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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
皇都の夜、黒八咫の羽
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皇都の夜のお話(4)

 堀川卿の私室はやはり薄暗く、万年床が奇妙な存在感を示していた。だが今日ばかりは部屋の主も、自分の脚で立って来客を出迎えた。

 集められた人員を見るに、どうにも人相から気の短さが伝わってくる様な連中である。そして恐らく喧嘩の腕も、面構えに比例するだけのものは有るだろう。

 然し――桜に常に追随していた村雨には、彼らとて街のチンピラと大差無い様に感じられていた。辛うじて葛桐と、あと二人か三人は、相当な腕利きであろう。だが、一人で数十人を打ち倒せる様な怪物は、たとえ『錆釘』の内部にもそう居ないという事らしい。

 呼び集められたのは三十人ばかり――本当は五十人の元に伝令が走り、二十人は連絡が付かないか召集に応じなかったのだ。


「よう来てくれはった。挨拶は抜きや、本題だけで済まさせてもらいますえ」


 集められた彼らは、自分達が為さねばならぬ事を、既に幾つか予想していた。

 荒事自慢を掻き集めるからには、これは『錆釘』も本腰入れて、政府と一戦交えるつもりであろうか。敢えて少数に留めたのは、夜陰に紛れて奇襲を行わせる為だろう。ではいよいよ、大きく稼ぐ時が来たのか――そんな風に、彼らは考えていた筈だ。


「全員、皇国政府の兵士に対する一切の加害行為を禁ずる。また、朝的とされた者に対しての何らかの支援行為は、例え業務の内であっても罰則の対象とする。度を超す場合は討伐命令――殺害の依頼を、うち自身から出すで。

 分かりやすく纏めるんなら――うちら『錆釘』は政府の布告に完全服従する、っちゅうこっちゃ」


「馬鹿を言え!」


 呼び集められた者の中で、気の短そうな男が叫んだ。彼程では無くとも、集められた者の大半は、堀川卿の言に不服の声を上げた。

 道理が何れに有るか――自分達か、それとも無辜の民を虐殺する政府か。正当性は我らに有り、いざ戦えば賛同する者も有ろう。被害が拡大する前に、今この瞬間にこそ立ち上がるべきではないか? それが彼らの考え方である。

 併せて言うに、そうして日々の糧を得てきたのが彼らだ。生物として強い事、それだけを頼りに自分の腹を満たしてきた彼らだからこそ、争いもせずに屈服してしまう事に疑問を抱いたのだ。


「今朝方、政府から正式に書状が届いた。それによるとな、うちらから五十人ばかり、邪教攻めの先兵を借り受けたい言うとるんよ。当然の事やけど、これは普通に殺しもしてもらう依頼になるわな。

 せやから、あんた達を集めた。正式な要請やから、そう無碍にする訳にもいかん。可能な限り良質の兵隊を送りつけて、その分稼がせてもらおう思うとるんよ。人数が少ないのは……まあ、しゃーないわ。

 報酬は正規の五倍を提示されとる。ヨボヨボの爺婆や喧嘩も知らん頭でっかちの坊主連中を、一日に何人か殺せばそれだけで一月遊べる金が入る。逆にこの任務、拒否するなら相応の罰則も有りや。今回はなりふり構っとられんさかいな」


 部下から向けられる疑念も、まるで意に介さず堀川卿は言葉を続ける。感情の籠らない声である。そして、命令は酷く非人道的なものであった。

 然して命令を与えられた彼らは――彼らの半分以上は、その非道を良しとする側に傾き始めた。

 通常の五倍の報酬と、そして敵は弱者と確定した存在。雇用主は政府、おそらく支給される装備一式も上等の品だろう。人脈の形成も期待できる。

 正義だ道理だという言葉は、居心地の良いものだ。然し腹は膨れないし、雨風寒さは凌げない。先程不平の声を上げた男でさえ、報酬という言葉を聞けば、表情から暗さが消えていた。


「良く働いたもんには、正規兵として小部隊を任せる事も検討しとるらしいで。その為なら……少々の無理な任務でも、あんた達はやってのけるやろ?

 ……質問があれば答える。無ければ意思確認、それから配属の通達や。誰かいるか?」


 三十人近い集団の中で、まずは中年の男が手を上げた。


「俺は今、一月の契約で警邏に雇われてるんだが……そっちはどうすれば良い?」


「代わりの人員を二人回す。向こうから貰うのは引き続き一人分の給与でええ、不足はうちらで補填します。今回の特別要請は、全ての雇用契約より優先度を高く認識してもらいます、ええね?」


 分かった、と男は短く答えて手を降ろす。


「政府への完全服従が『錆釘』の方針と決まった……という事ですが、では方針に背く構成員の殺害は」


 また別な手が上がった。背の高い女の手だった。


「許可する、特例や。今回の任務に限り、法度の同胞殺しにも目を瞑ったる。例えそれが〝あんたらの誤認による事故だったとしても〟な」


「……誤認による事故だとしても……ふふ、了解しました」


 質問者の女の口が、ぱっかりと上下に裂けた。集められた者達のどよめきの大半は、信じ難い事を聞いてしまったという困惑だったが――二人か三人が、明らかに喜悦に顔を歪ませていた。村雨の見立てで、恐らく葛桐と同等か――或いはもう少しばかり強いかも知れない様な連中だった。


「ほな意思確認をするで。全員、床で悪いがお座り……これから確認を取る」


 その他に質問の手は上がらなかった。不満が無いという意味でも無かろうが、堀川卿はこれ以上、結論を先送りにする気も無い様だ。


「うちの方針に従うならそのまま話を聞け。気に食わん奴は――立て」


 迷い無く立ち上がったのは、村雨ただ一人であった。ほぼ反射的に、噛み付く様な気勢で立った村雨を、堀川卿は冷たい目で見ていた。


「私は……納得できません。あのやり方を認めるんですか!? 何人が死んだかも分からないのに……!」


「うちは認めるよ、村雨ちゃん。この国を動かす人間達が決めた事を、たかだか数百数千の頭が覆せる筈ないものなぁ……

 昔っからこの国はそういうもんやろ? 帝が決めて下が動く、幕府が決めて下が動く。やっとる事はなーんも変わらへんわ」


「その決定が間違ってるのに、どうして!」


 この場で堀川卿の言葉に異議を唱えたのが村雨だけであった理由は――取りも直さず、彼女ただ一人が周囲に比べて幼すぎた為であった。

 他の誰も、政府が正しい事をしているなどと考えてはいないのだ。明らかに政府の行動は道理に欠けている、従えば即ち悪行に手を貸す事ともなろう。

 だが――権力の衣を纏った悪行は、許される行為なのだ。寧ろ権力に弓引く事こそ、例え正義に基づいていたとしても許されざる事となる。

 ならば、善悪など語るも虚しい事であるならば、利に身を委ねるも人だろう。


「……何人死んだかは、確かに分からへんけど。『錆釘』の構成員は少なくとも、二十人以上死んどるで。これ以上死人を増やすくらいなら、余所の誰かだけ殺して済ますわ」


 何一つ意義を唱えない者達は、自分の利を選んだだけだ。堀川卿は、『錆釘』という組織の利を選択しただけだ。己の感情以外に利する所ない選択をする村雨こそ、この場ではただの幼子であった。


「おい待て、聞き捨てならん事を言うな」


 然して幼子の純粋さを、良しとする者も居るのである。


「『全ての雇用契約より優先度を高く』……私がどれだけの金を払ったか知らんのか? 『錆釘』とはなんと客に冷たい場所だろうなぁ」


 本来なら構成員しか通されない筈の部屋に、雪月桜は平然と立っていた。


「……桜さん、相変わらず自由な人どすなぁ……申し訳あらへん、納得してくれませんか?」


「無理だなそれは。『代わりの人員を二人回す』だと? 冗談ではないぞ、こいつの代わりがどこに居るものか」


 一人、両手を強く握りしめて立つ村雨の肩を、桜は軽く引き寄せて左腕に抱いた。集められた構成員の内に調子の良い者が居たらしく口笛が一つ聞こえた。


「代役は、出来るかぎり手を尽くさせてもらいます。美人さんが好きなら二人でも三人でも」


「十人だろうが断る。下手な代役など送りつけてみろ、そいつの肋と合わせて、お前の首も圧し折るぞ」


 背の鞘の留め具を外す。蝶番が開き、黒太刀『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』の柄が、桜の右手に握られた。


「私が買ったものを、誰が取り上げるのも許さん。無理を通すと言うのなら、この場に居合わせた者も皆殺しだ」


 その言葉に、咄嗟に身構えた者が居た。殺しを許可されて嗤っていた三人は、何れもが逃げる為に腰を浮かせた。葛桐だけは呆れ果てた様に溜息を付き、胡坐を掻いたまま座っていた。


「さてどうする堀川卿とやら。虎の子の部下を失うか、或いは小娘一頭を手放すか。利を考えるならば悩む事もあるまい?」


「……妥協できるのはここまでどす、それ以上はこっちも体面がある。それを分かってくれはるなら……村雨ちゃんが何をしようと、気付かへん様にしときましょ」


 堀川卿もまた獣である。言葉だけの脅しを掛ける者と、本当に行動に移せる者の違いは嗅ぎ分けられる。桜ならば実行するだろうし――そして実際に、この場の者を皆殺しにしかねない。彼我の力量差を鑑みれば、頷く他に手は無かった。


「うむ、理解が有ってよろしい。戻るぞ村雨、そろそろ眠い、添い寝でもしろ」


「……ん」


「どうした? 誰がするかー、などと喚かんのか? ……ではな、堀川卿とやら」


 鞘を閉じ、桜は堀川卿の部屋を後にする。敢えて追う者など誰も居なかった。






「まーったく! ああいう時はな、適当に話を合わせて頷いておけば良いのだ。徒労だと分からんのか?」


「………………」


 自室に戻った桜は、太刀と脇差だけ外してベッドに転がった。

 村雨はベッドの縁に腰掛け、両手を握りしめたまま小さく震えていた。言いたい事は幾らでも有るのだろうが――それを言葉として、上手く伝えられない事がもどかしくてならない。苛立ちにも似た感情が渦巻いて、どうにもならなくなっていたのだ。


「おい、村雨。お前そんなに、正しいだの間違ってるだのが気になるか?」


「……そんな事じゃない!」


 強く叫んでみても、言葉は後に続かない。また黙り込んでしまって――桜が体を起こした。


「人助けが趣味という奴は、まあ見た事は有るな。だがお前は……そういう考えでは無かった筈だ。もう少し保身に長けていると思っていたがなぁ……何故だ?」


「何が」


「火に飛び込むのは、恐ろしくなかったのか?」


 獣の本能は、火に過剰に近付く事を許さない。人間とて同様に、理性が有れば火傷を恐れる。人でもあり獣でもある村雨が、炎を恐れない道理も無いのだ。


「……あの時は、そんな事分からなかった。ただ……誰か生きてる人がいてさ、自分がどうにか出来そうだって思ったら、勝手に足が動いてただけだもん」


 だが――例えば、井戸に子供が落ちてしまったとしよう。その子供が例え自分の親類でなくとも、もしかすれば個人的に好感を抱いていない相手であろうとも――人間は不思議と、その子供を助けたくなるものだ。

 そう、人間は自分の利害に関わらず、無条件に身を賭して他者を救う事がある――救いたくなる事がある。それを良心と呼ぶのは、きっと正しい解釈ではない。自分が何かをしなくてはという、それは寧ろ義務感に近いものなのだ。


「でも、何人か助けてみたって、結局その何十倍も何百倍も死んで……」


 だから村雨は苦しんでいる。大きな傷も負わず、強力な庇護者も持つからには、持たざる者を助ける義務が有る――言語化できぬ領域で思い込んでいる。


「……じゃあ何よ、私がした事って!? 意味無いじゃない、何も変わらない……気休めにもならない! 私なんかじゃ何も出来ない、出来なかった!」


 痛むのは良心などではない。何も出来ぬ自分の非力、それを嘆いているのだ。思う事を為せぬ己の弱さに苦しんでいるのだ。


「なのに誰も、どうにかしようなんて思ってない、真っ直ぐ見ようともしない……! 余所見をして嘘をついて……もっと、綺麗なものだって思ってたのに!」


 ならばせめて、誰かの力を頼りたかった。ほんの僅かでも良い、力を貸そうという意思だけでも良い。その後押しさえあれば、自分の行為を正しいと裏付けてくれれば――或いは自分の非力に目を瞑って、徒労を繰り返せるのかも知れない。

 そうだ、所詮は八つ当たりにも似た感情なのだ。勝手に理想化した人間像から周囲が遠ざかっている、それが我慢ならず喚いているだけだ。

 本当は村雨とて、『錆釘』が政府に尻尾を振る理由を推察できる。政府公認誌とやらが、民衆に嘘を振りまく理由を推測できる。だが、そうして理屈を突き詰めて考えて行くと、人間が汚いものであるという結論が出てしまいそうで、だから分からない振りをしていたのだ。

 何時しか村雨は、膝を涙で濡らしていた。悲しみではない、怒りでもない、ただ悔しさだけが渦巻いている。頬を濡らす涙を拭いもせず、子供の様にしゃくりあげ――背に温度を感じて振り向いた。


「まずお前はな、もう少し我儘になるべきだ」


 村雨の小さな背は、桜の胸に抱かれていた。


「私が無茶をしようとしても、お前は大概受け入れて……ああだこうだと言いながら、結局は最後まで横に居る。もう何度繰り返した事だろうなぁ? 江戸でも道中でも、京に来てからもまるで変わらん。いつもお前は肝心なところで一歩引き下がる。

 ……だがな、村雨。その一歩を下がらずに押してみれば、世の中以外と通るものだ」


 背から回された手は、小さな傷跡が無数に残っていた。その内の一つ、幾らか新しいものが気になって、村雨は自分の手をそっと重ねる。似た様な事が有ったなと考えて――その時は、未遂で終わっていたとも思い出した。


「あの初めの日。殺されるかも知れないと怯え泣きながらも、お前は私の前に立ちはだかった。人が死ぬのを見たくないという我儘で、私の〝殺したい〟という我儘を捩じ伏せたのだ。なら……もう一度、それが出来ぬ筈もあるまい?」


 人を守るのも、所詮は我儘なのだと桜は言う。人を傷つける行為と救う行為と、過程だけを見るのならば、本質的に大きな差は無いのだ。ただ結果を重んじるものだけが、この二つを区別する。


「……どうしろって言うの」


「どうしたいのだ」


 桜の手の古傷に、村雨がそっと爪を立てる。薄皮に爪が食い込んだが、辛うじて血管には届かなかった。


「言えば、手伝ってくれる?」


「ああ」


 短い相槌、頷いて生まれる小さな振動。それだけの答えが、村雨の涙を止めた。


「私は……知っちゃったもん、知らないふりはできない。昨日のあれが続くんなら止めさせたいし、せめて見つけた人は助けたい。それで……それで、できるなら、できるだけたくさん助けたい」


「理由は有るか?」


「無いよ、多分。そうしたいって思っちゃったからそうするの。それが……誰かの迷惑になっても、そんな事は知らない。助けられなかったら多分、私はずっとこんなふうに、ウジウジしながら生きてく羽目になっちゃう」


 くぅ、と桜が唸った。美酒を一息で飲み干した時の、酒精が喉を焼く辛さと快楽の一体となった熱さ。それを堪能するかの様な声であった。村雨を抱く腕が、少しばかり力を強めた。


「ようし、江戸に帰るのは暫く後だ。まずは馳せるぞ、意味も無く。無暗にやたらに走りまくって、見えた所からどうにかしよう。それでな、どうにもできる事が無くなったらまた馳せるのだ」


 深い考えなど何もない。ただ反射的に体を動かし、眼前に存在するものごとだけを解決する。獣よりも獣に近い、本能的な生き方だ。

 それはどれ程に視野の狭い事だろう。だが、そも一人や二人の人間が、そう大きな事をできる筈もなければ、する必要も無いのだ。


「……そうしようとする、理由は?」


 自分への問いと同じ事を、肩越しに桜の頭に触れながら村雨は問うた。


「有るぞ、明確な理由が一つだけ有る。」


 答えに、寸拍の迷いも無い。


「惚れた女にねだられて、これに応えずに居られるか。村雨……私はな、お前の笑い顔を見る為ならば、道化にも修羅にも成り果てる」


 桜は己の思う様に、村雨の我儘を最大限叶える事、それだけの為に刀を振るうと決めていた。

 戯れの様に、或いは戦の高揚に任せて、口にした事は幾度か有った。自分の所有物だと、他者に対して宣言した事も有る。然しそれらの言葉は、所詮は上滑りして流れ落ちるだけのものだった。


「私は、お前が好きなのだから」


 この日初めて――雪月桜は、村雨に愛を告げた。


「――ぁ」


 村雨は、火を飲みこんだかの様に、体内から熱が込み上げてくるのを感じた。口を開けて熱を逃がそうとすれば、吐き出す溜息は凍えたかの様に震えていた。

 喉が渇き、胸が早鐘を打つ。唾を飲み込んでも、まだ正しく声が出せそうにない。背に感じる暖かさが急に膨れ上がった様な気がした。

 贈られた言葉に何も返せないのは嫌だと、村雨は無理にでも言葉を探した。何も見つからなかった。だから、桜の腕の中で身をよじり、体を後ろに向かせた。

 すぐ傍に、桜の顔が有る。慣れぬ者では表情を見分けられぬ氷の面貌に、今は誰が見てもそうと分かる笑みが――柔らかく解けた笑みが浮かんでいた。

 暖かくて眩しくて、村雨は目を閉じた。乾き始めた頬に息使いを感じる。衣服越しに伝わる熱より少しだけ熱かった。心臓に近いぶんだけ、熱かった。

 白昼のまどろみにも似た暖かさに揺られる村雨は、頭をぐいと引き寄せられたのを感じてまた目を開ける。先よりも桜が近くに居て、更に近づいて――


「わあああああぁーーっ!?」


 唇と唇が触れる寸前、村雨は頓狂な叫び声を上げながら、桜を思い切り突き飛ばした。反動で村雨自身が、ベッドから転げ落ちて床に引っ繰り返った。


「なんだ大げさな、初めてという訳でも有るまいに。なあ?」


 殊更に残念そうな表情を作りながらも、明らかに桜は愉しげな声である。仰向けになった村雨を見下ろしくすくすと笑う。何時もより少しだけ無邪気な音だった。


「ばっ、いきなり何を――すっ、すき、って、え……?」


 鮒か鯉の様に口をぱくぱくさせる村雨。立ち上がる事も忘れて、覆いかぶさる桜を見上げている。膝が額にくっつく様な、傍から見ればなんとも間の抜けた姿であった。

 腕ではなく足首を掴み、桜は村雨を引き上げる。自分の横に寝転がせ、自分は枕に頭を預けた。


「寝るぞ村雨、まずは寝る。起きたら飯を食って……それから、お前の好きにしろ」


「ん……」


 普段の村雨であれば、寝床の位置が気に食わないとまた喚いたかも知れない。


「分かった、そうする。寝る」


「良し」


 だが――眠気のせいと彼女は言うだろうが――今日の村雨はいやに聞き分けが良かった。

 大の字で寝る桜の腕を枕に、膝を抱える様に身を縮め、くうくうと小さな寝息を立て始める。太陽はそろそろ、空の真ん中へ届く頃合いであった。

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