鬼婆のお話(4)
「三途の渡しの代金だ、首の一つも置いていきなァ!」
「ただの盗人に、随分と恐ろしい事を言う。捕まえて役人に引き渡す、それだけでも良かろうになあ……」
努めて平常心を保とうとしている桜であるが、老婆の巨体と鬼の形相は、どうにも生理的嫌悪感を呼び起こすものであったらしく、未だに頬は痙攣している。だが同時に、この相手が外見の通り、危険な敵であることも理解していた。
床を立ち割り、床下の桜を過たず狙って振り下ろされた薙刀は、正しく断命の一撃。声を顰めていた桜を、目視する事も無く発見する慧眼。さらに、端からこの老婆、盗人を生かして帰すつもりなどないのだ。その凶暴性、暴力性も、また危険たる所以に数えられるだろう。
「……村雨、あれが魔術を用いた気配は有ったか?」
敵の戦力を測る事こそは、おおよそ争いごとに於いて必須の行為である。魔術行使に伴う魔力の変動を、大気の異常という形で察する村雨の嗅覚は、この様な場面でこそ生きる筈であった。
「ううん、全然……この建物に入ってから、そういう臭いは無かった」
「そうか、分かった」
何も分からない、という事だ。断言できるのは、この老婆が怪物染みた存在であること――と、もう一つ。
「逃げるぞ村雨、ここでは駄目だ! 走れ!」
「分かった――その人、任せた!」
不運にもこの場に取り残された、先程まで老婆の恫喝を受けていた遊女、葉隠である。見れば、些か不健康のきらいがある、痩せ形の女だ。顔色の悪さは常の物か、それとも混乱と恐怖による物か。もしかすれば、誰とも知れぬ男の子を孕んだ、己への絶望やも知れない。
兎角も、桜と村雨は、老婆を背にして一目散に走りだす。村雨が先行して扉を開け、その後ろを桜が、葉隠を肩に担ぎあげつつ走った。
「ッヒイ!? キャ、キャー!? 降ろしとくれー!?」
「叫ぶな喧しい耳が痛い! 降ろせばお前、子まで降ろす羽目になるぞ!」
「上手い事言ってる場合か馬鹿ー!」
突然担ぎあげられた遊女は、素が出ているのか、生国の言葉混じりにキンキンと叫ぶ。村雨は既に階段に差しかかり、桜は部屋を出る一歩手前。
「くぉらぁあああっ!! 待たんかい鼠どもぉッ!」
その頭を叩き割らんと、薙刀が再び振り下ろされる。気配と影で狙いを悟った桜は、振り上げていた右足を強引に外側へ降り出し、左足で床を蹴って直角の側面跳躍を行う。袖に掠らせつつ薙刀を回避し、また直角に方向転換、薙刀が再び振り上げられる前に射程圏外へ逃げた。
「……ちっ、髪が何本か切られた」
些細な事で怒りを示しながら、角度の急な階段に差しかかる。少し前方に目を向ければ、酒の臭いをぷんぷんとさせた男が、村雨と正面衝突して引っ繰り返っていた。村雨自身は転倒する事も無く、直線の長い廊下で、障害物を横へ蹴り飛ばし道を空けている。この場合の障害物とは、何気なく廊下に置かれた箱であったり、のんびりと歩いている客であったりする。
「お前、かなり私に似てきておらんか?」
「こんな時に喜んでるんじゃなーい!」
「いやいや、喜ばしいこ――ええ、邪魔が入るな!」
粗っぽく道を空けた村雨に、喜色を大きく面に出した笑みを見せつつ、廊下を走り――背後からの殺気に、床板を剥ぎ取り背中へ回す。盾の代わりにした板は、縫い針が幾つも突き刺さり、それこそまさに針鼠となった。床を軋ませながら走る老婆が、吹き矢のように口から打ち出した針だ。
店の入り口がどの方角かは、桜は覚えていないが、村雨が嗅覚で先導する。巨体でも老婆は敏捷だが、然し桜と村雨程の、人を外れた速度では走れない。このままならば、問題無く逃げ切る事が出来る筈であった――が。
「――っ!? かっ!」
「ぁ、痛っ……!」
不意に、桜の視界が真っ暗になる。反射的に手で顔を払うと、肩に担いでいた葉隠が、手首をさも痛そうに胸に抱きこんだ。払い除けたのは、彼女の腕だったらしい。
「何をする、この馬鹿っ!」
「降ろしなんし、人攫い! 鬼! 浅葱裏!」
「誰が田舎者か誰が!? だから掴むな目を隠すな――ああ、もう!」
逃げる桜を足止めするように、耳を引っ張ったり目を覆ったり鼻を摘んだり――葉隠はそれこそ必死に、誘拐犯から逃げる様な形相で抵抗する。相手が相手である、桜も下手な反撃せず、ただ手を払い、手首を抑える程度の事しか出来なかった。
そもそも葉隠には、何故、桜が自分を担いで逃げ出したのかも分かっていなかった。彼女から見れば桜は、武器を携えて床下に潜んでいた、ただの盗人か何かでしかない。そんな人間が、自分を助けようと考えているなど、にわかに思い当る筈も無かった。
そして――葉隠には、この店から逃げる理由が何一つ無かった。
「……降ろしとくれよ、何だって余計な事をするんだい」
「あぁ?」
長い直線の廊下を過ぎて右に曲がり、後は数間走って外へ出るだけ。茜から黒へ変わり行く外の光に、葉隠の青ざめた顔が映え――いや、より痛ましく、弱く映る。
「どういうつもりだかは知らないけどね、あたいらはみーんな、好きでこの仕事をやってるのさ。無理に連れだそうだなんて野暮もいい所だ、だから浅葱裏だって言ってんだよ!」
「だがお前、このままでは腹の子が……」
引き離した距離も、立ち止まって会話をしていれば直ぐに詰まる。もうすぐそこまで、老婆の足音は聞こえている。
「……仕方が無いよ、孕んだあたいが間抜けだっただけだ。ちゃんと女の子だったら、お役に立てたっていうのにねぇ……」
心底悔しそうに、葉隠はぎゅうと眉根を寄せた。涙すら流しているが――その悲しみは、我が子の命を奪わねばならぬ故ではない。あろうことか彼女は、自分の子が男でなかったと告げられた事で、己を罪人と同一視さえしているのだ。
「役に立つ――と言うのは分からんが」
老婆の足音は、もう直ぐそこだ。息切れをしている様子は有るが、怒りが疲労を忘れさせているのか、気迫は些かも衰えない。
「なら、女の子ならどう役に立つ」
「この世の穢れを受けていない純粋な女の子は、一番神様に近い存在なんだ。だから――」
「余計な事を言うんじゃないよクズ女ぁ!」
老婆が薙刀を振り上げた。高い天井だが、然し巨躯に長柄の武器、刃の先は梁を掠める。桜は、振り下ろされた刃の側面を拳で叩き、薙刀を側面に逸らした。床が砕ける様を横目で見ながら、葉隠を肩から降ろす。
老婆の侵入者に対する反応は、明らかに過剰だ。凶悪な面相の歪み方は、そのまま、この店が何か、外へ知らしめたくない事を抱えている証拠である。
「何故、男だと断言――」
「違うんだよ、〝音〟が! 骨だの肉だのの形で、響いてくる〝心音〟が違うのさ! この役立たずと来たら……ぁあ、ええぇいッ!」
桜の言葉を遮り叫び、廊下を壁ごと切りながら、薙刀を真横に振るう老婆。屈みこみ、脇差の背で刃を受け止め、流す様に反対側の壁へ押し付ける。屋内で長大な得物は向かぬ筈だが、老婆にはまるで関係無い事であるかの様だ。一方で桜は、隣に立つ葉隠が邪魔になり、背中の大太刀を振り回せない。
焦りは顔に出ずとも、心音に反映される。それを、老婆の耳は聞き落とさない。『聞く』事に特化した異能――特化能を持つ老婆ならば、板の向こうに居る人間の数、体躯など、手に取る様に分かる。心臓など祭りの太鼓も同然、数件先に引きこもっていようが――という訳だ。
自分が優位に立っていると感じとった老婆は、愈々薙刀を、暴風の如く振り回す。屋根が落ちたかと錯覚せんばかりの高さから、重く響く斬劇。桜は容易く受け止めている様に見えるが、足元の板が耐えきれていない。少しずつ立ち位置をずらしているが、その内に床が抜け、身動きが取れなくなるのは必然。
「――さっぱり分からん、お前達の言う事は!」
然し、腕は動くのだ。脇差で刃を受け、すぐさま柄の端を掴み――長く掴んでいては浮かされる、一息、握力任せに圧し折る。
「んがっ!?」
「男だ女だ役に立つだ立たぬだ、そんな事がそうも大事か!? 堕ろせと言う方も大概だが、従うお前もまるで分からんわ! 少しは抵抗しろ、ど阿呆!」
腹の子を堕ろすという事は、ただ赤子の命を奪うという事ではない。母体をも危険に晒す、という事である。西洋医学はまだ日の本に、完全には根付いていない。まして、母体の意思を問わずの堕胎――好んで行う医者などおるまい。結果、半端な知識と技術を持つ物だけがその職に従事し――後は、推して知るべし。桜の怒りは、未だ生を受けぬ赤ん坊の為ではない。己が身を愛さぬ遊女の為、母となる者を労わらぬ老婆へ向けられた物なのだ。
薙刀の先を折り取られ、僅かだが怯んだ老婆を余所に、桜は葉隠の胸倉を掴む。氷の面貌が怒りで溶け――それに僅かに、暗色が混ざった。
「他人の言うまま自分で考えもせず、僅かに一時悩む事もせず、己の身を捨てるな! どうしても子を殺して死にたいと言うなら、私が念入りにやってやるぞたわけ! ……村雨、任せた!」
片手で葉隠の体を浮かせ、老婆から庇うように床に置き――それを待っていたかの様に村雨が、腕を引っ張って走る。葉隠は何かを言い返す前に、店の外へと連れ出された。
「まーったく、無い物ねだりも良いところだ……おい婆あ! 八つ当たりとは分かっているが、お前は本気で殴る!」
片や、店の外。行き交う遊び人達の視線が、流行りの店から転がり出てきた二人に向けられ――そして直ぐ、巨大なサイコロでも転がしているかの様な賑やかさの、暖簾の向こうへと向けられていた。
「……なんなんだい、説明しておくれよ」
無理に店の外へ引き出された遊女、葉隠は、唖然とした顔のまま、村雨に訊ねた。
「いや、私に言われても」
「じゃあ誰に聞けば良いんだい」
途中から葉隠の手を引いて走ったのは、誰であろう村雨なのだ。彼女に責任の一端が有ると、葉隠が考えるのもおかしなことではない。
「んー……やっぱり、桜に? 私はただ、桜のやることを手伝っただけだからさー」
然し彼女は無責任に、腕を頭の後ろで組んで答えた。葉隠の息が整うまで、次の行動に移るのを待っているらしい。
「なんだか分からないけどさ、桜が結構本気で怒ってたから……いや、怒ってたのかな、うん、怒ってた。あなたになのか、あの大きなお婆さんになのかは分からないけど。どっちにしても危ないから、逃げて正解だと思う」
「……危ないっていうのは、つまり」
「つまり、巻き添えで殴られたり切られたりしたら困るから。お母さんになるんでしょ?」
そう言ってから村雨は、口を滑らせたとばかりに、表情を強張らせた。一方で葉隠自身は、諦観が浮かぶ顔付きであった。
「ならないよ、大婆様のお言いつけだ。さっさと堕ろしちまえば、次を抱えるのは……上手くいけば来月で済む。そうすりゃあ――」
「迷ってるんだよね?」
村雨は、葉隠の前でしゃがみ込み、目を閉じ、まだ膨らみの薄い腹に耳を当てる。ただ一言返されただけで、葉隠は何も言う事が出来なくなった。それは、図星とはいえないかも知れないが、否定も出来ない事だったからだ。
「本当はさ、多分もうちょっと前に気付いてたんじゃないかなー……って思うんだ。これくらい育ってたら、やっぱり分かるものじゃない? もう心臓の音が聞こえてるもん。
……それとも余計な事をしたのかな、ごめん。桜は多分謝らないと思うし、私が代わりに謝る」
人材派遣業『錆釘』は、あまり仕事を選ばない。だから村雨も、様々な仕事の裏を、必然的に知ってしまっている。遊女が子を堕ろすのは、子が憎いからではない。そうしなければ生きていけないという事情も有るのだ。他人がおいそれと口出しできる事ではない。当人でさえ、己の意を通せるとは限らない。
「……あたいにどうしろって言うんだい」
「それも桜に聞いて、また胸倉掴まれると思うけど……私は特に希望は無いよ。私が良いと思う事でも、押し付けられる程、ずうずうしくは出来てないから。でもね、参考にしてくれるんなら……誰も死なないのが一番かな」
それでも、例えこの世界の光を浴びた事が無いものでも、人は人なのだ。人が死ぬ、それが嫌だから、村雨も迷いなく葉隠の手を引いたのだ。
「考えてみてちょうだい。選ぶのに邪魔になりそうな人は、ほら、ああなってるからさ」
薄明も霞み、夜の帳。俯いた葉隠の顔は名の通り、影に籠って見えなくなる。それを持ちあげさせたのは、妓楼に向けられた村雨の指。
灯篭が照らす妓楼の壁に、蜘蛛の巣状に罅が入る。ごうん、と除夜の鐘の様な音が鳴って、老婆の巨体が通りに投げ出された。
「……こいつなら、加減せんでも死ぬまい。考えようによっては楽でいい」
両手の骨をガキゴキと盛大にならし、塵煙の中、雪月桜が歩み出る。氷像の如く冷え切った面貌は常の事だが、固く引き絞られた口元が怒りを叫んでいる、それを村雨だけは見逃さなかった。
彼我の力量差があまりに大きければ、その戦闘を客観的に見た場合、それはとても戦闘と呼べる代物でなくなる。巨躯の獅子が鼠を貪り喰らう、大蛇が鳥の雛を飲む、一方的な蹂躙、暴虐と成り果てる。
桜と老婆の戦闘は、丁度その様な、強者から弱者へ一方的に与える暴力であった。
「ぉお――っ、らあっ!」
防御も何も考えずに踏みこみ、力任せにぶん殴る。あまりに振りが大きすぎる為、老婆の防御は楽に間に合い――そして、何の意味も為さない。薙刀の柄は真っ二つになり、拳はそのまま、老婆の腹を打ち据えた。
「ぎええぁっ――!?」
「そーうら、っさあぁ!」
くの字に折れて地上に近付いた顎を、次は背足で蹴り上げる。膝を肩まで振り上げる蹴りの軌道は、その見栄えに、通行人がおうとさざめく程だ。打ちあがる頭に引っ張られ直立した老婆の腹に、今度は左右の拳で一度ずつの突き。肉を打つ音は、濡れた布を振り回した際に、空気が布を叩く音に似ていた。
「――っくぁ、かぁ……けぇええーいぃ!」
老婆は恐ろしく頑丈である。脚をがくがくと震わせながらも、刃を失った薙刀――つまりはただの長い棒――を、桜の喉目掛けて突き出した。鍛え抜かれた背筋、数十年の研鑽によるものだろう技量を併せた一撃は、枯れ木なら貫通するだろう威力を秘めていた。
桜は、受けない。掴んだり止めたりする事はなく、素直に横へ動いて突きを避けた。一度だけ太刀の柄に触れ、手を離す。老婆の耳に、キン、と鍔鳴りが届くや――手の中の棒は、四つに斬り分けられていた。寸拍遅れ、老婆の指から血の飛沫があがる。
「ッヒィイッ!?」
骨は切断されていない。腱も繋がっているだろう。丁寧に、皮膚と肉だけが斬られた。
痛めつける為でしかない無益な傷だ。怒りの発露――にしても悪辣、然して絶技。もはや老婆に、戦闘の意思は無かった。身を翻し、己の預かった店をも投げ売って、巨体に合わぬ速度で通りを掛けていく。
「桜、どうするの!」
捕えるのか、見過ごすのか。何れの答えが返ろうと、村雨は直ぐに動ける体勢でいた。彼女もまた、あの老婆のやり口は気に入らない。灸の一つも据える程度なら、やり過ぎに当たるまいと構えていたのだ。だが、桜は追う姿勢を僅かに見せ――直ぐに、首を左右に振った。
「元々、私達の仕事ではないからな。美味い所だけ食う奴が来た」
怒りが醒めきらぬ面構えだが、口角の角度が和らいだのは、慣れ親しんだ気配を見つけたからだろう。呆れた様に溜息を付き、右の瞼を中指で掻いた。
「そうそう、泥臭いのはお前、華の舞台は私。鮮烈に、華美に、そして――」
人の群れを一瞬で割り、夜から影が抜け出した。老婆の行く手に立ちはだかり――その足を、目一杯踏みつける。ぎゃっと悲鳴を上げて老婆は立ち止まり――影、松風左馬は、もう一歩だけ歩を進めた。
「豪壮にっ――『応』ォッ!」
腰を落としながら踏みだされた足が、小さな地鳴りを生む。前進する力に『落下する力』をその場で加え、果ては脚力までも、全ての関節を通じ、右手の先へ。爆発的な息吐きと共に、右掌が老婆の胸の中心、胸骨に突き刺さった。
異音が響いた。村雨は、坂道を荷車が転げ落ち、下の塀にぶつかった光景を思い出していた。人と人が生む音ではない。人の群れに紛れれば消えてしまう様な女がたった一歩の踏み込みで放った一打は、城門を打つ破城槌の如き破壊力で、老婆の巨体を数間も吹き飛ばしていた。
七尺の巨体が、毬のように跳ねる。野次馬を何人か巻き込んで、老婆は大の字に潰れ、血混じりの泡を吹いていた。
「状況は確認しないで動いたけれど、これを引っ張っていけば良いんだね、桜?」
「多分な。間違っていても責任は取らん」
やはり似た者同士。己を疑わず、仮に過ちが有っても省みない。拳を打ち合せて仕事終了を祝す二人を余所に、村雨はそっと、葉隠を連れて『錆釘』の事務方目指して歩き始めていた。
結果だけ見るならば、遊女を妓楼から連れ出して、追手を叩き伏せるという無茶苦茶振り。自分達だけで丸く収められる事態ではない。事務方から散々に嫌味を言われるのだろうと思うと、着慣れぬ男物がより重く感じられて、村雨は乾いた笑いを零した。




