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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
品川夏空模様
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異能のお話(2)

 逃がした――否、村雨が逃げたのだが――男の臭いは、先刻の通りから大きく動いてはいなかった。鼻をすんすんと鳴らしながら、時折はその場でしゃがみ込みながら、村雨は臭いを辿っていく――と、とある長屋に着いた。

 釘も打てない薄壁長屋で、隣人が耳を澄ませば、内緒話も出来やしない様な狭さ。外から見るだけで、店賃の安さが知れようというものだ。


「あっちゃあ、ここかぁ~……嫌だね嫌だねぇ、面倒くさい場所だ」


「ん、何かあるの? そりゃまあ、あんまりいい雰囲気じゃないけどさ」


「ここは大家が緩くてね、懐も頭も。金が有ろうが無かろうが、ちょいとずうずうしく押せば住まわせちまう。おまけにあんまり催促もしなきゃ面倒も見ねえもんだから、店子が何しようが気付かねえのさ。全く、大家の爺はよぉ……」


 今度は大家もしょっぴいてやろうか、源悟は悪態をつきながら、戸を一つ一つ叩いていく。一軒目の調査は、源悟と腰の低さで競えそうな老婆が出てきて、和やかに終わった。二件目は留守。勝手に戸を開けたが、本当に誰もいない。


「おうい、誰かいるかい、誰かいるかい。開けておくれよ、開けやがれ、開けろってんだこのウスラトンカチめ」


 三件目は、中で何か引っかけているのか、戸が開かない。止むを得ずなのか常のやり方なのかは不明だが、源悟は戸をガタガタ揺す振りながら、中に誰か入れば寝ていても飛び起きるくらいの大声を張り上げる。そう間も開かず、中の方で、のっそりと誰かが動く音。


「うるせぇ、帰れ! 金はねえんだ! ……なんだ、大家じゃねえのか」


「あーっ!」


 荒々しく、それこそ戸を外しかねない勢いで出てきたのは、誰あろうあの大男だった。服装も何も変わっていない。村雨は思わず、男の顔を指差す。


「おう、居るんじゃねえか。あたしゃ同心の傘原様の手のもんでね。ちょいと家ん中、見せてもらいたいと思うんだが」


「やなこった、帰れ。俺は眠いんだ」


「こうして頼んでるんだ、聞いちゃくれねえのかい? あんたの顔は見覚えあるぜ、ついさっきあたしにぶつかってった男だ。奇遇だねえ、その時にあたしゃ、無くし物をしちまったんだよ」


「知らねえな、てめぇがマヌケなだけじゃねえか。帰った帰った!」


 ねちねちと張り付くような物言いの源悟に対し、大男は白を切る。抱えて走っていた木箱は、きっともう何処かに隠してしまったのだろう。知らぬ存ぜぬを押しとおし、この場を抜けられると高を括っているに違いない。

 実際のところ、いくら権力を与えられて居ようが、岡っ引きは所詮、町人か犯罪者上がり。証拠も無しに家探しをして、はい見つかりませんでしたでは済まされまい。大男はそれを盾に取って、このまましらを切りとおすつもりらしい。


「あんたが何と言おうが、あたしゃあんたの顔を見たし、こちらのお嬢さんの鼻もそう言ってる。あんまり難しい事を言うようなら、こちらも無茶を遠さにゃなくなりますぜ?」


 然し、源悟も引こうとしない。空いた戸に身を引っかけ、閉めて逃げる事ができないようにしている。黙り込み、ぎろりと源悟を睨みつける男。暫くの間、両者とも目を逸らす事はなく、


「ようし、売られた喧嘩は買ってやろうじゃねえか!」


 だぶだぶの源悟の羽織を、大男はがしりと掴む。反対側の手で作った拳は、あの氷塊程の威力は無くとも、十分に痛そうだ。殴るぞ、鼻をへし折るぞと、無言の脅迫が込められた拳だ。


「へっ、んなもん怖かあねえや、姐さんにぶんなぐられる方がよっぽど怖え――喧嘩ぁ買ったんだ、つっ返すなよ?」


 大男を、源悟は鼻で笑い飛ばす。少しばかり酷薄になった笑みが――顔ごと、溶けた。何の比喩でもなく、水飴のように、粘性の高い液状に。

「うおっ、おあ、んだこりゃぁ!?」

「へうっ!? 何、なになに!?」

 胸倉を掴んでいた大男は、目の前で体を溶解させていく源悟に、明らかに驚きうろたえていた。村雨も同じだ、何が起こったか分からず、目を見開いて出来事の行く末を見届けようとする。

 不定形となった肉と皮膚。源悟は、それが人間であるとは、輪郭からしか判別できなくなる。そして、その輪郭までもが変異を始めた。溶けた肉の奥にあるだろう骨が、長く、太く、また分厚く変わっていったのだ。

 五尺五寸の痩せ形、それ相応だった源悟――源悟だったものの輪郭は、今は七尺近い巨体のそれへと化けている。

 溶けた肉は体積を増し、形を失う以前より倍も膨れ上がって、骨の上で固まった。皮膚が、人の顔の形状を取り戻した。

 唖然となった村雨が我を取り戻すまでの間に、岡っ引きの少年は、筋骨隆々の巨体へ、完全な変身を遂げたのだ。


「……長屋壊しゃあ大家が泣かあ、外へ出ろ」


 地鳴りのように低くなった声で、一言かぎりの警告。源悟は、自分の服を掴んだ男の手を、力任せに上から掴み返す。巨体相応の大きな一歩で、引っ手繰りの男を長屋の外へ引きずり出した。


「っ、ぐお……!」


「叩きのめして家探ししてやらあ、立て!」


 通りに投げ出され、背中をしこたま打ち付けた引っ手繰り男。呻きながら立ちあがると、目の前に源悟が立っている。咄嗟に腹を殴りつけて――鈍い音はしたが、源悟は微動だにしない。その腹筋は、岩のように硬かったのだ。


「なっ、んだぁ!?」


 二発、三発、男は突きを繰り返す。全てが防御されぬまま源悟の腹に打ちこまれ、そして全てが、源悟を後退させる事すら叶わない。痛むのは男の拳ばかり。指がイカれかけて、痛みに拳が解かれた。


「図体の割にえらいヘボじゃねえか! あぁ!?」


 お返しとして振るわれた源悟の拳は、引っ手繰り男の腹を打ち、片腕の力だけで足を浮かせた。ただ一撃で息がつまり、蹲ろうとする引っ手繰り男。その胸倉を源悟は掴みあげ――引き起こし、同じく腹へ、重ねて一撃。


「ぐえっ……がは、っげ、ぇ……!」


「うわ、エグっ……」


 村雨は一瞬だが、引っ手繰りの男に同情した。腹へ二度、七尺の巨体の怪力で、拳を打ち込まれる。想像するだけでも胃袋がせり上がる。どういう仕組みかは知らないが――いや、理屈は知っているが理解できないだけだ――源悟は、引っ手繰りの男を、殴り合いでは圧倒していた。


 後天的に取得する技術として、今は日の本全域に、魔術の存在は知れ渡っている。だが、それより遥か昔から、稀ではあるが先天的な才として、『異能』と呼ばれるものは存在していた。

 それは決して、生まれ持つ以外に習得の術は無く、また汎用性は魔術に大きく劣る。魔術は、術者が理解している世界の中では、全てを為す可能性が有るのだ。対して生来の『異能』は、ただ一つの分野にのみ特化する。

 『走る事』に特化した男が居たとする。彼の脚は、生まれつき強靭に作られていて、何もせずとも強い筋肉を持つ。その筋肉の使い方を熟知している上に、鍛練による習熟の速さは余人の比ではない。最大筋力は伸びなくとも、持久力ならば何もせずに伸び続け、やがて走行速度は野山の獣すら上回る――これが、一つの『機能』ではなく、『分野』に特化している、という事だ。

 これが『異能』、或いは『特化能』と呼ばれる力。人間でありながら、人間でないものとして生まれた力である。

 源悟の『特化能』は、化けるという分野にある。そのものになれるなら、一切の恣意的な演技は必要ない。源悟は、その身にいくつもの人格と姿を内包し、且つ一つの人格でそれらを統合、切り替えて使用できるのだ。今の源悟は、『巨体の武芸者・徒手空拳の達人』である。肉体も、咄嗟に構築される戦術も、全てが岡っ引きの少年ではなく、武術家としてのそれだった。



「さっさと吐きやがれ、アレは何処に隠した。答えねえんならこのまんま、あんたを殴り続けるしかねぇんだぜ? 俺が聞いてるんじゃねえ。傘原様に預かった十手が、聞きてぇ聞きてぇと喚くのよ」


 立ちあがろうとした男の後ろ襟を掴み、押さえつけながら、源悟は岡っ引きらしい脅しを掛ける。肝の据わらない男ならば、これだけで地に伏し詫びを入れ、要らぬ事まで口走りそうな迫力が有った。有り体に言えば、痛めつけすぎたきらいもあり、治安を守る者としては褒められたやり方ではない。


「ぅげ、ぇ……分かった、分かったってえの。言うから放せ、首が痛え……」


「いいや放さねえ。あんたの様な連中は、手ぇ放しゃすぐ殴りかかってくると相場が決まってらぁ。……もう一度だけ聞くぜ、アレはどこに――」


 自覚が有った為だろうか。源悟は最後に一度だけ、男が自発的に答えるのを期待した。その妥協は隙である。これが優越を付ける行為なら、一片たりと譲ってはならなかったのだ。


「アレ、は……『――――』」


「……っ、危ないっ!」


 答えるそぶりを僅かに見せた男は、掌を返すようにして、ただ一言だけ呟いた。

 少年が巨漢に化けた驚愕から醒め、腹の鈍痛も幾らかは薄れ、引っ手繰りの男は、僅かだが魔術行使に精神を裂く事ができた。人格こそ問題は有るが、この男もまた、卓越した術者である。一言を舌に乗せるだけで、周囲の水分を源悟の頭上に集結、冷却し、氷塊を作り出す。


「え? ぬ、おわっ!?」


 重量五貫程の――明らかに、集めた水より嵩が多い――氷塊が、源悟の頭を狙って落下した。武術家としての広い視野、反射神経は、両腕で頭を庇わせる。だが、生半な防御など、重力による加速を受けた氷鎚には無意味だ。


「ぉお、お……、やりゃあがったな……!」


「あ……えーい、このっ!」


 腕の上から頭を揺らされ、軽い脳震盪の様になり、膝を着いた源悟。咄嗟に村雨は飛び出し、引っ手繰り男へ飛び蹴りを仕掛けた。


「『弾き返せ』『ぶっ潰せ』『ぶん殴れ』……てめぇら、タダじゃおかねえぞォ!!」


 軽量とは言え、全体重を乗せた飛び蹴りは、突如出現した氷の壁に防がれる。分厚い壁だ、二寸は有るだろうか。罅一つ入りもしない。地面に落下した村雨を、脳を揺らした源悟を、続けざまに狙うのは二つの氷塊。一つは頭上から、一つは男の拳から打ちだされた氷は、いずれも砲丸の様に形作られて、恐ろしく頑丈な氷だった。

 源悟は、柱のように太い腕で氷を防ぎ、村雨は持ち前のすばしっこさで、体ごと逃げ回る。的が一つに絞られていない為か、一人で挑んだ時に比べれば弾幕は薄く、回避する事は可能だった。


「『弾けろ』『砕け』『砕け』ぇ! ひゃっはっは、ぶっ潰してやらぁ!!」


「くおぉっ……ぉお」


「きゃっ! ……ぁ、ヤバ……」


 然し、一度有利に立てば、その有利に最大限便乗するのも、この手の悪党の共通点である。男の攻撃は愈々苛烈を極めた。あらぬ方向へ飛んだかと思った氷塊が、爆散し、鋭利な氷片の雹となる。回避しきれず、特に体でも脆い部分だけを守る二人を、金槌の形状をした氷が殴り付けた。重量はこれまでの氷塊に比べて小さいが、防御の隙を突いての的確な打撃。既に脳震盪気味の源悟には駄目押しとなり、村雨もまた、地面がせり上がる様な感覚に襲われる。


「こいつ、強――」


「今更かよ、ガキ」


 気付けば村雨は、手と膝を地面につけていた。視界が揺れて立ち上がれないからだ。改めて、敵の強さを実感する。二人掛かりなら勝てると思った――源悟の強さに圧倒され、手を出し損ねたのが敗因だろうか。

 いいや、違うだろう。村雨が介入できる局面になったのは、男が反撃に移ってからだ。そして、そこから今までを振り返ってみれば、村雨が為したのは不発の飛び蹴り一度だけ。


「……っぎ、いいい……!」


 いくらなんでも、自分が情けなく思えた。多少痛いとかふらつくとかは考えず、立ちあがって男を殴り付けねば、と思った。どうしてそう思ったのかは定かではないが、その時は理由など考えようともしなかった。ただ、『あいつ』ならこの男に勝てるのかも、と少しだけ考えてしまった。

 そう思ってしまったが最後、体の痛みより、地に伏している事の方が苦痛と感じられる。自分が劣っていると証明される様で、我慢がならない。土を掴み、膝を持ち上げ、靴の裏で地面を踏みしめた。立ち上がろうとした。


「うぜぇ、動くんじゃねえよ」


「……は、あれ……? あ、なんで、動かな……」


 その手が、足が地面から剥がれなくなった。氷の枷が、手足を地面に括りつけていた。衣服の上から、隙間をおいて作られた枷は、凍傷こそ生まないが、金属のように硬い。


「あーぁ、くそ。また隠れ家を変えなきゃねえか……てめぇのせいだ、ガキが!」


「あうっ……!」


 立ちあがる事どころか、左右に体を捩って逃れる事もかなわない。防ぐ事も出来ない村雨の顔を、男の草履が蹴り飛ばす。首が無理に上を向かされ、鞭打ちになりかけた。

 小心者ほど、弱者を嬲る事を楽しむ。動けず、防御も出来ない村雨は、男にとっては丁度いい生贄だ。


「ん~、んん、情けねえ声だなぁ? 良い声だ、おらっ!」


「えぐ、っお、ぁが……げ、がふ……!」


 悲鳴の声音が気に入ったのだろうか。村雨の側面に回った男は、爪先で何度も、その腹を蹴り上げる。言葉として成立しない苦悶の呻き声。込上げる吐き気に涙が出ようと、村雨に逃れる術はない。


「止め、止めねえか、この野郎! テメエ、女相手に……っぎあ!?」


 まだ立ちあがれる程回復していない源悟だが、見るに見かねて、地面に這ったまま、男の脚を掴む。その手首を男は踏みつけた上で、鋭い氷柱を作り出し、源悟の手の甲を地面に縫いつけた。


「……けっ、口ほどにもねえ。二度と寄ってくるんじゃねえぞ、ああ?」


 男は、長屋を捨てるつもりなのだろう。通りを、江戸の町から抜ける方向へ歩き始めた。十歩ばかり行ったところで、立ち止まり、振りかえり。


「まぁ、こうすりゃ完全に懲りるよなぁ……――」


 作り出されるのは、一抱えもある巨大な拳の形状、二つ。氷からの成型とは思えない程に精巧な、人間の拳の模造品。重量もおそらく、これまで打ちだされた氷より遥かに大きい。形成から射出まで、時間が有るからだ。

 磔のまま、あれに殴られるのだ。肋も折れるか、いや殴られるなら頭だろう。意識が飛ぶ……だけで、済むものか。必死であがくが、氷の枷は硬く、逃れる事は叶わない。死刑台に乗せられる恐怖とは、こういうものなのだろう。


「――『吹っ飛べ』ぇ!!」


 果たして、氷の拳二つは射出された。一つは村雨に、一つは源悟に。何れも意識ばかりか、体の機能の一部さえ奪いかねない凶悪な速度。

 だが、村雨の体に震えが起きず、涙も流れなかったのは――その臭いを、無意識に嗅ぎ付けていたからに違いない。


 ごうと熱風が、村雨の頬を撫でた。二つの氷の拳は、村雨の二歩手前で、立ちあがった炎の壁に飲まれていた。炎の壁に物理的に阻まれ、砕け、溶けて消えていた。


「何時までも荷物が届かんと思えば……やれ、厄介な事になったものだ」


「……第一声はそれ? 心配くらいはしてよ……」


「ああ、そうだな。大丈夫だったか?」


「遅い。失格」


「すまんすまん、後で倍は心配してやる。それよりも――」


 炎の熱を掻き消すように、ひゅうと涼しげな声が吹く。拘束されて振りむけずとも、村雨は、そこに有るだろう姿を思い描き――安堵と、少しの悔しさを感じた。

 

「――そこの男。五体満足には帰さんぞ」


 の髪に黒備くろぞなえ、雪月ゆづき さくらがそこにいた。

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