異能のお話(1)
魔術――開国と共に日の本に流れ着いた、特殊な技術体系である。数学、識字能力と同様、元は一部の知識階級だけが扱える特権であった。然し、日の本の人間の知識欲は、おそらくは世界に類を見ないもの。ものの五十年の間に魔術は、余程の寒村でさえ、半ば以上の人間が扱えるもの、となっていた。
「ええと、関所の通行許可証、手配良し。『錆釘』宿舎の宿泊申請良し。ああ、路銀の両替、それからそれから……」
かんかん照りが続く、夏の真昼間。『錆釘』の少女、村雨は、今朝決まった江戸出立のため、方々用意の手を尽くしていた。
向かう先は西であるという。東海道を進み、伊勢から更に西、古都奈良を超え、京都。頻繁に宿場のある道だ、食糧の事は心配しないでも良かろう。問題は路銀と、思わぬ場面で足止めを受けないか、である。
『錆釘』は、所属する者が遠地に出向く事を支援するため、各地に支部を置き、簡素な宿泊施設を用意している。そこを使うなら雨風は凌げるし、食事も割安で済む。道中の日程を想定すれば、少なくとも五日に一回は、かなり安く夜を越せる。
が、当然ながら安さ相応の設備ではあるし、料理も不味くはないが取り立てて美味いともいえない。その事を雇用主である雪月 桜に伝えると、こんな言葉が返ってきたのだ。
『宿のボロさは気にせん。飯盛女の質で選べ』
「そんなもん分かるかーっ!!」
思い出すだけでも、この無茶苦茶な要求に涙が出そうになる(ちなみに飯盛女とは、この文脈では宿場の私娼の事である)。どこの世界に田舎宿の娼婦の良しあしについて詳しい少女が居るというのか。そもそも何処で調べればいいのだ、そんな話。『錆釘』のおかみさんに聞いても、苦笑いと共に首を傾げられるだけで、何の進展も収穫もなかった。
「蕎麦屋のみんなに聞こうかなー……駄目だ駄目だ、なんかいたたまれない事になる気がする」
三十過ぎの渋い親父、嬶には尻に敷かれ、年頃の娘には理由なく嫌われ。そんな彼らなら詳しいかも知れないと思ったが、聞いたが最後、彼らの何かに止めを刺してしまいそうな気がした。少なくとも、少女である自分が尋ねるのは、拷問でしかない、と思った。
「はぁ……『錆釘』の情報屋を使う? 流石にこんな事は調べてないだろうしなー……」
全く畑違いの探し物、がっくりとうなだれて、村雨は歩いていた。
「どけ、どけ、どきやがれーぇい!!」
「ん……? っと、うわっ!?」
何やら、前方から喧しい声がした。顔を上げると一人の男が、鬼の様な形相で走ってくる。六尺を超える大男、道行く者とぶつかるのも構わず、触れるものみな跳ね飛ばす牛の如き様相だ。反射的に飛び退いた村雨の横を、男は砂煙を上げて突っ走っていった。
「うわ、何あれ……」
「ひぃ、ひぃ……誰か~、そいつをとっ捕まえてくれ~……」
「あら、また一人……あ、あなたは」
良く分からないものを見てしまった、と思うのもつかの間。男の後を追うように、今にも引っ繰り返りそうに息を切らした少年が走ってきた。顔に見覚えはある。確か昨日、山の洞窟まで案内をした岡っ引きの中で、一番年少に見えた一人の筈だ。
「ぜー、ぜーっ……ありゃ、姐さんのご友人、お見苦しいところを……」
「あれを友人とは絶対に認めない。……じゃなくて、どうしたの?」
「いや、それが……待った、水、喉が――っかー、美味い!」
ひぃ、と舌を突き出して喘ぎ、腰の竹筒から水を一口。ぐびりと喉を鳴らし、ようやく人心地ついたらしい。岡っ引きの少年は、実に清々しく晴れ渡った笑顔を見せたのだった。その表情たるや、彼らの頭上のお天道様が、自分の未熟を恥じて雲間に引きこもりそうな程で、
「……えーと、私は忙しいからここで」
なんだか気にしなくても良かったかも知れない。そう思った村雨は、さっさと目的の為に歩き出そうとした。
「ああ、お嬢さんお待ちなすって! うぇいと、うぇいとにござんす! 姐さんにも深く深ぁく関わりのある事なんですってぇ!」
「……はぁ、良く分からないからまず説明お願い」
すがりつくように村雨を引きとめる、岡っ引きの少年。あまりに必死な様子だった為、不承不承――と、いうのも違うかも知れない。面倒だが、自分の雇い主に関係がある話となれば聞かざるを得ない。聞き流して後で叱責を受けるのは嫌なのだ。
「お話はしますが、先にあいつをとっ捕まえて――あー、何処行ったあんの野郎!?」
「あ、しくじったね」
「しくじった、じゃねえですよぉ~。ああ、姐さんにぶん殴られる……壁だけは、壁をぶち抜くのだけは……!」
が、二人がやりとりしている間に、当の男は路地にでも逃げ込んだか、其処から見渡しても見つからなくなってしまっていた。岡っ引きの少年が、地面に両手両膝着いて肩を落とす。
村雨は、然し平然としていた。相手を見失った事を、これっぽっちも気にしていないという顔で、男が去った方角を見やる。軽く顎を持ち上げ、鼻を二度ばかりひく付かせると、
「……もう、やる事はいくらでもあるっていうのに!」
とっ、と足音は一つだけ。短髪が靡いて地面と平行になる程の速さで、矢弾の様に突っ走り始めた。
「それでまたあの芸者が色っぽいの――おうわぁっ!?」
「何時も買ってるんだからアサリの一つや二つ――きゃっ!?」
「ごめんねー! 通るからねー!」
村雨の走り方の特徴は、非常に低い姿勢で駆け抜ける事だった。歩幅を極限まで広くした上で回転を増やし、前方に倒れこむのを加速で強引に抑え込むような、地を這う獣の走り。だから、人の群れに紛れてしまうと、よほど近づかれるまで気付かない。
村雨自身が通行人を避けて走るから接触事故こそは起こらないのだが、突然視界の端に少女が現れ、また瞬時に消える。こんな事が白昼に起これば、立ち話に興ずる大工も、アサリ売りにケチを付ける嬶も、素っ頓狂な声を上げた。
村雨が追っているのは、人の姿ではない。道に残った、そして空気に残った臭いである。大男との接触はほんの一瞬だったが、あんまり様子がおかしいものだから、日頃の癖で臭いを覚えていたのだ。
臭いは大路を南に抜けたあと、とある宿の裏道を通り、別な大通りへ抜けていた。通りを変えてからは北へ進んでいる――目的地を過ぎてしまったのだろうか? 考えながらも脚は止まらない。減速は一歩で完了させ、直角に方向転換を合計二回、迷わず追い続ける。
「……いた、あいつだよね」
大柄な男のこと故、追い続ければ然程苦労はせず、その頭を人ごみの中に見つけ出す事ができた。追手を振り切ったと油断しているのか、道の真ん中をのうのうと歩いている。
村雨が発見した時点で、距離は二十間もあるだろうか。自分の脚なら五秒も要らない。そう判断した村雨は、息継ぎも程々にまた走り出す。たっ、と一音だけ、裏道に足音。
大男を避けた通行人が、そのまま道の中央に戻らないで歩いている為か、先程の通りより避ける人数が少ない。見立ての通り、背に喰いつけるかと思うまで、三秒。村雨は、男が見せたおかしな手の動きに、反射的に脚を止めた。
そのまま走っていれば、一瞬の後には村雨の体が有っただろう場所に、一本の氷柱が突き刺さった――夏、何もせずとも汗の流れる日差しの中で、だ。先端は槍、側面は鈍器の代わりに使えそうな氷柱の襲撃。村雨の背筋まで、氷のように冷たくなる。
「はん、尾けてきてたのはガキか……おいコラテメェ、誰に喧嘩売ってると思ってんだ?」
のこり十間先、大男が、村雨に右掌を向けて、ニタニタとした嫌な笑みを浮かべ立っていた。その表情を形容するなら、野良犬を集団で虐めている悪がきの中で、特に根性の悪そうな奴の表情とでも言えるだろうか。
「……うわー、こういう人って苦手なんだけどなー……」
村雨の三年の社会経験では、この表情をする人間は、例外なく悪人であった。この男の場合は表情に加え、左手に抱いた木箱と、村雨に向けた右手とが証拠である。木箱からはあの岡っ引きの臭いが、そして右手からは、いわゆる魔力などと呼ばれる奇怪な力の、その痕跡の臭いが有った。
「躾がなってねえ。金もなさそうだ。殴り心地だけは…良さそうだなぁ?」
男が右手を振りかぶる。間合いは十間、殴る訳ではない。周囲のざわつきで、お互いの言葉すらまともに聞き取れない距離なのだ。だが村雨は、男の右手に、魔術の予兆を感じとった――周囲の要素を強引に一つに纏めたような臭い。これまで、この予兆の後は必ずと言っていいほど、何か予想し難い事が起こってきた。
反射的に、右手を顎の前、左手をみぞおちの前に添える。両足に均等に体重を乗せ、前後左右全ての方向に、瞬時に飛びのく為の構えを取る。勝つ算段より先に、逃げる為の道筋を幾つか想定した。
「『吹っ飛べ』くそガキィ!!」
男が、右腕を大回しに振るう。風斬り音が届きそうな豪快さに、村雨は身を竦ませ――咄嗟に、両腕で顔面を覆った。腕の上から強く殴りつけられたような衝撃、軽量の体が腰を軸に後転する。
「くっ、何!?」
背を丸め、両腕で地面を叩き、受け身を取る。頭は守ったが、腕の芯まで痛みが響いている。何が起こったかは直ぐに分かった。村雨の足元には、一抱えもある氷塊が落ちていたのだ。
「なんだ、おねんねには早かったかぁ? んじゃ、『ぶっ潰せ』!」
振り抜かれた拳が、今度は掲げられ、振り落とされる。遅れる事数秒、村雨の頭上に突如、先程飛来したものと同程度の氷塊が出現する。
「わ、わわっ!?」
側面へ転がり、落下する氷塊から逃れる。子供程度の重量は有るだろうか、しかもやたら表面は刺々しく、潰されれば痛いで済む代物ではなさそうだ。傍目には余裕を持って回避したように映ったかも知れないのだが、その実は、仰向けに倒れたという偶然で助かったようなものだ。
死ぬことは無いだろう。が、骨の一本や二本で済むかと問われると、頷き難い。跳ね起きた村雨は、防御の構えを解かない。
「ちっ、潰れねえか……『吹っ飛べ』『吹っ飛べ』『吹っ飛べ』ぇ!!」
それが面白くないようで、男は粗っぽく右腕を振り回す。拳が描く軌道の延長線に、氷塊のつるべ打ち。一つ一つは先程より二回りも小さいが、数が段違いだ。
「……く、痛っ……う、あっ、た……!」
村雨は氷の礫に襲われながらも、右腕で頭、左腕で腹だけは庇う。防御面積が追いつかない。先程の様に正確な狙いではないからこそ、肩も脚も、周囲の店も、氷礫は無差別に殴り付ける。
結局、自分がのこり十間の間合いを一歩も詰められていないと気付いた時、村雨は大きく側面へ、其処から民家の屋根へと跳躍した。
側面移動では三間を、垂直にも一丈を、助走無しで飛び越える脚力は、只人の物ではない。遠巻きにしていた野次馬も、おお、と歓声を上げる。ただ、男の張った氷の弾幕は、その脚力をして一歩も迫る事が出来ない程に苛烈であったのだ。
「尻尾巻いて逃げやがった、野良犬め!」
男の嘲るような声に、減らず口を返す余裕は無い。痺れて思うように動かない腕のまま、村雨は屋根伝いに逃げていき――
「あー、痛い痛い痛い、痛いー……!」
臭いは届くが、男の姿が見えない距離まで離れてから、青痣になっているだろう全身の打撲に蹲った。
拳で殴られている方が、まだ手の皮膚という緩衝材が有るだけ、浸透する衝撃が少ないだろう。男が乱射した氷の粒は、武術家の拳よりもなお硬かった。
「うぐぐ……たかが引っ手繰りのくせにー! あんな強いなんて反則だー!」
喚いては見たが、どうにもならない。確かにあの大男は、平均的な視線から見て、卓越した魔術師であった。
一般に魔術師は、自分の体に何か変化を起こす事で、外に働きかけるという手順を踏む者が多い。体を急激に熱し、触れたものを燃やす。体を急激に冷やし、触れたものを凍らせる。体内電流を強めれば、接触した相手に電流を走らせる雷人間の出来上がり、というわけだ。飛脚など、自分の脚を固く軽くして、一日の内により長距離を走る、などという事もして見せる。
あの男の場合、自分の体の外を、自分の思うように操作するという芸当をして見せた。不可能な事ではない。だが、一般的な教養として身に付けた程度の学では、空気中の水を茶碗に集め、飲み水を作る程度が限界だ。
男はおそらく、周囲の水を一か所に集め、瞬間的に冷却し、射出していたのだろう。これをするには、よほど専門的な訓練を受けるか、生来の素養が必要となる。
村雨は、魔術などほんの初歩の初歩しか知らない。身体能力だけで打開できない相手だというのは、つい先程自分で証明してしまったばかりだった。
「ひぃ、はぁ……なんでまた、あたしを置いて走っていくんでさ――ってありゃ!? どうしなすった、そんなまた喧嘩を吹っ掛けられて散々殴られたみてえな有り様で!?」
「……みたいな、じゃなくてそのものずばりなんだよね。悲しい事に。遅い」
村雨が手酷く打ち据えられて暫くあと、ようやっと岡っ引きの少年が追いついてきた。
どこをどう走ったものだか、汗の量は村雨より遥かに多い。先程補給した水分は、もう全て流してしまっただろう。
「……で、その服は何よ」
だが、そんな事よりも村雨が気になったのは、少年の格好だった。わざわざ着替えてきたのだろうか、風通しのよさそうな羽織り一丁を着流しの少年。然し、丈が全く会わないのだ。少年の背丈は五尺五寸といった所だろう。羽織りの方はと言えば、六尺有っても着こなせまいという程、丈が長くてダブついている。
「へえ、ちょっくら勝負服に着替えてきまして……あの引っ手繰りやろう、どちらに?」
「なんでそんな必要あるの? ……ええとね、どこかな……どこかで止まってる。動いてない」
「そうかい、そいつぁいいや!逃げねえでくれるんならどうとでもできらぁ!」
少年は、やたらと自信に充ち溢れていた。村雨がいうのもなんだが、この少年、はっきり言って体力派ではない。あの大男にさっぱり追いつけず仕舞いだったのだから押して知るべし。
「……私、ぼこぼこにされたんだけど」
一応、相手の厄介さを伝える為、村雨は腕に出来た青痣を見せた。
「んだとぉ!? 姐さんのいい人に怪我させるとは、ふてぇ野郎じゃねえか!? おお!?」
「誰がいい人よ頭沸いてんのかあんたはっ!!」
効果がないどころか、寧ろ少年はやる気を出してしまった。いなせにぐわと目を剥いて、出ない力瘤を出そうと腕を曲げる。
「こうしちゃいられねえ、あいつは早い所ふんじばっちまわねえと! 案内してくだせえ、さあさあさあ!」
「いや、ちょっと、応援は頼まないの? ……はぁ」
案内を要求しながら、先へ先へと進んでいく少年。何処へ行けばいいのかも良く分かっていない筈だ。このあたり、桜に似ているな、などと、迷惑な人間の共通点を発見した気分になる。
とりあえず場所だけ教えて、後は岡っ引き達に任せよう。そう思い、村雨は臭いを辿って歩き始め――ふと、聞き忘れていた事を思い出す。
「あれ? そういえば……あなた、名前、なんて言ったっけ?」
「あたしでござんすか? いやいや、よくぞ聞いてくれました! 天下に男は幾万有れど、この色男は只一人!」
「口上はいらない」
「ちょっ、つまんねえ」
妙に抑揚節回しを付けた声で語り出そうとした少年に、ぴしと指を付きつけ食い止める。口をつん尖らせた少年は、一度だけ咳払いをした。
「あたしは源悟、岡っ引きの同僚どもにゃあ『八百化けの源悟』で通っております」
腰まで頭を下げながら、目は相手を見たままの、どこか油断ならないお辞儀。陽気な少年は、やはり陽気なままの笑みを見せた。