鬼婆のお話(3)
案内された部屋は、簡素だが清潔感が有った。明かり取りの窓は小さく、外から差し込む光は弱い。既に夕刻という事もあり、蝋燭数本の照明では、互いの顔も明瞭に映らない。安遊女屋としてはこれ以上ない環境と言えよう。
だが、まんまと上がり込んだ桜達の前で三つ指付いている女は、少なくとも、暗さで顔の粗を誤魔化す必要は無いように見えた。垂れた目は、長い睫毛が物憂げで、涙など良く似合うだろう。ややふっくらとした頬はむしろ健康的で、骨と皮まで痩せ細った女より、よほど抱き心地が良さそうだ。そして何より、笑顔が明るい。照明の弱い部屋でも、彼女自身が光源になるのではと錯覚する程だ。
それが、桜には不思議でならない。苦界に身を落とし、食うにも困るだろうはした金で身を売って――おそらくは、長生きもするまい。過労か病か、四十を迎える事は無いだろう。そんな女の顔にはとても見えないからだ。
「瑠璃羽にありんす、ようお出でなさんした」
少しばかり東国訛りの響きが強い廓言葉で、笑顔の美しい遊女は挨拶を済ませる。慣れぬ種類の客だろうに、緊張を表に出さないのは、中々に度胸のある女なのだろう。
「ふむ、やはりこれくらいの丸みがなくてはなぁ……胸に触れていきなり骨では、些か興も削がれようというものだ」
遊女、瑠璃羽の明るさの理由を図り切れぬまま、桜はその手を掴み、無遠慮にぐいと引き寄せる。肩に腕を回し、脚や腹に触れているのは――勿論趣味も三割ばかり有るが――食事量を推し量る為である。食べるだけは食べているらしいと、桜の手に伝わる感触は答えていた。
「あれ、せっかちな。そう御急ぎなさんすな、まずはこれを……」
飽く迄、主賓は村雨――今回は『犬塚 政樹』などと偽名を使っている。すうとこんな偽名が飛び出して来た辺り、実は『錆釘』の仕事でも、何度か似た様な経験が有るのでは――そう勘繰った桜だが、村雨本人は黙秘を貫いたままだ。
偽名はさておいて、瑠璃羽は村雨に一枚の紙を手渡す。宣伝広告と同じ質の、安そうな紙だ。手に取ると、何やらこまごまと字が並んでいて、目が痛くなる。声は出さないまま、受け取った手からそのまま流す様に、桜に渡す。
「もう少し明るければなぁ……あー、どれどれ?」
分かりやすく示すならば、料金表であった。店と遊女が提供する品、或いは部屋、或いは行為に対し、事細かに金額が設定されている。この様な店に慣れている桜が呆気に取られる無茶な物から、大概の店では料金の範疇になっている基本的な行為まで、記載事項は百項目近くにも及んだ。
「……読んでいるだけで日が昇りそうだが……なんだ、その。公言している五十文とやらは、何だ?」
「それは床入りだけのお代でござんすなぁ。例えば、これなど――」
遊里の言葉に江戸訛り、そして回りくどい言葉選びで中々説明は進まなかったが、以下の様な事である。
五十文だけで遊ぶことは、確かに出来る。部屋と布団を提供され、ただ遊女を抱くだけなら、だ。この場合、遊女の側から積極的に、何かをしようという接触は無いらしい。客の動きを阻害しない程度に何もせず、客に通り一遍、弄ばれて五十文――これでも、この店の遊女の格から考えれば、極めて安価だ。
それ以外の事。例えば、遊里でしか楽しめぬ口技であったり、女性上位での技であったりは、追加で料金を取られる。が、それも十数文から高くて三十文、呆れる程に安い。
むしろ桜の興味を引いたのは、閨の技以外に提供される物――料理、酒、或いは特殊な道具、薬品、按摩、等々。こちらは料金様々で、例えば団子と茶なら数文で帰るが、山海珍味を集めた宴の料理なら、一両二両の世界となる。道具は、錠やら縄やら口枷やら。薬品は基本的に、客に飲ませる興奮剤だの、滋養強壮の薬だので、こちらは殆どが二百文前後。そして按摩は、〝素人技乍〟と注釈付きで、三十文程度であった。
「耳掃除が三文、肩と腕だけなら按摩十文、安酒に酌を付けて四十文。蕎麦の出前まであるぞ」
相場より少し高いが悪くは無い、と桜も思ってしまった。あちらこちらの店を巡り、見た目に難有る者に接客されるより、少々技量で劣ろうとも見目良き華を。成程、こうして次から次と客の欲を煽り、かつ不要な物を強制しないからこそ、この店の揚代は安いらしい。
「……いいなあ、この店。どれ、それでは一つ足揉みでも――こら、痛い痛い」
来訪の理由を忘れかけた桜の手を、村雨が、かなり強めに抓った。締まらない顔をしていた桜は、二度ばかり咳払いをして、居住まいを正す。
「瑠璃羽と言ったか。お前、本当に楽しそうに笑うのだな……こんな稼げない店で、何故だ?」
「何故と? お客さんが笑ってくださんすもの、わっちらぁにも嬉しゅうござんすよ。浮世の憂さはここで晴らして、どうぞ晴れやかにおかえりなんし。さあ……」
問いへの答えも、笑顔の質と同じで、裏を疑う余地のない声で返って来た。やや足音重く立ち上がり、既に敷いてあった布団へ、村雨の手を引いていこうと――手が触れた瞬間、何やら怪訝な顔をする。
拙いか。寸拍、空気が冷える。幾ら荒事を通過して来ようが、男と女では骨格が違う。未成熟な少年と少女でも、やはり差異は生ずるのだ。幅の広い和装で誤魔化そうと、やはり村雨は細すぎた。
「ああ、そうだ。ここに書いてあるが……縄、などもあるのか? 面白い趣向ではないか。どこに有る?」
「はい? ……ああ、縄、縄……ええとたしか、その物置きの下にござんす」
「そうか、済まんな」
これ以上は、段々と誤魔化すのが難しくなってくる。そう判断した桜は、音も無く瑠璃羽の背後に立った。突然、至近距離から掛けられた声に驚きながらも返答した彼女に一言だけ詫びて――両腕を、その首に巻きつけた。
骨や気道を傷めず、頸動脈だけを的確に締め、脳への血流を遮断。迅速に意識を削ぐ、蛇の如き絡み技。瑠璃羽は、悲鳴はおろか助けを呼ぶ声一つ上げず崩れ落ちた。
「おい村雨、そこの物置きだそうだ。あまり悠長な事は出来ん、急ぐぞ」
「……そろそろ私も、私の人権を守る為の活動を始めていい頃合いなんじゃないかな」
声を出せば一発で少女と判明する、だから黙っていろ。そんな指示にこれまで律儀に従っていた村雨だが、そもここまで入り込む為なら、もう少し上手いやり方が有っただろうと思わなくもない。だが、それをくどくど述べた所で、己が雇用主は決して反省などしない人種である。諦観の嘆息と共に、縄を見つけて、桜へ放り投げた。
瑠璃羽の手首と足首を背中側で結び、更に両肘を体に固定する形で縛り上げ、適当な布で猿轡を噛ませ、布団と合わせて押し入れに突っ込む。それから桜は、天井を見上げ、黒太刀の鞘でつつき始めた。
「どう、いけそう?」
「板を外すまではいいが、戻せるかどうかが分からんな。覗きが居ない店だと祈ろうか」
昼も夜も無く活動している店を探るなら、やはり床下か天井裏であろう。一階に通されたのは二人の計算の外だったが、考えようによっては、一階二階を同時に探る事が出来る、真に好都合の事態だ。
天井板を一枚だけ外し、軽々と跳躍、天井裏に消える桜と村雨。西から差し込む夕日も、照明としては心許無かった。
馬鹿げて天井の高い作りになっている『牡丹登楼』は、天井裏の作りもまた、人が住める程に馬鹿げた広さであった。
何せ、桜が背中を曲げずに歩けるのだ。僅かなら跳躍も可能だろう、衝撃で床が抜ける恐れも無い。但し、走りまわれば当然だが、一階に居る者達には、巨大な鼠の存在は露呈する。
建材の隙間から僅かに入り込む光、それを頼りに、村雨は桜を誘導している。人狼の目は特別製だ。日中はやや疲労が激しいが、吹雪や闇夜ならば馴染みの風景、壁に張り付くヤモリまで見える。
「それで、ここからどうするの?」
「深く考えてはいないが、客としては入れぬ場所まで潜り込む……例えば、金庫でも有りそうな場所など」
「泥棒じゃん」
「既に押し込み強盗の様な真似はやらかしているのだ、今更罪状が増えた所でなぁ。で、どの向きに動けばいいのだ?」
確かに、やっている事は強盗と大差無い。万が一の場合はどうしようかと悩みつつも、村雨は、右手を顎の下に当てて思考を始めた。確か呼び込みの男は、店主に話を付ける為、二階に上がっていった筈だ。おそらく一階は接客に使い、二階は従業員が職務をこなす空間なのだろう。そう思って鼻をひくつかせてみれば、成程、食べ物やら酒の臭いは二階、人の臭いは一階に、それぞれ偏って存在した。
「……こっちかな。多分、右に何歩か行った真上が厨房。厨房は廊下に面してると考えて、残ってる人間の臭いが……ええと、これは違うな、これも……」
「何を探している? 見えんのだ、説明くらいせんか」
背伸びをし、天井を見上げ、村雨は見えない何かを追っていく。やっと暗がりに目が慣れた桜でも、村雨が何をしているのかは分からず、尋ねた。
「人の臭いもね、雄と雌はやっぱり違うの。雄の臭いと食材の臭いが、固まってるのが多分厨房、少し薄れてるのが廊下――料理人は男の人が多いから。廊下からは雌の臭いが多くなって、で、階段に向かってたり、何処かに長時間留まってたり……私室かな、仕事に入る前だと思うから」
獲物の臭いの濃度、種類、位置から、狩りの方策を決定する。これは人狼の種族に共通の、天賦の才とも呼ぶべき直感――或いは種族単位で引き継ぐ経験則である。
「何故、仕事の前と――いや、良い。大方分かる」
「……で、そうやって追っていくと――こっち。少しだけ人の数が多くて、仕事前仕事後問わず女の人が集まって……場所も、多分廊下の突き当たり。ここが一番怪しいんじゃないかな」
答えずとも分かるだろうと、桜の問いは黙殺し、袖を引いて暗い天井裏を歩く。可能な限り金属製の横組みを踏み、板を軋ませないように。巨大な建築物である為、そして先が見えない暗い空間である為、到着までの体感時間は、実際より数倍は長かっただろう。
村雨が見当を付けたその場所で、二人は耳を済ませる――意味も、あまり無かった。半鐘の如き大音声は、おそらく一階までは届かないだろうが、天井裏の空間には十分に響いてきたのだ。
「千里、鼎、葉隠! アンタ達、そこに並ぶんだよ! ほらさっさと! ほら!」
一語毎に息を吸い、太鼓を叩く様な力強さで息を吐き出す、老婆の声。遅れて足音が三つばかり、ぱたぱたと桜の頭上を走る。ついで、何やら細こい声が三色、とりどりに老婆に口答した。内容までは、流石に聞き取れない。
「アンタ達、具合が悪いんだってねぇ……客も取らず朝から今まで伏せって……あぁ!?」
「……ふむ、こういう裏事情は、普通の店か」
面で働いている人間がどうあれ、裏が汚いのは世の常。声を顰めたままの桜は、そこまで大きく感情をゆすぶられた様子も無い――横に立つ村雨だけは、桜が右瞼を閉じ、指でカリカリと引っ掻いているのを見ていたが。
尚、老婆の声と、三つの足音が止まった位置は、おそらくだが三間ばかり離れている。この声量ならば、それでも十分過ぎる距離なのだろう。
「千里、アンタは……はん! 何でもないよ、軽い食当たりだ! さっさと医者を呼ばせなこの穀潰し、ほら!」
「……ん、意外と親切な」
言葉はどうあれ正しい処置だ。体調不良の遊女を無理に働かせる事に道理は無い、休ませるべきだ――が、医者を呼ぶというのは、中々に珍しいやも知れない。遊女を医者に見せる機会など、月に一度も有れば良いだろう。勿論、全員纏めて一日に。経費削減の基本である。
その点、おそらくこの店の長であろう老婆は、かなり気前が良いと言えよう。薄利多売のこの店で、その少ない利益を、遊女の為に使うというのだから。
「村雨、おかしいとは思わんか」
「思うね、うん。これじゃあ、どうしたって……」
――いや、違う。この店の設備を考え、初期投資を回収する費用やら維持費やらを考えた場合、どうしてもこれでは足が出る。良心的に経営していたのでは、こんな店、数か月と持つ筈が無いのだ。
「次、鼎は――ぉぉお、おおぅ? こりゃめでたいよ、女の子だねぇ!」
老婆はやはり動きもしないまま、遊女の一人に懐妊を――暫く働けなくなる、店側からすれば損失でしかない事実を告げた。またその声が、本心から喜ばしい事であるかの様に弾んでいるのだ。告げられた遊女のものだろう、小さな声が、嗚咽混じりに笑っていた。
微笑ましい光景なのだろうが――その裏を、桜は考えてしまった。そうだ、この店ではきっと誰もが、ここで働けるだけで喜びを得ている。客に奉仕する事だけで喜びを得ている。ならば、衣食住が最低限確保されていれば――それ以上の収入を、誰も望んでいないのでは?
そうでなくては、そうでなければ、この規模の店が成り立つ筈も無い。家畜の様に食わせ、売り物として管理だけは徹底し、後は何も与えない。おおよそ人としての誇りなど持たせず――そして、誇りを持つなど、そもそも願わせもしていないのだ。
如何なるカラクリで有るかは分からぬが、桜は、それが気に食わなかった。遊女を抱いた事は幾らでも有るが、やはり抱くならば、影の見えぬ女が良いという、陽性の好みの持ち主であるからだ。同じ金銭の為に働くとしても、せめて自分の意思で道を選び、悔いていない女の方が、掻き抱くに心地好い。況や人並みの望みも持たず、ただ身を玩具として提供する、それ自体に喜びを覚える女など――その為に作られた、人形の様では無いか。
「……葉隠、アンタは分かって黙ってたね? だいたい四月……男の子だよ。要らないね」
最後の一人に対する老婆の声は、尋問の如き様子である。たった一言、最後に継ぎ足された言葉は――それこそ、がらくたを投げ捨てる様な口ぶりであった。
「堕ろしな、さっさとしないと無駄な時間を喰うからねぇ。ああなんだってこの馬鹿女、男なんか……お前達はどうせ穢れてるんだから、女の子を生む以外の役割なんておまけみたいなもんさ、分かったかい!?」
荒々しく床を踏み鳴らす音。老婆が立ちあがったのだろう。部屋の中を真っ直ぐ横へ歩き、また元の位置へ戻った。その旅に天井裏――二階から見れば床下――には、埃の雨が降る。肩に乗った綿ぼこりを落としながら、桜は背の大黒太刀『斬城黒鴉』を引き抜いた。
「待ってよ、本気?」
「勿論だとも」
村雨の制止も聞かず、下段に太刀を構え、頭上を睨みつける桜。軽く胸が持ちあがる程に息を吸い込み、止めた。
「……しぃいいい――」
「それからアンタ達ぃ!!」
裂帛の気勢と共に太刀が振るわれる、それより僅かに先。老婆の叫びと共に、二階の床板が大きく抉り取られ、巨大な刃物が落下してきた。
「さ――桜!?」
「無事だ、止めた! ……走れるな!?」
刃物の招待は、薙刀の刃。それも、尋常の丈では無い。刀身部分だけでも子供より重量の有りそうな、正しく鉄の塊といった外観の薙刀。人の胴体など、三つは重ねて両断しかねない代物である。
頭上に開いた穴から、まず村雨が。ついで、薙刀の柄を踏み台に桜が、二階の部屋まで飛びあがった。急に明るくなり、瞳孔が縮小、目を光に慣らそうとする。先に回復したのは、桜の目であった。
「……ぐお、見たくない物を見てしまった」
「うわー……正直、女帝蜘蛛より怖い」
部屋の灯りの元で、薙刀を、僅かな間だが観察出来た。柄だけで一丈五尺はあろう、明らかに室内で振るうべきではない長物。その重量からして、とても尋常の老婆では、持ちあげる事さえ適わぬだろう一品で――そんな物で床を割るからには、この老婆、やはり尋常ではないのだ。
節くれだった手は、村雨の顔より広く。若き日の力を失っていないのだろう背筋は、留め袖を盛り上げる程。猫ならば踏み潰しかねない足、柱の様な首。鉤鼻、皺だらけの顔――身の丈、七尺。
「鼠どもめぇ……アタシの預かった店で盗人のつもりとは、良い度胸してるねぇ!?」
「お前、一応は女だな……だよな? 私の目が狂った訳ではないな?」
流石の桜も、まるで理解できない存在への――恐怖ではなく混乱に、頬を引きつらせていた。大薙刀を高々と振り上げ、桜と村雨を睨みつける老婆は、対の仁王像すら平伏すばかりの迫力と威厳に満ちていた。




