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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
東海道中女膝栗毛
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鉛と硫黄のお話(5)

 鎖分銅、という武器がある。読んで字のごとく、鎖の先端に分銅を取り付けただけの、至極単純な武器だ。だが、これがまた恐ろしい威力を誇る。

 紐の先に錘を付けて、くるくると振り回して見れば分かるだろう。腕から紐に伝わった力が、錘を高速で円運動させ、ただ投げつけるだけでは得られない破壊力を生み出す。人の肉も骨も、或いは生木も土壁も、抉り抉って撒き散らすのだ。

 村雨達が対峙した人蜘蛛の爪は、その鎖分銅に性質が良く似ていた。根元だけに力を入れて振り回し、長さとしなりを利用して、先端を高速で叩きつける。微細な動作こそは望めないものの、坑道の岩壁を削り取る程の威力は、決して触れてはならない類の代物だ。刃を搭載した鋼の鞭、と言っても良いだろう。

 狙いは適当、滅茶苦茶だ。たった二匹の獲物を潰す為に、四本の蜘蛛足を縦横に振り回すものだから、周囲の蜘蛛が片っ端から引き裂かれていく。魚の様に三枚に下ろされたもの有り、西瓜の様に叩き割られたもの有り、坑道は蜘蛛の墓場と化していた。


「外へ、外へ出るのだ――あの太陽の下へ! 光と、水と……ォオオ、オオオォオォォ――ッ!!」


 蜘蛛の体が足をやたら振り回して暴れている最中、人の体は己が身の不幸を嘆いていた。

 村雨の予測の通り、彼こそはこの山の伝承に残される法師である。洞窟で雨宿りをしていて崩落に巻き込まれ、蜘蛛にさえすがったが、結局は飢えて死んだという悲惨な話の主だ。

 実際の所、法師は死んではいなかった。洞窟――後、鉱石が産出すると判明し、坑道として使われるようになる――の中、生き延びようと足掻きに足掻き、毛髪の一本より細い可能性にさえしがみ付き、生き抜こうとした。岩天井の隙間から零れる雨水を飲み、僅かな苔を削いで口に運び、それすら無くなれば己の二本の足を――法師はただ、生きたかっただけだ。

 だから、同じ様に崩落に巻き込まれ、体の半ばを潰された蜘蛛を見つけた時、法師は何ら躊躇う事無く、己の身を差し出した。子蜘蛛を使って外から食糧を得られる蜘蛛は熊さえ噛み殺す程に肥えていたのである。

 半身を失った二つの生物が、足りぬ部品を求め合ったのは必然。驚愕すべきは、それを可能とした蜘蛛の体の適応力と、法師の身に付けていた術、そして執念にあるだろう。まるで構造の異なる体二つは、その時より一体と化した。

 だが、法師は何も知らなかった。蜘蛛と一体化する事は、決して蜘蛛の体を則る事には繋がらない、と。

 巨体を支える八本の足の内、法師が制御できる物は、実は一本たりと存在していない。彼は自分の上半身を、これまで同様動かす権利だけ与えられている。

 壁を掴み、体を引きずろうとした。その都度、蜘蛛の体が眼を覚まし、巨体を坑道の奥へ引きずりこんだ。餌は子蜘蛛に運ばせれば良い、気候の変化が少ない坑道は天国だ。何故、無理に外へ出ようと言うのか、無駄な事をする愚か者よ。この外骨格生物が口を利けるなら、この様に告げて法師を嘲笑ったに違いない。

 数十年。眼球が本来の機能を失いかけ、洞窟の闇に適応する程の永い永い時間、法師はただ、外の世界を望み続けた。


「ん、と、よっ、ほっ――ああもう、切りが無い!」


 風斬る蜘蛛脚の爪を、村雨は狭い空間で、必死に避け続けていた。

 慣れてくれば、初動から到達点が推測できる攻撃だから、回避自体は難しい事でも無い。問題なのは、それが四本、矢継ぎ早に繰り出されているという事だ。一つを回避して安堵していれば、直ぐにまた次が来る。

 だから、跳躍しての回避は狙い辛い。空中では身動きが取れず、そこを打ち抜かれてしまえば、防御もまるで意味を為さない。必然的に村雨は、地を這う様な姿勢となって、前後左右に掛け回って回避を図る事となる。

 巨体の蜘蛛に比し、敏捷な村雨である。打撃の通ずる間合いには、既に幾度も踏み込んでいる。然し、攻勢に転ずる事は難しい。

 村雨の背で届く範囲は、蜘蛛の胴体や脚だけだ。その部位は非常に硬く、人狼とはいえ少女である村雨では、打撃の重さが不足する。とても甲殻を貫き、致命傷を与えられる程の威力は生まれない。

 では、人の体を狙えばどうだろうか。見る限り、防具の様なものは着こんでおらず、やせ衰えた骨と皮の体である。筋肉の防御は極めて薄く、腹を殴れば容易く内臓に衝撃は届くだろう。問題は、どうやって拳足が届く範囲に飛び込むかだ。

 跳躍は、先に挙げた理由から難しい。一打加えるだけで仕留められる確信が無い以上、相手からの反撃は確実に有る。さりとて、武器になる物は所持していないし、村雨は魔術など子供よりも使えない。

 となれば、頼る手は一つ。魔術の使い手としても十分に優秀である、レオポルドに任せる他は無い。その為に村雨は、敢えて蜘蛛の射程から大きく外れる事も無く、攻撃を自分だけに惹きつけていた。


「ねぇ、まだー!? 流石に疲れたんだけどー!?」


「煩い気が散る話しかけるな愚か者が! 魔術という物はそもそもだな――」


「御講釈は結構だから早くしてー!!」


 かつて村雨が相手にした魔術師――智江の様な規格外の術者や、そうでなくとも短言で氷塊を生成する大男などは、いわば際立った達人である。幾らレオポルドが優秀とはいえ、彼ら本職に比べれば、数段見劣りがするのは避けられない。

 だからこそ、腰を据えて長時間の詠唱を用い、魔力の変換効率の低さを補う。村雨の嗅覚は、周囲の大気がレオポルドへと流れていくのを、確かに嗅ぎとっていた。


「……じゃないと、本気で危ないかも知れないんだけどさー……」


 蜘蛛の巨体が、後方の四本の脚で前方に押し出される。それに合わせて村雨も一歩、来た道を後ろ向きで引き下がる。もう、何歩も後退する猶予は無い。天井を斬り抜かれて落下した巨岩が、後方にでんと居座って道を塞いでいる。

 右足を狙う爪を避け、肩を上下させながら息を吸う。半ばまで肺を膨らました所で、次の爪は左右から頭を狙ってくる。伏せて身をかわし、自らの疲労を自覚する。呼吸の猶予さえ削り取られて、視界が酸欠で幾分か暗い。

 もう少し、もう少しだと自分に言い聞かせ、逆に蜘蛛の懐に飛び込んだ。長い脚を引き戻すまでの僅かな時間、村雨は防御を完全に忘れ、休息を取る事が出来る。決して長い時間では無いが、そうして息継ぎを繰り返す事で、辛うじて回避戦を継続出来ているのだ。さながら、底に足の着かぬ海での水練の様な状況と言えよう。


「ねえ、まだ!?」


 もう答えは無い。一つの事に集中してしまえば、周囲の環境など見えなくなるのがレオポルドだ。今の彼の首を落とそうと思えば、足音立てて近づいても可能だろう。蜘蛛の爪を届かせてしまえば、それまでだ。

 蜘蛛脚二本を身を反らせて避け、続く一本が振り下ろされたのを、側面に飛んでこれも回避。自分一人を守れば良いだけなら、村雨もまだまだ動けるだろう。だが、蜘蛛に自分だけを狙わせなければならないという条件を与えられて、心身の消耗は極度に激しい。


「――ッ!? った、あ……!」


 たった一撃だが、間合いを測り損ねた上に、後退する足が縺れた。右前腕を、蜘蛛の爪が掠める。浅くは無いが深くも無い、治療にも然程手間を要しない程度の傷である、が。


「……あ、ぁ……? しまった、これ――、は」


 女帝蜘蛛の脅威は、決して巨体だけでは無い。強くは無いが、幻覚作用を持つ毒が、かの蜘蛛の体には備わっている。本来なら牙から注入する毒だが、この老成した固体は、爪にも幻覚毒を備えているらしかった。

 床が急激に浮き上がる錯覚。直立が難しくなり、体が傾く。すかさず、胴を抉る軌道で放たれた四つの蜘蛛脚は――


「『Bala de canon』! ……ええい、余計な手間を掛けさせおって」


――それぞれが一つずつ、虚空に出現した鉄球に喰い止められていた。岩壁を削る爪が、この鉄球には通用しない。それもその筈、これはただの物質では無く、魔術によって生成された不壊の球体なのだ。


「『放ち』『叩き』『四散せしめよ』! このような陰気な空間に籠っている趣味は無いわ!!」


 鉄球――いや、砲弾。四つの砲弾はレオポルドの号令の元、直線的に射出される。目標は蜘蛛の胴体と、その上に鎮座する法師の体だ。

 村雨が蜘蛛の間合いから抜け出すのと入れ違いに、鉄球での殴打が始まる。蜘蛛脚は必至に防御を行おうとするが、それは鞭で矢を撃ち落とす様な物。とても、蜘蛛の知能で成し遂げられる技では無い。

 実際の大砲程の威力は無い。然しながら、重量と強度が有る物質を高速で打ちだす、それだけで十分、生物への効果は有る。目的は、前進を止めて押し返す事と、もう一つ。


「ふん――『砕け』っ!」


 後方、道を塞いでいる岩を、少しずつでも砕いて道を開く事であった。号令一下、鉄球の一つが、道を塞ぐ岩を打ち据える。大きな罅が入り、だが天井が崩落する様子は見られない。一先ず成功であろうか――と、思われた矢先である。


 ――ぴし、ぴし、ぴし。


「……あれ?」


 罅が入る音にしては、いやに長く続く音が、村雨の耳に飛び込んだ。音源は確実に、彼女の後方、道を塞ぐ岩である。

 何が何だか分からないがとにかく危ないと、直感で息を吸い直した次の瞬間――岩は向こう側から爆砕され、天井までを埋め尽くす大量の水が、村雨もレオポルドも化け蜘蛛も纏めて押し流した。






 過ぎてしまえば、ほんの一瞬の出来事である。だが、その一瞬の間に、水は坑道の子蜘蛛を、殆ど残さず外へと吐き出した。

 天井まで濡れて水の滴る坑道の中、桜はただ一人、暴力的なまでの水勢に耐え抜き立っていた。


「おい、無事か!?」


 答えは無い。桜の視界の範囲内に、生物は一つも見つからないのだ。黒太刀を鞘におさめ、引っ繰り返った蜘蛛を幾つか踏みつぶしながら、随分久しぶりな気がする日光を浴びる。

 軽く視線をめぐらせれば、まず最初に一人。ウルスラは、器用に坑道の入り口から横へ逸れ、大きく流されずに済んでいた。


「地獄、いけませんでしたね」


「逝きたかったのか?」


「いえ、全く。ところで、下着まで濡れて気持ち悪いのですが」


「我慢しろ、私に言われても困る」


 買い物を命じたり、夕食に呼びつけたりと言った日常と、まるで変わらない調子の答え。それを発するウルスラの手は、爪も皮膚もズタズタの、見るからに痛々しい姿と成り果てていた。桜は称賛の意を込め、ウルスラの頭に手を置いてやる。された方は結局、意図が理解できず、首を傾げただけであった。

 それからおもむろに、桜はおういと声を張り上げる。残り二人、何処まで流されたかも分からない。特にルシアは体が小さいのだから、水勢に逆らうなど出来はしないだろう。怪我など有れば子供の事、早く町へ戻したい。


「おーい、おらんのかー。隠れているならさっさと出てこーい……いる、のだよな?」


 が、呼べども呼べども返事が無い。まさか、と不安が頭を過る頃、がさ、と積もった枯れ枝が折れる音。


「ひぃ、腰が曲がるかと思ったわい……おう、手を貸せウワバミ娘」


 そちらに目をやれば、緩やかな傾斜になっている所を、ジョージが這って登ってくる所であった。どうも、坑道から流れ出る際、岩壁やら外の木やらに体を打ちつけた物と見える。服がところどころ破れて出血も見え、顔には大きな青痣が一つ。


「申し訳ありません、私の為に……大丈夫ですか? ああ、こっちも傷が、こっちも……」


 片一方、桜の懸念材料であったルシアは、掠り傷さえ見受けられなかった。頭からつま先までずぶぬれなのは、この場の誰も同じこと。あの水流の中、傷一つ負わずに切り抜けられたのは、ジョージが胸に抱きこんで庇ったからだろう。横に広く分厚い体は、盾とするには都合の良いものだったらしい。


「散々な格好ではないか、随分と頑張ったものだな?」


「格好を言うならお前こそ……なあに、ガキを助けるのが父親ってもんじゃい」


 体を起こすだけでもしんどい、と言わんばかりのほうほうの体だが、虚勢を張って立ち上がるジョージ。胸を拳で叩き、健在を主張し、咽た。


「申し訳ありません、私は貴方の娘ではありませんが」


「どこのガキだろうがガキはガキだわい、なあ?」


 謝罪の言葉が、もはや口癖と化している少女を、ジョージは大きな手で撫でてやる。桜がウルスラにしてやったのと似た動作だ。


「儂の息子も、嬢ちゃんと歳が近いのよ。人の親として放っておけんわなぁ、な?」


 大口を開けて作った笑みは、腰の痛みで不格好ではあったが、優しげでもある。笑いかけられてルシアは初めて、年齢相応に明るい笑みを見せながら、


「ありがとうございます、ジョージさん」


 やはり初めて、詫びではなく礼の言葉を口にした。


「……さて、行くぞ。水が何処まで流れ込んだか分からんが、村雨と――あー、なんだ、あの」


「レオポルド、な。覚えとらんのか、酷い話じゃのう……あた、あたたた、たぁ……」


 会話の途中ながら、既に桜は歩き始めていた。後を追うジョージは、痛みで動きが遅い為、一歩ごとに引き離されていく。


「無理に来なくとも構わんぞ、私は走る」


「おう、走れ走れ。のんびり歩いて追いつくわい」


「そうか、では」


 速度を合わせて行くなど、気が急いている桜には無理な話と互いに分かっている。簡潔な言葉の後には、土が抉れ飛んでの煙幕。桜は矢弾の様に、坑道の奥へと走り抜けていった。






「な……なんだったの、いきなり……助かったけど……」


 天も地もひっくり返して洗濯した後の様に、坑道は奥まで水浸しであった。そして当然の様に、中に取り残されていた二人も水浸しである。

 村雨は、壁の出っ張りに掴まって、水流に引きずり出されるのを防いでいた。あまりに突然の事ではあったが、溺れる程長い時間、水にさらされていた訳でも無い。息が切れているのは、やはり驚愕が大きな理由となるだろう。

 体力だの反射神経だのと恵まれている村雨からしてこの状態、もう一人は押して知るべし。ぎりぎりまで異変に気付かなかったレオポルドは、しこたま水を飲む羽目となっていた。、


「げっほ、げっほ、グエーッホ!! ……ぅおのれぇ……ゴホッ、何処の誰が、ガホッ、グッ」


「ああ喋らない落ち着いて、はい深呼吸、大丈夫? 息出来る?」


 気道の水を追い出す為に、盛大に咽返るレオポルドの背を、村雨はそっとさすってやる。咳が幾らか収まってくる頃には、外の方から足音も聞こえてきた。


「村雨、無事か!?」


「……この人が、無事じゃないみたい」


 砂利石を蹴り散らして現れた桜は、レオポルドが見えていないかの様に、村雨だけの安否を気遣った。つくづく薄情である。そして、村雨が無事であると認識した次には、更に数歩先に引っ繰り返っていた、化け物の巨体に目をやった。


「……おい、なんだこれは」


「分からない。けど……あの地主の言ってた、法師なんじゃないかな……」


 蜘蛛の体から、人間の上半身が生えている。全く異形の怪物だ。物事に動じぬ桜も、片目だけ見開いて驚嘆を示した。

 蜘蛛部分は岩壁に叩きつけられたのか、八つの脚を縮め、動かなくなっている。だが、人間の部品は、まだ生きて動いていた。


「ォオォォオオオ、オオォ――ィ、ナァ……」


 枯れ木の如き老腕で、濡れた石を掴み、体を引きずろうと足掻く。蜘蛛の巨体を動かす力など、法師の腕には無い。虚しく手を滑らせ、爪を割るだけだ。


「ォォオ、ォ――ィナ、アアァアァ――!」


 そして、何度も同じ言葉を繰り返す。そこに居合わせた他の人間が、まるで見えていないかの様に。


「……何を言っているか、分かるか?」


「雛、って言ってる。誰かの名前みたい……女の子?」


 言語の体を為さない音も多いが、村雨の耳ならば聞き取れる。法師は確かに、雛という名を繰り返し呼んでいたのだ。成人した女性には似つかわしく無い、幼い女子にだけ合いそうな響きの音だ。

 法師が何を思って旅に出て、何故ここに辿り着いたのかは知らない。だが、蜘蛛と溶け合ってまで生に縋りついた理由は、なんとなく桜にも分かる気がした。楽にしてやろうと、脇差に手を掛け――


「待て、サムライ娘」


 レオポルドが、銃身で、脇差の柄を抑えて抜刀を止めた。


「成程、貴様も娘が居たか。外に出られず道連れを欲して、畜生に落ちるとは愚かな事よ――」


「……え、あの、多分この人そんな事は考えていないというか」


 地面を引っ掻く法師を見下ろし、レオポルドは大きく的を外した怒りを見せる。あまりのずれかたに、村雨が思わず、法師の弁護に入る程だ。


「――だが、父親ならば尚更気に入らんわ愚か者が! 娘から離れて歩くなど言語道断、まして私とルシアを巻き込むな! 他人の子ならどうなっても良いと思うたか!」


 その怒りは、まるで見当外れである。娘から目を放したのは自分も同様であるし、一向を捕食しようとしたのは蜘蛛の意思。法師の人格には、何れの咎を負わせる事も出来ない筈だ。

 然し、レオポルドは父親である。娘を溺愛し、その為ならば世界がどうなろうと知った事ではないと言い切るだろう、盲目の愛を注ぐ父親である。なればこそ、同じく父親であろう者に、斯様な害意を向けられたのが――それが誤解でも――我慢ならなかったのだ。

 天井を這う蜘蛛を射殺した際と同じ様に、弾倉が空になった銃を、振り向かずに後方に投げる。到達地点には過たず、遅れて追いついたルシアが居た。彼女の小さな手が、反射的に銃を受け取ろうとするが、寸前でジョージの太い指が掻っ攫う。


「こういう事はなぁ、ガキにやらせちゃいかんわい。分かっとるだろう、なぁ?」


 ルシアの鞄から抜き取ったらしい『カートリッジ』を、淀みなく銃に装填し、投げ返す。


「……ふん、言われなくとも」


「なら良いさ。撃ってやれい、百年もすりゃ娘も死んでるわい。上でまた合わせてやれ」


 法師の眉間に、レオポルドは銃口を向ける。耐水性の高い『カートリッジ』に、単純だが耐久性の高い銃身、射撃を阻害する何者も無い。

 誰も祈りを捧げない。ルシアはジョージの手で目隠しされ、村雨は自ら目を逸らし。そしてウルスラは、そっと右手で十字を切って、法師の妄執が潰えるのを見届けた。






 翌日、蒸し暑くも空は不機嫌に鉛色。何時降り出すか分からない天候の中、桜と村雨はのんびりと歩いていた。一歩離れてウルスラは、今日は珍しく姿を現したまま歩いている。両手とも包帯が巻き付けられて、食事にも不便しそうな姿である。


「結局、地主から幾ら絞り取ったのですか?」


「んん? 人聞きの悪い事を言うな、それでは私が恐喝犯の様ではないか。……まあ、小見世なら一月は通い詰められるな」


「七か八両ですか、あこぎですね」


 坑道に、山一つ食いつぶすだけの化け蜘蛛の群れが居ると知りながら、敢えて餌にするべく桜達を送り出した地主。あまつさえ人を雇って坑道の入り口を塞いだのだ。悪党なら兎も角小心者、罪悪感は多大にある。そこに桜が現れたのだから、地主の怯え様は尋常では無かった。

 そして、桜は悪党である。慣れた手口で地主を脅し、自分の強さをチラ付かせ、まんまと大金をせしめる事に成功した。どうやらこの金子は、遊興費として使い潰してしまうつもりで居るらしい。宵越しの金を持たないのは江戸者だが、二年程度の生活で、江戸の慣習は骨身に染み付いている様である。


「金は天下の回りもの、蔵に溜め込むよりは、私が回した方がよかろうよ。なあ、村雨?」


「んー……そうだね。別にいいんじゃない?」


 答えた声は、いやに気が入っていない。心ここにあらず、という様がひしひしと感じられる。


「どうした、村雨。お前ならば、無駄遣いするなーとか、私の他に女と遊ぶなーとか……」


「後者は絶対に言わない、絶対に、絶対に。……そうじゃなくて、レオポルドとジョージの事」


 からかいを律儀に否定する所は、普段の彼女である。安心したように、また得心がいった様に、桜は深く頷いた。

 ジョージは結局、坑道の接収は諦め、商談だけ済ませて国に戻る事にしたらしい。一方でレオポルドは、今回の件で地主を脅し――桜と同じ席で、二人掛かりでの恐喝である――山の売買を認めさせた。こちらは暫く浜松に滞在した後、やはり商談に向かうつもりのようだった。

 銃器メーカーが商談で何を売るのか、聞かずとも分かる事。人を殺す事に特化して作られた兵器、銃だ。指先の動きだけで人を殺す、子供でも鍛え上げた達人を容易く殺す、容赦慈悲無く無感動に人を殺す凶器だ。銃の恐怖は知っていたが、村雨はこの件で改めて――法師の頭蓋を打ち抜いた銃弾を以て――殺人兵器への恐れを強く抱いた。


「……二人ともさ、普通の人なんだよね。いや、レオポルドはちょっと短気すぎるけど、あの二人はどっちも、普通のお父さんに見えたのに。なんで表情も変えないで、人を――人だったものを、撃てるんだろ」


 だが、それ以上に怖かったのは、それを作り販売する人間だ。短気だが娘思いのレオポルド、豪放にして義心有りのジョージ、何れも村雨の目には、悪人とは映らなかった。なのに、彼らが作っているのは、これからも開発を続けるのは、より効率的に殺す為の武器なのだ。


「あの時は、あれで良いのだろうさ。あ奴らが情けをかけぬなら、どの道私が首を落としていた。百年も前に死んだ人間が、何かの間違いでまだ動いていただけの事。お前が思い悩むには当たらんよ」


「……かな」


 理屈では村雨も理解していた。法師は、放置してもやがては死んだだろう。苦痛の時間を引き延ばすよりは、いっそその瞬間に。あの時は、殺してやるのが、彼への最大の温情であった。

 それでも、射殺の瞬間を、村雨は直視出来なかった。頭蓋から飛び出す脳漿を恐れたのではない。人が人を殺す、その行為を見たくなかったのだ。普通である筈の――桜の様に、破綻した精神を持たない筈の――人間が、人間を殺す様を見たくなかったのだ。

 別れ際、何故に銃を作って売るのかと、村雨は二人に問うた。ジョージは、新大陸の開拓の為だと答える。レオポルドは鼻で笑い、当たり前の事を聞くなと言い捨てた。二人とも、堂々とした態度であった。


「ねえ、桜」


「ん、どうした?」


 薄暗いが、まだ雨は降り始めない空。首を上げて眺めながら、村雨は尋ねる。


「自分のせいで誰かが死ぬって、そんなに気にならない事なの?」


「さあな、私は気にならんよ」


 桜は、右目だけを閉じて、瞼を指先で引っ掻きながら答える。


「あの銃という武器は凄いな。魔術は人の防御力を高めたが、銃はその防御を軽く上回る。これから戦争など有れば、私が背負っている様な刀など、かさばるばかりで使う者はいなくなるだろう。一人で何人も何人も、僅かな修練で殺せるようになる。あの二人はおそらく、世界最悪の人殺しと言われような……もしかしたら、もう呼ばれているのかも知れん」


 人を殺せる道具を作った者は、果たして人殺しなのだろうか。自らの見解は語らないが、世間はそう受け取るだろうと、桜は思っている。事実、村雨の思考も、似た様な形に終着しているのだ。


「ようするに、だ。あ奴ら既に、殺しを思い悩む段階など通り過ぎているのだ。一人殺して嘔吐し、二人殺して悪夢にのたうち、三人殺して止まらぬ震えを抑え込み、四人目からは数える事も億劫になる。十人、二十人と重ねるにつれ、犬猫を殺すと大差無く、人を殺せるようになる。存外、人は何事にも慣れるものでな」


 瞼を掻く人差し指を親指と中指も合わせ折りたたむ。曲がった三本の指を暫く見つめ、手を開き、また三本だけ畳む。次の宿場への道中、桜の指はずっと、三から先を数えられぬままであった。






 これは後の話となるのだが、ジョージ・ギブソンとG・G・Fギブソンズ・ガン・ファイヤーワークスは桜の予想に反し、新大陸開拓の貢献者と讃えられる事になる。自由と新しさを愛する新大陸への移住者達は、身を守る武器として、開拓精神の象徴として、無骨で分厚い拳銃を買い求めた。他者製品との規格統一も推し進めた結果、GGFの拳銃は、世界の誰もが行使出来る〝自由への意思力〟となる。

 L・Bルシア・バラーダもまた、高い品質と安全性、そして大量生産が可能な工場の多数所有という利点を以て、世界最大の銃器メーカーとして長く君臨する――が、ただ一人、レオポルドだけは、その身に悪名を背負う事となった。

 常に最大効率の殺傷力を銃弾に求め、銃身に求め――つまり、人を殺す方法を常に想定し続け。銃の重さも、グリップの形状も、非力な者でも扱えるようにと改良を続け――つまり、誰もが人を殺せるようにと苦心を続け。如何に小さな紛争であったとしても、そこには必ず、LBの刻印を鋼の体に刻んだ銃が存在した。銃弾に体を抉られ、家族を奪われた者達は、殺戮効率を追求し続けた彼を、決して許そうとはしなかったのだ。

 人を殺す為に作られた刃物は、やがて調理や医療行為の為に、人の命を守る為に使われる様に変わっていった。では、拳銃は、その様に変われるのだろうか?

 後年、とある新聞記者にそう尋ねられたレオポルドは、やはり鼻で笑い、己の工房に入っていったという。


 温暖湿潤、鉛色の空、服は生乾きだが体調良好。一向はもうじき、舞坂宿に辿り着く。

 体に染みついた硝煙の香りが煩わしくて、村雨は鼻を摘んで顔をしかめた。

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