夜の鳥の裏話
神君家康公が将軍職を拝命してより、おおよそ二百年。二条城は、軍事的な意味はさておき、象徴としての側面から、日の本でも指折りの城として扱われてきた。国政を司る者が幕府から朝廷――政府に切り替わった後も、それは同じである。
西洋の風に毒された街並みに、純国風の城。その地下に、夏の熱気も通さない一室が有った。
「ふと思った事が有るのだ、俺は」
「はい、なんでしょう」
一人の男が脇息に寄りかかり、畳の上で膝を崩していた。髭に白いものは混じっているが、顔の皺は少ない。四十にはまだ届いていないだろう、気難しげな顔の男だ。脇に正座している己の部下に、男は、顔も向けずに呟いた。
「海の向こうではな、罪人に山羊をけしかけ、足の裏を舐めさせる刑罰が有るのだと。ざらざらの舌が肉を削ぎ落し、やがて骨まで達するというのだ」
「山羊とはなんですか?」
「家畜だ、まずは聞け。それでな、俺は試しに、貿易船に命じて、活きの良い山羊を幾つか仕入れさせた。が、そのねじくれた角の化け物染みた事と言ったら、鬼が仔馬に化けているのかと思ったぞ」
片手の人差し指を立て、頭の上に突き出させ、おどけた顔をする男。横に控えた彼の部下は、おかしそうな様子は幾らも見せない。
「……笑わんのか」
「ええ。で、その山羊という生き物をどうしたんですか?」
「おう、それよ。一体本当に、舌で舐め続けるだけで肉が落ち、骨まで届くのかと思ってな、適当に罪人を探していた――が、面白くないのだ。足舐めはどうにも晒し物にする刑罰らしくてな、見るのが俺とお前だけでは物足りないだろう?
そこでだな、やり方を変えてみる事にした。試しに適当な女でも縛りつけて、その股の間を舐めさせてみればどうだろうとな」
男の部下は、顎に手をやって首を傾げ、瞬きに併せて幾度か頷く。
「それで、どうなりました?」
「どうもこうも、隣の部屋でやっている所だ。昨日までは叫んでいたのだがなぁ」
「ああ、幽霊じゃなくて人間の声だったんですね、この呻き声」
二人の談笑が途切れた所で、第三者が耳を済ませれば、壁の向こうから苦しげな声が聞こえてきただろう。
本当は叫んでいるのだ、喉が潰れて音にならないだけだ。もう痛覚も無いかも知れないが、神経を切り刻まれれば、脳より身体が苦痛に狂う。何かを思考する能力は、きっと既に消え失せているだろう。
男がこの様な趣向を始めたのに、特に理由は無い。敷いて言うならば娯楽を求める感情からであり、そこに僅かに知的好奇心が入り込んだだけだ。だが、好奇心が満たされた男は、もうこの趣向に見切りを付けていた。
「そろそろ飽きてきたんだが、お前、何か良い案は無いか」
「蜂蜜でも飲ませたらどうでしょう。喉は治ると思います」
「首無し死体が擦りむいた膝を洗う様な無意味さだな……いい、一仕事終えてから考えよう。そこの木偶の坊、突っ立っていないで報告をしろ。俺はそこそこ忙しいのだ」
淡々と言葉を返す男の部下。屋内でも目深に被った鉄兜の下から、聞こえる声は涼しげなもの。先客二名の平常心が堪らず、第三者――青峰 儀兵衛は、嫌悪感を露骨に示した顔だった。
小屋を、小屋の地下の遊女を焼き払う。難易度は子供のお使い程度、良心の呵責は海に沈むばかり。そんな任を命令したのは、この、嬉々として残酷行為を語る男である。儀兵衛は、自分の任務の主目的が、この男の愉悦を満たす事だったのだと気付いて、今にも男を殴りつけたくてならなかった。
「失敗ですな、俺の部下は全員が殴り倒されました。酷い奴は腕も足も折られて、自力では動けない有り様。医者に掛かる費用を要求します」
常よりは丁寧に、だが無礼に、儀兵衛は要求された報告を行う。
「わざわざ幕府から借りてきたのだがなぁ。お前、前の任務も失敗しただろう。確か箱根だ、報告書で見た」
「確かにその通り。素人相手だからと聞いて準備してたら、玄人が待っていたんですな。それはどうでもいい、今回の報告でしょう。俺達は人間を相手に、屋内で戦闘する為の部隊です。屋外の夜間、しかも化け物相手なんざ想定に無い」
「想定に無かろうが、俺はお前達の腕を買ったのだ。期待したくじが外れた俺の気持ちが分かるか? いや待て、賭け事を語るのはさておいて――」
男は、脇息を片手で弾き飛ばすと、胡坐を組み、膝の上に肘を乗せた。日光に当たらない白い顔が、怒りか好奇か、ほんのりと赤くなる。
「――化け物とは、なんだ?」
儀兵衛は、問いを鼻で笑い飛ばす。
仮に儀兵衛が本音を述べるならば、化け物はお前だと言い切っただろう。俺もお前も化け物だ、人間殺して飯を食う。法に則った処罰ではなく、個人の利害の為に力を振るい、弱者を徹底的に叩き、殺す。化け物に負けたのではない。化け物が、人間に負けたのだ、と。
だが然し、儀兵衛はこうも思った。俺達が化け物であろうと、あれを素直に人間と呼ぶには、どうにも恐ろしさが勝り過ぎる。それに、些かに敬意が薄い。正当性の無い暴力を、例え暴力という形ではあれど阻止したあれ達には――あの少女には――相応の畏怖を纏わせてやりたい。
「獣が一匹に、鳥ですな」
「うん?」
儀兵衛は、己の例えが己でおかしくなり、ははと声を上げて笑った。
「かたや山の主、化け狼だ。猪も熊も食い殺す、あれでは俺達もどうにもなりません。無道に腹を立てて降りてきたのやら、見たら伏し拝んでから逃げるべきでしょうな」
ああも人に化けるからには、その本質も予測が付く。少なくとも儀兵衛ならば、灰色の少女の本性を、十分に推測する事が出来た。残酷、残虐な獣と聞き、思い込んでいたが――とんでもない、目の前にいる男の方がよほど亜人より残酷で醜い。この男の命令で働く、それが途端に馬鹿馬鹿しく思えた。
「かたや黒羽の八咫烏。夜では姿も見えないが、そこは太陽の鳥、近づけば焼け死ぬ様な熱さがある。あれが脚を振りあげたら、俺など本当は容易く輪切りだったでしょうよ」
黒衣、黒髪が翻り、翼と見紛う艶姿。正直、刃を向けられていなければ見惚れるところだ。そして、向けられた刀身までが黒。両の脚と黒の刀身、合わせて三本、あれは正しく黒八咫だった。巨大な、一羽の烏であった。
「……はぁ。お前、使える様で使えんな。給料は払うから休暇を取れ、下がれ」
男は事務的に――そして、趣味に似合わず寛容に、儀兵衛へ命令する。言葉が終わる前に儀兵衛は踵を返し、職を辞す事を真剣に考え始めていた。
「どうするね、どうするよ」
「あの兵隊の事ですか、和敬様?」
「いいや、青峰儀兵衛はもうどうでもいいのだ。汚い仕事は出来なくなったかも知れんが、代わりにあれは扱いやすくなった。大義名分さえ与えてやれば、自分も部下も全て死ぬまで、その任務に食いつくだろうよ。全く痩せ犬は分かりやすく愚劣、愚直だ」
和敬と呼ばれた男は、半開きの襖を見ながら、無礼を振りまいて立ち去った儀兵衛を評した。全く静かに、平常平静の感情を保った声である。
「が、『錆釘』まで正義面をし始めるとは、正直さっぱり読めなかったのだ。穢れ仕事では飽きたか、金髪毛虫の堀川めが。あの総髪丸刈りにして床の敷き物にしてくれようか」
「それ良いですね、できたら私に下さいよ」
「やらんわ阿呆、俺が使う」
鉄兜を和敬が殴りつけ――ごぉんと快音鳴り響いた後、痛みに蹲るのは和敬である。
「くぉお、おぉ……おお……」
「……当然の結果ですよね。で、どうしましょうか。狼と烏と、でしたね?」
「そう、それだよそれ」
話題が戻ってくるや、和敬はすうと立ち上がる。
「実はな、『錆釘』が動かん確証を取れていれば、明日から〝あれ〟を始めるつもりだったのだ。現在の洛中の様子を見るに、三月と掛からずに全てが終わる、そう読んでいたのだが……」
「一頭と一羽、少なくとも何れかは……『錆釘』の手の者でしょう。間者を潜り込ませていましたが、焼けた木片を取り払って遊女達を回収したのは、確実に『錆釘』の構成員でした――報告書の通りに。
……どうするんです、青峰旗下三十名より有能な部隊がいましたか?」
「うーむ、それだなぁ。どうしたものかね、どうするよ」
軽く晴れた拳をふぅふぅと吹きながら、和敬は部屋の中を歩き回った。表情は抜け落ち、目は焦点を定めず――思考に没頭する人間の顔である。
「……良し、まずは隣室のあれ、飽きたから移動するか」
「どれですか? 五人くらい横並びになってましたが」
「あれだ、あれ。あの葉隠とかいう足抜け遊女。夏の盛りに五人部屋は暑かろう、涼しい部屋へ移動してやれ」
涼しい、な。重ねてもう一度繰り返し、何か訴える様な目で、和敬は自分の部下を見た。彼の優秀な部下は主の意を察し、
「了解しました、水牢に移しておきます」
「氷室の氷も使っていいぞ、存分にな――ああ待て待て、まだ動くな早い、話を聞け」
「ぅおうっ」
早々に仕事を済ませようとして、肩を和敬に掴まれ、がくんと首を前後に揺らした。
「っく、首が……!」
「俺はな、邪魔をされたくないのだ。拝柱教の聖女殿は良い人だ、だがやり方が悪い。根っこを見つけられたのだから、何処へ蔓を伸ばしても見つかるだろうよ」
「……命令を下す大元が、拝柱教だと知られた。そうなれば、こちらの目的もやがて露見する、と?」
「その通り、故に俺は開き直ろうと思う」
ようやく、和敬は笑った。残酷な人間性を示す様に、嫌な笑みだった。
「〝射手〟を呼べ。〝的〟は『錆釘』の構成員を無差別に五人。死んだ事を確認したら、書状を添えてどこかに捨てておけ。内容は、そうだな……『烏と狼の番いに面会を所望、十日にあの小屋の前で待つ』。これを『錆釘』の換字暗号で書け」
「暗号表を用意するのに二日掛かります、死体が腐りますけど」
「別に俺が運ぶ訳じゃない――じゃなくてな、腐ってるぐらいのが良いだろう、悲惨で」
そう言うと和敬は、部屋の文箱から、舶来のインクなる物を取り出し、白い紙に向かい合う。命令をこなす為に、彼の部下は、部屋の襖に手を掛ける。
「ああそうだ、もう一つ注文があるのだった」
「はい?」
呼び止められて振り向いた部下に、和敬は、またニタニタと笑みを浮かべて見せる。
「水牢な、うっかり沈んでしまわん様に、塩をたっぷりと入れておけ」
「勿体無いから一袋だけにしますね」
分かってるじゃないか、立ち去る部下の背にそう言って、羽ペンを紙に走らせる。
狭霧 兵部和敬。皇国首都の軍事を預かる男は、きっと政府の誰よりも腹の腐った、純なる外道に違いなかった。




