最初のお話(4)
「おーい、起きろー。日が沈むぞー」
体が揺さぶられている。頭がぐうんぐうんと振り回されているせいで、眠気が一秒刻みで薄れていく。心地よい眠りから引き上げられる。目を擦りながらも、瞼を開けた。
「んー……んあ、ここ何処……?」
村雨は、山のふもとに居た。太陽は大きく傾いて、茜色の光で田畑を照らしている。先程までは確か、日中だったような気がしたが。
奇妙に思ったが、それよりもおかしいと思ったのは、自分が誰かに背負われていた事だった。先程の揺れは、子供をあやすようにされたものらしい。
「やっと起きたか、手間を掛けさせおって。次は顔をひっ叩こうかと思っていたところだぞ?」
「あ……!」
自分を背負っていたのが桜だと、気付くのに時間は掛からない。目の前に広がった黒の色だけで、そうと知るには十分だった。離れようとしたが、足は地面を踏みつけていない。膝から先がじたばたと暴れるだけで、体の位置は変わらなかった。
「……降ろしてよ」
「構わんぞ。もう十分に連れ回した」
「はあ?」
桜が抱えていた脚を離すと、村雨は跳ねるようにして距離を取る。無愛想、ふくれ面、可愛げの無い顔である。
「案内をしろ、お前でなくては道が分からん。あの洞窟だ」
「どういう事?」
「ああいう事だ、ほれ。同心の詰所まで出向いてな、岡っ引き連中を借りてきたのだ」
桜が指を指した方向、山の入り口には、いずれ劣らぬ人相の悪い連中が、房のつかない十手を持って集まっていた。どいつもこいつも、脛に傷のありそうな身。上は四十前後、下はまだ十代だろうか、年齢層も様々である。
「中々気前の良い同心だった、あれは出世するな……とそれはどうでもよいか」
「…………あんたは、さ」
「ん?」
夏の日は長いが、それも限度がある。盗賊を縛り上げた洞窟まで戻ろうと歩きだした桜に対し、桜は険しい表情を変えない侭、歩を進めようとしない。両手をぎゅっと握って、根を張ったように立っていた。
「……どーいうつもりよ! あんな、あんな……酷い事して!」
「ん、酷いか? 可能な限り優しくしたつもりではあるのだが」
「どこがよ!? あんな目に遭わされたの初めてだよ!」
「ほう、初物か……それはそれは、運が良かった。悪くはなかっただろう?」
「この……!」
あんまりに軽い口調で返されて、殴りかかる機を逃し、拳を振り上げたはいいがやり場がない。そんな訳あるかと言いきって、頬でも鼻でも殴ってやればよかったのだろうか。
「やれ、そう怒るな。私も苦労したのだぞ? その服を洗って、お前を担いで山を下りて、そのまま同心の詰所へ行き、お前を背負ったまま人を借り受ける算段を……」
「全部あんたが原因でしょうが……――待て、待った、待って。服?」
怒りやら何やら整理のつかない感情で頭が煮えていた村雨だが、急に冷静になり、目を自分の服へ向けた。返り血を浴びた桜に抱きかかえられ、上下とも血にまみれていた筈の衣服は、少なくともあの時より赤が薄くなっている。
成程、川の水で手荒いでも、そこそこには汚れを落とせたのだろう。夏のこと故、服は直ぐに乾く。湿っぽさもなく、仄かに残る血の香りの他は不快さもない。少々の皺は、まあ仕方がないと目を瞑れる事だ。
が、肝心なのは服に汚れが残ってしまった事ではなく、『服を洗う為に必要な行為』である。
「あ、あ、ああ、あんたひょっとして」
「うむ、身は引き締まっているが痩せ過ぎだな。もう少し太れ、抱き心地が悪い」
「―――っ、このバカーッ! 三回くらいくたばっちまえー!!」
自分が『引っぺがされた』と知って、頭が沸点を軽く突破した村雨は、子供の様に腕を振り回して桜に殴りかかった―――全部、軽く受け止められているのだが。
「あの~……すいません、姐さんにお嬢さん」
二十回程も拳を振るって村雨の息が上がってきた頃、見るに見かねたか、岡っ引きの集団から一人、腰の低い少年がやってきた。
「お楽しみの所まっこと申し訳ねえんですが、あたしらも日が沈むまでに山は降りたいんでさ。出来れば、そろそろ案内をしていただきたく……」
「あ、うん……ごめんなさい」
しきりに頭を下げながら、そして少々ずれた気遣いをしながらも、本当にすまなそうな声、表情。反射的に詫びてしまった村雨の背を、桜の無遠慮な手が叩く。
「よおし、さっさと行くか。何処かのねぼすけのせいで時間を喰ったからな」
「あんたはちょっとは悪びれろこのやろー!」
その日、『久賀の山猿』―――盗賊集団・構成員十三名は、町方同心傘原平三郎の手の者に捉えられる。うち五名は既に死んでいたが、のこり八名への厳しい取り調べの末、悪事の数々が露見―――のち、市中引き回しの末に打ち首獄門となった。
盗賊団の隠れ家を見つけ、同心に伝えた『善意ある町人二人』については、当人達の希望も有って内密に、だが丁寧に謝礼が支払われたという。
人の噂は七十五日、生き馬の目を抜く江戸じゃあその半分も持つかどうか。『久賀の山猿』の名も、一月も後には忘れられているのだろう。
結局、日付が変わってしまった。盗賊を抱えて山を降り、詰め所では形式的という事で事情聴取を受けた。
何故、見つけた。あの死体は何か。その他もろもろ、一般的には被疑者にでも聞きそうな事まで。疑いが完全に晴れたころにはもう夜で、そこから一転して感謝と歓迎の攻勢を受けたのだ。凶悪な盗賊をお縄に掛けたのだから、一夜くらいは羽目を外しても良いだろうとの、傘原同心の心遣いである。
「おーい、酒が足りんぞー、ついで回れー! ああ、そこのお前は駄目だむさくるしい、そこの娘が来い」
「……なんで私達までこんな場所に」
宴会騒ぎに集まっているのは、どれも岡っ引きや目明し――正式に役人として抱えられている訳ではない、町人や犯罪者崩ればかり。そいつらに混ざって、一番上等の席を占領した桜は、同心の娘に酒を注がせていた。
居心地が悪いのは村雨である。あまり酒は飲めないし、周りは知らない顔ばかり。
「そこの嬢ちゃん、一杯やんな!」
「あ、ありがとー……んく、んく……っぷはー!」
「こっちにゃ兎もあるぜ、秘伝のタレでガッツリ焼いてある」
「美味しー、取ってきたの? ちょっと生なのがいいね」
「おいおい、生肉を喰うなよ嬢ちゃん……」
それでも、根が明るい性格ではあり、声を掛ければ愛想を振りまき、酒食を勧められれば断りもしない。本人の内心とは裏腹に、ごつい男たちに馴染んでしまっていた。気付けば村雨の前には、空になった皿が積み上げられている。
「まさか一日で解決するとは思わなかったのでなあ、今日は宿に戻らん予定でいたのだ。いっそ朝まで飲み明かそう」
「絶対二日酔いになるからやだ。私はご飯だけ食べる」
言った先から、別な岡っ引きが酒を持ってくる。猪口に注がせ、一口で飲み干し、また注がせ、飲み……
「そうは言うが、もう随分飲んでいるではないか。顔も赤いぞ」
「酔ってないよ。ぜーんぜん酔ってません。ご飯おかわりー」
空になった茶碗を、飯盛り当番にされた不運な男へ。すぐに山盛りの白米が返り、みるみる内に平らげていく。
「……待て。お前、箸を噛み砕いているぞ」
水のように酒を飲む桜は、がじがじと何かをへし折る様な音を聞いた。見てみれば、村雨が箸の先を口に入れ、いともたやすくへし折り、紙の様に平たくなるまで噛み潰していたのだった。
「酔わなくてやってられますかー、もっと注げー! 桜のあほー!」
「誰が阿呆だ馬鹿」
「うるせーこの鬼ー、悪魔ー、強姦魔ー」
「まだそこまではしとらんわ、嫌いではないが」
「乙女の純情を弄ぶとは、およよ……」
差しだされる酒を一切断らず飲み続ければ、飲みなれていない者が潰れるのに、そう時間は掛からない。酔っ払い特有の聞き取り難い声で騒ぐ村雨を、桜は呆れたようにいなしている。
「責任とれこのばかー、人でなしー! せきにんー!」
「……お前、後で飲んだ事を後悔する性質だな?」
「いいじゃねえですか、何をしでかしたかは知りませんが。それも男の、いや女の甲斐性でしょう?」
「そっちもそっちで煽るな」
周りの岡っ引き連中も、程良く酔って上機嫌。二人の会話を聞いて無駄に盛り上がっている者もちらほら見受けられる。火に酒という燃料を注ぐ奴がいたせいで、愈々酔っ払いの管巻きは限度を超えて、
「ぅー……さくらのばかー……」
「……まあ、こうなるだろうなあ。お前ら、飲ませすぎだ」
「はは、すいません、いい飲みっぷりだったもんで」
ぺしゃ、と畳の上に、うつ伏せに潰れてしまった。茹でたタコの様な顔色になった村雨は、もう物が見えているのかどうかすら定かではない。
「……はあ。誰か布団でも敷いてやってくれ。私は出かける」
「おや、どちらに?」
「頼まれたものを返しに行く。少し遠いかもな」
「へえ、ならば提灯と供をします」
「すまんな、礼を言うぞ」
酒を注いでまわっていた同心の娘が、村雨を引っ張って隣の部屋へ運んでいく。おそらくはそこで寝かせるつもりなのだろう。
寝て起きて、数刻で酔いつぶれて。一日の半分も目を覚ましていないではないかと、桜は思わず吹きだした。
「……ぅあー、頭ががんがんする……」
結局村雨は朝方目を醒まし、桜の伝言を受けて、『錆釘』へ戻った。所属する者の為、仮眠を取る為の部屋はある。そこで横になり、頭痛が収まるまで待とうとした。
伝言の内容は、『これで仕事は終わりだ』である。仕事の完了、すなわち契約の終了。あの傍若無人の女を、雇用主と呼ぶ必要はなくなったのだ。
今頃はもう、取り返した刀をあの家に届け、また宿の二階で堕落した生活でも送っている事だろう。そういえば、刀を盗まれたという母子にはついぞ会わず仕舞いだった。
僅か半日ばかりの付き合いで、良い思い出は特にない。最後の方など、そもそも記憶すら定かではない。明らかに飲み過ぎた。次の仕事の為に、頭を切り替えなければならない。仰向けになり、皺と赤色の残ったシャツを、着たまま手で伸ばそうとする。
やっと終わった、すっぱりと忘れよう、忘れたい。出来るなら頭の中身を真っ白に塗りつぶしたい。ばりばりと髪を掻き毟ったら、頭痛が少し増した気がしたので止める。二日酔いの辛さまであの女のせいではないかと、理不尽な八つ当たりもしたくなった。
受付の方では、おかみさんと誰かが話している様だ。
大方、料金の支払いだろう、と村雨は思った。開国以来、この国には銀行というものができた。大金を持ち歩かずとも、高額の取引が簡単に行える。おかみさんが騒いでいるのは、きっと大口の雇用が来たからだ。十人とか二十人とか、もしくは十日単位で一人貸せ、とか。
「ちょっと、村雨ちゃん! 出ておいでな! ちょっと!」
「……ぅうー、頭に響く……聞こえてるからー……」
横になったばかりでまた立ちあがり、受付へ。おかみさんは、一枚の証文から、熱心に何枚も写しを作っているところだった。
「んー、何? 私、戻ってきたばっかりなんだけど……」
「お仕事だよ、あんたをご指名だ! 驚いたねえ、どこのお大尽様を捕まえてきたんだい? 大儲けだよあんた!」
「……あー、聞きたくない」
回れ右をして逃げようとする。がっしりと襟を掴まれ引き戻された。
「あたしらも長いことやってるから、いろんなお客さんは見たさ。だがねぇ、個人でまさか、一人を二年借りうけようなんて事をする人は初めてさ。良くやったよ、長期就業手当やらなにやらでがっぽがっぽ……」
「おかみさーん。私、すっごく嫌な予感がしてるんだけどなー」
「そうかい、あたしからすりゃ良い事尽くめさ。ほれ、辞令だ、ちゃんと読んでおきな」
おかみさんは白墨で、壁に掛けられた板にさらさらと字を書きこんでいく。その内容は、曰く―――『期間:二年』『業務内容:身の回りの世話等』『特記事項:無し』。中々端的な辞令である。村雨の抱いた悪い予感は、尚更膨れ上がる。
『雇用者連絡先:品川宿達磨屋二階』―――たった今終わらせた仕事と、まったく同じ場所。
「料金は全額前払いで頂いてるんだ、しっかり働いてきな!」
「……そ、そんな―――」
そんな馬鹿な。言い切る前に、村雨は外へ出て、体の重さも忘れて走り始めていた。
この内容の契約なら自分もかなりの収入を得るとか、長期就労に当たって『錆釘』に証明書の発行を要求しなくてはとか、考える事は多々あった。が、今はこれを問い詰めなければならない。
「おお、早かったな。説明はもういらんぞ、前ので十分だ」
「……どうしてこうなるのよ」
果たして、達磨屋の二階には、雪月桜が滞在していた。遊女高松の膝を枕にし、浮世草子など片手に読んでいた。村雨の二日酔いの苦労も知らず、昨日と全く変わらぬ生き生きとした面である。
「あれで仕事は終わりでしょ?これ以上、私になんの用事があるのさ?」
「幾らでもあるだろう? 旅は道連れ世は情け、あと数日で江戸を立つ。一人旅は寂しかろうさ、なあ?」
「旅……」
江戸を立つ、と桜は言った。村雨を雇ったのは宿の部屋ではなく、目の前の女だという事も理解している。つまり、この女が付いてこいと言ったのなら、村雨は問答無用で連れ回される事となり、
「……やだ、帰る」
「あのおかみは話が分かる人物だな? どうしてもお前をと頼み込んだら、快く引き受けてくれた。少しばかり多めの請求だった事も、まあ気にするまい」
『錆釘』も商売である以上、大口の顧客は逃がそうとするまい。ましてあのおかみさんはやり手である、受け取ってしまった金を返すような事、認める筈がない。仮に認めさせようとするならば、その時は村雨が職を失う覚悟すら必要になる―――。
「私はな、欲しいものは我慢せんのだ。美酒も美食も、美少女も、な」
こうして『錆釘』の探し物屋、村雨は、雪月桜に買い上げられたのである。