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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
東海道中女膝栗毛
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信仰のお話(1)

 深夜、ウルスラは一人で思索に耽っていた。

 いや、彼女にはそもそも、思索するという行為は難し過ぎる。なんとなく、ぼんやりと、考え事をしていたという方が正しいだろう。

 手には一振りの短刀。十字架を模した柄には人の脂が染み込み、刃は骨に当たってところどころ欠け、ただの装飾品としてしか使えなくなったもの。〝拝柱教〟の暗殺者が、教団から与えられて使う武器だ。

 この短刀は、決して質は良くない。だから、定期的に教団側から、新しい物を支給される必要が有る。古い短刀と引き換えにそれを受け取り、教団側は短刀の交換数を記録し、信者の篤信の証とする。

 幼い頃、自分の名前もはっきりと口に出来ず、年齢も定かでない頃、ウルスラは教団に拾われた。洗礼名一つを与えられ、それなりに恵まれた環境で、魔術と暗殺術を、そして大聖女エリザベートへの信仰心を叩きこまれた。日の本に於いて本格的活動を開始する十年以上も前から、拝柱教は土台固めをしていたのだ。

 別段、身につけなければ命が危ういとか、そんな切羽詰まった状況だった訳では無い。出来が良ければ褒められるが、それに依存する程、居心地が良かった訳でも無い。ただ、当たり前だからと、その行為を続けていただけである。

 命じられるまま、何人も殺した。透明化と陰形の術には長けていたから、無防備な所に忍び寄り、さくと喉を掻き切れば仕事は終わり。血飛沫や死に際の顔が不快だから、決して殺しは好きではないが、所詮は食べ物の好みと同程度の好き嫌いだ。

 それが人間だろうと考えていた――いや、考えはしないが、おかしいとも思っていなかった。ところが奇妙な事に、今の旅の同行者は、人が生きる死ぬで長々と問答を重ねているのだ。


 まずは、雪月桜という人間を思う。人を殺す事に対し、何ら抵抗を持たない――そう言った面では、ウルスラと同類と呼んで良いだろう。

 その気になれば簡単に人を殺せるだろうし、それを示唆する発言も多い。だが、ウルスラがこの二人の旅に同行してから、彼女は一度も人間を殺害していない。

 例えば、坑道の一件にしてもそう。自分に危害を加えた人間は、逆恨みからまた手を出されないように、確実に葬っておくべきなのだ。少なくともウルスラはそうならった。だが桜は、遊興の為にはした金を揺すり取っただけであった。

 箱根でも、拝柱教の暗殺者や武装信者を、酷く痛めつけはしたが誰も殺していない。殺されなかったからこそ、ウルスラはここに居る。

 何故、楽でない道を選ぶのか? 殺せる相手なら殺した方が、後の憂いも無いのでは?

 また思うに、彼女は神の教えについて一定以上の知識を持っているが、その実は神などまるで信じていないのだ。

 亡霊だ何だと超自然的な存在は、魔術と同様に実在する事は、もはや常識となっている。ならば神が居たとしても、何も不思議は無いだろう。なのに桜は、芯から神など無意味無価値と、存在を否定している。

 そうまでも神を――嫌う、と言って良いのだろうか。嫌悪し、嘲り、然して神について考える事は止めようとしないし、その考えの一端をウルスラにも説く。

 彼女は、桜は何故、合理を嫌わぬ癖に、殊更に合理から遠ざかる事を続けるのだろうか?


 また、ウルスラは、村雨という亜人を思う。狩る側の生物として生まれ、その為の凶器も狂気も備えておきながら、人が殺される事を激しく恐れ――いや、その言い方は妥当ではない。

 彼女は、人が人を殺すという行為、それ自体を忌み嫌っている。人の死体を見るだけならば、気分は良くなくとも耐えられるらしい。

 全くおかしな話だ。彼女にとって人間の死体とは――こう言っては何だが――美味な食料では無いのか? 自分とは別の生き物が同族を殺していた、それが何故、彼女には耐え難い出来事となるのだろうか?

 彼女の種族、人狼は、強者に喰らい付く事を喜びとする種族だ。生まれついての殺戮者、自然が設計を間違えた殺人者。個人としての資質がどうあれ、彼女の心の奥底には、殺しに対する渇望が渦巻いている筈だ。

 その証拠に――あの時、桜を拳足で打ち据えていた村雨は、ウルスラが止める事を躊躇ってしまう程に楽しげだったのだから。

 殺す手段を持ち、殺したいと願い、だが殺さない。他人が殺すのを見る事さえ我慢ならない。彼女の思考は、まるでウルスラの理解が及ばない。


 だが、この二人の共通点は、長々と考え続けてやっと見つけた。どちらも、自分が楽になる道から外れ、わざわざ苦労と苦痛を重ねているのだ。

 殺さない戦いの方が苦手な癖に、太刀も抜かず拳を振るい、結果、無意味に苦戦する桜。殺したいくせに、本能の叫びを理性で押し潰し、日夜煩悶する村雨。彼女達を見ているに付け、ウルスラの中で、一つの思考が膨れ上がっていく。


「……試してみれば、分かるのでしょうか」


 これまで、特に何を思う事も無く繰り返してきた殺人行為を、明確な自分自身の殺意で遂行する。そうすれば自分も彼女達の様に、殺人を厭うようになるのだろうか。

 試してみたい。誰を殺そうか。何気なく短刀を放り投げ、掴み、また布団に仰向けになる。

 とある宿の夜。隣室では桜と村雨が、すう、と寝息を立てている。襖を開けてみようかと、好奇心が疼いて、結局はやめた。






 浜松での蜘蛛騒動の後、桜一向は、一つの宿場につき一日という鈍行で旅を続けていた。

 この速度でも九月の頭には、京に辿り着く計算なのだ。やはり、旅の序盤に急ぎ過ぎた感が無いでもない。此処から先はもう少し余裕を持って、一つ一つの街並みを堪能しようという訳だ。

 さて、ここは赤坂宿。男旅人の心の癒し、飯盛女の多く集う町である。そういう町であるから、自然と宿は多くなり、商店が増える。東海道中にも、こう賑わっている宿場は、そう多くは有るまい。

 昔堅気の江戸の町から随分と離れ、ハイカラに染まった京に近付いただけはあり、町並みは鮮やかで華やかである。赤い煉瓦作りの洋風建築の前には、小袖の上にエプロンを重ねた娘の呼子に、男どもが鼻の下を伸ばしている。肩で風切る粋な若者は、袴に革の靴を合わせ、髭の無い顔に釣り合わぬ山高帽を載せている。馬の代わりに人が車を引いて、ロングスカートで色目を振りまく町遊女を運んでいった。


「うーむ、華やか華やか。生き馬の目を抜くのは、江戸の特権とばかり思っていたぞ」


 五人に一人は洋風の装いにある町の中、普段通り黒一色の和装で、桜は上機嫌に歩いていた。この町の活気は、宿場の性質的にいかがわしさを孕んでいて、それが堪らなく心地好いらしい。女の身故、袖を引かれて宿へ連れ込まれる事は無いが、様々の艶華を眺め愛でるだけでも、釣り目が垂れる程に楽しいようだ。

 だが、弛みきった表情とは裏腹に、左手は脇差の柄に乗り、刀身を半分程露出させている。物騒な事と言ったら、擦れ違った飛脚がぎょっとして、数歩行ってから振り向く程である。


「もう、しゃきっとしてよー……着いてくるって言ったのは桜なんだからさぁ」


 小言を言うのに慣れてしまった村雨は、だが今日は、不貞腐れた様な表情はしていない。程良い緊張で引き締まり、幼げな顔に精悍さを添え物としている。昂っているが足は地に着いている、と言ったところであろうか。実を言うとこの一向、これから、とあるヤクザ者の屋敷に殴り込みを掛けに行く所なのである。




 この町に着いてすぐ、『錆釘』の支部に立ち寄った村雨は、丁度良いからと仕事を依頼された。町の鼻つまみであるヤクザ者の屋敷に忍び込み、抜け荷をしている証拠を盗んでこい、というものだ。ヤクザという連中は、権力と絡み合っているのが世の常。役人も下手に動きが取れないらしい。

 御禁制の品を運んでいると証拠が出れば、多少の悪事は見過ごしていた役人も、重い腰を上げる必要が出てくる。探し物得意の村雨には、持ってこいの仕事であった。

 だが、そこで口をはさんだのが、他でもない桜である。


『面倒だな。屋敷ごと潰してはいかんのか?』


 誰もそんな事を考えなかっただけで、確かに、そうしてはならない理由も無い。下手に力を持っているから手出しできないのであって、爪も牙もへし折ってしまえば、縄を掛けるなど容易い事だろう。問題は、食客数十人を抱えるヤクザの屋敷に、誰が踏み込んで行くかという点だけだ。


『私にやらせろ、良い運動になりそうだ。まあ心配するな、殺しはしないから』


 構成員への福利厚生はしっかりしている『錆釘』だが、外部の物好きがどうなろうと知った事ではない。赤坂支部受付の娘は、頭の箍が外れた様な笑みを見せて、


『あー、うー、えーっとね、それじゃあね、それでいいよ。いってらっしゃーい』


 こんな所でも西洋被れ、ハンカチを振って一向を見送った。




「あーあ、穏便に済ませられそうだったのに……なんでまたこんな変な事言いだすかなー……可哀想に」


 村雨も、此処まで旅を続けてきた以上、今更桜の心配も自分の心配もしない。寧ろ、数で覆いに勝るヤクザ者に、同情さえする始末だ。常識的感覚から随分と外れてきたが、然し当人はそれにも気付かない様子である。


「後に憂いを残して町を立つより、悪事を根から断つ方が早かろうが。まあなに、怖ければ屋敷の外で待っていれば良い」


「そしたらあなたが何をやらかすか分からないじゃん、もー……程々にしといてよ?」


 軽口をたたき合いながら、建物の間から覗く、広い屋根を見やる。瓦がずらりと並んだ屋根は、古き良き和の、豪勢な屋敷のものである。あの下には、ドスを持った刺青衆がたむろしているのだろう。桜は愈々上機嫌であった。


「所詮はヤクザ、腕の三本も折る程度なら何も言われまい。なあ、ウルスラ?」


「…………え? あぁ、はい、そうでしょうね」


 二人から後ろに数歩離れて、地面を見つめながら、ウルスラは歩いていた。名前を呼ばれてから僅かに間を開けて、首を持ち上げ、煮え切らない返事をする。


「どうした? お前の事だから、腕は三本もありません、と言いだすかと思ったが」


「……そうですね、三本も腕が有っては着物に困るでしょう」


「そうそう、その調子だ。今日はどうした、やけに静かだぞ?」


 いえ、と生返事を返して、ウルスラはまた、地面と自分の足の甲に視線を落とした。






 ぐるり張り巡らされた塀を、乗り越えても叩き壊しても良いのだが、敢えて桜は正面門から抜ける。この時点でまず、村雨が異変に気付いた。


「……血の臭い」


「ヤクザ者の屋敷だからな。別に珍しくもなかろう」


 最近のヤクザは賢くもなっているが、いざとなれば武力に訴えるのが彼ら。ドスの脂は落ちる間も無しであろうと、桜は意にも介さず答える。


「違う、濃過ぎるし新しい……何人分の血か分からない」


 村雨は、横に小さく首を振った。桜は反射的に、背の大太刀を右手に、脇差を左手に抜いた。

 離れて見ていても、まるで異変は目に映らない。だが、屋敷の中では、どれ程に凄惨な光景が繰り広げられているのだろうか。村雨の嗅覚は頭蓋の内に、死屍累々を想像させる。

 数十人の食客――刃物使いから魔術師から、多芸多才――を、相手取ろうなどという無謀、そも桜以外に居るという事も、村雨の心胆を寒からしめた。


「他には分かるか?」


「火薬の臭いは無い、けど焦げた臭いはする。魔術師かも知れないし、それがどういう人間かは分からない」


「上等だ、行くぞ」


 銃器爆薬さえなければ、魔術の備えはウルスラに任せられる。刀も槍も拳も、桜はまるで恐れていない。恐れてはいない、が――今回は、最大限の警戒を払う。

 足音を完全に消し、地を滑る様な足取りで、玄関ではなく縁側に回り込み、屋敷に入った。

 ――然しながらその発想は、名も知らぬ襲撃者と同じだったらしい。


「背後から一撃、辛うじて生きているな。頭の形は変わったが……獲物は、杖か?」


 障子に凭れかかる様に、背の刺青を開帳した男が倒れていた。身を守った形跡もなく、暴れた形跡もなく、後頭部が陥没する程に殴りつけられている。傷口の形状から襲撃者の武器は、金槌の様な一部分が突き出した形状のものではない、と判断した。

 土足のまま、障子を開け、奥へ進もうとする。近くの襖から、異常なまでの熱気を感じた。太刀の切っ先を向け、突きを入れて切り裂こうとすると、村雨が手を翳して制止した。


「待って、危ない。この向こうから、焦げ臭い臭いがする……煙は立ってなかったのに。多分、開けたら一気に燃え上がる仕掛けなんじゃないかな、火事の時ってそんな事が有るらしいから。それから、うぁー……」


 部屋の中に、生きている人間の気配は無い。焦げ臭いと村雨は言うが、桜の鼻では分からない程度――つまり、外へあまり漏れ出してきていない、という事だ。


「まだ、何かあるのか」


 訝しげに、桜は太刀を引く。近くに、動く物の気配は無い。


「……すっごく、こんがりと美味しそうな臭いが、この部屋からしてる。ここ、絶対に厨房じゃないからね」


「よーく分かった」


 それ以上、焦げ臭い部屋に拘泥する事は無かった。

 挨拶も無しに上がりこんだ屋敷だが、廊下を歩いていても、誰に咎められることも無い。そして、屋敷のあちらこちらの部屋で、村雨は同様に食欲をそそられる臭い――それは、彼女にとっては、と注釈が付くが――を嗅ぎ取った。

 つまり、この屋敷の食客達は、縁側の一人を除いては、部屋に居る所を、生焼けの箇所を残さずに焼かれてしまったという事だ。紙の襖も木の梁も、おそらくは畳さえ燃えていない。屋敷自体は無傷である、というのに。


「ウルスラ、難しい術か?」


 襲撃者の意図がまだ掴めない以上、その技量の程を推測しておく必要はある。視線は前方に向けたまま、背後に控えるウルスラに訊ねる。


「いいえ、私は出来ませんが。特別に訓練を受けた、所謂魔術師と呼べる程の術者なら、時間さえ掛ければ誰でも実行できるかと」


 嫌悪も驚愕も浮かばない、常の表情でウルスラは答えて、


「……一部屋につき、用意に四から六時間……一般的に言うなら、二から三刻。燃やされた部屋は八つ有りました、不眠不休でも二日がかりですね」


 効率が悪い方法です、と付け加える。気の長い話だと、桜は呆れ果て、キツい目を更に細く吊り上げた。

 生きている何者かが居るとは思えなかった。数十人分の焼けた肉が芳しく、また、焼け爛れた皮膚から滲み出た血液は、錆びた鉄釘の臭いを発していた。死体に付き物の腐臭は無い。だから、寧ろ村雨に取っては、居心地がよい場所だと言う事が、酷く居心地悪い思いをさせた。

 だからだろうか。その中に――僅かに、だが――動き回る臭いを見つけた彼女は、弾かれた様に、廊下右手奥の、薄暗い部屋を指差した。


「あっち、誰か居る!」


 するり影を縫う様に、板張りの廊下を音も無く、桜は指の向いた方へ走る。部屋に踏み込み、だが争う音は聞こえない。村雨とウルスラが追い付いた時、桜は部屋の入り口に立ち尽くしたままで、奥まで踏み入ってはいなかった。

 部屋の中には、二人の先客が居た。一人は、顔に大きな傷が有る、如何にもな極道の大物と言った風情の男。衣服は豪奢に鮮やかなのだが、贅を尽くした刺繍は、赤黒く汚れて見るも無残な様だ。当然の様に、男自身の血であった。屋敷の主、近隣のヤクザ者を束ねる大親分。その肩書も、顔を潰されて仰向けになっていれば、虚しいばかりである。

 もう一人、そこに立っている男が、きっとこの屋敷への襲撃者なのだろう。それが――あまりにも、威圧感に欠けていて、桜は拍子抜けをしていたのだ。


「……おや、おや、おや。見た所ではこの国の者の様だが屋内で下足履きのままとは、これはこれは田夫野人の所業と呼んで差し支え有るまいね。玄関に戻り靴を揃えて来るが良い、お前達の為に靴を取る殉教者は生憎とこの世に生まれ落ちてはいないのだから」


 アルバと呼ばれるローブを纏っているが、その色は、喪に服すかの様な黒。首にストールを掛け、胸に十字架を吊るし――そう、一呼吸で長広舌を振るった男は、疑うべくも無い、神父の格好をしていた。あまり背の高くない、日に焼けた、そして髭を剃って数日放置した様な顔の男だった。


「あ――あなたが、こんな事を……?」


 男からは、まるで恐怖も威圧も感じない。桜ばかりではなく、問いを投げた村雨も、同じ感想を抱いていた。本能の領域で、この男は恐れるに足りないと、そう判断していた。

 有り得ない事だ。この現場に居合わせたのなら、屋敷の惨状を生んだのは、まずこの神父である筈なのだ。数十人を焼き殺した男が、危険でない筈は無い。


「こんな事、こんな事とは何か? 成程確かに其処で横たわっている彼は、天にまします我らが父の教えに従わぬ暴と愚と醜怪悪嫌を究め尽くした者であったからこそ、私がこの手で地の獄の炎に投げ込む寸前だ。だが然しそればかりで他の全ての殺人までを私の仕業と見做すは、救国の聖女を魔女と断じたが末に辱め辱めて殺した愚王達と同列の呆け振りとは言えないかね?」


「気が早いな、神の僕。私も私の連れも、この屋敷に死体が有るなどとは知らんぞ?」


 神父の手には、メイスなどと呼ばれる、金属の棍棒が握られていた。重量の割りに振り回しやすく、強度は高く、防具の上からでも人を殴り殺せる凶器。縁側で倒れていた男の傷は、間違いなくこの凶器による物であろう。そう断定した桜は、軽い嘘を付いて、神父を揺す振ろうとした。


「それは、それは失敬。地獄に落ちる前に焼かれた死体が、この屋敷には四十と七も存在するのだよ。路上の金貨は数分で拾い上げられるが、よもや屍のたった一つにさえ気付かず此処まで踏み込んで来よう楽天的な眼球と脳髄を持った人間が三人も居ようとは思ってもみなかったのでね」


 かまを掛けるまでも無く神父は、几帳面に数えたらしく、焼き殺された者達の数を答えた。頬を捻じ曲げ肩を上下に揺らし――笑っているのだろう――顔の腫れあがった男の横にしゃがみ込む。


「さて、さて、さて。ところでお前達は役人か托鉢僧か物乞いか強盗か、それともこれまでの怠慢を恥じて私を地獄へ連れていこうと思い立った死神と悪魔の一向かね? 死神であるならこれは連れていって貰って結構、既に聞くべき事は聞き出したのだから。役人であるなら我らが父の御名に於いて、お前達の立身出世に大いに役立つ手柄を授けてやる事もやぶさかでは無いが、どうするね」


 頬骨は内側に陥没しているが、肉が膨れて空洞を埋めている、極道の男。彼の髪を掴んで首を引き上げ、神父は笑みを消し、真摯な表情で尋ねた。


「……どれでも無いよ。強いて言うなら役人の側に近いけど……その手、離してよ」


「うん? これは、これはまた善良な少女も居たものだ。おそらくお前の目的も私の目的も、最終的に至るところには全く食い違いが無いと思っているのだがね。紆余曲折の末に殺すか私がこの場で殺すかの違いなど、せいぜいが数十日の時間と数百人の徒労しか生まぬ下らぬ下らぬ下らぬ誤差だろうよ。……おお、おお、そう牙を向くな野の獣、私は人を殺める事は有っても獣殺しは慣れていないのだから」


「――っ、このお喋り……!」


 対象がどんな悪人であれ、目の前で人が殺されるのは見たくない。警告した村雨の表情は、相手が自分より弱いだろうという直感も有って、かなり凶暴なものだった。神父は変わらず立て板に水で、その口ぶりは、村雨の灰色の髪を揶揄している様にも聞こえた。

 男の髪から手を放した神父は、だん、と床を踏みつける。静寂を作る為か。人前で話す事には慣れている職業なのだろう――彼の衣服が、飾りでないとすれば。


「怒るな、怒るなと言っているのだ。……さて、重い腰をようやく上げた役人でないとするならば、役人に手柄を売りつけて小遣い銭を稼ごうという悪童共と認識をしても大きな間違いではあるまいな。ならばだ、娘。そこの壁、仙女と菩薩と聖母の同居する奇妙な絵の裏の壁だ。5603」


「は……?」


 長広舌が、後半だけ速度を落とし、聞き取りやすい声に代わる。神父が顎で示した方向には、確かに、宗教を幾つも混ぜた様な掛け軸が飾ってあった。めくり上げると、壁が削られて凹んでおり、そこに金庫がめり込んでいた。西洋式の、数字を合わせると扉が開く、頑丈な金属製の品だ。

 5603、村雨は、神父が告げた通りにダイヤルを回す。かち、と金具が外れた音がして、軽く軋みながら、金庫の扉が開いた。


「わ、うわ……凄い、何これ……!?」


 金庫の内容物は、山積みにされた金塊、宝石、それに巻き物であった。貴金属相場は村雨も詳しくは無いが、これだけあれば船団が買えるのではとさえ思える目方である。薄暗い部屋でも、外から入り込んだ日光に照らされ、金庫の中は輝いていた。

 巻き物を手に取り、開く。人名、地名、数字の羅列……僅かに見ただけでは意味が通じないもの。だが、その中に紛れこんだ符丁、これならば村雨も解読できる。巻き物は、これまでの商取引の記録と、これから荷を運ぶ場所、荷の量、受け取る金子、受け渡しの手筈などを書き記した者であった。

 荷として挙げられている品は、銃器や西洋の絵画、壺、古刀剣から、政府も幕府も輸入を認めていない動物――珍獣も居れば、二本脚二本腕の喋る種族も居る――まで。

 が、特に毒々しく村雨の目に飛び込んだのは、『阿片』の二文字であった。達筆で綴られていたが為に、無機質にも見えるその自体が、まさしく他人事の様で、背に怖気が走る。


「全く、全く時代遅れの抜け荷だとは思わないかね灰色の獣。西洋の大帝国に於いては栽培すら罪とされ、周辺の小国も帝国の圧力を恐れて同様の措置を取り、僅かな切れ端を持ち歩くだけで投獄の対象と成り得る前時代の異物だとも。斯様な品を何処で作っていたのかは知らないが、文明国の仲間入りを目指す日の本の政治家先生方に於かれましては、大路の中央に横たわる病人よりも尚嫌悪し唾棄すべき最低の嗜好品だろうよ」


「酷いね、これ……」


 言葉も無い、というのはこの事であろう。日の本ではまだ知名度が低いが、大陸で生まれた村雨は、阿片がもたらした悲劇を聞き覚えている。新たな土地に足を踏み入れて、原住民に遭遇した人間が、美酒と並んで用いた悪魔の通貨。労働力を、土地を根こそぎ奪い、抵抗する意思を健康な体と合わせて奪い、人として壊して打ち捨てる。世界全てが憎むべき悪徳、そのものが阿片なのだ。


「では、では、では。ここに居ると言われも無い罪を被せられてしまうという事をお前達から学んだのでね、私は私の有るべき屋根の下に戻る事としようか。私は極めて残念な事にここの屍達へ捧げる祈りを持ち合せていない、可能ならばお前達で適当に地獄での平安を祈ってやってはくれないかね? アーメン」


 最後に神父は、メイスで十字を切った後、倒れ伏した男の頭に、それを振り下ろそうとした。手は半ばまでも進まず、桜に掴まれ、制止される。


「悪いが、私の連れは殺しが嫌いでな。遠慮してもらう」


「殺しが好きそうな顔をして、お前は良くも似合わぬ台詞を吐きだせたものだと関心はするがね。肌の下まで染みこんだ血の臭いに、獣は惹かれて群がると知るべきだ、黒い娘」


 極道の男を殴り殺す事は、今度こそ諦めたのだろう。桜達の土足を咎めた神父は、自分自身も靴履きのまま、廊下を軋ませて去っていく。

 桜は、その背を怪訝な顔つきの侭で見送って、


「……あいつ、弱すぎるな。んん……?」


 腕組をし、首を捻り、難問を前にした寺子屋の生徒の様に唸る。

 その後ろで村雨は、役人を呼ぶ為と、そろそろ同じ臭いばかりで麻痺しかけてきた鼻を戻す為、屋敷の外へと駆けだしていた。

 そして、ウルスラは。


「弱いですか。そうですか……ふふ」


 桜にも村雨にも、何も告げずに姿を透明化し、歩いてその場を離れた。小さく零れた笑い声は、それが何年ぶりかも忘れる程で、彼女自身を驚かせた。誰にも見えないが、無感動な人格に似合わず、期待を一杯に示す類の笑顔であった。

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