信仰のお話(3)
夜半である。夏の夜は、虫が騒がしい。しかして秋の夜ほど耳を楽しませてはくれず、梅雨のころの様に蛙の唱和も聞こえてこない。中間、空隙、夜更かしには些か娯楽の少ない頃合いだ。
にも関わらず、桜は宿の縁側で、何をするでもなく涼んでいた。
「寝苦しいな、まったく。こんな夜でも人肌は恋しいのだが」
独り言、としか聞こえはすまい。庭の石に目を向けて、桜は溜息交じりに――同行する村雨の意向で、かれこれ一月ほども禁欲生活である故だが――空腹の犬猫の様な顔をした。
「とは言ってもなぁ……この時間からどの店が開いているというのやら。村雨の鼻を誤魔化す手も無い。うーむ、難題難題」
縁側にうつ伏せて、手足を、周囲が目を覚まさない程度にバタつかせる。基本的に、この程度の事以外、悩みの無い女である。
「どう思う、お前。あれが悋気持ちだというのは分かっているのだがなぁ……?」
「そうですね、彼女もまんざらでは無い様に見えますが」
あまりにも自然に、桜は、天井裏に潜むウルスラに声を掛けた。ウルスラもまた、自分の存在が気付かれている事を、何の疑問も持たずに受け入れて答えた。
「道中で見てきた限りでは、貴女が少しだけ積極さを押さえれば、彼女も傾きやすいのではないでしょうか。あまり何度も触れようとするから、彼女の警戒心も薄れにくいのだと思います」
「おう、今日はまた随分と多弁だな……どこへ行っていた?」
「少々、気になったものが有ったので。何時から?」
何時から気付いていた、と聞きたかったのだろう。言葉足りずだが、その意図は通じたらしい。
「音を消したつもりだったのだろうがな、埃がやたらと落ちてきた。天井板が弱いのか、撓んでしまったらしいな。で、適当に声を掛けたらお前だった。まあ、天井裏にお前が潜り込んでから間もなく、という所であろうよ」
「……成程。相変わらず鋭いですね、人の心の機微以外には」
常より幾分か辛辣に、そして幾分か意思を感じられる声音で、ウルスラはチクリと皮肉を入れる。
「彼女は――村雨は、肉体的にも精神的にもまだ幼い。聞けば大陸の生まれとの事、貴女の様な、同性にあけすけに好意を向ける人間には慣れていないでしょう」
「かもな、人間自体にもまだ慣れが薄い様には見えるが。然しなんだウルスラ、お前実は、割とあれこれ考えて生きていたのではないか」
精神的に幼い――その言葉が適切なのは、村雨よりも寧ろ、ウルスラであった筈なのだ。今宵の彼女は、主体的に思考を行い、客観的な見解を述べている。自発的思考を極めて苦手とする彼女には、珍しい事であった。
いや、ここへ来て桜は、彼女に対する認識自体を疑い始めた。そもウルスラという女は、思考を苦手としていたのでは無く――
「桜、初めて人を殺したのは何時でした?」
天井裏から聞こえる声に、殺気にも近い気迫が籠った。だが、敵意よりも寧ろ、その声には真摯さが有った。
体を起こし、胡坐を掻き、右瞼を中指で引っ掻き――桜は、細長く息を吐き出す。
「どうだったかな、確か十くらいの事だったと思う。日付とか、そういう概念の無い土地で暮らしていたので分からんが――今の村雨より、もう少し背が低い頃だったのは確かだ」
その答えに、別段動揺するウルスラでも無かった。寧ろ、思ったより遅いな、などという感想を抱いた。
「何故? 何故、貴女は人間を殺しましたか? 殺人の罪は恐ろしいと、貴女は考えなかったと?」
「自分が死ぬか相手を殺すかとなれば、相手を殺して生き延びたいと思うだろう? まあ、私の師がな、少々鍛え方が粗っぽくてな。本気で殺しに来る相手をあてがわれたから、殺してどうにか生き残っただけの事だ。罪も何も無い、生き延びたからそれで良い。だろう?」
懐かしげな顔をして、桜は語る。彼女の中では既に、誰かを殺した事さえ、良い思い出となっているのだろうか。
「正気の沙汰とは思えませんね」
「正気で人が殺せるか、馬鹿。大体にして、私が学んだ剣は殺しの術技だぞ。そんなものを教える人間、教わる人間が、正気で居られる筈が無かろうよ。虫を殺す子供は居ても、犬猫を好んで殺す子供は滅多にいない。だのに人斬りは、好んで人を殺す。外道でなくては務まるまい?
――とは言うが、そこはまあ、慣れだ慣れ。私も最初はな、人並みに苦しんだ覚えが有るぞ」
「へぇ……」
自分自身の狂気を、桜は当然の様に受け止めている。狂気と正気を同時に持ち合せて、どちらも飼いならしている。全く、この女こそは人殺しの鑑であると、ウルスラは感じた。
「私は、特に何も思いませんでしたよ」
だからこそ、桜が人を殺して苦しんだという、〝最初〟の想像が付かなかった。自分自身の〝最初の殺し〟で、自分が苦しんだ記憶が全く存在しないからだ。
それこそ、虫を潰すようなものだった筈だ。刃物を喉に当て、押し込み、引き抜くだけである。縛りつけられた犠牲者が、動かなくなればそれで御仕舞。次、と声がかかり、後ろに並んでいた、同世代の子供が同じ事を繰り返す。
主体的な行為ではない。犠牲者に対する感情は、何も持ち合わせていなかった。ただ、殺せと言われたから殺し、帰って良いと言われたから部屋に帰った。その日の夕食が少しばかり豪華だったのは、今を思えば餌付け――行為と報酬を直結させる刷り込みだったのだろう。そしてウルスラは、品数の多い夕食を、別段喜ぶ訳でもなかった。
「桜、貴女だって――貴女だって、どこかでは、自分の意思で人を殺した筈です。殺さなくても良い場面で、気まぐれか嗜虐か金銭欲か、下らない理由で殺した筈です。貴女はそういう人間でしょう?」
「酷い言い草だな、否定はできんが。二人目は、両腕を斬りおとした時点でもう無力だったよ。逃げようとしていたが、私も手酷く脇腹を刺されていてな。腹が立ったので追いかけて、背骨を横に割った。
ん……思い起こせばあの時は、我が師も流石に渋い顔をしていたな。止めを刺さずとも、どうせ復讐など出来ないのだ。放置しても良いだろう、と言われたよ」
さもおかしな事で有るかの様に、桜は喉を二度ほど鳴らして笑った。
その殺しは、非常に合理的であると、ウルスラは感じた。手が使えなくとも、魔術を始めとして、人には無数の武器が有る。復讐の可能性を摘み取るのは、自分ならば寧ろ必須事項。行わない事を非難すべきだ。
「では、その時は……罰される、とは思わなかったのですか?」
だが、合理的である事と、善良である事はまた別だ。二度目の殺人で、桜は自分自身の意思で人間を殺した。殺人の罪に応報する何かを、恐れなかったというのだろうか? ウルスラが知りたいのは、桜の、超自然的存在への認識である。
「まるで思わんよ。私の師が言うには、神は人殺しを赦さないから、私も師も地獄に堕ちるのだという。が、私が誰かを殺そうとした時に、神とやらが止めに入った事は無いぞ? おかしな話だな。世界の全てを見ていて、人の生を意のままに出来るとされている筈の神は、人間一人の心持ちにも干渉出来んのだ。
大体だな、自分では人を好きに殺して痛めつけておいて、人間にはそれを赦さないというならば、神とやらはどれ程に自己中心的な俗物なのだ? 聖書を見てみろ。自分が気に入らない生き方をした人間に、神が何処まで残酷になるかが分かるだろう。恐怖政治の愚王、此処に極まれり、だとも」
桜は、まるで神を信じていない。善良で、人を正しき道へ連れていくという神を、心の片隅にも信じていないのだ。本当に命を尊ぶなら、まず無慈悲に殺される人間を、一人でも救って見せろ。そう天に唾を吐きかけても、唾が己の顔を濡らす事はついぞ無かった。
罪、そのものを恐れるのか、罪に与えられる罰を恐れるのか。突きつめれば、全ての人間は後者である。前者の論を信じ拝む聖人は、その実は死後の苦痛に怯えているだけだ。神という超越者から与えられる罰が恐ろしいから、現世で罪を重ねず、結果的に人の手による罰も受けないだけなのだ。
「……神はいない、そう思っていると?」
「居るとは思うぞ、大量に。だが、全ての人間を思いのままに出来る、所謂絶対者としての神はいない。自分がそうだと思いあがっている、田舎妖怪の変じた神の端くれ、その程度なら居るかも知れんが」
仮に神という存在が、例えば日の下の八百万の様に、人に近しい存在ならばどうだろう。村の決まりと同等の緩い規律で人を縛り、或る時は酒の勢いで規律を緩める。死後を縛らず、今この瞬間を、現世にて生きている人間だけを戒める神であるならばどうだろう。
それなら、桜も信じているのだ。大陸の一神教にて育てられた癖に、桜はどうも、神道の方こそ身に馴染む物と考えているらしい。
「で、お前はどうなのだ」
「……私が、とは?」
天井裏から縁側へ、上から下へ投げ込まれていた問いの、その向きが変わる。
「お前自身は神を信じているのか。お前自身は、罪を感じているのか。どうせまた、あの神父でも尾行してきたのだろう? それであれこれと思い悩み、私に問答を吹っ掛けてきたという所だろうが。全く慣れない事をさせおって」
「鋭いですね、無意味に。いえ、姿を消した時節から考えれば分かる事、でしょうか……」
みし、と天井板が軋んだ。暫くの沈黙は、居心地悪いものではない。
「……私は、物心が付いた時には、神が居る事を前提として、全てを教えられていました。ですから、信じる信じないではない。神が居る事が、私の世界では当たり前なのです。それも――貴女の言葉を借りるなら――絶対者としての、唯一である神が。水が無い世界、空気の無い世界を、貴女は思い描けますか?
そう、私にとって、神なんてそんなものなんです。有るのが当たり前だから、信じるのも当たり前。無いかも知れない物を信じる信徒達に比べて、私の信心は余りに薄い……子供が信じる法螺話の様に」
ウルスラの魔力特性は〝歪な零〟。先天的な資質が後天的に歪んだ、稀に見られる形である。
そも魔力特性とは、人や亜人が生まれつき持ち合せる魔力が〝どの種類の魔術に適した物か〟を図る物である。基本的に、これに合致した系統の術は習得が早く、合致しない物は中々習得出来ない。
とはいえ基本的に、人間の大半の魔力特性は〝無し〟。どの分野にも均等に才を持ち合わせ、どの分野も同様に、習得する可能性を秘めている。
翻って亜人を見てみると、彼らは生まれつき魔力が少ない上に、特性も偏っている者が多い。例えば村雨の場合は〝水〟、水と流動する物に対する才覚は持ち合せるが、その他の分野には極めて弱い。結果、子供が使えるような魔術さえ、彼女はろくに扱えないのだ。
そして、ウルスラの特性、〝歪な零〟とは?
元々、彼女の特性は〝零〟、万物に余計な解釈を与えず認識する、特殊な系統の魔術に適性を持つ。具体的には、見た物をそのまま魔力で複製したり、或いは思い描いた物体をそのまま作りだしたり、だ。だがこの特性は、後天的に変化する事が極めて多く、そのまま成長する者は殆ど居ない。
ウルスラの場合、彼女の魔術特性を歪めたのは、ただ一つの絶対者を崇める教団の教えであった。世界の全ては神が作り、神の意のままになる。だから、自分自身は何を思う事も無く、神を信じれば良い。極論、彼女に与えられたのは、そんな教育であった。だから彼女は、他者に対し自分なりに解釈をする事を、何時しか放棄していた。
他者への解釈、理解への努力を捨て、存在する物だけを受け取って生きる。そんな彼女だから、外部に存在する魔力を、扱おうという発想も無い。自分自身が持つ魔力で、自分自身だけに干渉する。それが魔力特性〝歪な零〟の、彼女なりの形であった。
「桜。私は、神は居ると思っています。そう教えられたからです。神は全ての人間を見ていて、悪い事をした人間に罰を与える、そんな子供じみた事も信じています。そうなのだ、と教えられたからです。疑おうという発想は有りませんし、水や空気が存在する事と同様に、それを疑う意味すら無いと信じ込んでいます。
……ですが、桜。私が信じている神というのは……本当に、良い存在なのでしょうか?」
「んん……? すまんな、良く話が見えてこない」
ウルスラの神への考え方は、信仰ではなく常識なのだ。疑う事がそもそも非合理的で無意味な事。だから、これまで疑う事も無く――疑おうとした自分の思考を、封じ込めて生きてきた。
「いえ、構いません。……桜、また少々出かけてきます」
だが、目の前で矛盾を形にされてしまえば、もう蓋を閉ざす事は出来なくなる。そう、元凶はあの神父だ。神に使える者の衣服を身に纏い、神の名を口にし、善良な信者には徳を以て接し、些細な悪にも多大な罰則を与えるあの神父のせいだ。
あれのせいで自分は――考えないでいられなくなった。面倒な、考えるという行動を、強制される様になってしまった。元に戻ってしまったのだ。
何年も押し殺していた、思考に次ぐ思考が頭を埋め尽くし、ウルスラの脳内は灼熱の籠と化している。熱を冷まし、もう一度、考えないようにと戻るには? さて、どうしたら良いものだろうか。彼女の思いつきに、理は介在しない。
あの神父を、出来るだけ見苦しく、命乞いさせて殺そう。そして、きっと何も感じないだろう自分を再認識しよう。
良く分からない存在を、自分が理解できる程度の物に貶めて、神が抱える矛盾を、彼に全て押し付けてしまおう。
そうすれば、これまでの生を費やして組み立ててきた常識を崩壊させ、再構成する苦痛を味わう必要はなくなる。外部の刺激に反応し、与えられた命令を遂行し、何ら思う事無き機械装置で居られる。
どだい殺人を厭う人間性など、僅かにでも興味を抱いた、その事こそが気の迷いでしかなかったのだ。そんな愚にもつかない好奇心のせいで、無益な思考ばかり頭に留まって、罪だ罰だと下らない事を考えるようになる。
「ウルスラ。朝には戻るのか?」
「さあ……? どうでしょう、戻るんでしょうか?」
「私に聞くな、自分で考えろ」
考えようとするのも疲れるからと、ウルスラは答えを返さず、また夜の闇に紛れ込む。やはり彼女は、単純明快に一つの目的だけ考えて、その為に動くのが性に合って――楽で、楽で、仕方が無かった。




