皇都の夜のお話(7)
ルドヴィカ・シュルツは、田舎の地主の家に生まれた。
近隣の家々に比べて明らかに裕福な環境下で、彼女は然程の不自由も無く、また厳しい規律なども無く育てられる。
両親は、飛び抜けた聖人でも無いが善人で、愛情も十分に注がれた。恐らく彼女は、世界の水準から考えるに、相当幸せに育った人間である。
そしてまた、彼女は容姿も悪くはなく、そして生まれつき賢く、また一部の魔術に才を見せていた。自分自身の体に電流を走らせる魔術――握手した人間を驚かす程度の、悪戯心から発見した技術であった。
幼い子供にとって世界とは、極めて狭い範囲で形成されている。両親に愛され、周囲の子供の誰より賢く運動神経も良く――彼女はまさに、自分の世界の女王であった。女王として君臨する事こそ自分の権利であると思っていたし、それだけの能力が有った。
彼女を取り巻く誰もが、彼女を讃えた。ある者はその愛らしさに、ある者はその大人びた口振りに、ある者は足の早さに。そして両親は、彼女の存在自体を無条件に肯定し、全霊の愛を注いだ。
その環境は、彼女が集団教育を受ける様になってからも変わらなかった。彼女は賢かったから、他の子供が指を折って数える様な計算を、やすやすと暗算で片付けてみせた。字の読み書きも誰より早く覚えたし、その為に一切の努力など必要なかった。相変わらず足の早さは、どんな男の子よりも上だった。
が――時々、彼女も気付く事があった。昔より周りの皆は、自分の愛らしさを褒め称えないようになったと。飾り気のない衣服で、異性を意識しない振舞いをする彼女よりも、男子に受けの良い少女が身近に居た為であった。だが彼女は、自分の方が容姿は上だと信じていたから、内心で嫉妬しつつ何もしなかった。
歳を重ね、教育の内容は高度に成り始める。ルドヴィカはやはり、彼女が属する集団の中では、優秀とされる一人であった。
実際学力だけで見るならば、同地域同世代二百人ばかりの中で、彼女は上から二番目か三番目。一日の半分を学問に当てる物好きが一位を走り、その次をやはり勉強家の少年か、もしくは自主学習などした事のないルドヴィカが追う形であった。
然し周囲は、やはり彼女をこそ最も賢い者だと褒め称えた。彼女が努力する姿など誰も見た事が無く、そして彼女は常に結果を出し続けていたからだ。
その一方で――自慢だった足の早さは、体の大きくなっていく男子に次々と追い抜かれていった。だがその頃には、男子と女子の体力差など誰もが知っていたから、やはりルドヴィカは女子の中で一番の健脚と称賛されていた。尤も、駆け比べなどする機会は殆ど無くなっていた。
周囲の学生が勉学に励み、そして彼女に届かぬ程度の学力で低迷していた頃、彼女は読書に夢中になっていた。読む分野は決まっていて、大概は冒険小説であった。子供向けに平易な文章で掛かれ、どれも似た様な展開だが、寧ろ変わらない事を安心出来る様な作品群。二十か三十も読み漁って本棚に並べ、来訪する友人にそれとなく誇った。
更に時が経って――彼女の友人の幾人かは、親元を離れる為の用意を始めていた。彼女の家は別として、その地域は、決して裕福な土地ではなかったのだ。
或る者は学問で身を立てようとし、或る者は魔術に傾倒し、或る者は縫製などの技術を磨き――ルドヴィカは相変わらず、一度読んだ本を読み返す様な事ばかり続けていた。別に彼女には、焦る理由が無かったのだ。
同世代で学力を比べて、その頃でも彼女は、上から二十番以内には居た。相変わらず自主的な学習はしていなかったが、それでも一度聞き習った内容の七割方は覚えられた。応用力は有ったから、暗記が苦手だろうが問題は無かったのだ。
一方で――容姿を褒められる事は無くなっていた。彼女自身は変わらず愛らしい外見なのだが、短く切った頭髪や飾り気の無い衣服、そして子供の頃から然程変わらない振舞いは、年頃の少女に求められる美しさとは別なものだったのだ。
結局彼女は、親の援助を当てにして、数十里ほど離れた街へ出た。生まれて初めての一人暮らしであったが、料理は提供される寮生活だった。彼女は、より上位の学問を修められる学院へ積を置いたのだ――他にやりたい事も無かったから、だが。
その千人ばかりの集団の中で、彼女の学力は、大体中間のやや高めという所であった。低くは無いのだが、集団に埋没してしまう程度のものだ。常に周囲から称賛を浴びていた彼女にはそれが耐え難く――これも生まれて初めて、彼女は自主的に努力をしようとした。
そして、愕然とする。彼女は全く、努力の方法など知らなかったのだ。何をすれば知識を増やす事が出来て、何をすればその知識を応用する技術が身に着くか、何も知らないで生きてきたと悟ったのだ。
そうなれば試行錯誤しかないが――稚拙な努力は結果を伴わない。唯一の趣味である読書の時間さえ削って費やした努力は、彼女の名を周囲に知らしめるには至らなかった。
結果を生まない努力は虚しいものである。だが彼女は、自分は優れた人間であると信じていたから、直ぐに諦める事はしなかった。三日三晩の徹夜など日常茶飯事、常に目の下に隈を作り、食事も一日に一度か二度。不健康極まりない生活で、結局は結果など生まれなかった。
周囲が学問を楽しみ、余暇に生を謳歌する様を見ながら――ルドヴィカは机に張り付いて書物を睨み、まるで理解できぬ数式を紙に書き写し、暗号としか映らぬ文章をただ読み返し続けた。そして或る日、教授の問い掛けにまるで答えを返せない自分と、それを嘲笑う周囲に気付いて――彼女は、学問を捨てた。
かろうじて食いつなぐだけの仕事は見つけた――両親の伝手を頼って。荷物を運んだり、通行人を店に呼び込んだり、知恵も創意工夫も必要無い仕事である。退屈で体力ばかり使って、大した給金も得られなかった。
休みは多いが、遊ぶ金が無かった。古本屋で適当な冒険小説を買い、幾度も幾度もページが擦り切れる程も読み返す。その内に――この程度なら自分も書けるのではと、そう思う様になっていた。
実際に彼女は語彙が豊富で、文法に大きな誤りも無く、比較的美しい文章を書く事が出来た。初めて書きあげた小説はそこそこの評価を得て――その後、『ありきたり』の一語で切り捨てられ収入には繋がらなかった。三月を掛けて仕上げた自信作であった。
悔しくて、納得がいかなくて、彼女は更に執筆に打ちこんだ。世間に認められた作品の多くは、自分が書く文章よりも見苦しく、整っていないと信じていたからだ。物語には文章の美醜より内容が求められると、気付いたのは半年も後の事だった。
未知の世界を尋ね、あらゆる困難に向き合い打ち勝つ主人公――そんなものを、努力を知らず世界を知らないルドヴィカが、描ける筈も無かった。それに気付いた時、彼女は創作さえも諦め、事実の列挙だけで認められる『報道』に逃げ込んだ。
意外な事に、彼女が作った個人新聞は、その街で中々の評価を得た。日常の些細な出来事から近所を騒がす軽犯罪まで、一人の少女の視線から書く記事は、随筆を楽しむ様な感覚で読まれていたのだ。
評価を得れば、より良い物を作りたがるのが人間だ。ルドヴィカもその例に洩れない。より大きな話題を、より人目を引く話題を、より正確に詳細に――そんな折り、時節が彼女に悪魔の契約を持ちかけた。
不幸にして、彼女が暮らす街の近郊で内乱が勃発した。剣で、槍で、弓で、魔術で、大砲で、何人もの人間が無残に死んでいった。
ルドヴィカが恐れたのは、自分の個人誌を読む者がいなくなる事だった。書く事は幾らでも転がっているのに評価する者がいないのでは、書いている意味がなくなってしまうではないか。本末が転倒している事に、最早気付く事さえ出来なかった。
そして、その危惧が杞憂だった事は直ぐに知れる。争いの最中で書いた彼女の記事は、離れた街に暮らす者から、これまでに無い程の高評価を得たのだ。
曰く、『戦場の真実を語っている』――死体の壊れた様を描写しただけの記事が。『悲劇を余す所なく伝えた』――兵士が略奪と強姦に励む様を、こっそりと撮影しただけだ。そこに人の美徳は無く、ただ醜いものを並べただけだというのに――彼女の理解の外で、彼女は高く評価された。
だから気付いてしまった。人間は、自分に影響が無いと確信できるのならば、他者の身に降りかかる残酷さを楽しむ事が出来るのだと。他者の不幸を堪能する事で、自分の幸福を噛みしめる事が出来るのだと。
思えば自分も、他者の無能を嗤う事で、優れた自分に安堵を抱いたものだった。他者より劣る自分を忌み嫌うのは、その裏返しでもある筈だ。
ならば――ならば自分は、もっと残酷な愚衆を楽しませてやらねばなるまい。それこそが自分への――正当ではないだろうが――評価に繋がるのだ。
結局は挫折した学問、飛び抜ける事は出来なかった魔術、とうとう少し優れた程度に終わった身体能力、平均より上という程度の容姿。つまらない才能ばかり持ち合せた自分が、たった一つ、他者より優れている点は――残虐を好む民衆真理に気付き、自らも残酷を厭わない事。
その時からルドヴィカ・シュルツは、より凄惨な戦地を求めて世界を彷徨い、より無残な死体を探して回る様になった。
死体が綺麗であれば壊し、潰し、崩し、掻き混ぜて映す。見ても居ない殺害現場を、さも見たかの様に煽りたて――創作して、触れまわる。
それを恥じる心は有ったが――称賛への渇望が上回った。彼女はただ幼いころの様に、自分の世界の女王でありたかったのだ。
「あ、あああぁっ、うあああっ――! 消えちまえ、消えちまえ、消えちまえぇっ!!」
吠えねば胸の内から張り裂けかねない程、ルドヴィカの感情は高まっていた。言葉も綴れぬまま叫び、額を村雨に叩きつけ続ける。顔を染める赤は、返り血も己の血も混じり、もはや境界を探す事は出来なくなっている。
才を持つ者が憎く、そして羨ましかった。努力などせずに強く在る者が妬ましかった。
そんな卑小な理由で他人を痛めつける自分が、どうしても好きになれない。だからだろう、鋼の腕も脚も使わず、脆い頭蓋を凶器に変える。いっそ世界も自分の頭も偶発的な事故で、砕けて消えてしまわないかと願う様に。
意識が朦朧としながらも、黒く渦巻く負の感情だけを支えに、ルドヴィカは執拗に頭突きを繰り返した。
「おい、もう止めろ。そうまでする事も有るまい……おい!」
桜の警告も今のルドヴィカには届かない。鋭い声も虚しく響く。
皮膚ばかりか肉までが抉れ――このままならば、やがて骨まで到達するだろう。顔を潰してまで続けるには、あまりに得る物の薄い喧嘩である。
もはや酒の肴にするには、血生臭さが濃過ぎるのだ。此処に於いては桜さえ、傍観に徹する事など出来はしない。右手には太刀、左手に脇差、殺害さえ止む無しとの構えを見せた。
だが、桜は踏み込まなかった。力無く項垂れていた村雨の、掌が桜に向けられていたからだ。
「――ぉ、……ぁあ」
「……何だ、聞こえんぞ!」
頬の裏側は歯でズタズタだ、口を開けば血が零れる。赤く染まった歯と唇で、村雨は何事か呻き――強く、足を踏み鳴らした。
「ぁ、――な、ぁ……!」
「ぎゃっ、あああっ!? あ、ぁあが……、っあ……」
打ちつけられる額を手で止め――そのまま両手の爪をルドヴィカの傷口に突き刺す。
己が繰り返す痛みはまだ耐えられるが、他者から与えられる新鮮な痛みは――ましてそれが獣の爪によるものとなれば、刃物で抉られたも同然だ。八つ当たりの様な心の置き様で耐え切れる苦痛ではない。
胸倉を掴む手が緩んだ隙に、村雨はルドヴィカを突き飛ばし――血濡れた顔で桜を睨みつけた。
「来るなあっ! これは私のだ――私が始めたんだ!」
「村雨……お前」
裂傷打撲傷擦過傷、数える事など出来はしない。例え微笑んでいたとしても、少女には許されない形相であっただろう。
痛みの上に痛みを重ね、苦痛はもはや熱に変わっている。神経を炎で炙られるが如き熱――それが村雨を突き動かしていた。
「何で始めたとかもう分かんない……けど、途中じゃやめられない! 引っ込みが付かない、向こうも、私も!」
どれだけ下らない理由にせよ、一人と一頭だけで始めた闘争だ。二人のどちらかが動ける以上、第三者がこの争いを止めるなど出来ない――当事者が、村雨が許さない。
「駄目だ、死にかねんぞ!」
「止めるなら桜、あなたでも……!」
生存さえが価値を持たない。二個の生物が己の優位を競うだけの争いに――強さ以外の価値は介在し得ない。
「来なよ拗ね者、これじゃ死ねないよ!」
「か――は、はァアアアアア……ああくっそ、むかつくわ……!」
夜気に白く溶ける息。煙の様に吐き出して、ルドヴィカはゆらりと立ち上がる。四肢の筋肉に電流を流し、意思とは無関係に痙攣させて動かす――自らを操り人形と化す曲芸。今のルドヴィカは、通常発揮できる力の数割――いや、ともすれば倍の力で手足を動かせる。
対する村雨に、もう引き出しは無い。生まれ持った人外の身体能力を、敵と見做した者へ行使するだけである。己の芸の無さを頼りなく感じ――この程度で良いのかもしれないと、村雨は己を肯定した。
所詮、無い物ねだり同士の喧嘩なのだ。
十分な才を持ちながら活かしきれず、他者の才を羨むばかりのルドヴィカ。一方で、人ならば決して得られぬ能力を持ちながら、更に人の特権を羨む村雨。
ならば、片手落ち同士で良い。方や技、方や体、その程度のぶつかり合いで良い。
やがて二人は、申し合わせたかの様に進み出て、それぞれに拳を振り被った。自分が最も力を込められる位置に、込められる角度で備え――
「っしゃあああああぁっ!!」
「そおおらあぁっ!」
鋭い気勢は村雨、打の重さに見合った叫びはルドヴィカ。何れも相手の顔を狙って、渾身の拳を放った。
やはり拳速では村雨が上回る。打撃の軌道も、腰から一直線に打ち上げる村雨の拳は、大きく弧を描くルドヴィカより短い距離を走る。
極限まで研ぎ澄まされた村雨の神経は、手の甲がルドヴィカの頬に触れた事さえ感じとった。勝った――確信した瞬間、人の温度が下へと逃げた。
「――あ、れ?」
村雨の拳は空を切る。ルドヴィカは身を屈め、村雨の肘の下へ潜り込んだのだ。
体重を乗せた渾身の一打、空振れば体勢も流れてしまう――この場合は腰が周り、背を向ける事になる。晒された無防備な背に、ルドヴィカは蛇と化して絡みついた。
「く、ぇ――――」
鉄骨が仕込まれた腕が、村雨の細首に巻き付く。腕力に、鉄骨同士が引きあう磁力を加えた絞首は、僅か数度の瞬きの間に村雨の意識を刈り取っていた。
静かな、静かな決着であった。




