信仰のお話(5)
結局、桜は明け方まで、縁側でうつぶせたままであった。
日が昇ってくるのとほぼ同時、障子の向こう側でごそごそと音が聞こえたかと思うと、村雨が眠そうな目を擦りながらやってくる。
「寝てないの? 何してたのさ、こんな時間まで」
「偶には明けの空を眺めるも良かろうよ。冬は寒すぎる、これは夏だけの特権だ」
「床板と睨めっこしてる様にしか見えないけどねー」
宿に備え付けの――こと西洋の人間には受けの良い、安布の浴衣――寝巻を体に巻きつけた村雨は、朝の涼しさも気にならぬような顔で、顎を板敷きに触れさせた桜の頭を、足の先でつつく。
「……ウルスラ、知らない?」
「昨日から見ておらんよ、お前こそどうだ」
「嘘つき。夜に戻ってきてたのは知ってるんだから」
しらを切ろうとした桜の頭を、村雨の足が幾度も揺す振る。日が昇っても、彼女は帰って来ていない。身を案じる必要があるか弱い女性でもないが、然し一晩帰らないと言うのは、旅の道連れとして不安にはなる。
夜間、ウルスラが屋根裏に忍んでいたのは、村雨とて気付いていた。ただ、何か話しこんでいる様だったからと、邪魔もせずに眠ってしまっただけである。よもや、そのまま何処かへと消えていくなどとは考えても見なかったのだ。
「探すなら、直ぐに着替えるよ。臭いは消してないみたいだし、簡単に――」
「やめておけ。戻るなら戻る、戻らんなら戻らんさ。元々私が無理に引っ張ってきただけで、あれが積極的に望んで従ったとも言い難い。朝餉までもう暫く寝ておけ」
頭に載せられた足を持ち上げ、寝返りを打ち、仰向けになる。常の様に表情の薄い顔で、桜はそう言って、
「ところで、村雨」
「ん?」
「もう少し脚を持ち上げてみんか? この角度だと今一つ肝心な部分が――ぅおう」
やはり常の様に余計な言葉を付け足した時点で、顎に蹴りを喰らい、強制的に黙らされた。
蹴りがどうにも軽く、ぎゃあぎゃあと喚かれる事も無く――つまり、覇気が無く。為に、今一つ物足りない桜であった。
着替えを済ませ、朝食を取り、ついでに朝の運動を軽く済ませて、ようやく日差しが強まり始めた頃。宿の支払いも既に済ませて、後は次の土地へと旅立つのみ、と定まった頃合いの事である。探していた人間は、向こうから二人の元に訪れた。
「おう、遅かったな。寝不足か?」
「ええ、少々。分かりますか」
ウルスラは、表情こそ晴れやかではあるのだが、目の下に隈を作っていた。髪に僅かの乱れも無い事から、一度も横にならず、朝まで過ごしたのだろうと窺える。姿を消したその時のままの衣服は、些かばかり埃で汚れているが、他に変わったところも――
「――ん、なんだそれは?」
「見て分かりませんか? 十字架です」
ウルスラの首から下げられた、高価な品にはとても見えない鉄飾り。縦の辺が横より長い、一般的な十字の形は、紛れもなく信仰の証である。
かつてのウルスラは、ついぞ十字架など身につける事はなかった。十字架を模した短刀は、武器として携帯はしていたが、それは人の目に晒すべき物ではなかったからだ。首に飾りをぶら下げると、彼女が年相応の少女に見えて、桜は思わず、喉をくつと鳴らして笑った。
「その程度は分かるわ、阿呆。お前がそんなものをぶら下げている理由が分からんから聞いたのだ」
「でしょうね、ちょっとした冗談です、怒らないでください。いえ、伊達や洒落で身につけているのではないですよ」
普段よりも快活に、ウルスラは桜をいなし、靴に履き替えた村雨の方へ向き直った。
「待たせましたね、すいません」
「どこ行ってたのさ、ほんとにもう……寝てないのは桜も同じみたいだし、今日は止まる宿を一つ手前にして――」
旅人の常として、荷物は最小限。直ぐにでも歩きだせる格好の村雨は、二人に先んじて一歩進み――そして、立ち止まって、後方を振り返る。
「私は行きません、この町に……いえ、ここから少しばかり離れた町に、残ろうかと思います」
自分の立つ位置から一歩も進まず、ウルスラは静かに微笑んで、首を左右に振った。迷いの無い目、躊躇いの無い言葉に、桜は驚いた様子も見せないでいた。
「……なんで? どうしたの?」
対象的に動揺しているのは村雨。あまりと言えばあまりに唐突な言葉に、瞬きの頻度が倍近くになっている。
「思いつき、でしょうか。本当にそれだけなんですよ」
返る言葉は、呆れる程に軽い。
「貴女達と旅を続けるのも、それはそれで良いのかも知れませんね。楽しい、という感情はありました。この先も同行するなら、きっとまた、そう思う事は有るでしょう。貴女達を見ていると、疲労は感じますが飽きません。けれど、私は……そうですね、自分で思っていたよりも弱かったようです」
一から十まで、明るい話題を重ねている訳でもないのに、ウルスラは晴れやかに、笑顔を保っている。村雨に顔を向けたまま、右足を一歩だけ、後方に滑らせて、距離を広げた。
「村雨、貴女は我慢強いのですね。似た境遇になって初めて、貴女の努力を知りました。私は気が変わっただけ、〝そう〟したくなくなっただけ。貴女と同じ様に〝そう〟したいと思いながら、耐える事は出来ませんでした。
なのに私は、思い立った事をあっさりと変えてしまった。貴女の様に、曲がらず一つ意地を張る事が出来なかった。私は結局、人殺しで居るのは嫌なのに、自分の意思で止める事もまた難しい……意思の弱い人間なんですよ」
誰かを殺したい――そう思い、結局は殺さなかった。結果だけ見れば、村雨もウルスラも同じなのかも知れない。
だが、ウルスラの場合は、殺そうと思い立ったは良いが、結局は殺そうとした相手の言葉に――絆されて、と言うべきか――考えを曲げられ、欲求が消えた結果、殺さずに終わっただけだ。殺したいと思い続けながら、殺さずにいる村雨とは、前提から大きく違う。
そしてまた、村雨は、殺さないという意思を曲げずに貫いてきた。ウルスラに、貫き続けた信念など無い。誰かを殺してやろうという意思は、殺す筈の対象に容易く帰られてしまった。そして、それを残念だとも思わないのだ。
「でも、私は……意思が弱くて、良かったのかも知れません。手の赤は幾ら洗っても取れませんが、これ以上赤くなる事も無い筈です。貴女の手は白いですから……何時か握手をする時の為、白いままで居てください」
血の臭いも、色も無い。ウルスラの手は、爪も丁寧に切り揃えられた、清潔な手だ。ただ――ただ、強く擦って洗ったのだろうか、皮膚が僅かに荒れている部分が有った。両手を重ね、胸にかざし、十字架を拳の中に握りこんだウルスラは、村雨の目には、柳の木の様にも見えた。逞しくは無いがしなやかで、きっと暴風の中でも倒れずにそよいでいるだろう木の様に。
「……本当は、拝柱教が嫌だったの?」
「そんな事はありません。教団に居た時は、その生活が当たり前でしたから、快も不快もありませんでした。けれど……そういう事とは別の部分で、私は割と普通な人間だったのかも知れません。誰かを殺した罪と向き合うのが怖い。これ以上、罪を重ねるのが怖い。考えない事で楽になれるなんて、やっぱり無意味な思い違いでした。
聖書から学び直します、教えてくれる人を見つけましたから。天に至る塔なんて、きっと無くても困らないものなのでしょう。でも、依って立つべき柱は欲しい……一人で立つには、私の脚は弱すぎるんです」
「聖書なら今まで通り、私が教えてやれるぞ」
桜が茶化す様に――そうでありながら、少しばかりふくれっ面で口を挟む。
「桜、私は学者になりたいのではありません。それに貴女の様に――激しく生きる事もできません」
やはり小さく首を振って、ウルスラは答える。動作とは裏腹に、表情に声に、嘆きも諦めも混ざりはしない。
「貴女は、自分が罪を為していると知っている……知っていて罰を恐れない。けれど貴女は……罰が無いからと言って、罪が赦される訳ではないとも知っているのでしょうね。貴女の考えでは、私も貴女も、もう決して救われない。確かに、間違ってはいないと思いますが……」
「……そう、見えるのか」
戯れのように、ウルスラに告げた言葉を、今更のように桜は思い出していた。自分もウルスラも、堕ちる先は地獄だ、と。確かに自分は、そう言ったのではなかっただろうか。
「貴女の生は苛烈過ぎる。誰も――自分すらも赦さず、然して罰せず。貴女は正義を知らないのではなく、知って正義を為すつもりが無いだけなのでしょう。寧ろ殊更に、自分に〝正義を為さぬ事〟を科す。
ですが、桜。気の向くままに動いている時の貴女は、自分で思っているよりも、人の役に立てる人ですよ」
また一歩、ウルスラが後方に足を進めた。言葉を交わすには、遠い。
「私は赦されたい。それに、貴女も赦したい。我儘かも知れませんけれど……あの人は、その我儘も聞いてくれるそうですから。だから私は残ります、残って今度こそ、自分で祈る相手を決める。神様は誰も助けないかも知れませんが、神様を信じて助かる人はいる……きっと、私もその一人なんですよ」
ふぁ、と小さくあくびをして、眠そうな目を擦るウルスラ。それから、再び村雨の方に顔を向ける。
「短い間ですが、割と貴女は好きでしたよ。……これは、前にも言いましたっけ」
「うん、前に聞いた……本当に短かったね」
もはや村雨は、引き留めすらしない。自分が何を言おうと、ウルスラが意思を曲げる事は無いと、そう気付いているのだろう。元々、深い理由も無く道中を共にしただけの、殆ど他人とも言うべき相手なのだから。
いや、確かに、旅をした時間は短かった。が、その密度はと問えば――薄いとは言い難い物だった。少し間違えば死ぬような事件が二度。何れも、終わって見れば、三人誰も欠ける事は無かったのだが、それでも。それでも、ただ楽しいばかりの道中とは呼べまい。
楽しいばかりでないからこそ、寧ろ、同じ苦境を超えた者同士と、そういう一体感が有った。親友とまでは言わずとも――互いに互いを、友人と呼ぶくらいならば、異議を差し挟む余地は無い。
然し、この別れの場面に、涙を流す者も、また居なかったのだ。
「それでは、また。江戸へ戻る際に、暇が有ったら立ち寄ってください」
永の離別でもなし、生きていれば会う事も有る。だから、後ろ髪を引っ張られようが、立ち止まる意味はここにない。
まず桜が、数瞬遅れて村雨が、背を向けて歩き始める。遠ざかる背に一度だけ頭を下げ、ウルスラは、遮蔽魔術で姿を消した。それはあまりにもあっけない、別れの光景であった。
旅は道連れ、世は情け。然して道連れが、常に在るとは限らない。どこまで歩いても、背後に人の気配を感じない。それが、少しばかり物足りなくなる頃合い。
「勿体無いなぁ、くそ……ええい、二人目は絶対に逃がさんぞ」
「逃げないから襟掴まないで、逃げないから。歩きづらいから放して本当に」
村雨の襟をがっちりつかんで、未練がましい事を言いながら、桜は道中を西へ歩いていく。
ウルスラを引き留めたいという気持ちは、桜も持たないでもなかった。十字架を首から下げたウルスラは、これまで見たどの彼女よりも美しく――桜の言い回しで表すなら、〝抱きたい女〟であった。
だからこそ、ウルスラが望まぬ事を強制しようと、そこまで我儘になれないのも桜だ。赤の他人には自分の我儘を押しつけ、誰よりも身勝手に振舞いながら――本心から欲しい物には、今一つ、我を通しきれない半端。自嘲混じりに、溜息を零す。
――貴女の生は苛烈過ぎる。
「そんな事も無かろうが、なぁ……」
「ん? どうしたのさ、いきなり――あと、歩きづらいから放してってば」
別れ際に言われた言葉を、何度も何度も思い出しては、否定するように呟いた。自分自身は、そんな難儀な生き方はしていないと、自分を信じている桜だ。
結局のところ、村雨の要求は、次の宿場に到着するまで聞き入れられない。襟元を掴む桜の手は、岩の様に頑強であった。
八月、炎天下。空は青く高く、雲は少なく、鳶が大きく輪を描く。何気なく振り向き、足跡が自分達を追って来ない事を確認して――桜は寂しげに、足元の石を蹴った。




