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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
皇都の夜、黒八咫の羽
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白装鬼のお話(2)

 人の臭いを、村雨が間違える事は無い。ましてそれが、日夜隣に立っている者であるのなら、例え百万の軍勢からでも見つけ出すだろう。

 だから、何層にもなった人だかりを見つけても、村雨はまるで躊躇せず飛び込んで行った。

 小柄な体を利して、見物人の隙間を抜けて最前列へ。そこには――確かに、雪月桜が立っていた。


「んな――」


 何でここに居るのか。村雨はそう叫びそうになり、慌てて口を抑える。知り合いだと知られるのが、少し拙い状況であるからだ。何せ桜は、政府の兵士に正面から刃向う謀反人であり――丁度その時も、政府兵士と抜刀して向かい合っていたのだから。


「どうした、私に用では無かったか? 望み通りに出て来てやったのだ、あまり待たせてくれるな」


 黒太刀は鞘に収まったまま、手にしているのは脇差一振り。それが、槍兵十数人を怯えさせている。戦を生業とする兵士だからこそ、彼我の戦力差を感じとり、一歩も踏み出せずに居るのだ。

 何故、桜が此処にいるか。それは取りも直さず、政府兵士の呼びかけが理由である。

 出て来い黒八咫、臆したか。こんな子供じみた挑発に、桜は嬉々として乗ったのだ。一応ばかり宿の屋上から、別な建物の屋根を経由し、潜伏先を隠蔽する努力だけはしていたが――恐らく堀川卿は、頭痛の薬を探している頃だろう。


「お前達も難儀だなぁ。上の命令には逆らえんか? 勝ち目のない戦に踏みだすとは……。

 おい、端を潰すのはもう飽きたぞ。頭は何処だ、何処に置いてある?」


 左腕の矢傷はまだ癒え切らないが、桜の心身は充実している。この日を以て桜は、洛中虐殺の首謀者を切り捨ててしまおうかとさえ企んでいた。

 京都の旅に水を差した誰かを、許してやる寛容さは持たないのだ。我道の妨げは力で排除し省みない。それで全てを解決してきた、そういう生き物が雪月桜だった。

 退屈が我慢の限度を過ぎ、駆けようとした桜の足を止めたのは、更なる強者の気配。村雨は、鉄の臭いを掻き消す程に濃密な脂と血の臭いに――食欲を掻き立てられつつ、腹痛が増して、その場にしゃがみこんだ。


「白槍隊だ! こら見物やねぇ!」


「白槍隊が来た……退け! 退け!」


 先に叫んだのは、柄付きの着物を纏った若い男――野次馬だ。焦りを声に出していたのは、政府の兵士達である。何れもが槍を肩に担いで、見物する町人を突き飛ばす様に走り去った。

 そうして開いた空間を埋める様に――現れた者達が纏う気配は、桜が唸る程に豊饒な闘気であった。

 何れも白い脚絆、白い足袋、白い羽織。鉢巻きも白、担ぐ槍の柄も白。腰の脇差の鞘から、吊り紐に至るまで全てが白。爪先から頭の先までぴんと伸びて、ただ立つ姿さえ伊達である。


「槍掲げ――構え!」


 三十人程の精兵達は、その内の一人が上げた声に従い、槍の穂先を一斉に桜へ向けた。全ての動作が完全に揃った、芝居などより余程見応えの有る陣形である。


「おう、嬉しいな。なんと言う好待遇だ、涙が出るぞ――ぉ」


 歓喜に身を震わせる桜だが、自分から切りかかりには行かなかった。どうせならば同時に向かってくる所を、纏めて打ち倒そうと身構えていたのだが――白装束の兵士達は、動こうとしなかった。槍で壁を作って、桜を逃がすまいとしているだけだった。

 然し、その理由は直ぐに――有り得ぬ程の巨体と共に見えた。


「おお――なんだあれは、なんだ。やはり世界は広いなあ、っはは……!」


 桜は静かに興奮していた。自分が見ている物が、幻覚でも何でもないと分かっているからだ。

 何時の間に、そこに居たものだろう。

 その男は、通りの向こうから民家の屋根越しに桜を見下ろしていた。屋根に手を付き、柵か何か乗り越える様に跳ね、こちらの通りに立つ。人垣を軽々と〝跨いで〟渡り、桜の前に立ちはだかった。

 他の兵士達とは違い、その男は鎧を身につけていた。源平の戦の頃から有る様な骨董品――を、今の技術でわざわざ補強した物だ。

 獲物は巨大な鉞。三つ胴は言うに及ばず、丸太を三つ重ねても立ち切れそうな程、分厚く重い刃を備えていた。刃の長さだけで、村雨の上半身を超え、柄は桜が両手を広げたより長い。鋼作りのその重量は――目方で二十貫を超えていた。


「黒の八咫か、成程これは狂鳥に御座る。名は?」


「雪月桜、北の育ちだ。お前は?」


 落雷の如き重く低い声で、男は桜に名を訊ねた。焦らしもせず応えたのは、桜自身が、この男と戦いたいと焦れていたからだ。


「白槍隊隊長、波之大江なみのおおえ 三鬼さんき――戦を愉しむは悪しと承知で、尋常なる勝負を所望致す!」


 ざんばらの頭髪から二本の角が突き出し、陽光を刃物の様に照り返す。

 身長一丈二尺八寸(約380cm)、体重二百四十と七貫(約930kg)――巨躯の男に数倍する、鬼が大地を踏みつけていた。






「――あ、う……あぁ、あ」


 鼠は猫に勝てない。狐は狼に勝てない。獣には動かし難い順列が有る。

 村雨は、降臨した怪物を前に、尾を腹に巻いた犬の様に怯えていた。

 あれは――人の形をした生き物が、勝てる相手ではない。あの怪物の前では、人間も亜人も同じ、ただの弱者に過ぎない。理性ではなく本能、心ではなく魂の領域で、村雨はかの鬼の絶対を感じ取ったのだ。

 歯がガチガチと打ち合わさる。雪原に育った村雨が、耐えられぬ程の寒気に襲われている。


「ヤバ、に、逃げ……な、きゃ」


 確かに、桜は化け物染みて強い。相手が人だろうが獣だろうが、亜人だろうが負ける様を想像できない。だが今回の相手は――生物の枠に納める事さえ、恐らくは見当外れの怪物だ。

 鬼。日の本の伝承に残る、巨躯と怪力を誇る魔物。亜人の一種という学説も有るらしいが――こんな物が自分の同類などと、村雨はとても思えなかった。殺人兵器たる人狼が、己の生業を忘れて怯え竦んでいた。

 許されるならば――いや、咎める者は誰も居ない。この瞬間にでも逃げだして、宿に戻ってベッドに潜り、この鬼の臭いが遠ざかるまで隠れていたかった。そうしなかったのは、桜が心底嬉しそうだった事と――昨夜からの体調不良で、激しく動きたくなかったからであった。


「まずは……ほれ、受けられるか?」


 桜は無造作に鬼へと歩み寄り、右手を掲げ、不敵に笑う。

 その意図は、ただ眺めているだけの者達には計り知れなかったが、当事者である鬼には伝わった。伝わったからこそ、鬼は強面を崩し、砕けた岩の様な笑みを見せた。


「拙者と力を競うか、酔狂な化け烏よ」


「酔うて狂うてこそ本懐よ、臆するか?」


 何を、と吠えて、鬼は桜の右手に、己の右手を正面から重ね合わせた。指が組み合わされ――石畳が、二人の脚力に耐え切れず、擂鉢状の罅を走らせた。


「お――お、お、これは女子おなごと侮っては――!」


「なんだお前、そんな面して紳士気取りか」


 鬼が表情を変えた。物好きな子供の行動を楽しむ顔から、敵の強さを警戒する戦士の顔へ。桜は変わらず、闘争の愉悦に浸っている。

 だが――押し負けているのは、明らかに桜だった。

 互いに力を込めて前へ出ようとする。桜の足が石畳の上を滑り、手首は次第に額へ近づいていく。手の甲、首に浮かぶ血管から、桜がその剛力の全てを発揮している事は明らかだった。

 然して鬼は――まだ、全てを出し尽くした様には見えない。圧倒的に押し込む事は出来ないが、膠着もさせず、じわりじわりと桜を押し込んでいた。


「お見事に御座る。拙者の歩みをこうも妨げたは、三十の歳月、ただの一人と居らなんだ」


「奇遇だな、私も力負けするのは初めての――ぉお、ぐ、ぐううぅ……!」


 力比べの優劣は既に決まった。桜はとうとう、己の腕に押され、仰向けに崩れた。鬼を手を剥がそうと左手を伸ばし――手首を、逆に掴まれた。

 技量の介在しない掴みあいは、力の優劣が全てを決する。大の男が数人がかりで動かす事も出来ない桜の腕は、あえなく引き伸ばされ、そして体が宙に浮いた。


「そこな町人、修繕費は二条の城に請求致せ!」


 桜自身が得手とする、人間を振り回して投げ捨てる荒技――それを鬼は、倍以上の高度から敢行した。煉瓦作りの商店の壁へ桜を投げつけたのだ。

 人が、目に止まらぬ速度で飛ぶ――有り得ぬ事である。ここに於いて町人も村雨も、何故政府の兵士達が退いたかを理解した。この怪物の傍に立つには、巻き添えにならぬ力量が必要なのだ。

 野次馬の波が引き、人の輪が直径を数倍に増す。邪魔者が失せた空間に、鬼は良しとばかりに頷いて、崩れた煉瓦壁から桜の体を引きずり出した。


「か、っは――りゃあぁっ!」


 右足を掴まれてつりさげられながら、桜は左足で鬼の顔を狙った。桜の脚より、鬼の腕は長い。届かず、再び振り回され――真っ直ぐに石畳に投げ落とされた。


「意識が有るか、ますますお見事……ふんっ!」


 人が石の上に落ちて弾む、これもまた、真っ当に生きて見る事は叶わぬ光景である。弾んで浮いた桜の、今度は首を鬼の手は掴み、もう一度地面へ投げつける。

 さながら女童の毬遊びであった。石畳に叩きつけられた体が、反動で跳ねあがって来る所を掴んでもう一度、もう一度。この鬼に手心は無い。石畳が完全に砕け、反発力の少ない土が露わになった時、漸く鬼は手法を変えた。先程崩した煉瓦壁へ、もう一度桜を投げ込んだのだ。


「白槍隊、五歩後退。拙者、貴君等を巻き添えにせず、この剣士を仕留むる術は無し!」


 無造作に、隣接する建築物の壁を引きはがし、中を走る鉄骨を引きずり出す。軽々と片手で振りかざし、振り下ろす先には、既に瓦礫と化した煉瓦壁――その下に桜は倒れていた。

 金属が煉瓦を粉砕する音は、土石流の如く轟く。獲物の姿も見ぬままで、鬼は怪腕の万力を振るっていた。


「――ぅ、あああ……あ、どうしよ、どうしよう……!」


 野次馬の群れに紛れて、自らも大きく引き下がりながら、村雨はかたかたと身を震わせていた。

 幾ら桜が強かろうが、鬼を相手にして無事で居られる筈が無い。助けなければ――そう思い、だが脚が動かない。

 無理も無い。あの鬼に立ち向かって、数秒と無事で済む事さえ奇跡だ。並みのつわものであれば、手が触れた瞬間に死んでいる。村雨の嗅覚は、鬼の強さも嗅ぎつけたが故に、脚に力を伝えようとしないのだ。


「御待ちなさい。怖いなら、恐れても良いのです」


 それでも、ままならぬ脚を叱咤して、村雨はやっと立ちあがった。肩を叩かれ、また膝が力を失って、へたり込むように座ってしまった。

 そこに居たのは、細通りで人の傷をいやしていた女――拝柱教の〝大聖女〟エリザベートであった。


「あなた、さっき――」


「ええ、先程も会いましたね。……他の皆よりも憂いが濃い、あの女性の御友人ですか?」


 修道服を纏った小さな体は、野次馬達の中に居ては目立たない。彼女はそっと膝を曲げ、村雨と顔の高さを合わせた。


「止めないと、このままじゃ……」


「死んでしまう……ですか?」


 村雨は頷いて、立ちあがろうと手に力を込めた。エリザベートは、村雨の両肩に手を置いて、首を左右に振る。通さぬ、と言う事だろう。


「何でよ、何で――」


「貴女まで打たれる事も――争う事も有りません。咎は少数で分け合い、多数で共有するのは幸福だけであるべきなのです」


 聖女と呼ばれる女は、涙で頬を濡らしていた。何故であろうか――村雨は、不思議と直ぐに理解してしまった。

 この女は、全ての不幸に共感し、心の底からそれを無くしたいと祈っているのだ。打ち据えられる桜の痛み、助けねばと立つ村雨の焦燥、その他ありとあらゆる不幸の全てを、どうにかして救わねばならないと思っているのだ。


「……辛いでしょうね、彼も、彼女も。命を奪われる苦しみなど、弱者を甚振り葬らねばならぬ悲痛など……本当は生まれなければ良かったのです」


 出来る筈も無い。所詮は夢幻、絵空事に過ぎぬ祈りだ。そもこの争いは、お前の意向が故ではないのか――糾弾の言葉が喉に詰まり、村雨は結局、そう叫ぶ事は出来なかった。エリザベートは鬼に歩み寄り、鉄骨を振り回す腕に触れた。


三鬼さんきどの、この方と話をさせてください」


「エリザベート殿……御覧であったか、お見苦しい所を」


 平地になりかけた瓦礫の前で、漸く鬼は手を止めた。息一つ乱さず、汗も掻いていなかった。


「して、話ですとな。この女子は狂うておりますぞ、近づかれるは危険かと」


「構いません――聞こえていますか、黒羽の八咫烏」


 崩れて砕けた煉瓦の下へ、エリザベートは呼び掛けた。

 答えは無い。桜は身じろぎすらせず、瓦礫の中から腕だけ、外へ突き出して倒れている。


「貴女の力は素晴らしい。それは間違いなく、世界を良い方向へ導く助けとなります。例え今の世で恨まれようと――」


「……神気取りか、大聖女とやら」


 然し、声ばかりは聞こえた。常よりは力の無い声である。


「いいえ、我らは神の御心に従い、御心を為す為に生きるのです」


「隣人愛を為す術が殺しか、押し込み強盗もまだ少しましな言い訳を選ぶぞ」


「神は人を赦してくださいます。然し人の生は――赦しを待つには短すぎる。貴女は今まで、人を殺めた事がありますか?」


「ああ、数え切れん程にな」


 エリザベートは嘆息し、また涙を流した。名も知らぬ誰かが不幸な死を遂げた事、一人の女が罪を重ねた事。二つの悲しみを、彼女は心の全てで感じていた。


「神はきっと、貴女もお赦しになられる。然し今のままに暴を為し続けるのであれば、赦しより先に貴女は取り除かれてしまう。貴女が存在する事が、良く生きる者達の道を閉ざす原因となるなら、私はそれを見逃してはおけません」


「ならば、どうする。殺すか?」


 きっと、幾度と無く繰り返された問いなのだろう。エリザベートは躊躇せず、だが絞り出す様な声で答えた。


「……はい、改めないのならば。他の全ての幸福の為に、貴女の幸福を奪います」


 か、と短く桜が笑った。笑って――崩れた屋根が浮く。煉瓦壁がざあと流れて、石畳の上に散らばった。

 額を切ったのだろうか、顔を赤く染めた桜が、投げ込まれた家の土台を掴んでいた。


「そうか、そうか、ならばお前は敵だ。しかも――今、この場で殺さねばならん類の」


「エリザベート殿、お下がりくだされ! こ奴……並みの狂に非ず!」


 家が、土台ごと持ちあがった。

 中にある家具も衣服も一切合財、地面から浮いて振りかぶられる。朱染めの顔に陶酔の赤を混ぜて、桜は家屋一軒を槌代わりに振り下ろした。

 小さく大地が揺れた。建材が石畳に激突し、大量の破片を飛び散らせた。落下地点に立っていた鬼は、頭を強かに打たれ、思わずたたらを踏んだ。

 木と煉瓦と金属の雨を、桜は一足で駆け抜けた。鬼の懐へ潜り込み、膝へ拳を叩き込む。鬼は大きく体勢を崩しながらも桜の肩を掴み――そして、呆気なく仰向けに投げ倒された。


「お、――がっ!?」


「やはりか、鍛練が足りんぞ」


 桜が用いた技術は、言うなればやわらの一種である。掴みかかってきた相手の腕を、痛点や関節を抑えつつ動かす事で抵抗を防ぎ、相手の力を利用して投げる技術だ。

 小指を逆に曲げ、折れるのを防ごうと体を浮かした鬼に併せ、自分は潜り込んでその巨体を跳ね上げる。一連の動作は正しく――他者を蹂躙する喜びが為とは言え――長き鍛練を経た者だけが許される絶技であった。

 巨躯の鬼を地に捩じ伏せ、桜はエリザベートの前に立ち、


「死ね。その妄執は地獄で語れ」


「ええ、私は地獄へ――」


 ただ一太刀で、首を跳ね飛ばした。血の飛沫が、赤々と日に映えて美しかった。

 野次馬達の間に、恐怖がどよめきと共に伝播する。幾人かはこの場を駆け去って――首を落とされた胴体は、未だに両の足で立っている。


「残りの連中、退くならば退け。首領が死ねば、戦も何もなかろうに。なぁ?」


 脇差の刃に付着した血を、ひゅうと一振り、払い落す。槍を構えた白装の兵士達が、怯んだか、陣形を乱した。


「ええ、死ねば御仕舞です。全ての理想は、死ねばなんの役にも立たない」


「な――!?」


 聞こえてはならぬ筈の声が聞こえた。桜は反射的に黒太刀を抜き、首を失った胴体を横に薙いだ。刃は確かに肉に食い込み――何故か背骨を断つ事が出来ず、また刃を引き抜く事も出来なくなった。


「首は落ちたのだぞ、素直に死ね、ええいくそ……!」


「だから、だから私は死ねないのです。邪法の謗りを受けようと、死後の責め苦を確約されようと、私は」


 石畳に落ちた首が、ころり転がりながら口を利いていた。溢れる涙を拭う手が無い。きっとその目に映る視界は、ぼやけた上に赤く染まっているのだろうと思えた。

 立ちあがった鬼が、大鉞を桜の頭へと振り下ろす。開いた左手、脇差で受け――やはり力では分が悪い。押し込まれつつも、既に桜は、受け流す算段を付けている。


「〝蒼空そうくう〟!」


 修道女の首は、誰かの名を呼んだ。




 もしも、無理に理由を見つけようとするのならば。

 扇殿 矢代から受けた矢傷が、未だに完治していない事。黒太刀の刃がエリザベートの身に食い込み、思う様に震えなかった事。また、多勢に無勢であった事――幾つかは、挙げられるのだろう。

 だが、仮に桜が万全であったとして。傷は一つも無く、両手に抜き見の刃を握り、万全を期して戦場に立っていたとて――その結果は、覆す事が出来たのであろうか。




 村雨は、頭蓋の内側を針で刺された様な錯覚を覚えた。空気が切り裂かれる、甲高い音が響いたのだ。

 砂塵が巻きあがり、風圧で座ったまま後ろに倒れかけ――どうにか留まって、そして、見た。

 桜の脇腹から紅い血の華が咲き――背中合わせになる様に、一人の少女が立っていた。

 少女が何処から現れたか、何をしたのか、村雨には見えていなかった。そればかりか――その少女が近づいていた事さえ、村雨の鼻は捉えていなかった。意識の外から、風が臭いを運ぶより速く、少女は桜を斬ったのだ。

 獲物はたった一振り、艶めいた紫の刃を持つ刀。芒洋と空を見上げる目は――右目は黒。左目は欧人よりも色濃き蒼。頭髪は老婆の如き白で、槍持ち達と揃いの白服に、まこと似合いの色であった。


「――ぁ、なん……、く、が……、かはっ――」


 臓腑から零れた血が喉を遡り、桜は血を吐いて倒れ伏す。


「ちょっと外した、けど……これで、いい……?」


「ええ、ありがとう、蒼空。……お父様にも、感謝を伝えてくださいませ」


 己が斬った獲物――未だに息の有る桜に、少女は興味を抱かない。刃を鞘に納め、小さなあくびを噛み殺す。

 エリザベートの首は、己を斬り落とした女の為に、真実の慈愛を以て神の赦しを乞うていた。

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