皇都の夜のお話(6)
あまりに幼い喧嘩であった。
身を守る術も知らない者同士が、然し避ける事さえ考えずに打ち合いをする――となれば、
「ったいわね犬っころ!」
「お互い様でしょうが! あと犬言うな!」
少女二人の顔は、忽ちに青痣だらけと成り果てた。
だが止まらないし、引き下がらない。痛みも疲労も、殴り合う二人の足枷とはならなかったのだ。
村雨がルドヴィカの顎を打ち上げる。腰に触れる様に構えた拳を、手の甲からぶつかる様に振り抜く、変則的な打撃だ。体重はまるで乗らないのだが――人外の速度でそれを補い、えげつなく重い衝突音を響かせる。
ルドヴィカは、歯を食いしばって耐えた。身長の利を活かし、肩の上から回し込む様な軌道で右拳を振り落とす。視界がぶれた為に狙いが外れ、村雨の左肩を手首で打つ羽目になった。
「いぎっ……!? ぁ、ったぁ……」
「言ってくれたわね、このぉっ!」
より深く当てたのは村雨。だが、より痛みを訴えているのも村雨である。肩を押さえて蹲る彼女を見降ろし、ルドヴィカは脛を顔面に叩きこむ様に蹴り抜いた。咄嗟に両前腕で防御して――威力に負け、村雨は仰向けに転がった。
転がされた勢いに、自分の脚力も合わせ、村雨は一度大きく後退する。立ち上がった場所のすぐ後ろでは、桜が月と酒盛りを続けている最中であった。
「手伝うか?」
「要らない!」
「だろうなぁ。然しお前、危ないぞ」
短いやりとりだが、桜の言わんとする所は、村雨には伝わっている。どういう仕組みかは検討付かぬが、ルドヴィカの拳足はいやに重いのだ。手数がこのまま同じであれば、軽量の村雨は確実に打ち負ける。
とは言え、ルドヴィカも所詮は少女に過ぎない。体重が村雨の倍も有るわけではなかろう。打撃の速度だけならば自分が勝っているというのに、何故こうも威力に差が有るのか、村雨はとんと予測が付けられなかった。
身体強化の魔術であれば、魔力の流れを嗅覚で察知する村雨なら、そういうものが発動していると何となく分かるのだ。だが、この場に魔術の用いられた痕跡、残り香は無い。
「然し、良い脚をした女だなぁ」
「……言ってる場合か好色女」
唐突に、桜はルドヴィカを指差し、のんきな声で言ってのけた。思わず村雨は、刺す様な視線を桜に向ける。
「そうではないわ。そういう意味も有るが……ああ、前を見ろ前」
「え――ぁ、わあっ!?」
桜に促されて振り向けば、そこにはルドヴィカが、両手を組み合わせて振りあげていた。両拳の打撃は、再び村雨の肩に落ちる。骨まで衝撃が浸透し、村雨の指先がびりびりと痺れた。
言い掛けた言葉を酒と共に飲みこんで、桜はやはり笑っていた。良い脚と褒めたのは外見の事ばかりでなく、機能性が為でもある。
良く鍛えられて引きしめられ、うっすらと脂肪も乗って防御を重ねている健康的な脚――衣服の上から、桜が見立てた感想がそれであった。殴る蹴るよりも走る跳ぶ、格闘より競技に適した肉付き、と見えたらしい。
脚は全身を支える土台である。土台が強ければ、動きの一つ一つも鋭く重く変わる。打撃の重さの理由、一つには下半身の強さが上げられるだろう。
然し、それだけでは説明が付かない威力であった。
打撃の速度、体格から察せられる体重を考えれば、ルドヴィカの拳足はそう威力が高くない筈なのだ。だのに村雨は、まるで凶器で殴りつけられたかの様な痛みを感じ、実際に痣を作っている。
「……どういう仕掛けよ、もう」
「種明かしは要るか?」
「要らないっ!!」
だが、解けぬ謎に苦しみながら、桜から答えを受け取る事は拒んだ。拒んで踏み込んで、頭からぶつかった。戦いながら考え事を出来るほど村雨に余裕は無いのだ。
頭の重量を武器と化した体当たりは、ルドヴィカの腹部に突き刺さる。水袋を叩いた様な平たい音がした。
「うげぇ、え――っ、ぇぁああ、ああっ!」
横隔膜がせり上がり、胃袋を押し上げる。腹の中身をぶちまけたくなる様な苦痛を抑え、ルドヴィカは叫び、また闇雲に腕を振るった。無防備に晒された村雨の背へ、右前腕を撃ち落とす。技術も速度も無い、だがいやに重さのある打撃だった。
効いた――いや、無理な体勢が祟った。村雨はうつ伏せに崩れ落ちる。辛うじて手で頭を庇ったが、肺が思う様に空気を取り込まない。
呼吸が回復し離脱出来る様になるまで、村雨が要した時間は極めて短く――その短い間に、ルドヴィカは靴の底で、思い切り村雨の頭を踏みつけた。
「っほら、ほらっっ、どうしたぁ! 憎まれ口でも叩いてみなさいよ! あぁ!?」
二度、三度、全ての体重を乗せた踏みつけが重ねられる。見ているだけだった桜が、脇差を手に、腰を浮かせた。
その日出会ったばかりの相手へ、人はこれほどの憎悪を蓄積できるものなのか。殺害すら厭わぬかの如き暴力は――寝返りを打つように村雨が身を交わし、一瞬だが止む。
地団太を踏むように落ちたルドヴィカの足。寸拍の隙を逃さず、村雨はその足首を掴んで引き倒す。立ち上がり――追撃はしない。自分自身の回復を図り、再び後退した。
「はっ、はっ……! ここまでやるんだ、アハハハッ……!」
後頭部には鈍痛、額からは激しい出血。鼻血も出ているし、目の周りや頬には青痣。痛々しい顔のままで村雨が嗤った。
嗤って――そして、牙を剥く。何時しか村雨の犬歯は、肉食獣に特有の、鋭い牙へと変化していた。
いや、変わったのは歯だけではない。皮膚の上からは見えないが、顎関節は可働域を増し、かつ接合を強固に。肘、手首も柔らかく、常人ならば有り得ない程に反る様に変わる。
然して村雨が曝け出した異形の最たるものは、丸く開いた瞳孔と、水色を帯びた眼球の白。夜の僅かな光をさえ逃さぬ、獣の目であった。
「……殺すなよ、村雨」
「大丈夫だよ、大丈夫……フフ、だーいじょーうぶっ!」
石畳を爆ぜさせ、村雨が跳んだ。
「えっ、うそ、速――」
つい先程まで足蹴にしていた敵。頭を散々に打たれた筈の、立ち上がる事さえ難しい筈の敵。それが自分に倍する速度で、さも愉しげに飛び込んでくる。ルドヴィカは我が目を疑う間も無く、喉に拳を打ちこまれた。
「げえぁっ……!? ぁあ、あ」
意地で耐えられる耐えられないと言った、精神論を超える一撃。呼吸器を外から押しつぶされ、涙と悲鳴が同時に零れた。
追い打ちの右拳は首筋、左爪先は脇腹。左右の肘で鳩尾へ二連撃、膝を踏むように足裏蹴り。これまでの稚拙な殴り合いを払拭するかの様に、村雨の打は全て、人体の脆い部分を狙っていた。
それが――面白い様に当たる。
人間はどうしても、攻撃を『放たれてから』回避は難しい。人の反射速度では、来たと察知するより先に、相手の拳が届いてしまう。だから殆どの人間は、例えば肩や腰、脚の動きから相手の意図を察し、事前に自分が動いて拳を防ぐのだ。
村雨の打は、初動が恐ろしく読みづらかった。上体を反らしたかと思えば、そのまま横に弧を描いて拳が飛ぶ。地面に手を着いて逆様に立ち、そこから地に足を着くまでに四度も蹴る。膝と足首の僅かな挙動で跳躍し、落下の勢いのまま、踵を振り落とす。何れもが、打撃戦の素人であるルドヴィカには読めず、防ぎ得ず、避けられぬ物であった。
たった十数秒の攻防にて彼我の優位は逆転する。地に伏すルドヴィカを見降ろし、村雨は唇に触れた血を啜った。切れた額から流れた血は、鼻筋を伝って顎にまで届いていた。
「あー……っはは、ははハッハハハハ……! ああ、すっきりした……」
勝ち誇る様に嗤う村雨。侮辱と受け取ったのだろう、ルドヴィカは立ち上がらぬまま、拳で石畳を殴りつける。
だが、彼女を発火させたのは、それに続く村雨の一言。
「……死なないでよ? 私は、殺しちゃいたくはないんだしさ」
「――ッ! Verdammte Scheisse――『Anmachen』!!」
口汚く罵り叫び――〝雷に打たれた様に〟跳ね起きた。
短い頭髪は全て逆立ち、体はがくがくと痙攣し、目の焦点は合わず――死に体で、ルドヴィカ・シュルツは立っていた。
「……一刻は寝ているかと思ったが……村雨、気を付けろ。死ぬぞ」
今宵は見立ての狂う夜である、そう桜は感じていた。短い時間に村雨もルドヴィカも、おおよそまともに立てないであろう程、互いを殴り蹴りつけあった。だのにどちらもが立っていて――
「ッハハハ、ハハ……だよね、続けないと。続けないと、さあ!」
これからが幕開けとばかりに構えている。もはや忠言など無意味であった。
「殺してやる、ぶっ殺してやる――ぅああアァッ!!」
ルドヴィカが石畳に右手を触れさせ、吠える。その声に応じる様に、右腕が目を焼くが如き閃光を発し――黒い何かに覆われて、光が消える。村雨の鼻が、魔力の流れを感知した。
何が起こったかと考えるより先、ルドヴィカはただ一足で三間を踏みこみ、黒く変わった腕を、村雨の腹目掛けて振るった。
速いが、今の村雨に見えぬ速度ではない。余裕を持ち両腕で受け止め――村雨の体は、そのまま空中へ跳ね上げられた。
「ィッ――うあ、アァアアッ!?」
その威力は、先程までの比ではなかった。受けた腕は一撃で内出血を起こし、衝撃は腹を貫いて背骨にまで響く。村雨の短い生涯の中で、恐らくは最大の痛みであった。
更に――衣服の袖が、その下の皮膚が、ヤスリに掛けられた様に削れていた。その時に初めて村雨は、ルドヴィカの腕の正体を――そして、打撃の異常な重さの理由を悟った。
彼女の腕を覆った黒――それは砂鉄である。地面に大量に散らばっている、だが拾い集めるには骨の折れる金属――それをルドヴィカは、己の右肘から先に纏っていた。
「……気に入らないのよ、生まれつき恵まれた連中ってのは……!」
「だからと言って〝そう〟までするか。筋金入り、いや――」
酒を捨て、桜は完全に立ちあがっていた。鞘から抜け出そうとする脇差を抑えながら、二歩だけ二人に近付いた。
「――骨金入り、とでも言いなおすべきか。打の重さも、短刀を防いだ手法も、それならば納得が行く。右腕だけか?」
「だれが答えるかっての……舐めるな天才どもォッ!」
砂鉄を纏った腕――金属の強度と重量に、人の腕の万能性を加えた武器。ルドヴィカはそれを掲げ、地面に膝を着いた村雨の首目掛け、腕を全力で振り抜いた。
肘の裏側が、村雨の喉を掬いあげる。喉の皮膚が避け、気道と血管は同時に強く圧迫される。打点は重心より遥かに高く、村雨は腰を中心に後方に回転、後頭部を地面に打ちつけた。
「――かァ、ッ……、うぁ……、ぅ」
何かを掴むように手を伸ばし、空気を求めて舌を突き出す。四肢も肺も全てが狂って、村雨の意識は暫し何処かへ消えていた。
その様を見降ろして、ルドヴィカの表情はまるで晴れていない。村雨の胸倉を掴み、額と額を突き合わせ、何も映さぬ瞳を睨みつける。
「偉そうに……よくも偉そうに! 生まれつき強いくせに、努力なんてなにも要らないくせに――!」
村雨とルドヴィカは、端的に言えば同族嫌悪でこれ程の潰し合いをしていた。
真っ当な人間に憧れ、人間の様に生きていきたいというのに、己の本質は殺傷欲求に満ちた化け物。そんな矛盾を抱えた村雨と――
書きたい物を書いて認められず、認められる為には自分が厭う『虚飾』『捏造』『阿り』に満ちた記事を書く。そんな矛盾を抱えたルドヴィカと――
「楽しくなんかないわよ! ちっとも面白くないわよ! だから――だから何だって言うのよ!?」
似た者同士、傷を舐め合う事も出来ただろう。だが、見たくも無い事実を常に付きつけられるのだから、そんな相手と落ち着いて向き合う事など出来はしない。
そしてまた、自分達が似ていると自覚しているのは村雨だけである。ルドヴィカからすれば村雨は、自分が持たぬ物を持つ恵まれた存在なのだ。
自分が書いた文章を読んで楽しいか。村雨の問いに、血を吐く様な叫びを返しながら、額を幾度も打ち合せる。相手にも――そして自分にも平等に痛みを与える行為。ルドヴィカは今の自分が嫌いで――だから、自分を殊更に傷つける。
「私だって、自分が読んで楽しいって思える様なものを書きたいわよ! それが出来ないからこんな辺境まで流れて来てんのよ!」
強くなる為ならば――己を鍛える方法も、安易に使える武器も、それこそ幾らでも有る。だのにルドヴィカは、自分の体を切り刻んで作り直す事を選んだ。 肘から先を、膝から先を、切り開いて骨を取り出し、代わりに鉄の骨を押し込む。神経を筋肉を腱を繋ぎ直す行程は、どれ程の苦痛を伴ったであろうか。
「自分のままじゃ通用しないなら――変わるしかないじゃない、全部! 全部! 全部! 体だって心だって――誇りだって!」
その痛みさえ、自分を否定する慈愛なのだ。
ルドヴィカ・シュルツは、酷く歪んでしまった少女だった。