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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
皇都の夜、黒八咫の羽
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皇都の夜のお話(8)

「そこまで、お前の勝ちだ」


 首筋に触れた冷たい感覚に、ルドヴィカはようやく現に連れ戻された。気付けば腕の中で、一人の少女が意識を失っていた。

 腕を解くと、少女の体が地面に落ちる。瞼は開いているが、瞳は裏側まで回ってしまっていた。


「おお、おお、良くも痛めつけた……ふむ」


 意識を失った少女――村雨の胸に、桜が耳を当てていた。小さく頷き、背と胸を手で挟み圧迫する。


「が……生きていたから良しとしよう。死んでいたらお前を殺していたぞ」


 村雨の喉から、血の飛沫が吹きあがる。これまで呼吸が止まっていたのだろう、薄い胸が上下を始めて、ルドヴィカは漸くその事に気付いた。

 途端、痛みが襲ってくる。額は肉が抉れているし、四肢の筋肉はところどころ断裂している。拳の皮は向け、白い肌が赤と黄と混ざった色に変わって、自分で見るにも痛々しくてならなかった。


「……私は、……あれ、ああ、そうか……勝ったんでしたっけ」


「頭は冷えたか? 大した暴れぶりだった、止めるべきかと幾度も迷ったな」


「止めてくれれば良かったでしょうに……あーくそ、すっげえ痛い」


 皮膚の向けた拳を舐めて、ルドヴィカは痛痒感に顔を歪める。


「お前、存外に柄が悪いのだな。都会派気取りは表面だけか」


 桜はからからと笑い、飲みかけの酒瓶をルドヴィカへ放り投げた。反射的に受け取ってしまったルドヴィカは――酒は嗜まない為に――それを、そっと地面に置いた。


「……みっともないったらありゃしない。肴にはなりました?」


「ああ、途中までは上等だったぞ。……少しばかりやり過ぎだがな、あれでは殺し合いだ」


 けっ、と不貞腐れた様にそっぽを向いて、ルドヴィカは押し黙ってしまった。肩が震えているのはきっと寒さが故では無く――


「泣くな、泣くな。勝った者が泣いては、負けた者の立場が無いぞ」


「……強い奴らはいつもそうだ。上から下へ、一方的な物言いばかりで……皆が自分と同じ事を出来ると思い込んで。あんた達くらい傲慢になりたかったですよこんちくしょう」


 下らぬ喧嘩に勝ちを得て、ルドヴィカに達成感など微塵も無かった。立ち上がれない程の疲労感と、己への嫌悪が募ったばかりであった。

 劣等感で、生き物一匹殺しかねない程の卑屈――しかも振るった先は、自分よりもまだ幼いだろう相手。僅かな矜持をさえ、自分で踏みにじったのだから。


「ふーむ。確かに、私は強いと思うがな」


「自分で言いますかよ」


「事実だからなあ。いやまあ、我ながら理不尽だと思うぞ。他人の数十年の鍛練の成果を、私は数年で上回って生きてきたのだから」


「だーかーらー」


 顔を背けていると、後頭部に耳触りな自慢をぶつけられた。

 鬱陶しいと、ルドヴィカは桜を見ずに小石を投げた。軽く受け止められて投げ返される。背中に当たったが、額の痛みに比べればどうと言う事は無かった。


「悔しいか? だが、世の中は大概理不尽なものだ。私にしてからが、何故私ばかりこうも強いか検討がつかん。努力と成果は比例しない、それはどうやら事実らしいな。

 ……然し、だからと言って私が努力していないと見るのは早計だ。村雨に関しても然り、だぞ?」


「一々言いまわしがむかつくんですが。嫌味ですか」


「まあまあ、最後まで聞け。と、ついでに見てみろ」


 桜の右手が、ルドヴィカの視界を覆った。面倒くさそうにルドヴィカは払い除けたが、然し懲りずに手は戻ってくる。根負けして観察を始めてみると――その手の傷の多さ、皮膚の分厚さが、武術を志す者でさえ滅多に到達しえない領域に達していると気付く。


「まな板の様な手だろう? どれが何時の傷だなどと分からん。幾度も皮が向け、直りきる前にまた素振りで手をズタズタにして、ようやっと作った手だ。……十五年程は掛かったな」


「十五……幼児の頃から、刀なんか?」


「他には何も無かった。鏡さえ無いような暮らしだったのだ」


 しみじみと桜は言って、拳を作って見せた。金槌よりも堅そうな拳を、ルドヴィカは自分の拳で突きながら問う。鉄骨と骨が皮膚越しにぶつかり合って、ごつごつと音を立てた。


「説教は好きだが苦手だ。そうだな……お前も一先ず、十五年とは言わんが五年ばかり何かに腰を据えて打ちこんでみろ。どうせ後七十年ばかりは生きるのだろう?」


 桜はすうと立ち上がって、村雨を肩に担ぎあげ――思いなおしたのか、膝下と背に腕を差し入れて抱えた。


「……亜人の寿命を、知っているか」


「さあ、人間と同じくらいじゃないんですか?」


「それがまた色々でなぁ。長命の者など、三百年も生きた爺を見た事は有るが――」


 桜は数歩だけ歩いて、雲の隙間の月を見上げた。僅かに離れた背を追って、ルドヴィカも立ち上がった。


「一度だけ抱いた蜘蛛女は、三十にならんで死んだ。翼のある連中は大体が短命で、四十かそこらで死ぬそうだ。人狼は割と長生きと言うが……五十を超えた例は誰も知らんとさ。村雨なら残り三十年という所か」


 短いな、と。ルドヴィカは反射的に、そう呟いていた。三十年後の自分は想像できなかったが、きっと生きているとは、漫然と考えていた。


「本当ですか、それ……?」


「学者とやらの言う事が正しいなら、な。私とてあれこれ調べてみたのだ。お前が婆になって死ぬまでに、お前は村雨の倍の物を見られる。全く人間とは恵まれた生き物だなぁ――」


 桜は小さく首を振る。憂いの無い声音であった。それからまた二歩ばかり歩いて、ふと振り向いて、


「おい。あの新聞、私はまだ読みかけだったのだぞ。全部読ませろ、あと続きはまだか?」


 言いたい事だけ言い渡し、今度こそ宿へと去って行った。


「……続き、か」


 ルドヴィカは、夜寒に一人で取り残される。体中の痛みはまるで和らぐ様子が無いのだが、もう悪態を吐く気力も無い。横になれば二度と立てる気がしないので、負傷した体に鞭打って歩いた。歩きながら――翌日の記事の書きだしを、どうするかと考えていた。






 宿に戻ってから村雨は目を覚まし、翌日は体中の痛みに苦しみながら一日を寝て過ごした。

 余すところなく打撲か筋肉痛で、立ちあがろうとすると骨が軋む。顔を洗えば傷に染みて、眠気など一瞬で吹き飛んだ。然し疲労が抜けきらず、消えた睡眠欲はまた襲ってくる。そんな事の繰り返しだったのだ。

 その間、桜も全く外出などせず、やはり怠惰に日を過ごした。食事は宿の者に部屋まで運ばせ、退屈を紛らわすのは政府公認誌『つぁいとぅんぐ』――ルドヴィカの書いている瓦版である。


「うー。うー……痛い痛い痛いー……」


「殴られたのだから仕方が無い。我慢だ我慢」


「うがー」


 喧嘩に負けた悔しさと痛みとで、とかく心の休まらぬ村雨であった。

 その次の夜には、少なくとも顔の腫れは引いた。村雨はこれならば大丈夫だと、再び街へ打って出る事を提案したが――


「駄目だ、ならん」


「行かないと。今だって、窓の下を兵士が……」


「駄目だ」


 桜が、頑として許さなかった。

 確かに村雨の言う通り、この夜も政府の兵士は、焼け残った仏寺の周囲で僧侶や信徒を狩っていた。

 当人たちばかりではなく、僅かにでも庇う姿勢を見せた者を――そして冤罪だろうが兵士に疑われればやはり殺害の対象。あの焼き打ちから僅か三日で、京の街はこの異常事態に適応していた。

 即ち、誰も誰かを助けようとしない不文律の構築。助けに入ろうとすれば諸共に殺される。だから、誰かが兵士に追われていようと見て見ぬ振りをする。そして、夜が明けるまでは家の中に籠っていれば、余程の不運でも無ければ無事で居られる。

 余程の不運と言うのは、例えば上官の目を逃れた一平卒が、何気なく略奪をしようと民家を訪れた場合――そしてその家に、妙齢の娘など居た場合である。正当防衛とて兵士を殺さば、即ち大逆の謀反人なのだ。

 今朝もまた、大勢が死んだと報せが届いていた。寝不足で隈を広げた堀川卿が、仕事の合間に伝令を飛ばして伝えてきたものだ。

 焼き打ちの日を頂点として、日に日に死人の数は減っているのだが、それは京の人口が減っているからでも有る。殺された者と、それに数倍して京から逃れる者と。皇国の首都は明らかに活気を失っていた。


「所詮は自己満足だ、その為に危険を冒すなど言語道断。他人をどうこう言いだすよりもな、己を守れる程度にならんか」


「ぐぬぬぬ……」


 言い返す言葉も無く、村雨は枕を殴りつけて八つ当たりをした。まだ骨に痛みが残っていて、やるせなさが増すばかりであった。


「そうそう、あんた弱いんだから寝てりゃいいのよ。やーい役立たず」


「誰が役立たずかー! ……ん?」


 腹立ち紛れに怒鳴り返し、それから村雨は、自分を嘲った声の出所に疑問を抱く。鼻をすんと鳴らし、直ぐにその正体は判明した。外開きに出来ている窓を、渾身の力で押し開き――ばん、と一つ、手応えが有った。


「あーーー……っぶねえこんちくしょう! 私じゃなきゃ死ぬわよこれ!」


 声が落下していき、二つほど下の窓の近くで止まる。村雨は外を覗く気にも成らず、代わりに桜が呼び掛けた。


「おう、ルドヴィカとやら。此処は何階か分かっているか?」


「七階ですね、地上から少なくとも15m以上の高所です。落ちたら死ぬっての本当に……」


 壁の内側に組み込まれた鉄骨、それに自分が発する磁力で吸い寄せられて、ルドヴィカは落下を免れていた。

 そも七階まで、こんな方法で上ってくる事自体がおかしな話ではあるのだが、思考の経路がおかしな人間は見慣れている為、桜も村雨もそこへは触れなかった。

 桜はルドヴィカを引き上げてやり、部屋の中へ案内する。西洋風の客室、土足でも非礼には当たらない。


「こんな時間にどうした、道に迷ったか? いやそれとも夜這――」


 言いきる前に、村雨の右上段回し蹴りは桜の後頭部へ。ルドヴィカの左裏拳は桜の喉へ打ちこまれていた。


「――お前達、仲が良いな」


「御冗談を。……こんなのと仲良し扱いなんて堪らないわ」


「ちょっと、それはこっちの台詞だと思うけど?」


 微動だにせぬ桜を挟んで、村雨とルドヴィカは火花を散らし合う。忽ちに一触即発、慳貪な雰囲気が漂って、


「……あんたに用はないの、こっちの説教くさい人に用事。お時間よろしいですか?」


「構わんぞ、早起きする予定は無い」


 先に目を逸らしたのはルドヴィカ。敵意があっさり薄れた事に、村雨は拍子抜けした顔を見せた。

 ルドヴィカは、旅人が良く使っている様な袋を背中に括りつけていた。そこから一枚、くるくると丸めて細くした紙を取り出した。


「掲載許可を頂きたく。……読んでみなさいよ」


「ほう、挑んできたか」


 目の前に突き出された巻紙を受け取り、桜はその文面を読み始める。あまり几帳面さの窺えない、読めれば良いという程度の字ではあったが、それでも内容の理解に差し支えは無かった。

 その文章は――やはり一日二日で、飛躍的な向上はしていない。相変わらず文章は主観的であるし、物語的に盛り上げようという構成の為、結論は文章の後半で述べられる事が多い。事実を伝える文章としてルドヴィカのそれは、相変わらず欠陥品であった。


「なんだ。お前、意外と読ませるではないか」


 だが、熱が有った。これこそ己が書きたいものであると、腹から声を絞って叫んでいる様な――荒々しい熱気が、その文章には込められていた。

 桜は一言称賛を贈った後、最後まで口を開かず、目だけを動かして文章を読み進めた。愉快げな笑いでは無かったが、満ち足りた様な顔で頷き、薄く笑みを浮かべた。


「何よ何よ、私にも見せて見せて」


「あっ! こら、あんたはいいのよあんたは!」


「まあまあ。そう言うな減る物でも無し」


 村雨が横から手を伸ばし、反対側からルドヴィカが制止しようと身を乗り出してくる。丁度間に挟まれて、桜は満悦な顔をしながら、ルドヴィカの頭を手で押さえた。

 その隙に村雨は、先程まで桜が読んでいた巻紙に目を通す。未だ印刷用の木組みをされていない下書き、書きあげて推敲すらされていない様な生の文章――村雨は、そう面白いとは感じなかった。

 別に村雨は、こう言った文章が好きなわけではない。単純な娯楽的読み物なら好むが、報道はもう少し事実だけ集めて並べて欲しいと思った。だから、ルドヴィカの文章を楽しむ事は出来ない。

 だが――この文章を、強く否定する理由は無くなっていた。

 例えそれが一人の少女による、所詮とある一面から見た物でしか無いとしても――ルドヴィカが綴った記事の下書きは、事実を描こうと努めた痕跡が見えた。

 複数の意味に取れる言葉は、なるべく使わないように。推察は飽く迄推察だと断りを入れ、そして布告文などは引用元を明白に。もしかすればそんな事は、物を書く人間ならば出来て当然の事だったのかもしれないが――


「……普通に書けるんじゃない、前のはなんだったのよ」


 呆れ果てたと溜息一つ零し、村雨は巻紙を突っ返した。


「構わんぞ、そっちの写真とやらも。顔が幾らか知られたとてな、そう面倒な事も無かろうよ。どうせ目立たぬなどとは無理な話だ」


「では、お言葉に甘えて。明日には京中にバラ撒きますよ、衆愚の目を引くには継続ですから!」


 軽い跳躍で、ルドヴィカは窓枠に飛び乗った。短い髪は夜風にも靡かない。外へ半分ほど身を乗り出して、首だけぐるりと後ろに向けた。


「……村雨だっけ、あんた」


「そうだけど、何?」


 無理な角度で振り返っている為、ルドヴィカの顔は右半分しか見えない。村雨は、その半分の顔を睨みつけた。


「後でもういっぺん絞め落とす。それまで勝手に死ぬんじゃないわよ」


「……は?」


 やり返す言葉を待たず、ルドヴィカは重力に身を任せる。落下の途中、四肢から発した磁力で壁に張り付き、矢守の様に馳せて石畳に降り立つ。兵士達が隊列を組んで行く後ろを、彼女は健脚を振るって追い掛けていった。


「なによあれ、意味分かんない。また喧嘩売ってきたの?」


「だなぁ、余程お前は気に入られた様だ。買ってやれ買ってやれ、何年先の事かは知らんがな」


 憤然と肩肘張る村雨の背を、桜はやや強く叩いた。


「好きに言うねー、この顔が見えないの? この腫れあがった顔が?」


「よーく見えているとも。お前ばかりでない、向こうも散々な顔をしていたしな」


 かっかと笑って、桜はベッドに仰向けになる。何が楽しいか、暫くはそのまま笑い続けて、


「長生きはせねばならんぞ。なぁ、村雨」


 ふと思いついたように、そんな事言った。


「時々年寄りくさいよね、桜って」


 随分と丸くなった月を見上げて、村雨は諦めたように首を振る。不思議と今は、何かをしなくても良いだろうと、気を楽にして構えていられるのだった。






 翌日の朝、京の街にばら撒かれた――後の世では〝情報テロ〟などという呼び方もされる――瓦版。その一部抜粋は、以下の通りである。


『――悪鬼羅節が如き形相の、兵士の馬手には血槍一振り。それを翼でさあと一撫で、撫でて切り捨てまさに撫で斬り、黒衣黒剣黒羽の、女丈夫一人出でにけり。

 翼を為すは其が黒髪、みどりに椿のを纏う。背に負う太刀の長大なるは、天地を裂かんと睨むべし。

 剣閃の速き事、音声の大なるは雷鳴にも似たり、性情と剣禍は炎に似たり。天より落ち、燃え広がり、五十の槍襖を灰に帰さんとする。

 はてこれは如何なる悪虐かと我訝るに、思えばかの兵士達とて、無辜の民衆を犬鶏の如く追い回し終には白刃に掛けし事数百数千。

 なればかの女丈夫、如何に数十の兵士を昏倒せしめんとても、大凡悪おおよそあしと我言うに能わず。正道なり。

 我、其を讃えて謳わんならば、凶鳥・黒八咫此処に有りと詠むべし』


 個人誌『つぁいとぅんぐ』は、政府より発行禁止の指定を受け、旅客ルドヴィカ・シュルツは旅の宿より姿を消した。

 最後に刷られた紙面を飾るのは、数十の兵士に囲まれて不敵に笑う、凄絶に美しい女の姿であった。

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