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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
皇都の夜、黒八咫の羽
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明けの熊鷹のお話(5)

 跳躍、空中からの奇襲、戦闘態勢への移行。流れる様な動作の結果、村雨と矢代やしろの間には、一間の距離さえ開いていなかった。

 かたや亜人、かたや盲人の射手。日は既に街を朱く照らしている。全ての環境は村雨に味方している。


「ふ――はいっ!」


 前方へ飛びこんだ勢いを両腕で殺し、村雨は身体能力任せに右脚を振るう。地を払う様な水面蹴りは、矢代の脛を強く打ち据えた。

 脚を払われ、痛みも有って矢代が前方につんのめる。跳ねる様に村雨は立ち上がり、両掌で矢代の顎を突き上げた。


「おごっ――っ!?」


 歯と歯が衝突し、火打石の様に音を鳴らす。爪先立ちで背筋を伸ばし、矢代は僅かな時間、意識を何処かへ飛ばした。徒手格闘はまるで覚えの無い矢代だ、首を鍛えた事も無いのだ。

 然し、膝が屋上の石床に落ちるより先、飛ばされた意識は強引に引き戻される。身体の脆弱さを精神力で補い、矢代は踏み止まり、痛めた左腕で殴り返した。

 瞼を閉じたままで、やはり狙いは正確。村雨の側頭部へと放たれた突きは呆気なく回避される――人狼の目には遅すぎたのだ。

 一方で、村雨もまた、格闘技の素人である。高い身体能力を活かしきる技が無い。故に力任せに、速度任せに再び脚を振り回した。靴の固い爪先が、矢代の脇腹に食い込んだ。


「ぉっ、……!」


 骨にも強い筋肉にも守られていない部位にめり込む程の衝撃。声にならぬ声を上げ、矢代の体がくの字に曲がる。

 おおよそ打撃戦として成り立っていない、所詮は喧嘩程度の争いである。が、当事者である二人はいずれもが、決してこの場は譲れぬと決意を総身に示していた。


「かぁああ、ああぁ――『射』ァッ!」


 右手に掴んだままの大弓を、目を閉じたまま獲物へ向け、一声と共に矢を放つ。これがせめて、五間の間合いも有れば当たったのだろうが――距離の優位性無くして射手に勝ち目は無い。

 矢が放たれるより先、鏃の向く方向から逃れる様に、村雨は円を描いて側面へ逃れた。矢はまるで見当違いの方向へ飛んで行き、そして眼前には隙を曝した敵がいる。


「すうぅ……――ぃいやっ!」


 勝つにはここだ、村雨はそう思い、可能な限りまで息を吸い込んだ。その内の数分の一だけ吐き出して、矢代へ再び飛びかかった。

 適当に作って振り回した拳が肩を打つ。やみくもに振りあげた靴が肋骨を叩く。殴ろうとして間合いをしくじり近づきすぎたが、然し肘が鎖骨に命中した。息継ぎ一つせず、村雨は拳足を繰り出し続けた。

 どこを狙うでもなく、ただ目の前の敵を痛めつけながら思う――人間一人を殴り倒すのは難しい、と。

 射手の逃げ足より、村雨の追い足は早い。速さの差で、突き出す手足は面白い様に矢代の身に吸い込まれていく。然し、打を重ねても重ねても、村雨は手を休めようとしなかった。

 或る側面では、仕方が無い事だった。人を殴るにも経験と技術は必要だ。どちらも大きく不足している村雨には、自分の打が成果を上げているという確信が無いのだ。

 今にも相手が殴り返してくるか、或いは奥の手を披露してくるかと気が気でない。気を緩めれば自分が同じ目に遭う、それが怖くて堪らない。ある種の怯懦が、村雨の猛攻を支えていた。

 ただ――それだけではない。骨で骨を殴り、拳は傷つき掌は腫れあがり、疲労も痛みも蓄積して尚、村雨が休まない理由は――?


「はっ、は……は、っははは……!」


 単純に、楽しかったのだ。

 自分が生物として優れていると知る、それが悪い気分である筈が無い。強者として思うがままに弱者を蹂躙する、それに愉悦を覚えぬ筈が無い。一切の遠慮躊躇なく行動する特権は、誰しもが行使できるものではないのだから。

 嘘だと言うのならば。他者を嬲る事に悦を覚えぬと言うならば、理屈を捩じ伏せて思い返すが良い。何らかの勝負事に於いて――それが例え駆け比べでも囲碁でも、或いは些細な賭博でも――勝利とは心地好いものだ。自分の優位性の確認に快楽を見出す、それは決して後ろめたい事ではない。

 誰しも勝ちたいのだ。負けを殊更に喜ぶ者など居ないのだ。勝つ事が全てではない――然り。だが、勝利を得て良いのならば、それを敢えて逃がす道理は無いだろう。

 だから、もしも自分の勝利が正当性に支えられるのならば。他者を思うが侭に嬲り、その才と努力の一切を否定し、痛めつける事が必要とされるのならば――


「ははっ、はは、あはははは……!」


 ――勝利の過程を楽しんで、悪い理屈も無いだろう。

 必要なのだから。勝たなければ他の誰かが犠牲になるのだから。勝つ為にはこうしなければいけないのだから。だから、最早反撃の力が残っていない相手を、どれ程に殴りつけ蹴り飛ばしても良いじゃないか。だって向こうは何人か人間を殺しているんだ。

 そう、自分は義務を果たしているだけの事。その手段として、自分が少しばかり楽しい方法を選んだだけだ。別に殺そうと言う訳じゃあなし、


「――ぁ、あ!?」


 自己弁護に過ぎぬ理屈を構築しながらの拳打蹴撃。その雨を止ませたのは、村雨自身の理性であった。

 この戦場は、六階建ての建物の屋上。そして生憎この建物は、屋上に柵が設置されていない、極めて安全性に乏しい構造をしている。

 あまりに打撃を重ね過ぎて、大きく矢代を後退させてしまった――つまり、落下寸前まで追い詰めてしまっていた事に、村雨は気付いたのだ。

 落とせば死ぬ。体術に長けていないらしいこの相手を落とせば、まず間違いなく転落死する。直感的に気付いたが故に拳を引いた村雨の、ガラ空きになった腹を、矢代は踏むように蹴り飛ばした。


「うぇ――……っ!」


 横隔膜がせり上がり、肺に溜めこんでいた息が全て吐き出させられる。一瞬だが村雨は完全に動きを止め、そして矢代は蹴りの反動で自ら後退した。


「うぐ、おぉ……! 背神の徒が、おのれ聖道に逆らうかぁっ!」


 吠えつつも矢代は、己の圧倒的な不利を認識していた。この間合い、そも矢を番えて弓を引く猶予さえ与えられない。仮に矢を番えたとしても、指を離す僅かな時間の間に、的は眼前から消えているのだから。

 距離が欲しい。せめて五間――いや三間の距離が欲しい。矢代が活路を見出したのは背後――屋上の外、地上までの空間であった。たっ、と石床を一蹴り、小さな跳躍であった。


「あ――馬鹿っ!?」


 敵の叫びを聞きながら。そして、己がふわりと浮きあがる様を第三者の視点で見ながら、矢代は弓の弦を引く。

 そも扇殿 矢代は未熟な魔術師である。身体強化の術もままならぬし、防性の魔術も一つとして扱えない。幼少の頃より習い覚えたは弓の道のみ、余所見などしている暇は無かったのだ。

 その矢代をして健常者以上の視界を得る技巧――それこそは、広域探知の永続魔術『熊鷹の眼』。攻性魔術『薄明の鷹爪』と対になるこの術は、周囲の映像を直接脳裏に刻み込む。

 対象範囲は、〝術者〟ではなく〝対象者〟の任意。つまり、術を〝施された〟矢代の任意に、最大で三里四方にも及ぶ。おおよそ空から見下ろせる場所であれば、矢代に見えぬものなど無いのだ。

 今も矢代は、屋上に一人取り残された敵の姿を目視し、狙いを付けている。

 自分は転落死するかも知れないし、生き延びるかも知れない。それは運の定める所だ。だが、それと引き換えに、確実に敵を一人殺す事が出来る。それが矢代の目算で――大きな誤算でも有った。


「ぁ――ぁああああ、ああっ!」


 吠えて、跳んだ。矢代が跳躍から落下に転ずるその瞬間、村雨もまた、矢代を追って跳躍したのだ。


「な、にを……!?」


 無謀に無謀を返す愚行。矢代は暫し、射手としての役割さえ忘れた。弦に矢も番えられず――そして、利き手の手首を掴まれる。

 村雨の爪先が、左手が、屋上の僅かな段差に引っ掛かる。空中に有る矢代の体を右手で――加えて、死装束の帯に噛み付いて捕まえ、強引に引き戻そうとしたのだ。

 無論、叶う筈も無い。村雨は矢代を支えたまま、屋上からの逆さ吊りになる。血が頭に上り、汗が髪から落ち、そして唇の端から唾液が頬を伝った。


「――貴様、俺に情けを掛けるかっ!」


 否も応も応えられない。首を振る余裕も無い。そして、村雨にそんなつもりは一片も無い。

 敢えて言うならば、逃がしたくなかったのと、いきなりの事で深く考えず動いてしまったという所だろう。目の前で誰かが飛び降りようとした、引きとめよう。そんな反射的な思考で動いた結果、自分まで落ちかけているだけの事だ。


「放せ」


 利き手を掴まれ、弓は引けない。矢代に戦う術は無い。凄味を聞かせたつもりだろう声は、何故か弱弱しく震えていた。村雨の踵が、靴から抜け落ち始めた。


「放せ――放さぬかっ!!」


 拘束から逃る為に腕を振り回そうとして――自分と村雨の置かれている状況を〝見て〟しまう。第三者の位置から、自分達が今にも転落しようという様を見てしまう。

 途端、恐怖も――それから、真っ当な人間としての感情も噴き出してきた。

 善良な人間であれば、他人を無碍に不幸へ巻き込んで、それを良しとする事は出来ない。このまま共に転落する事を、矢代は仕方なしと諦められなかったのだ。

 だが、村雨も強情である。人外の顎の力で、固く矢代を捉えて放さない。結果、最初に折れたのは、意思も何も無い村雨の靴であった。

 咄嗟の場面で、人はその本質を示す。刃を向けられて尚も怨まない、それは余程の聖人で無くては出来ぬ事だ。

 元々、躊躇無く殺すつもりであった筈だ。理性は今も、敵は殺すべしと叫びを上げている。事実矢代は、殺しの為に弓を取り、殺す為に今宵、己の身を投げ出したのだ。

 だのに矢代は、己を貫けぬ弱者でもあった。相手が見せた弱みに付け入り、出し抜いて笑う事が出来ぬ小心者であった。少女一人と心中しかねない局面で――


「おぉ、届け……届けっ!」


 矢代は弓を捨て、空いた手を伸ばした。何処へ、誰へという訳ではない。偶然でも良いから何かを掴めぬかと、


「届けえええぇっ!!」


 己と、出来るならもう一人ばかり、命を救いたいと足掻いた。

 跳躍の勢いで壁から遠ざかるばかりの体が、何かを掴める筈が無い。能動的に為せる事は無く、ただ落下するばかりの身の上だ。救えぬから、などと善人の如き言葉は吐かぬだろうが、矢代は悔しくてならなかった。


「……相変わらず、手間のかかるガキだな。あぁ?」


 声より先に、二条の鎖が届いた。先端に枷の付いた長い鎖だ。一つは村雨の足首、一つは矢代の手首に届き、それぞれを固く固定する。

 がしゃあん、と喧しく金属音が響いた。矢代は、村雨は、五階の窓を過ぎるより速く宙づりに固定されていた。


「はひゃ……、ぁー? あれ、え、これって?」


 顎が疲れて口を開き、そこで漸く村雨は、自分が鎖で捕えられた事を知る。ぶらりぶらりと振り子のように揺られながら、鼻をすんすんと鳴らし、覚えも深い雪原の臭いを嗅ぎつけた。

 鎖はたった一挙動で引き戻され、時間を巻き戻したかの様に、村雨と矢代は高々と舞い上がる。身体能力に勝る村雨だけは、足から屋上に着地して、


葛桐クズキリ!」


「おう、朝っぱらから煩えぞ」


 久方ぶりに出会った、半獣人の顔を見上げた。丈の長い洋風の外套、顔を隠す為の鍔広の帽子。まるで変わらぬ衣服に、二条の長い鎖が加わっていた。


「あれ、なんで? 本当に京に来てたの?」


「稼げそうだからな。事実、稼げた。暫くはここに腰を降ろす……で、お前は? 観光してたんじゃねえのか」


「あははー……まあ色々と有りまして」


 葛桐は六尺六寸の長身を屈め、村雨の足首の枷を外す。投げつける事で獲物を拘束する特殊な鎖は、きっと『錆釘』お抱えの鍛冶屋に作らせたものだろう、確と〝Rusty Nail〟の刻印が施されていた。


「……本当に使ったんだ、あの紹介状」


「昨日の昼な。あの狐女、中々足元を見やがったが……悪くねえ女だ」


 島田宿の騒動の後、もしかしたらと渡した書状。気が向けばどうかという程度の提案だったのだが、葛桐は律儀に紹介に答えたらしい。


「……ありがと、助かった」


 同胞の息災と自分の無事と、両方を祝って、村雨は犬歯を見せて笑った。

「今回の給料、半分寄こせよ」


「あははー……三分の一じゃ駄目?」


「駄目」


 葛桐はそれだけ言って、鎖を引きずって去って行く。懐が寂しくなる予感と、これからの仕事が少しばかり面白くなりそうな予感と、二つが合わさって何とも言えぬ感覚であった。






 引き上げられた際、屋上の石床に頭をぶつけて意識を失った矢代は、薄暗い部屋で眼を覚ました。

 利き腕の手首に枷が付けられているが、それ以外の拘束はされていない。立ち上がるのも、走り回るのも自由だろう。

 だが、持ち慣れた大弓は無かった――見つけたが、数歩離れた位置に落ちていた。拾おうとして一歩歩いた瞬間、後方から声を掛けられた。


「やっと起きたか。あれだけの矢を撃つ癖に、お前存外に脆いのだな」


「俺は……俺は、どうなった?」


 左腕を包帯で吊った桜が、胡坐を掻いて座っている。振り向きもせぬまま矢代は訊ねた。


「相変わらず十字架教徒は恐ろしいな。勝ちたいからと飛び降り自殺か、自殺を神は許さんぞ?」


「俺は神を崇めるのではない。神の元へ続く聖道を辿らんと、我が大聖女に従うだけだ」


 黒衣、黒太刀、黒の長髪。死を想起させる不吉な姿が神を語る。矢代の心に神の名は響かなかった。


「大聖女か、それは良い女か?」


「……神聖にして穢すべからず。慈愛に満ち、道理を知り、天地に則を齎す力をも持つ。大聖女の意思に従う事こそが、神に分かたれた言葉さえも一つに為す唯一の道だ」


 『大聖女』を語る矢代の声に、畏怖の響きは微塵も無い。敬愛すべき存在を褒め称える、盲信が生んだ言葉である。


「おや……宗教家だと思っていたが、寧ろ自分自身が神気取りなのか」


「愚弄するかっ!?」


 激して振り向き、弓を構えようとする。弓をまだ拾い上げていない事に気付き、矢代は強く舌打ちをした。


「愚弄しているのはお前達だと思うがなぁ。真っ当な十字教徒であれば、人殺しだの自殺だのを喜びはせんぞ。お前もそうだろう」


「何を――」


 桜の指摘は、矢代自身が抱いていた疑問と全く同じであった。故に矢代は、これまでの様に声を荒げる事も出来ず、一歩引き下がるに留まった。


「どこぞの預言者も言っていただろう、汝殺す勿れと。如何な理由が有れど、神とやらは殺人に寛容ではないぞ? むしろあれはな、自分の言い付けに背く奴は手酷く扱う男だ。大概の篤信者はそれを分かっているから、自分が殺されようが殺しはしないと意地を張る。馬鹿馬鹿しいが、貫けばいっそ清々しい姿だな」


「死ねば、殺されれば全ては水泡に帰す。聖道を天下に敷く為に――」


「多少の殺しは赦される、か? ではその言葉、大聖女とやらの前で直接言ってみろ。本当にそいつが慈愛の持ち主だと言うなら、悲しげな顔でお前を諭すだろうよ。もしも肯定しよったのなら……まあ、神気取りの偽物だな。さっさと撃ち殺してしまえ」


 自分自身の思考に籠り、自問自答を幾ら繰り返せども、結論が変わる事は一度足りと無かった。だから矢代は、外に答えを求めて自分を騙していたのだが――この死の臭いのする女は、まるで加減無く事実ばかり吐く。矢代は、自分が放った矢に自分が貫かれる様な錯覚を感じた。


「ならば――ならば、如何にして愚道を正す、愚集を導く!? 貴様らが如く旧きに囚われた者が、新しきを阻む壁となる! ならば俺は大聖女の為に、その壁を砕く先兵と――」


「だからだな、その女に直接聞いてこいと言うのだ。聞いた限りでは良い女らしいが、性根まで真っ当かどうかは見てみねば分からん。が、お前ならば会いに行けるのだろう?

 然しな、一つばかり覚えておけ。捨て石になったつもり、悲劇の主役になったつもりで居るかも知れんが……お前の咎を誰が負う? 善人ならば善人である程、己の為の因果の全て、己で負おうとするだろうよ。

 お前が一人殺す度、その大聖女とやらの背にお前が死体を積み上げているようなものだ。別に足腰が強ければ良いがな、細腰の女ならば何処かで潰れて死ぬぞ。女の為にとほざいて、惚れた女を殺したいのか?」


 人殺しが、人殺しの非を謳う。矛盾があまりに大きすぎて、耳を傾けるにも値しない理屈であるとさえ受け取れる筈だった。


「――では、では俺は、何をして、何の為に」


 だが、己の正当性を信じられずにいた矢代は、真っ直ぐ立つ事さえ難しくなる程の頭痛に襲われていた。

 そうだ、喜ばしい筈が無い。貴女の為にと死体を捧げて、あの大聖女が喜ぶ筈が無い。

 彼女の理想の為に、全てを捧げる覚悟は出来ている。死ぬ事も、自分自身が忌み嫌われる事も、まるで恐ろしくは無い。だが、野の花の様に素朴で暖かいあの笑顔を、己の咎で曇らせるのは――それだけは、


「それだけは、駄目だ……駄目だ」


 弓も拾わず、矢代は歩き始めた。部屋の扉へ向かう彼を、誰も引き留めようとはしなかった。


「監視は付けるそうだぞ、下手な事をすれば私が斬りに行く。お前と、お前の仲間と纏めてな。だが、まあ……歯抜けではもう、人は殺せまい」


「言うとくけど、監視は十人以上おりますえ。うちのお仲間を殺した報いは……後々、たんと払ってもらいます」


 扉が閉ざされ、部屋には二人だけ――桜と、堀川卿だけが取り残される。この部屋は堀川卿の私室であったのだ。


「優しい事だな、殺さんのか」


「ああ言う面倒くさい男はんはね、ちょいと尻を叩けば分かりやすく動いてくれはります。どうせ蜥蜴の尻尾、頭か胴体を潰せるのやったら、放っておいてもええどすやろ」


 自分の髪を布団にして、相変わらず堀川卿は寝姿のままであった。温和な声だが、浮かべた笑みが引き攣っているのは、自分の部下を惨殺した犯人を見送った、その怒りが故だろう。

 別に殺しても問題は無かった。これから先に同様の襲撃が起こらない、それを確信出来るだけで十分な利益だ。それを敢えて殺さず返したのは、桜とのやりとりを聞いていたからだ――事と次第によっては、己が直々に殺すつもりであった。


「桜さん、相変わらず申し訳ありまへんなぁ。うちのもんでもないのに、あれこれと巻き込んで働かせてしもうて」


「何構わん、好きで首を突っ込んでいるだけだからな。どうせ礼を言うのならば――」


 ひらり、ひらり、桜は何枚かの紙を投げる。当たり前だが、丸められもしない紙は、投げても宙を漂って落ちるだけだ。落ちた紙を堀川卿の髪が捕まえ、手元に引き寄せた。

 裏返し、紙の内容を見る。名前と、何処かの店の名前と、そして最後に金額――


「――り、領収書?」


「昼ごろに取りに来るよう伝えてある、そろそろだな。まあ合わせても十両にはならんさ」


 昨日に買いあさった衣服、京都周遊の馬車代、そして飲食費。一日の豪遊で、良くもまあこれだけ使えたと感嘆せざるを得ない金額である。


「接待費で落とす……訳にもいかへんなぁ。とほほ……」


 自腹を切るしかあるまいと、情けない声を出す堀川卿。その姿を背に、桜は悠々と自室へ戻っていくのであった。

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