信仰のお話(4)
日の本の人間は、世界でも特に綺麗好きなのだと言う。この国に作られた教会も、洋風の建築でありながら、その点だけはしかと踏まえていた。
魔術が普及してより、薪を割ってくべて火を起こす必要は無くなった。少量の木材さえ有れば、火の魔術で着火、十分な熱を取れる。何も銭湯に出向かなくとも、簡単に湯に浸かれる時代なのだ。
日中に少年を撲殺した神父は、讃美歌など口ずさみながら、肩まで湯船に浸かっていた。狭い浴室だが、洗い場と浴槽は分かれている。灯りは蝋燭二本だけで薄暗い。
橙と黒の混ざった中で、日に焼けた神父の体は、影に紛れて消えてしまいそうにも見える。然しながら良く良く見れば、縦横無尽に走る傷跡は、色が変わらず白い侭であった。
見れば、幾つかの傷には、致命傷となっていてもおかしくない物が有る。腕の良い医者がいなければ、この神父はおそらく、十回以上は死んでいるだろう。背の肉の一部は抉られたまま、完全には再生されず、窪地の様な形に固まっている。
傷の種類が違う――天井裏に潜むウルスラは、声に出さず呟いた。暗殺には、風呂場や厠の様に、対象が無防備になる空間が最適。だから、宿の広い風呂などでは、ウルスラは周囲の人間を観察する――してしまう、癖がある。
例えば桜の場合は、どれだけ大きな傷であろうが、殆どは骨まで達していない。おそらくだが、内臓まで届いた傷は、一つか二つでは無いだろうか。それもかなりの古傷、雪月桜という人間が〝完成〟してからのものではない筈だ。
また、獣そのものの育ち方をしたのだろう村雨の場合、そもそも大きな傷が見当たらない。野生の環境で大きな傷を負えば、それは死に直結する。慎重に、細心に、身を守る事を常に頭に置き、村雨は生きてきた筈だ。
神父の傷は、言うなれば未熟の象徴。力も技も足りぬ者が、無理に戦場に躍り出て、あえなく切り倒された様な――それでいて、偶然生き延びてしまった、そんな傷なのだ。そんな傷だと言うのに、一歩間違えれば即死の傷だと言うのに、傷跡の数は、三十を下らないのだ。
今も神父は、ウルスラの気配に気づいていない。透明化、消音の並列使用で、一切気付かれる事なく、その脊髄を分断する自信が、ウルスラには有った。実績に裏打ちされた、確信に近いものだ。
「こんばんは、無防備ですね」
「うん? 女人の風呂場を除くのは少年達の若気の至りの特権であるとばかり思っていたが、よもや中年男の風呂場をうら若き少女の声が覗き見しているとは、これはこれは全く予想もつかぬ事だとは思わんかね?」
だが、ウルスラは、殺す筈の相手に声を掛けた。神父は、今の今まで狙われていた事にようやっと気付き、身を強張らせながらも、常の様に冗長な語り口を見せた。
「お静かに。貴方なら直ぐに殺せます。死にたくなければ――」
「下らん、下らんな。死を怯えて身を縮め竦ませ震える様な者ならば、そもそも誰かを殺すなどという大それた罪は犯さないものなのだ。殺人者に殺すと脅迫するなど、盗人の蔵から盗品を盗み直してくれようと大言壮語するにも似た虚しき徒労だとは思わないかね?」
「――本気にしていない、という事は分かりました。私が誰かは分かりますか?」
相手に姿は見せていない。刃も針も、視界の中に置いていない。だから、相手に恐怖を与えられていないのだろうと、ウルスラは感じていた。多少の苛立ちを声に交えながらも、まずは神父が、どの程度の力量を持つかを確かめる。
「さて、さて、さて、どうやら。近隣の村々にお前の様な器用な娘がいたとは記憶していないのだがね。だとすれば遠方よりの来訪者となるだろうが、生憎と私は怨みを一手に引き受け過ぎたが故に、誰かに命を狙われようが、それが何時の遺恨なのかまるで見当もつかぬのだよ。叶うならばお前自身が誰の縁者であり、どの件を以て私を罰しに来たのかを教えて欲しいものだとも」
顔は一度、確かに合わせたが、あの時、ウルスラはほぼ無言を貫いていた。気配で対象を認識する技量は、この神父に無いらしい。いや、そんな高等技術、そもそも期待すらしていない。
こうして会話している瞬間も、幾度となく、神父は隙を曝している。本人は気を張り詰め、何時でも対応できる姿勢を取っているつもりなのだろう。だが、息の吸と吐の切り替わる瞬間、明らかに意識が緩んでいるのだ。
何時でも殺せる。この神父が何を言おうが、自分の技量であれば、瞬き二つほどの時間で殺せる。自分の絶対的な優位性を認識し、ウルスラはなぜか、また苛立ちで歯を噛み合せた。
「罰しに来た、ですか。自分の行動は罪であると、貴方は思っているのですか?」
人殺しを自認し、自分が罰せられる存在であるとうそぶく。桜に似ている様で、似ていない理屈だ。彼女の場合は、自分が罰せられるなど、まるで考えもしていない。
「ああ、ああ、当然だとも。良いかね? 我らが父なる神は、兄弟に対して怒りを示せば必ず皆裁きを受けると我々に教えてくださっているのだ。憎しみの心を持つだけで罰せられる存在が我らであるならば、まして人を殺すなどと大それた悪行、そも神が赦してくださる筈もないだろうね。汝、殺すなかれ、子供でも理解できる理屈を頷けぬと言うならば、誰も天国へ至る筈が無いのだよ」
神父は、証文を読み上げる様なぶれの無さで、自分自身が罪人である理由を語った。成程、聖職者であれば当然の認識である。神の教えは絶対であり、それに背く者は罪人だと言うのは、神の僕には至って合理的な考え方であろう。
ウルスラもまた、神が存在する事を常識として与えられてきたが故に、この理屈を、ただ人よりはすんなりと受け入れた。その上で、疑問は尽きない。
「なら、貴方は罰を受けるのですね。それは恐ろしい事ではない、と?」
罪には罰を。人の法も神の法も、この仕組みからは外れないものだ。
「そうなるだろうともね。私が何時死ぬのかは私の預かり知らぬ事ではあるが、十年か数十年かの後、私は神の御前にて無現の罪に無限の罰を与えられ、地獄の縁に叩き落とされる事になるのだろうよ。恐ろしい事だ、永劫逃れられぬ罰則が待ち受けているなどと知って怯え竦まぬ者がいようなどと聞かされたら、私ならばその者の正気か性嗜好のいずれかを疑って掛かるがね」
罪から逃れる術は無いとも、この神父は知っている。罪は自分に降りかからないと、桜の様にうそぶきはしない。また、罪そのものを恐れる聖者を装う事もなく、罪に対して与えられる罰に怯え――つまり、凡俗の様な事を言う。
「……では、貴方は善良な者だけを殺したのですか?」
「ふむ、ふむ、言わんとするところが見えてきた気はするがね、まだ断定できない所だ。どうだね少女よ、一つ降りてきて顔を合わせ、その上で語らおうというつもりは? 生憎と風呂場には罠を仕掛けていない、全く我ながら不用心も良い所だと呆れ果てて物も言えず――いいや、口数も減る所だ」
天井板に、神父は手招きをした。言葉の代わりに、短刀が板を丸く切り抜いて、ウルスラは音も無く床に降り立つ。
「おや……何処かで顔を見た気はするのだが、然しそれが何時の――」
「今日の日中、あの屋敷です。四十人もよく殺しましたね」
「――ああ、あれか。成程、何やらただならぬ表情をしていたが、どうにもお前は思い詰める性質の人間らしいね」
また長々と語られるより先に、どの場面で出会ったか教えてやると、神父は手を打って幾度か頷いた。思い当る節でもあったのか、日焼けした無精髭面で、さも優しげに眼を細める。
「言い訳をするつもりはないがね、私は善良な人間を殺さんよ、殺す意味を何処にも僅かなりとも見いだせぬが故にだ。然し私が善良でない人間を殺したからと言って、私が善良な人間になるという事もまた無い。むしろ、私は悪人を殺すことで、人殺し以外の大きな罪をもう一つ背負っているのだ。分かるかね、迷い子よ?」
「……その呼び方は気に入らないですね」
自分を殺そうとしている人間が、直ぐ近くに降り立っても、神父は動じる様子を見せなかった。自分の死が必定と見定めている男を、死の恐怖で縛る事は出来ないと、ようやくウルスラも理解し始めていた。
それよりも、神父が自分を『迷い子』と呼んだ事が――許せないとまでは言わないが――承服しかねると、小さく反発した。
「善人も悪人も人間です。どちらを殺したとしても……貴方の理屈なら、罪は罪として被るのでは?」
「そうだ、罪が消える事は無い。だろう、と推定の言葉を交える事は無い、こればかりは天地の創造より定められた絶対だ。アダムとイブ然り、彼らは知恵を得た後に深く深く悔いる事も有っただろうが、然し楽園に帰参する事は許されなかった。尤も彼らは、神の威光を地の果てまで語り継ぐ事に貢献もしたのだろうが――それはこの場合、語るまい。
良いかね、迷える少女よ。アダムとイブは、おそらくは己の罪を悔いた。それと同様に、悪人というものは――長い生の内で、何時かはおそらく、己の罪を悔いるのだ。そして、罪を悔いた罪人は、きっと罪を恐れず振舞う者より少しだけ、神の御心に適う者である筈なのだよ。分かるかね?」
分かる、ウルスラは頷いた。道理として考えれば理解は出来る――既に、思考は苦にならない――のだ。自分が罪人であると知り、二度と罪を重ねるまいと思ったのならば、それは罪を知らず罪を重ねる者より、数段上等な生き方である筈だ。神が、人に良く在れと命ずるならば、きっと悔いた者は、悔いぬ者より〝良い〟。
「で、あれば、だ。私が悪人を躊躇容赦情け一切を介在せず虐殺灰燼に帰す事は、それは彼らから悔いる為の時間を奪い取り、僅かなりと赦しを得られる機を奪い取るという事なのだ。ただの人間が、一介の司祭でしかない私が、人に与えられる神の恩寵を無碍に為すなどとは傲慢の極み、殺人に並ぶ大罪と見ても良かろう……お前は、そうは思わないかね?」
「思いません」
強く、短い否定。ウルスラは、内心の蟠りが故に、どうしても神父の論を受け入れられなかった。
「……成程、成程、中々の難物。お前は何が納得いかぬのだね少女よ、神は人を罰するという事かね?」
「違います」
神の存在、罪には罰を、こんな事はウルスラの中では、世界を構成する当然の要素である。
「では、殺人が罪である、という事かね?」
「違います」
人を殺してはいけない。言葉を覚えたばかりの子供さえ、ぼんやりと知っている事だ。疑う余地はどこにもない。
「では、与えられる筈の赦しを奪う事、それが大罪であるという部分かね?」
「違います」
根幹的に、ウルスラの感情と、その言葉は矛盾している。だが、理屈として単体で切り出せば、神父のその言も、また道理なのだ。
「では、お前は何を疑い、何を知らずに迷っているのだね? 私を殺そうというだけならば、もう私はカロンに身を任せる立場となっていように。それともお前は――」
「罪が、赦される事があるのですか?」
神父の言葉を遮ったのは、これで二度目。然し、一度目に比べて、弱弱しい声である。逆手に構えた短刀は、ついぞ振り上げられる事も無い。
「逆に聞くが、罪が赦されないと思うのかね? 成程、神は我らに法を与えて罪を定め、罰を定めた。然し我らが神は情け深い、真に悔いたものであるのなら、きっと神は全ての罪を赦すだろう。ユダも己の手で死せず、メシアの教えを説いて生涯を終えたのならば、裏切りの汚名を晴らす事も出来たものを――私は、そう思うのだよ」
「それは……おかしいです。人を殺して、罪が赦される筈が無い。赦される様な事であれば、罪とされる筈が無い。決して罪は赦されないからこそ、地獄というものがあるのだと――」
「それは人間の理屈だとも、迷える少女よ」
ウルスラが神父にしていた様に、今度は神父が、ウルスラの言葉を遮った。浴槽の縁に肘を付き、無精髭の集まった顎を手首にのせ、僅かに身を乗り出す。
「良いかね、神は厳格にして寛大だ。悪であると定めた行為を赦しはしないが、善行を認めぬという事もまた無い。心の底から悔い改めて神に仕えるのならば、神の道を知らずにいた過去をお許し下さる事は、我らの偉大なる先達である使徒たちが証明しているのだよ。神は人を赦す存在だ。何故なら神は、我ら人間の生きる希望にして、生きる為の秩序であるからだ。
誰も赦さぬ神を誰が信じようか。誰も赦さぬ為政者に、民が従おうか。罰するばかりの主などは無能の極み、我らが偉大なる主は寛大であり、本心から悔いるという条件を定めた上で、我らの罪を御赦し下さる。罪が赦されないと説くのは、人間の社会を円滑に運転する為の理屈に過ぎんのだよ」
「人間の……?」
「そうだとも、人間の社会だ。我らが罪を主が御許し下さるとは言えど、他者に被害を及ぼす善人を放置してはおけない。例えば、善良な信者を殺害して回る悪鬼など居たのならば、彼が後に悔い改める可能性よりも、これから先に殺されるかもしれぬ者をこそ思うべきだろうとも。なればこそ社会は、死刑という刑罰すら用意して有害な存在を取り除く。例え二度と殺すまいと彼が誓うとも、それを信用できないのが人だ。社会の安全と安心の為、罪人の殺害は寧ろ必定とも言える。
然し、主はおっしゃられた。誰も人を殺してはならず、そればかりか人を憎んではならない。右の頬を撃たれたら左の頬を差し出せ、と。至言であり、全ての人がこの言葉を守るなら、人の世界は地上に在りながら楽園にも等しくなろう。だがね、それでは――誰も、心易く生きる事が出来ないのだ。
誰か、最低でも一人は、罪を負わねばならない。道理を知らず主の教えを知らず、罪に手を染める者を罰しなければ――殺さなければならない。地獄へ落ちる事を承知の上でも、他の全ての民の為、罪人を殺して殺して殺さねばならない。ならば、そう思い立った私が実行するのは当然ではないかね?」
人の法を厳格に守れば、それは神の法に逆らう事になるのだ。罰則とは常になんらかの苦痛を伴い、他者に苦痛を与える事は、神が定めた罪である。であれば、人を捌く立場に在る人の全ては罪人では無いのか――?
当然、その様な事は無い。人が社会を形成して生きる為に、法は必要不可欠。法を正常に作動させる為の人間は、褒め称えられる事はあろうが、罪人と謗られる道理はあるまい。
だが、法に則ろうが、人を殺す事があるなら、罪からは――神が定めた罪、そして己の心に抱く罪の概念からは、逃れられないのだ。では、誰がその役目を背負うのか?
この矛盾に気付いた、そして矛盾に気付きながら神を信じる、自分自身が請け負ってやろう。この神父はそう思い立ち、そして実行に移してきたのである。幾度も幾度も罪人を、軽微な罪から大罪までを等しく扱い殺し殺し殺し尽くし、自分が被る罪の総量を増やし続けてきたのである。
「……神は、罪を赦すのでしょう。貴方の罪も赦されるのですか?」
「仏の顔も三度まで。神は仏よりおそらくは寛容であろうが、それも数十度と罪を重ねた私であれば、おそらくはもう見切りをつけられているだろうね。そうでなくては困る、死に際に僅かに改心するだけで天国へいけるというならば、人は容易く堕落してしまいかねんのだから」
「では、私は」
罪が赦される筈が無い、ウルスラはそう言った。神を当然の存在と信じながら、彼女はそう断言していた。なぜならば、彼女は生まれつき、十分以上に聡明だったからである。
人が神をどういう存在だと説こうが、人は他者の罪を赦さない。自分の意思で、拝柱教の為にと人を殺し続けても、それはただ、罪を重ねるだけの事であると、どこかで気付いていたのだ。
「私は、もう赦されないのですか。いかに悔いようと、もう」
だからウルスラは、自分の思考を放棄した。与えられる命令だけを受け取り、与えられる価値観だけを甘受し、自分の欲求からは何事もなさず、ただ機械として働く。恐喝、略取、障害、殺人、全ての罪は命令によるもの。自分自身の意思では無いと――そう、己に言い聞かせた。行動理由を他者に預ける事で、罪も他者に被せ様としていたのだ。
「悔いて、刃を捨て、血濡れた手を斬り落として――誰も殺せなくなっても、赦されないのですか!? 全てを見ている癖に、止めもせず眺めているだけで、高い所に座っていて――そんな神に、悪と断じられて! 私は、地獄を待つだけの身と……!」
教団の教えを否定され、幾年ぶりかに目を開けてみれば、己の罪は赦されない事であると、改めて知らされてしまった。神が与える筈の罰は、自分に降りかかるものなのだと気付いてしまった。神を信じるウルスラは、それが――恐ろしくて、夜には枕を涙で濡らしさえした。
人の法に照らしてみれば、死刑に値する大罪人。神の法に照らしてみれば、地獄へ堕ちるべき大罪人。赦されぬ身が、ただ悲しかった。
「過去の罪を赦す事など、出来はすまいさ。どの様な過去であれ、己の為した事なのだから。だがね、これから先を良く生きたいと願う者を……飽く迄私はだが、殺すほどに悪党では無いつもりだよ」
怒りなのか、嘆きなのか、本人にも検討の付かぬ感情の混濁、叫び。それを押しとどめたのは、冗長で仰々しい言葉を捨てた神父だった。
「勿体無いね、実に勿体無い。お前は何故、その手を切り捨てようとするのだ。それは私には与えられなかった物だ。魔術の才に乏しく、志を持った時には既に体は全盛期を過ぎ、そして筋骨とも逞しくない私には、お前の手が羨ましい。悪を為さんと悪を為し得て、善を為さんと善を為し得る、お前の手が羨ましい」
浴槽から手を伸ばし、神父は、ウルスラが掴む短刀の刃を摘みあげる。側面に触れて指を切らないようにしているが、ウルスラが気まぐれに腕を振るえば、掌は半ばから裂ける事になるだろう。
「そうまで嘆くならば、お前はもう、誰も殺すつもりが無いのだね? ならば、神はお前を赦さないかも知れんし、人の社会はお前を赦さないかも知れない――が、私一人は誰をも赦そう、そう決めているのだ。
お前が真に悔いて望むなら、そして二度と悪を為さぬというのなら、お前の罪も私が背負おう。いいや、お前一人ではなく、全ての人の罪を私が背負う。そうして捌きの時には、私だけが地獄へ落ちれば……どうだ、天国の門も少しは広くなろうというものだろう?」
それは、ある種軽薄な響きを孕んだ、口説き文句の様な誘いであった。刃を持った暗殺者を前に、聖職者が説く様な言葉ではなかった。然して彼の思想は、誰よりも献身的な、博愛に満ちたものであった。
誰の罪をも、独善的に赦そう。神が赦さない者すら、自分が赦そう。そして神が赦そうが、人の為にならぬ存在であれば自分が殺そう。彼は神を畏れ敬いながらそれ以上に――比較にならないほど、全ての人間を愛しているのだ。
「……私に、何をしろと言うのですか」
ウルスラの手から力が抜け、短刀の柄が、指から滑り落ちる。空を仰ごうとしたが、自分がくりぬいた天井板の穴から、屋根の裏が見えただけだった。
「そうだね、一つ神の教えでも学んで見るが良い。聖書は面白いぞ、所詮は昔の人間が書いたものだから古臭い部分もあるのだがね。神の言葉を聞いた誰かの言葉の又聞きなのだ、間違いは多々あるだろうが、全体的に見れば良い事を言っている。お前が思い悩んだ事柄の答えも、きっと何処かで見つける事が出来るだろう。
神の為とは言わんし、全ての人の為とも言わん。暫くは私の為に、盗人を捕まえる手伝いでもしていればいい……殺せとは言わんよ、気が乗らない様子なのだからね。合間には祈りの作法くらい教えてやろう。その内、考えが纏まって――それでも私を殺したいなら、きっとお前が私への罰なのだろう。その時は全力で抵抗させてもらうさ」
「貴方の、名前は?」
私もお前も地獄行きだ、桜は以前、そう言った。神も地獄も信じない彼女の事、戯れでしかない言葉だったのだろうが――その言の裏の意味も、ウルスラは感じていた。桜もまた、過去の罪が赦されるとは思っていないし、未来も自分達は罪を重ね続けると思っているのだ。桜は厳格に、だれの罪も赦さず――ただ、罰を与えないだけなのだ。
神だけが持つ筈の赦しの権利を、傲慢にも行使しようとする神父の前に、何時しかウルスラは膝を突いていた。彼に祈りを捧げるのでも、彼の言に完全に心服した訳でもないが――彼女の信仰心が、正しい道に立ち返りたいという願いが、彼女にそうさせていた。
「ヴェスナ・クラスナ修道会、ハイラム=ミハイル・ルガード。これでも洗礼の執行は赦されている身なのだが、いっそどうだね、今宵の内に洗礼を済ませてしまうのも、手間が省けて良い事だとは思わないかね?」
「……はい」
祈る様に――いや、実際に祈りを込めて、ウルスラは手を組み合わせる。
気付けば抱いていた、盲目的ともいえる仮初の信仰を捨て、自ら新たな信仰を選ぶ。自分の罪を――赦すとハイラムは言うが、他の誰も赦せる筈の無い罪を背負って、自分自身の意思で道を選ぶ。それは、命じられるままに罪を重ね、殺しの技を磨き続けた日々より、よほど過酷な物となるだろう。
その苦痛の予感すら、罪を洗い流してくれる気がして、彼女は柔らかく微笑み、また涙を一つ零した。




