信仰のお話(2)
ヤクザ屋敷が壊滅させられた件が『錆釘』から役人の元へ伝わるや、赤坂の宿場は俄かに、酒樽を逆さにした様な大騒ぎとなった。検分の役人も、殺しの調査に長けた者から、家探しに長けた者から、暗号解読に長けた者から、兎角多分野で掻き集められている。
瀕死の者が二人、焼死体が四十七。平時ならばこの虐殺の調査に力を入れる所であったのだろうが、被害者が極道の者達である事、彼らが抜け荷に携わっていた証拠が見つかった事から、おそらくは役人達も、法の裁きをせっかちに代行した誰かを、力を入れて探しはするまい。役人達はそれよりも、今回の件で発見された書簡を辿り、阿片密売に携わる者達を芋蔓式に捕まえてやろうと、正義の意気込みを燃やしていた。
「……分からんな、どうにも。擬態か、いやその様にも見えなかったが……いやいやいや、もしかすると」
さて、これから夜を徹して調査に従事するだろう彼らを横目に見ながら、桜は相変わらず、眉間にしわを寄せて唸っていた。
「どうしたのさ、さっきから? なんだか、ずっと変な顔をしてるけど」
横を歩く村雨は、その表情を大仰に真似て、それが奇妙に映る事を主張する。
「いや、な。先程の神父の事だ」
途端、村雨が露骨に嫌そうな顔をしたが、桜は構わず続ける。
「どう考えても、あれが強い様には思えんのだ。少なくとも、数十人を相手取って、傷一つ負わずに勝てる様な腕利きにはな。お前も、そうは感じなかったか?」
「それは、うん……うん、思った。あの神父、そんな強くないよ」
足捌き、目の配り、立ち方。声の質から窺える胸筋の強さ、武器を握った手の馴染み方、そして何より覇気。何れを取ってもあの神父は、せいぜいが町のチンピラ風情と大差無かった。それが、桜と村雨の共通見解である。
では、彼は魔術師として有能なのか? ウルスラが言うには、それも否。彼が使ったとおぼしき術は、どう考えても効率が悪い、まともな術者なら決して選ばない様な手段であるという。
成程、道理だ。わざわざ部屋が焼けないように調整して、そして獲物が全て屋内に居る時を見計らって発火させるなどと、考えるだに面倒な事である。それなら素直に踏みこんで、一人一人、魔術を行使して仕留めていけば良い。外へ一人も逃がしたくないと言うのなら、島田宿で杉根智江がやって見せた様に、屋敷を何らかの手段で封鎖すれば良いのだ。
「……だよなぁ。うーむ、それがなぜ……?」」
「むしろ、弱いからこそ、面倒な手段しかできなかったんじゃないの? 普通にやると絶対に勝ち目が無いから、回りくどくても、一回で確実に仕留められる様に、って」
それも有り得るのかも知れない。が、一端の術者が不眠不休で二日、それがウルスラが見立てた、あの術の敷設に掛かる日数だ。神父が未熟な術者であるとするならば、果たして費やした日数は如何程にまで伸びるのか――?
「そこまでするとしたら、大した執念だ。……だが、頷けるな。あのヤクザ者の長、顔を見ただろう?」
村雨は左目の瞼だけを、きゅうと絞る様にして目を細めた。あまり気分の良くない光景を思い出したのだ。
「ヤクザ者が怖いのは、容赦が無い事だ。殴りつけ、倒れた所を踏み、立ち上がる途中で蹴り、逃げようとすれば刺す。警告も無しにいきなり喰らいつくから、武芸を嗜んだ者であろうが、あっさり殺される事もある。が――あの神父はどうやら、容赦の無さで極道の上を行ったらしいな」
襲撃の光景を、桜は思い描く。屋敷が突然熱に包まれて、方々の部屋から断末魔の叫びが響く。何事かと部屋を飛び出したヤクザの親分は、いきなり全力で、顔を殴り抜かれる。金属製の鈍器、まず鼻か頬骨はこの時に折れただろう。反射的に顔を庇おうとして、続けざまに頭に打撃。
先手を取って二回も殴りつければ、もう意識などまともに残っていない筈だ。それでも殴る。反撃をせずとも殴る。何を問われようとも殴る。皮膚が避け、肉が削げ、骨が窪み、刃を突き立てられたかの様に血が流れようとも殴る。時折は肘や膝も殴りつけ、僅かな逆襲の目すら摘み取る。尋問を始めたのは、きっとヤクザ者の顔が、まんじゅうの寄せ集めに成り果てた後だったのだろう。
「まあ、さっさと忘れてしまえ。なんだかんだと、報酬は満額受け取ったのだ。『錆釘』も中々気前がよいな、うむ」
背中を叩かれてつんのめりながら、村雨は、まだ納得いかないと言う様な目をしながら、
「……にしても、ウルスラはどこ行ったんだろー……」
鼻を幾度かひくつかせて、周囲の空気を吸い込み、一人足りない連れを探していた。
ウルスラは、ヤクザ屋敷を離れてから、ずっと神父の後を付けていた。
難しい事は何もない。魔術を用いて姿と音を消し、ただ歩いていくだけで良い。気配を感じとる様な芸当は出来ないらしく、一尺の間も開けずに立っても、存在が露見する事は無かった。
血に汚れた服を、拙い魔術の炎で燃やし、近くの小屋に隠しておいたらしい服に着替える。着替えた後も結局はアルバにストールだが、色は黒から白に変わっていた。
向かう先は、宿場町の中心から外れた一角。家々の戸口に十字架が多く見られ、敬虔な信徒が集う集落なのだろうと予想出来る。拝柱教などではなく、れっきとした世界最大宗教の、世界最大の宗派だ。一際大きな建物の屋根には、鐘と十字架が取り付けられていて、そこが教会なのだと喧伝している。両開きの扉の前に、何人かの男達が集まっていた。
「神父様! おお、お待ちしておりました!」
「神父様、聞いてください! 実はですね……」
戻ってきた神父の姿を見つけた男たちは、どこか語気荒く、一斉に喋りながら集まってくる。神父は両手をそっと掲げ、その動作だけで沈黙を促した。
「構わない、構わない。どの様な事であろうが仔細詳細一から果てまで包み隠さず述べるが良いとも。私如きの非才非力で解決できる事柄であるならば、その為に生を賭すことも厭わぬが我ら司祭の務めであると、天なる父はそう定められたのだからね」
彼の長広舌は、万人に等しく向けられる者らしい。男達も慣れ切っているのか、神父の言葉が途切れた瞬間に捲し立てる。
「あの長助のやろう、またやりました! 暫く大人しくなっていたと思ったのに、盗み癖は治ってなかったらしいです! 二十軒以上ですよ!?」
「落ち着いて、落ち着いて。まずは心を静めて呼吸を整え、彼が今何処で何をしているのかを教えてくれたまえ……いや待て、長助と言ったね? 彼がまた?」
「ええ、あいつです。神父様に言われたから我慢してたが、もう限界だ! あの野郎はさっさと何処かに放り出すべきです!」
一人の男が叫んでいる間に、別な男が、一人の少年の腕を捻り上げて連れてきた。まだ背も低く、村雨と然程変わらない程度だろう。良い環境で育たなかった者に特有の、擦れて捻くれた目つきをしていた。
「……長助、長助。お前はまた、誰かが労働の末に得た糧を、我らが父に与えられた正当な報酬を邪な手段で奪い取り、不当に肥え太ろうとしたのだね?」
少年に呼びかける神父には、威圧感という物がまるで無い。耳と心を安らげる力は有るが、悪事を糾弾して挫くには、少しばかり威厳が不足した声だ。少年はそっぽを向き、口笛など吹いていた。
暫く周囲の者が捲し立てるのを聞くには、この長助少年、窃盗の常習犯であるらしい。これまで三度、盗みの現場を見つけられて掴まり、その度に神父の口添えで許されてきたという事だ。一晩で十数軒の家を荒らすやり口は、神父が庇わなければ、間違いなく袋叩きにされて集落を追い出されていただろう。
が、四度目だ。被害に遭った家も、これまでで一番多かったらしい。集落の若い男達は、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだ。
「役人に引き渡す事もない、俺達で世の中の道理を叩きこんでやります。神父様も、それで構いませんね?」
この集落では、神職にある者は、多大な尊敬を受けているらしい。男達が私刑の前に確認を取りに来たのも、そういう理由であった。
数十人を殺してきたばかりの神父は、慈悲そのものの発露である笑みを浮かべ、静かに首を振る。
「いいや、いいや。お前達は誰も、その少年に僅かな傷も負わせてはならない。お前達の誰も、その少年の悪を咎めてはならないのだ。分かるかね?」
「冗談じゃない!」
反発の声は、当然の事だろう。日々の糧を、こんな子供に奪われていたのでは堪らない。見た所、盗まねば生きられぬ貧困という風情も無いのだ。
「冗談ではないとも、然り、然り。お前達は既に三度、長助を叩き伏せたいと私に申し出た事は、確かにこの些か鈍り始めた脳の内に刻んであるとも。だがね、私はその都度、お前達にそれを許さなかった。だがそれは、お前達が憎いからでも、また盗みを肯定しているからでもない事を……この機会だ、知って欲しいのだよ」
神父は、慈悲の笑みを崩さぬまま、十字架を右手に握った。一刻も前は、メイスを握りしめていた手だ。血塗られた人殺しの手だ。ウルスラも無意識に、同じく過去に血塗られた手を握りこんでいた。
「他者の糧を奪うのは大きな罪である。周囲の者の寛容な心に甘え、赦された恩義を忘れて罪を繰り返すのは、これは極めて多大な悪徳であると言えようね。だが然し彼は――長助はこの事で、実は何も利益を得ていないのだよ」
男達は、唐突に始まった説法に気勢を削がれたのか、殺気だった目が僅かに緩む。神父の声は、あの凄惨な殺人現場から離れて聞くと、不思議と耳に染み込む声であった。まるで、誰かの胸に顔を埋め、背を抱かれながら歌を聞くように。
「実利について考えよう。長助、お前は盗み取った物を全て取り返され、その上に捕えられるだろう。窃盗の僅かな収益で得た一時の娯楽など、数倍数十倍する獄中での暮らしに比べて見たのならば、それはまるでノアの洪水を前にして木の枝を頼りにするが如き儚さであると言えようね。
ところで、本当に重要なのはむしろその次で、つまりは精神の事だ。お前は、お前を過去に赦した者達から再び奪い取った。善意に悪意で報いようという心持ちは、それは間違いなく悪徳と呼んで差し支えの無い物であり、お前がこのままに生きるのならば、死後の安息は例え望んでも届かぬものとなるだろう」
だが、と、腹の底に響かせ、神父は強く強く言葉を続けた。
「長助を赦したお前達もまた、今日此処で彼を痛めつけるというのなら、隣人に暴力を振るうという至極単純にして原始的な罪を負う事になるのだ。戻る財貨は戻る、使われてしまった財貨は戻らない、それは彼を殴ろうが殴るまいが全く変わらない、天地と同様に不変の事実だ。ならばお前達が彼を殴って一時的な満足を得ようとも、やがてお前達は、暴力の罪に恐れおののく事となるだろう。
故に、故に、私はお前達に願う。彼の罪を赦し、拳の代わりに愛を以て、彼が善き人となる事を祈りたまえ。罪を為す代わりに彼を赦し、天国の門へ至る為の善行を一つ重ねたまえ。咎めるは易く、赦すは難しい。だが、難しき事を為してこそ、お前達もまた、父なる方に赦しを得られるのだ」
馬鹿馬鹿しい、ウルスラは声に出さず呟いた。息もつかぬ弁論で誤魔化しているが、要は、少年を赦せと言っているだけだ。既に三度も現場を見られながら心を改めなかった盗人を、それでも赦せと言っているだけだ。
有り得ない。自分がこの集落の住人であったならば、間違いなくこの少年を殺し――殺す? どうだろう。盗みは殺しに値する罪だろうか。
拝柱教から何か盗んだ者は、一体どうしていただろう。場合によりけり、殺せと言われれば殺したし、捕えろと言われれば捕えてきた。自分で判断し、殺す殺さないを決めた事など無かった筈だ。そもそも、そんな事を〝考える〟など、した事も無い。
「どうか、私がこうして頼む。お前達自身の手で罪を作らず、私に彼の身柄を委ねてはくれないか。難事である寛容を、お前達は三度見せた。それを無にしない為、あと一度だけ、耐えて欲しい」
神父は地に膝と手を付き、男達の前で頭を下げた。額を地に付け願うのは、他者への寛容。自身の罪の赦しではなく、他者の罪の赦し。
ウルスラは今、男達が頑として譲らず、少年を叩き伏せる事を期待――いや、希望していた。
「……分かりました。神父様がそうまでおっしゃっては……頭を上げてください」
結局、望むようには成らなかった。信心の熱い男達は、目頭を濡らし、神父に手を貸して立ち上がらせた。
篤信を幾度も称賛された筈のウルスラは、涙を流す事も無く、だが苛立ちの様な物を感じていた。これも何時以来の感情かと、驚きにさえ苛立った。
長助少年を引き取った神父は、教会の一室で、彼に紅茶を飲ませていた。程良く湯気が立ち、香りも良い。名前そのもの紅茶色の液体は、既にカップから半分程も消えていた。
「……お前の事は、これまでに三度、彼らの手から庇ってやったと私は記憶しているがね。お前はどうかね? 自らの悪徳を自覚し罪に震える生き方をしていればと願ったが……よもや生来の悪癖は、これほどまでに手ごわいとは思ってもみなかったよ」
神父は肘を机について、長助と向かい合って座っていた。嘆く様な言葉も、やはり慈愛の笑みと共に発せられる。
「はん、それがどうしたい! ちょっとしくじっちまっただけさ、次はあのウスノロ連中なんかにゃ捕まらないよ!」
「その言葉は二度目だ、一度目だけは反省のそぶりを見せていたが為に期待を抱いたのだが、然し人の本質を一度で見抜くには、私もまだまだ未熟に過ぎるという事だろうね」
少年は、まだ声変わりも済んでいない。細く、産毛しか生えていない腕を振り上げ、自分は曲がらないと意地を張った。
「それで、神父様はどうするんだい。おいらを追い出す? 上等だ、そんなら京まで行って同じ事をするだけさ!」
「盗みを止めよう、というつもりは無いのかね?」
長広舌が、止まった。
「無いね、真面目に働くなんてまっぴらさ。そんな事をしてたから、父ちゃんだって母ちゃんだって死んじまったんだ。おいらはあんなふうにはならない、誰かに取られるくらいなら先に盗む! 面白おかしく生きてやるって決めたんだ!」
孤児ですか、呟いてもどうせ聞こえないからと、ウルスラは口を動かした。同情に値する境遇かと問われれば、自分と大差ないとしか答えられない。
「さっさと追い出せば良いだろ、神父様。神様なんて結局、父ちゃんも母ちゃんも助けてくれなかった! こんな所で祈ってるより、馬鹿な爺婆から財布を掏ってた方がマシさ!」
「気の毒だが、それはもう無理なのだよ、長助」
ぶつ切りに、三度の息で、神父が言葉を終える。それと同時に長助の手から、紅茶のカップが滑り落ちた。
「……あれ、おかしいな、なんだこれ……」
「眠くなってきたかね? そうだろう、利きの良い眠り薬だ。数分――いや、西洋の言い方では通りが悪い。三百も数えれば、お前は完全に、夢すら見ぬ深い深い眠りの中へ落ちていくだろう……そして、二度と目覚めない」
「……? 神父様、何を言って――」
神父は立ち上がり、部屋の扉に内側からカギを掛ける。それから、部屋の隅の箪笥を横へ動かし、下の床板を外した。階段が、地下へと続いている。
「この国のことわざに曰く、仏の顔も三度まで。だが然し我らの父は寛容だ、心の底から赦しを乞うならばきっと、五度でも五十度でも赦しを与えてくださるだろう。だが、だがね、私を始めとした多くの人間は、天なる父の御心に倣える程の完成された精神を持ち合わせていないのだと言う事を、お前はついぞ考えもしなかった」
アルバの内に紐で吊るしていたメイスを取り出し、右手に構える。それに残った血痕に長助が気付き、悲鳴を上げようとしたが、既に喉が痺れているのか、掠れた声しか出なかった。
「お前はこれからも罪を重ね続け、そして罪を償おうとはしないのだろうね。悲しい、悲しい、心が八つに引き裂かれ、破片の一つ一つが悪魔に食われてしまうかの様に悲しい事だ。だが更に悲しいのは、お前の為にお前の周囲の人間が、暴力という悪徳に手を染めてしまいかねない事なのだ」
「……ひっ、ぃ……た、たすけ……」
逃げようとして、足もろくに動かず、床に倒れた長助。後ろ襟を神父が掴み、地下への階段へと引きずっていく。
「お前の悪癖は治るまい、お前自身もそう自覚が有るからこそ同じ手口の盗みを繰り返し繰り返し繰り返し、そしてつまらぬしくじりで捕まる。赦されるのは気持ち良かったかね? 重畳、一度で満ち足りていたなら、お前はまだ、天国に至る可能性は残されていたのだ。だが既に遅い」
「……ぁ、、神父様……ごめんなさい、ごめんなさい……助けてぇっ……!」
長助を引きずったまま、神父は階段を下りていく。こおん、こおんと靴音が響いて、無理に後を追わずとも、下が広い空間になっている事は窺えた。
「どうかこの者の地獄が、一層でも天に近い場所で有りますように、アーメン」
人の体を金属が叩く、鈍く重く残酷な音が幾度も反響する。直前に眠ってしまった少年は、断末魔すら残さず息絶えた。痛みは無かったのだろう。そんな救いは偽善でしかないと、ウルスラは感じた。自分が思考している事自体を、もはや彼女は、違和感を伴わずに受け入れていた。




