夜の鳥のお話(4)
『勝つ』という事は難しい。己の意思を通し、相手の意思は断じて通さない。二つの目的を達成しなければならないからだ。
その点、『負けない』だけであれば、相手の意思を通さないだけで済む。単純に考えて、難易度は二分の一だ。
「はっは、なんだ! 俺も割とやるもんだ、だろう!?」
「ああ、腹立たしい程にな!」
桜の剣閃の雨に打たれ、だが、儀兵衛はしかと踏みとどまって戦っていた。
彼の背後には、燃え盛る小屋。歩数にして、おそらくは20歩も無い距離だ。首筋を火の粉が焼き、僅かに痛みも走る。然しこの状況こそが、儀兵衛の望むものであった。
化け物を殺せなどという指令は受けていない。小屋を焼き払い、中に残っている者達を焼殺せしめればそれだけで良い。そして、火を着けるまでは成功したのだから――後は、時間を稼ぐだけ。
桜はもはや、敵と戦う事など眼中にない。小屋に近付き、火を消す事だけを考えている。数百の軍勢にも匹敵する戦力を、ただ二十歩の距離の踏破だけに向けている。だのに、それが適わぬのだ。
恐るべきは儀兵衛の執念と技巧である。
個人の戦闘力で比較するならば、桜と儀兵衛では、それこそ天と地程にも隔たりが有る。仮に儀兵衛が『勝つ』事を目的に戦っていたのなら、ただの一撃で決着は付いていただろう。
儀兵衛は、決して自ら攻撃に移らなかった。桜の剣撃を受け流し、僅かに生まれた隙に短槍の突きを合わせているだけだ。ただそれだけだが――足止めには十分過ぎた。
力、速度で劣る儀兵衛が、唯一勝っているのは切り抜けた戦地の数。重ねた武功の数に裏打ちされた経験則で、桜の次の挙動を予測し妨害する。それも長くは続くまい。いずれ、桜の目が慣れれば、するりと横を抜けていかれる。
「道を開けろ、さもなくば――」
「おっさんを舐めるなよ、じゃじゃ馬!」
つまりは、儀兵衛の引き出しが空になるが早いか、地下の人間が蒸し焼きになるが早いかの勝負。華も無く泥臭い戦いだが、それこそ儀兵衛の、最も得手とするところであった。
短槍が付きさすのは袖の布、刀の切っ先が捉えたのは手の甲の皮膚。儀兵衛の技は、桜に手傷を与えていない。逆に儀兵衛は、体全体打ち身に切傷、赤く染まって火が映える様相。
それでも尚、笑っているのは儀兵衛で、汗を流しているのが桜。今、この場では、強いも弱いも関係は無かった。
だからだろう。本来なら歯牙にも掛けられぬ筈の存在でも、蜜蜂の針より弱い一刺しでも――切り札と、成りえるのだ。
「ひー、持たねえなこりゃ……――ぁ、あ?」
燃え盛る炎が、夜に影を作る。視界が暗くなったと感じた儀兵衛は咄嗟に振り返り――反射的に後退しようとして、落下してくる少女を避け損ねた。
燃え尽きた炭の色が見えた。火の中を潜り抜けた為、灰が積もっているのかと儀兵衛は思ったが、それは彼女自身の髪の色であった。
「ぉ――ぉぐ、おっ!?」
お前は、と言おうとした口を殴られ、言葉が寸断される。頬の裏側が歯に当たり、儀兵衛の口の中は鉄の味に染まった。更に二つ、三つ、少女は拳を落としてくる。
痛みはあるが、然程のものではない。背を打ち、呼吸が些か苦しいが、直ぐにでも立ち上がる事は出来るだろう。少女はかなり体重が軽く、儀兵衛ならば造作もなく立ち上がれる筈だった。
「かっ、こいつは――」
が――火が舐めるように照らした少女の顔を、儀兵衛は徐々に思いだす。確か、高々一月程度前の事だった筈だ。仕事の中で見た顔だが、自分が助けた訳ではない。寧ろ――そう、自分が不覚を取った時の。
彼女が、拝柱教教会に攻め込み、そして囚われた時に見た顔だと思いだした瞬間、儀兵衛は無性に悲しくなった。あの時の少女は、敵地に居る緊張感の中にも、確かに喜びの感情を見せていた。誰かを助けられた、誰かの為になれた、それが嬉しくて仕方が無い様な笑顔を浮かべていた筈だ。暗い牢屋の鉄格子の向こうに、確かに、それを見た筈だ。
同じ様に暗い景色だが――炎を背負った彼女は、怒り、そして泣いていた。あの顔が、こうも曇るのか。そう思うと、儀兵衛の善良な心は、棘が刺さった様に痛むのだ。
任務を完遂しなければならない。その意思は、まだ途切れていない。だが、視界の端で黒い影が――先程まで足止めをしかけていた女剣士が馳せる様が――見えても、儀兵衛は立ち上がろうとしなかった。
夜闇に黒太刀が踊る。跳躍から屋根を斬り、着地と共に柱を斬り、崩れ落ちる壁を斬り。小屋を形作る木材が、ただの木端へと変わっていく。もはや木片は燃料とならず、太刀は風を巻き上げて炎を吹き散らす。夜を焦がす火は、十数度の斬撃によって雲散霧消した。
「おい、村雨」
握りの甘い拳で、指を痛めながら人を殴る――その様を見かねたか、最も荒い方法で消火活動を終えた桜は、村雨の手首を掴んで立ち上がらせた。
「……ぅ、うぅ、ぅー……!」
指の皮が剥け、下の肉も裂けている。骨が砕けていないのが救いだが、数日ばかりは食事にも難儀するだろう。痛めた手を、然し庇う事も無く、村雨は唸る様に泣き続けていた。
何が悲しいのかは、まだ自分でも分かっていないだろう。感情の全てを言葉に出来る程、村雨は成熟していない。分かるのは、理不尽は弱者にだけ降り注ぐという事だけで――自分が殴りつけていた相手が、過去に見知った顔だとも、まだ気付いていなかった。
「さて、火は消えた。今は私がここに居る」
太刀の切っ先を儀兵衛の喉へ突きつけ、桜は冷ややかに告げる。
「去るならば良し。さもなくば皆殺しだ。どうする?」
「……どうもこうも無えなぁ」
世の中には、命を掛けるに値する任務と、到底値しない任務が有る。儀兵衛は、今宵の任務を、後者だと認識していた。
「撤退だ、撤退! もう戦うな、無駄だ!」
逃げていく足音は三つだけ。他は全て、殴り倒されるか蹴り倒されるかしている。二連続で任務失敗、散々な有り様だ――が、残念だと思う気持ちが湧かない程度には、儀兵衛は今回の任務に辟易していた。
ととん、と軽い足音が聞こえる。そちらに目を向ければ、左馬が涼しげな顔で――だが手足に幾つか切傷を負って――歩いてくる。
「片付いたかい? 悪いね、あんまり楽しいから遊んでしまったよ」
「見ての通りだ、遊ぶな馬鹿。かなり面倒な相手だったのだぞ」
「それは羨ましい、是非とも私が代わりたかったよ。ま、それはいいさ、質より量を堪能出来たから……それよりも、桜、桜」
腕に流れた血を舐め取りながら、左馬はさも愉快そうに目を細め、肩で息する村雨を見やる。
「何処で拾ってきたんだい、彼女。良く跳ぶね、それに速い。私だってああはいかないよ、大した子だ」
戦闘の最中、周囲を見渡す余裕が、左馬には有ったのだろう。桜の様に一か所で縫い止められる事も無く、自由気儘に夜を擦りぬけつつ、より良い獲物がいないか観察していたに違いない。その様な思考回路では、一点だろうが自分より優れた存在、人外染みた跳躍力の――そも人外だが――村雨に、興味を抱くのも無理のない事だ。
「……まあな、江戸からの連れだ。そう気にするな」
桜は、歯切れ悪く答える。掴んだままの村雨の手首を引っ張り、無理に歩かせ、その場を去ろうとした。
手に重さを感じ、桜は足を止める。漸く涙の収まった村雨が、未だ仰向けになったままの儀兵衛に視線を向けていた。桜が手を離してやると、村雨は儀兵衛の顔の傍にしゃがみ込んだ。
「私さ、今日は仕事なんだ。前に会った時は仕事じゃなくて、連れの我儘に振り回されただけだったんだけど――」
「なんだ、嬢ちゃんも覚えてたのかよ。おっさん、少し嬉しいぜ」
「――仕事って、楽しい?」
軽口で逃れようとした儀兵衛の顔を、村雨は、真上から覗きこむ。
「前の時はさ、楽しいかどうかは別として……ん、すっきりとはした、と思う。悪くない気分で眠れたかな。でも、今日は――仕事は成功したけど、多分、すっごい嫌な気分で寝ると思う。
あなたはどうなの、おじさん。人間のくせに、弱い人間を殺す様な仕事を……人間に命令されて、終わらせて、楽しい?」
「……いーや、全然だな」
儀兵衛は目を閉じ、首を左右に振る。後頭部が石畳に擦れ、じゃりじゃりと音を立てる。
「私はさ、人間が羨ましいんだよ。人間は優しいし、力が弱くても強い……自分の命より他人を大事に出来る、凄い生き物だもん。なのにさ、なんで同じ人間が……全く正反対の事をするの? 何処かの誰かの為に、別な誰かを――」
問いに横から答えようと、桜が一歩だけ歩み寄る。何も言えず、結局は引き下がった。問われた儀兵衛は、深く長く息を吐き出し、
「……だなぁ。人間ってのはいいもんだが、ひでぇなぁ……ごめんな」
心から詫びて、立ち上がり、足を引きずる様にして歩き始める。桜も左馬も、儀兵衛を追おうとはしない。仕事に疲れた中年男は、日の出まで散歩をしていこうと決めていた。
村雨もまた、この場に留まりたくないのだろうか、桜を置いて走り始める。方角は、二人が借りている宿と合致している。鍵は村雨が持っている、問題は有るまいと思ったか、桜は敢えて、こちらも追わずに置いた。
「変わった物言いをするね、彼女。あの男の受け答えも妙だけど、うん……もしかすると、桜」
重く沈んだ空気の中、左馬の気取り澄ました声だけは、雰囲気に飲まれず常の様に響く。訝しげな表情で、左馬は首を傾げ、走り去る村雨の背を見ていた。
「ああ、お前の想像通り。全うな人間ではないさ、あれは。人狼の娘だ」
身体能力、知覚能力、そして口ぶり。判断要素は十分すぎる。友人を誤魔化し通せるとも思わず、桜は、言外の問いに肯定の意を示した。
左馬は、一度完全に表情を消し、目をくうと細める。そして、桜を横目に、歩幅も広く、足音荒く歩き、
「なんだ、半獣か」
呪詛の如き語気で吐き捨て、姿を消した。
「……変わらんな、お前は。全く変わらんよ」
諦念も露わに、桜は溜息を付く。黒太刀を蝶番式の鞘に納め、余熱も過ぎ去った小屋の跡で、夜明けを待つ事に決めた。
「――以上、私が見たのはこれで全部。報告を終了します」
「お疲れさま、村雨ちゃん。ほんに良くやってくれたねぇ」
翌日の日中。皇国首都ホテル三階、『錆釘』事務所最奥の部屋。村雨は堀川卿に、今回の任務の報告を行っていた。左馬はいない、音沙汰無しだ。恐らく呼んでも来るまいと、桜が強く断言したので、村雨は連れてくる事を諦めた。
「まずはお医者様やねぇ、火傷に矢傷、餓え、乾き……弱っとるもの、話もよう聞けへん。ゆっくり休ませて、それから尋も――質問せんとあかんね」
相変わらず堀川卿は、怠惰な姿勢で村雨を出迎えた。床へ直接敷かれた布団にうつ伏せて、枕に顎を乗せ、顔だけ村雨へ向けている。平均四丈の金髪は、彼女の頭から足先までを、数往復して覆っていた。
「尋問は……どうかと思うんですけど」
自分の頭髪に埋もれて物騒な発言をする堀川卿に、眉根を顰めて村雨は異議を唱える。
「ごめんごめん、失言や。いっつも言い慣れてるからつい、なぁ。うちも鬼やないんやから……」
「…………ですか?」
信用できぬという思いが、村雨の表情にはありありと浮かんでいる。
自分の上司、身内の立場とは言え――冷徹に外敵を処分し、末端の人間を駒として扱う人間。村雨から見た堀川卿は、そういう存在であった。そして、今の村雨は――少々、指導者的存在に不信感を抱き始めていた。
理由はやはり、昨夜の一件。使役される人間が、何処まで尊厳を奪われ、意思を貶められるかを目の当たりにしたからだ。
遊女達も、兵士達も、決して他人に羨まれる様な境遇ではなかった。だが、他に選ぶ道などはなく――そして、選べているただ一つの道は、他人に与えられたもの。道を選べるならば、決して選択などしないだろう悲惨を味わっていた。
堀川卿――この女もまた、そういう人間を作っているのかも知れない。もしかしたら自分も、そういう立場に堕とされるかも知れない。疑心暗鬼でしかないが、昨日の今日で頭の冷えていない村雨には、深刻な問題である。
「話を聞いた後は……?」
「んー、どういう質問やろねぇ。どうする、って事なら……まあ、特に何もせえへんよ。普通に食事をさせて、普通に医者に見せて、適当な着替えくらいはやって、普通に帰す。口止めする事も無いやろうしなぁ」
「帰した、その後は?」
数拍、沈黙が続く。堀川卿は気だるげに、のそりと体を起こし布団の上に座った。
「何も出来へんよ。あれは皆、自分の考えで働いとった。全員が拝柱教の為に、自分の意思で身を売っとったんや。地下に閉じ込められて干されて、火を掛けられてもそれは変わらへん。帰せばその足で、拝柱教の教会に掛け込むやろ」
「それじゃ、あの人達はまた……!」
今日、死なずに済んだ、それは確かだ。だが、明日生きている保証は無い。何の為に助けたのか、それでは分からなくなってしまう。村雨は抗議の意を込めて、掴みかからんばかりの勢いで堀川卿に近付いた。近づいて、初めて――
「なあ、村雨ちゃん。どうしたらええのんかなぁ?」
堀川卿の目の下に、隈が出来ているのが、村雨にもはっきりと分かった。
「あの子達はな、騙されとるかも知れん、馬鹿かも知れん。けどなぁ、間違いなく幸せだったんよ。あのまま焼け死んでても、あの子達は幸せに死ねてた筈なんよ……盲信とはそういうもんや。拝柱教の不利になる事を、あの子達は絶対に口にせえへんやろ。
けどなぁ、喋るまで逃がさん言うて閉じ込めて、食事の保証だけして閉じ込めて……そんな酷いやり方でも、あの子達を生かしとく事は出来る。例えば腕も足も無いまま、例えば目が見えんまま、例えば子供程度の知恵しかないまま、例えば顔が半分崩れたまま――自分で自分を養わせず、一方的に与えて生かしとく事は出来る。家畜の様に、なぁ」
金髪の束の中から腕が伸びてくる。紺の襦袢の内側で、堀川卿の腕は白く細く、遊女達と同様にか弱げであった。近づかれ、警戒し、身構える村雨――その肩を、堀川卿はそっと抱き寄せた。
「……左馬さんが来とらんなぁ。無理も無いわ、あの人は亜人嫌いやもの……この国の人らしく、な」
村雨の耳元に、辛うじて聞き取れる程度の声で、堀川卿は語りかける。村雨は身を強張らせ、爪が白くなる程強く手を握り締めた。
「『錆釘』に加入した時、黙っとったやろ。仕方ないわ、この国なら仕方あらへん。不幸な歴史が長すぎた、一朝一夕に人の心は変わらへん……だから、その事は責めんよ。責めんけど、そういう立場やからって擦れて欲しくは無い……分かってくれる?」
「……なんで、それを」
それを知っているのか、と聞きたかったのだろう。村雨の声は、言葉の途中で喉に引っ掛かり、咳払いの音に取って代わられた。
「臭いがな、人と違うもん。部屋に入ってきてすぐ分かったわ――うちと『おんなじ』やって」
堀川卿の金髪が、村雨の背にまで回り込み、筒状の空間を形成する。その中で初めて、村雨は、この女の全身像を見る事が出来た。背はそう高くもなく、骨格は華奢で、間違いなく身体能力は低い。絞めれば首が折れ、蹴り飛ばせば肋が砕けそうな体の――腰の後ろに、一固まりの毛の束が見えた。頭髪と同じ色だが、それよりも直線的で固い質の毛――人狼の目は、それが狐の尾だと瞬時に見抜いた。
「あの子達の中にも、うちらと同じ……亜人がおった。死ぬ不幸を押しつけるなんてしとうあらへん。けど、ただ生きるだけが幸せや無い――それも、分かってくれるやろ? せやからもう少し、解決策は待って欲しいんよ。
どうせ、何も喋らへん。拘留しといても下に申し訳が立つ。後回しにしといて、気が変わってくれるのを待てば……――」
ふふ、と自嘲する様な響きで笑って、堀川卿は村雨から手を放した。彼女の尾は、頭髪の中に完全に紛れ、外からはまるで見えなくなる。布団の上にうつぶせになると、枕に顔を幾度か擦り付け、それから背をぐうと反らせて伸びをした。
「報酬は表で受け取っておいき、ちょい弾んどいたで。それと、こっちはうちからのご褒美」
金髪の一部が手の様に動き、紺襦袢の内側から小瓶を引き出し、村雨に差し出す。受け取った村雨は、幾度か鼻を引くつかせ――蓋の隙間から洩れる臭いが、堀川卿の体臭と同じものだと理解する。
「凄いやろ、狼の鼻も誤魔化す香水っちゅうもんや。舶来の貴重品やで」
「……ありがとうございます」
まだ言葉の歯切れは悪いが、表情の重苦しさは緩んだ。香水の瓶を手に、村雨は軽快に、堀川卿の部屋を後にした。




