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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
皇都の夜、黒八咫の羽
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明けの熊鷹のお話(4)

 夜天の元、その男は静かに弓を引いていた。

 狙う獲物は八町先を走っている。男の腕であれば容易く狙い撃てる距離――但し、止まっていれば。流石にこうも離れれば、到達までの時間差が無視出来なくなる。動きを予測しての射は、的を見ての射と同様には当たらないのだ。

 そう、男は〝見て〟いた。夜半の闇の中、建物の影に潜む獲物の姿を、瞼さえ開けず。


「奔れ、走れ、地獄まで。罪人の末路に似合いの徒労よ――『射』ッ!!」


 引き絞られた弦に沿い、虚空から矢が生まれる。男の一声と共に、その矢は高らかに夜闇へと吸い込まれて消えた。

 男は居ながらにして、その矢がまたも狙いを外した事を知る。獲物は存外に素早く、かつ勘の良い獣であるらしい。

 然し、それが何になろう――再び男は弓を引く。番えられた矢は三本、同時に空へと打ち上げられた。

 弧を描くのではなく、直線的に狙った箇所の上空まで飛来し垂直に落下――おおよそ物体としては有り得ない軌道を描く矢は、人の骨など容易く貫通する威力を誇る。

 これこそ過たず『錆釘』の構成員五人を殺害した攻性魔術、『薄明の鷹爪』。射を極めて、然して光を失った男が辿り着いた新たな境地。


「裁きの時は来たれり。我と我が弓と罪人の血を、大聖女の天道へ捧げ奉らん――『射』ッ!!」


 盲いた両眼が獲物――二人の女を睨む。

 〝盲目の射手〟扇殿おぎどの 矢代やしろは、祈り伏しながら遠矢を射た。






 刃を抜けば防ぎ得る。走り続ければ避け得る。

 だがそれだけだ。意識して動き続けねば、やがては脳天を貫かれる。頭蓋の厚みなど、この矢の前では精々が座布団の様な物だ。


「見えるか、村雨?」


「まだ全然!」


 広い路を斜めに突っ切り、時折は大きく進路を横へ曲げ、蛇行しながら桜と村雨は走っていた。

 仮に敵が、自分達を目視して射撃しているのなら、到達地点の予測をずらしてやれば避けられる。単純な対抗策だが、その予測は正しかったのか、暫くは危険な場面も無かった。

 然し走り続けるにつれて――目的地である『皇国首都ホテル』に近付くにつれて、矢の飛来する間隔が短くなる。三十秒に一度だった矢は、今は二十秒に一度。狙いも徐々に精確さを増し、髪を掠める数が増えてきた。


「然し村雨、京に来てからは走り通しな気がせんか!?」


「同感だけど言ってる場合かー――っとと、とお!」


 走っている間、殆どの矢は、二人の後方に着弾していた。ここへ来て次第に、眼前に矢が落ちる様になってきた。今も村雨の目の前で石畳が砕けた。村雨は咄嗟に右足を外側へずらし、垂直に横へ走って回避した。


「桜、これってやっぱり!」


「だな、間違いない! こうして進むにつれ、狙いが正確になっているという事は――!」


 旅人が旅先で命を狙われて逃げ込む場所は? その街の事を何も知らぬ者が、迎撃の用意を整える為に逃げ込む場所は? 可能性として高い場所の一つは――恐らくは、旅先での宿だろう。ましてやそこが、旅人が所属する集団の拠点としても機能している――いざとなれば保護を要請出来る。条件は整い過ぎている。

 そうだ、仮に自分が狩人ならば――村雨も桜も、同様に考えた。逃げ疲れた獲物が帰りつく場所は、この一か所だと予測が付く。


「――皇国首都ホテル屋上! あそこからなら街の半分くらい見える!」


「そうだ、それに違いない! で、分かったとてどうなるか――ハァッ!」


 自分達が逃げ込もうとしている目的地。そこに、魔弓の引き手は陣取っているのだろう。飛来した矢を脇差で斬り払いつつ、桜は暗闇の向こうを睨みつけた。ぼんやりと輪郭だけ見える建物の、屋上など見て取れる筈も無い。


「……拙いな、後退も視野に入れておく。朝まで凌ぐには……そうだ、使え」


「え、はい? ちょ、私に刀って、きゃっ!?」


 矢雨の降る間隔は、とうとう十秒に三本まで狭まった。もはや動くばかりでは避けきれない。桜は太刀で、村雨は脇差を渡されて、それぞれに己の身を守る。たかが矢の一本だが、高高度から落下してくるその衝撃は、村雨の腕を痺れさせるには十分過ぎた。

 止まらぬ死の雨に差す傘も無く、逃げ惑う様に走り続けてまた幾許か。漸く皇国首都ホテルの玄関が見えた頃――


「っは、はぁー……止ま、った?」


 ――突然、石をも穿つ矢の豪雨が上がった。

 ようやっと脚を止める事が出来た村雨は、まず周囲の環境を目視で把握しようとする。その時に初めて、自分の頬から血が流れている事に気づいた。回避出来たと思った矢の一本が、顔を掠めていたらしかった。

 皮膚一枚が切れただけで痛みは薄い。むしろ問題は、矢を受け続けて痺れた右手。握力を失いかけて、拳を握るも困難になっている。

 ホテル玄関との距離は、直線にして三十間ほど。桜と村雨であれば、五つ数える間に掛け込める距離である。獲物を此処まで追いつめて止めを刺さぬ、その理由は直ぐに分かった。


「桜、あれ……見える?」


「四階の窓の所だな。全く恐ろしい光景だ……っはは」


一階の高さを八尺として、地上より五間以上も高い場所に、数十本の矢が整列していた。支えも無く宙に留まる矢の群れは、何れも切っ先を地上に――ホテルの玄関に向けている。


「私達が逃げ込もうとすれば、一斉にあれが落ちてくると言う訳か。どうだろうな、潜れると思うか?」


「……無理だね、あの距離じゃ幾つかは刺さる。その幾つかで――もう、動けなくなりそう」


「だな、困ったぞ」


 高高度から落下してくる矢でさえ、回避するのに難儀していたのだ。あれだけ近くなってしまえば、もう避ける事など適うまい。無理に押し通ろうとするならば、矢に射抜かれる事を覚悟せねばならない。


「高いな、どうやっても一足では届かん。途中に足場が有れば――いや、やはり三度は跳ばねばならんか」


 屋内から回りこめないなら、屋上まで跳び上がれば良いのだ。そう考えた桜は、然し建物の高さと引っ掛かりの無さに、その案を即座に否定する。


「朝まで睨みあう? 時間が経てば、誰かが何かおかしいって気付くだろうし……」


「……正直なところ、それが最良やも知れん。中の連中が動けば、屋上の射手も退く……かも、知れん」


「断定しないんだね」


 やけに静かになってしまった夜の街。耳を澄ませて、村雨はホテルの屋上を見上げた。

 角度の問題か、射手の姿は見えない。矢は確かに地上を向いて、血塗られる時を今か今かと待ち続けている。


「私が誰かを殺そうとするなら、そう簡単には諦めんからな。一度退く羽目になれば、その日の夜にでもまた殺しにかかる。

 生き物は眠らねば死ぬが、眠っている時間はあまりにも無防備だ。向こうからすればやっと見つけた獲物、簡単に逃がしてくれるとは思えんさ」


「だよね、私だってそうするよ」

 ただ立ち尽くして、時が流れるのを待つ。敵は動かず、己も動く事なく、時折は秋風が髪を揺らした。流れた汗も乾き、心拍も完全に平常の如くなる。

「んー……やっぱりさ、逃がしたくない」


 漸く空の黒が青に変わり始める頃、村雨は独り言のように言った。


「仇打ちとかそういうのは考えてないけどさ、あれを逃がすの、なんかやだ。安心して眠れなくなりそうだし……負けて逃げるみたいでカッコ悪いし」


「格好と命とどちらが大事だ? 無理に掛かれば死ぬぞ、お前」


「そりゃ命だけど、違うよ。今逃げたってまた狙われて、しかも他にも何人か殺されそうだし……だったら今夜、此処で捕まえたいの。その方が、桜だって良いでしょ?」


 理屈では正しい。確かにこの場であの射手を捕えられるなら、後顧の大きな憂いを断つ事となるだろう。だがそれは、自分達の負傷を逃れ得ず――或いは、命すら危険に曝す選択だ。

 桜は勇猛であるが、然し最終的には己と、己に近い存在を最優先する思考の持ち主だ。今、この場で戦って負傷するくらいならば、第三者が幾ら死のうが、好機を待つ為に決着を先延ばしにしたい。それが桜の、偽りの無い本音である。

 村雨は、寧ろ臆病だ。傷つきたくない、嫌われたくない。誰かが死ぬ事を嫌うのも、もしかすれば『死なれるのが怖い』という程度の感情かも知れない。

 だが。臆病が故に、先に待つ恐怖から目を背けたいが為に、敢えて村雨は恐怖と対峙せんとする。そして――


「……っふふふ、ふふ……っはっはははは……!」


 ――惚れた女に望まれて、無碍に出来る桜ではなかった。


「良いだろう、今夜この場所であの射手を拿捕する! だがどうする、私もお前もあそこまでは跳べんぞ? 翼でも生やすか、それとも矢を防ぐ城壁を持ってくるか!」


 高らかに笑い、右瞼を一度だけ中指で引っ掻いて、桜は右手の骨を鳴らす。左腕の出血は未だに止まず、肩にも幾つか矢傷が有り――然して、戦地へ赴く事に微塵の躊躇いも無い、それは羅殺の面だった。


「だね、私でもあなたでも無理。だからさ、桜――」


 恐怖に引き攣りながら、だが暗さの無い笑みを村雨は見せて、


「――ちょっと、大怪我してくれない?」


 あまりと言えばあまりな無茶を、事も無げに提案した。






 白み始め、あかく成り行く空を見上げ、扇殿 矢代は微笑んだ。今宵、殺人を済ませた者が見せるには、あまりに柔和な表情であった。

 光を失って久しい目だが、彼は確かに、夜明けの美しさに心を奪われている。彼の脳裏には確かに、白雲を朱に染める光が描かれている。


「嗚呼、嗚呼――暖かい。これこそが至天の光、聖道を照らす太陽の――大聖女よ」


 涙さえ流し、矢代は朝を讃える。朝を讃え、十字架を握りしめ、己が神と同一視する女を讃えた。

 おおよそ視覚情報に頼る人間に取って、光を失う事は、それまでの世界を奪われるにも等しい。生涯を費やした技術、情熱を傾けた娯楽、その大半を一度に奪われるも同然だ。

 矢代もまた、病に光を奪われた一人だった。幼き頃より弓を取り、天才よ神童よと崇められ、矢代もその期待に応え続けた。七つで三十間の的を射抜き、十の頃には馬上から一丁先の鐘を撃ち、成人する頃にはもはや、的を射るに矢さえ不要となった。

 才有る人間の元には、地位も名誉も順当に追い付いて来る。国士無双の弓取りと名の知れ渡った矢代は、その腕前を幕府に見込まれ、名誉師範として高禄を得た。屋敷を賜り使用人に傅かれ、多少は鼻も高くなるが、然し弓の道に打ち込み続けた。名声は、いよいよ留まる所を知らなかった。

 或る日、彼の栄達は終わりを迎える。一の矢が二の的を射抜くとまで言われた達人――それが突然、的はおろか己の手元さえ見えなくなったのだ。

 己の人生のほぼ全てを費やした技術が一夜で消える――その絶望は如何ばかりであっただろう。その恐怖は如何ばかりであっただろう。やるせなさに拳を振り回そうと、誰にも当たらず、ただ柱や壁を殴りつけるだけ。煽て持ち上げ続けた取り巻きは、気付けば見舞いにさえ来ず、使用人にも見放され――家中の足音が途絶えた時、矢代は自死を決意した。

 手探りで畳を這い回り、脇息も壺も引っ繰り返し、どうにか見つけた衣服は皮肉にも経帷子。盲人の目にはそれさえも分からず、寝巻の上に巻き付け、ふらりと街へ彷徨い出た。

 塀にぶつかり小石に躓きながら、足元の感触と水音から、自分が橋に辿り着いたのだと知った時――矢代は安堵に涙した。これ以上の苦しみを得ずに済むと信じて、手探りで欄干によじ登り、


『――いけませんっ!』


 弱弱しい女の手に引き戻され、見苦しく仰向けに倒れ込み、背を強かに打った。

 思い起こして、矢代は笑いを堪えられなくなった。肺が痺れて息もままならぬ自分の胸に、その女人は馬乗りになり、顔をひっ叩いて来たのだから。漸く声が出せる様になった時の、あの済まなそうな口振りと言ったら――まるで田舎の少女の様であった。

 矢代は思う。あの女の為ならば、己の罪過など恐ろしくは無い。死も無限の苦痛も、純朴な笑い声を聞く為ならば耐えられる。大聖女エリザベートの喜びの為に、扇殿 矢代は己の全てを、一分の迷いも無く差し出せるだろう。


「俺は――貴女の為に咎人となる。故にどうか、貴女は、貴女だけは……」


 だからこそ、矢代は苦悶する。大聖女は――あの女は――人が死ぬ事を良しとする、そんな女だったろうか? 有り得ない、蟻の死にさえ本気で涙を流す、彼女こそは正しく聖女である筈だ。誰も理不尽に死なずに済む世界を、誰よりも強く望んだ女である筈だ。

 そんな世界を作る為に、誰かを殺して――


「……貴女だけは、俺を赦してくれますか……?」


 朱の空が明るみを増す。東の山から日光が街に影を落とす一瞬、常人ならば目を眩ませるだろう時間が近づいている。その時こそが狩りの時、矢代が最も力を示す時間なのだ。

 迷いは今も絡みついている。だが、留まらぬと決めたのだ。

 大弓に矢を――虚空から創り出した――番えて引き絞る。動かぬ二人の的を、確かに射抜くようにと狙いを付け――的が走り出した事を〝見て取〟った。

 獲物の動く向きは? 過たず、仕掛けた矢の簾の下だ。焦れて愚策に走ったかと、嘲りは浮かんだが嗤えない。留めた数十の矢の制御を一声に解除する。

 僅かな風斬音も、数十束ねれば突風の如く鳴り響く。獲物二人はこの矢にて、剣山となって果てる――筈、であった。


「……、な、に……!?」


 石畳が爆ぜた。鏃の衝撃では無く、女の――雪月桜の蹴り足が固い足場を砕いたのだ。反動で桜の体は、三階の窓枠より高く舞い上がる。

 地上の一点を狙う為に、数十の矢は広く配置されながら、僅かずつ角度を付けられていた。言うなれば、桜と村雨をかなめの位置に見立てて、扇の骨の様に並んでいた。

 桜は敢えて、骨の一本に自ら飛び込む。一つの矢を甘んじて受ける事で、残りの矢を全て避けたのだ――代償も軽くは無いが。

 元より負傷していた左腕が、今度こそ飛来した矢に貫かれる。鏃は骨を抉り、肉片を纏ったままで石畳に突き刺さった。激痛に耐えながらも、桜は建物の壁面を蹴り、更に斜めに跳ね上がった。


「――『射』ァッ!!」


 建物の壁を蹴って跳ぶ――確かに高さは生まれるが、然し同時に、蹴った壁からは遠ざかるのだ。重力の制約に縛られる桜は、最高到達点から落下に転じ――その隙を見逃さず、矢代は番えた矢を放つ。

 心臓狙い、将に必殺の一射。ひぃと笛の音の如く、矢羽根が風を斬って鳴る。鏃は桜の胸に達するより遥か先――炎の壁に遮られ、更には太刀の切っ先に削ぎ落された。

 桜は五間の高さから、石畳の上に落下する。片腕がほぼ使えぬ局面で、両足と右腕だけで受け身を取り――然し、直ぐに動ける様子は無い。矢代もそれを分かっていて、すぐさま次の矢を生成し――


「……しま――、ぉお!?」


 走った獲物は一人。地面を蹴った獲物も一人。もう一人は何処に消えたのだ?

 頭上であった。桜は村雨を右肩に抱えて跳躍し、壁を蹴った瞬間、右腕の力だけで村雨を放り投げた。村雨は桜の手を蹴って跳び、一足で矢代の頭上まで達したのだ。

 矢代の早打ちは三秒に一射。遠地での戦いならば、指一本触れさせる事なく勝利を収められる。だが、この距離ならば――


「ぃいい――いやあああああぁっ!!」


 ――この距離ならば、人狼の速度に勝る筈も無い。

 落下の勢いを爪先に乗せ、村雨は矢代の左肘を蹴り抜いた。関節からの異音、矢代の顔が苦痛に歪む。着地した村雨は、両手を地に付けて、四足獣の狩りの構え――超前傾姿勢を取った。


「あんたは……ちょっとやり過ぎだ!」


 人間がどうとか亜人がどうとか、体裁を繕う余裕は無い。最大最速、最高戦力を動員出来る形で、村雨は最後の警告を放つ。


「大聖女よ、俺に力を……貴女の理想を遂げる、僅かばかりの力を――っ!」


 利き腕を痛めた弓取りは、然し戦いを諦めない。


「……っはっはっは、いや愉快愉快」


 仰向けのまま雀が飛び交う空を見上げ――痛みも忘れ、桜はからからと笑っていた。

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