から離れる事はならん」
村雨の手首を掴み、倒れたままでうつ伏せに転がす。腕を背中に捻り上げ、動きを制した。
組み伏せられて尚も、村雨は桜を殺そうと足掻く。体を反らせ、なんとか起き上がろうとして――体毛に覆われた背に、人の体温を感じた。衣服越しでは無い、素肌に触れる熱さだった。
「さくら……え?」
「お前がどう言おうと知らん。私はお前を手放したくない。人を殺す程度の事で、お前が私から離れようというのなら――二度と誰も殺せない様にしてやる」
村雨の首に、桜の腕が巻きつけられる。呼吸も出来る、声も出せるが――息苦しさを、確かに感じる。然し村雨の顔が熱くなるのは、血が頭に集まったからでは無く――
「何時かまた、お前が誰かを殺そうとした時――その前に、必ず私がお前を殺す。お前を殺して直ぐ、その場で喉を突いて後を追う。仮にそれが、如何な悪党であろうが、死んだ方が良い外道であろうが――お前が殺す事だけは、私が許さん。その代わりに――」
村雨の首を抱いたまま、桜は寝返りを打った。体勢が入れ替わり、村雨が桜を下に敷く。
「――お前が何時か死ぬ直前、私の命をお前にやる。噛み殺そうが絞め殺そうが、斬ろうが殴ろうが何でもいい。必ずお前が、お前の手で、お前の意思で殺せ」
己の黒髪に包まれ、桜もまた、月夜に肌を晒していた。脇腹の傷は痛々しく紫色に変色していたが――闘争の中で鍛えられ、然して女の美しさを失わない、艶めいた裸身であった。
村雨の体の様に、身を覆う毛皮などは無い。人狼たる村雨の目には、夜の帳の中でも、その姿が鮮やかに映っていた。
「だが……今夜ではなかろう? 何時かお前は、私より先に寿命で死ぬ。その時まで――最期まで、楽しみは取って置け。欲を出せばその前に……私が、お前を、確かに殺す」
自分の体の下で、桜が何かを言っていると――もしかすれば村雨は、半分も聞き取れて居なかったかも知れない。だが、肝心な事だけは分かった。誰かを殺したのなら――桜と共に生きられなくなる。
一度は諦めた筈だった。だのにこの傲慢な言葉を聞けば、捨てた希望を拾いたくなる。この人間の隣ならば、自分は誰も殺さずに、人らしく生きられるのではないか――
「……約束して、桜。あなたは必ず、私に殺されて。他の誰でもなく、絶対に」
「ああ、約束する。この命、この魂は全てくれてやる。だから――お前の全てをくれ」
胸が重なり、二つの心音が近づく。何れもが、昂る心を映して、間隔を狭めていた。
命を奪う牙では無く、心を紡ぐ唇が、桜の喉に落とされる。喉を伝い、顎を伝い、やがて唇へ――
「愛してるよ、桜」
「ああ、私もだ」
二つの影は、月の下で睦み合った。人も獣も無い。ただ二人の女が、そこに居るだけであった。
桜は、村雨を犯す様に抱いた。喘ぎ、身を捩り、逃れようとする村雨を組み伏せ、一方的に凌辱した。
夜が明ける頃、疲れ果てた村雨を背負い、本堂に戻り――その日は一日、寝て過ごした。
夕暮れ時に村雨は目を覚まし、僅かに食事を取る。渋い顔をしていたが、それでも茶碗の半分程、炊かれた飯を平らげた。
その夜は、同じ布団で眠り――真夜中、桜の体温に、村雨は目を覚ます。
初めの夜より幾分か優しく、村雨も逃れようとはしなかった。ただ、敷き布団を裂ける程に噛んで、桜が苦笑いする強情を見せた。
次の朝は、遅くなった日の出とほぼ同時に目を覚ました。もとより大食いの桜に負けず、村雨は数日分の空腹を埋めるかの様に、二杯三杯と腹に納めた。
三日目の夜は――村雨から、肌を重ねる事を求めた。泣き咽び、然して絡めた腕を解かず、鶏の音が聞こえるまで求め合った。
村雨が疲れ果て眠りに落ちる前、桜はその耳元で問うた。
「私は、奥州へ行く。付いて来るか?」
付いて来い、とは言わなかった。共に在らずとも――もはや、憂う事は無いのだ。
「ううん、行かない。ちょっと、したい事を見つけたから」
「そうか」
頷いて、笑って、桜は立ち上がる。常の服装を整え、脇差を帯に差し、黒太刀を背負った。
「お休み……行ってらっしゃい。またね」
「ああ。行ってくる」
桜が襖に手を掛けるより先、村雨は寝息を立てていた。
夜明けの、澄んだ空気の中の、束の間の別れ。雲一つない秋晴れの日であった。




