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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
東海道中女膝栗毛
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赤い壁のお話(12)

 翌日の事。役人に智江を引き渡した桜達は、宿を変えて体を休めていた。元の宿は黒焦げの炭となり、屋根すら無くなってしまっていたからだ。

 桜は睡眠不足に空腹、疲労の三重苦、今日一日は部屋に籠るらしい。ウルスラは街の様子に興味を持ったのか、夕暮れまで散歩してくると言い残し、ふらりと何処かへ出て行った。そうなると退屈で仕方が無いのが、負傷も殆ど無い村雨である。

 次の宿場の事でも調べておこうか、それとも道中の携行品でも買い足そうか。いずれにせよ、からりと晴れた良い日だ。表に出ると、風が雪原の臭いを運んできた――言うまでも無いが今は八月、夏の真っ盛りである。


「あ、葛桐……えーと、あっちかな」


 生き物には種族に固有の臭いがあり、村雨に言わせるならば、クズリは『雪原の臭い』なのだ。人が混ざって薄れていても、こう特徴的な体臭であれば間違いはしない。

 果たして村雨は鼻が示す通り、葛桐が茶屋の店先で、団子を食べている所を見つけた。向こうも気付いているらしく、帽子の下から鋭い目を向けてくる。


「や、もう行くの?」


「観光じゃねえからな、ここじゃ稼げねえ。最近の京はヤベえと聞いた、金の臭いがする」


「あはは、一貫してるねー……」


 店先に腰掛けたままでも、葛桐の長身は、直立している村雨と然程変わらない。ほんの僅かだけ、村雨が腰を折り、目線の高さを合わせる。あまり良くない話を聞いた気がして、眉を顰めた。


「表立っては……まあ、大した事ねえらしいがな。幕府側が大量に武器を掻き集めてると聞いた。攻め込むのか攻めて来るんだかは知らねえが、まさか稲刈りに使う訳じゃねえだろう」


「武器って……なんで今更? よりによって天皇みかどのおひざ元で……?」


 団子の串を楊枝の様に咥え、相変わらず重い声で、ぼそぼそと葛桐は話す。その内容は、村雨にはついぞ聞き覚えの無い事であった。

 旅に出て此の方、あまり情報集めに力は入れていない――が、少なくとも出立前に、『錆釘』の情報屋から、京の様子はある程度聞き出していた。その時には、この様な物騒な噂など無かった筈だが。


「……どこで聞いたの?」


「馬借が運んでた荷から、火薬の臭いがした。あまり褒められた品じゃねえ、脅しを掛けたら吐いた」


 鉄砲の一丁たりと江戸に持ちこんではならない、という時代はとうに過ぎ去ったが、やはり今も、鉄砲という最新兵器は、厳重に売買に規制が掛けられている。幕府が――いや、その上に立つ政治機構、『日本政府』が――厳しく目を光らせている危険物を、大量に西に運ぶその理由。村雨にも、やはり多くは見つけられない。


「暫くは静かなもんだろうがよ、長くは留まらねえ方が良いぞ。さっさと行って、さっさと家に帰っちまえ」


 茶をくうと飲み干し、葛桐は勘定を済ませて立ち上がった。横に立つと、やはり威圧感が尋常でない男だ。襟を立てた外套に鍔広の帽子と、炎天下にはとてもそぐわない格好は、これからも続けていくらしい。

 村雨は、少しだけ葛桐の境遇に、寂しさを覚えた。自分と同じ、この国では忌み嫌われる種族でありながら、葛桐は姿を隠す手段を、変装以外に持ち合せていないのだ。人の心の持ち様が変わるまで、十年や十五年では足りるまい。人より短い寿命の半分以上を、差別を受けながら生きる事になるのだろうか。


「ねえ、大陸には渡らないの?」


「あぁ?」


 極東を離れれば、むしろ亜人は、その能力故に重宝される。葛桐程の怪力であれば、それこそ引く手数多で金には困るまい。

 自分自身が、人に紛れ込む事に長けた人狼であるからこそ、化けられない葛桐の境遇を哀れに思い、また無為に力を殺す事になると考えてしまう。より良い生き方は、いくらでも見つけられるだろうに、と。


「……向こうじゃ花見が出来ねえだろうが」


 葛桐は、たったそれだけ答えた。あまりにもあっさりとした、重さの無い答えであった。

 だから、村雨もそれ以上、余計な事は言えなかった。頷き、歩き去ろうとする葛桐の背を見送り――


「あ、待って!」


 ふと、一つばかり思いついた事があった。懐から一枚の紙を取り出し、指先を軽く噛み切り、血で判を押す。軽く仰いで乾かし、畳んで葛桐に押し付けた。


「はい、これ」


「なんだこりゃ?」


 寄こされた紙を開いてみると、こまごまとした文字が並んでいて、読むのが億劫になる。畳み直して訪ねてみれば、村雨は自分の思いつきに、この上も無く満足気な表情をしていた。


「『錆釘』への紹介状。京都に行くんでしょ? だったら、そこの受付の人にでも渡せば、割と簡単に話は進むと思う」


 に、と白い歯を見せる笑い。口内の歯列は、人の物から形を変えて、イヌ科生物の牙へと変化している。村雨が人の街で、この姿を見せたのは、ここ二年ばかりでは初めての事であった。


「……給金は?」


「悪くは無いよ。読みたいと思った本は買えるし、小腹がすいた時に焼き餅を買うのに躊躇しなくて良い。大きめの仕事が有ったら、次の月は結構楽に過ごせるね」


 暫し葛桐は、視線を空に飛ばし、思案顔を見せていた――が、この話の旨味を十分に理解したらしい。良しと答える代わりに深々と頷き、


「乗った。気が聞くじゃねえか、村雨」


 野良犬が尾を腹に巻きかねない、鬼の様な裂け口の笑みを、葛桐は作ってみせた。彼が笑ったのを見たのは、この時が初めてだった。

 人混みに紛れても、頭一つ飛び出している葛桐はかなり目立つ。その姿が消えてしまう前に、村雨もまた、自分の買い物を済ませる為に歩きだしていた。獣二匹、生きていれば何処かで出会うだろう。長々と言葉を交わす必要は、何処にも存在しないのだった。






「表を上げい」


 田中城城下町、藤枝宿の奉行所はこの日、槍持ちと封術者達が醸す、物々しい気配に包まれていた。奉行、本郷ほんごう 光成みつなりもまた、僅かな緊張を多大な威厳に隠していた。

 光成の言葉に顔を上げたのは、二人の女である。砂利に敷いた筵に跪いていた女の、片方は、右前腕が中程から切り落とされていた。


「欧人、杉根すぎね 智江ちえ、並びにサーヤ。化け物を使役し、蓬莱屋にて三名を殺害した。相違無いな?」


 光成は、右手に持った扇子を智江に向け、その罪状を問う


「相違はございません。が、不足なら多々ございますねぇ」


 捌きの場に引き出された魔術師の女は、まるで恐れ入った様子も無く、微笑みながら言葉を返した。


「ほう、不足とな? 申せい、何が足りぬ」


「数でございます。この度の一件で三人、まではまず正解。然しながらそれ以前、江戸の街にて同様に二名を殺害しております。また、あの化け物の材料は人間。あれも合計で六が死にました。これも私の罪状と数え上げるに、異論など無いと思いますが?」


 場に控える与力、同心達に、ざわめきが立つ。己の悪行にしらを切る者なら幾らでも見てきたし、馬鹿正直に平伏して、罪を認める者もまた居る。だが、自分の罪を誇るかの様に並び立てる悪党は、これはそう見られるものではない。


「果ては、あの『人工亜人』を完成させるまで、重ねた失敗は十数余名。この国を訪れて日は浅くとも、合計で三十以上は殺害を済ませております。誘拐、放火、窃盗、婦女への暴行、詐欺に恐喝、美人局。大概の悪事は楽しみました、御調べがどうにもぬるい様で――」


「黙れ、余計な口を叩くでないわ。……しからばその方等、無辜の民を傷つけ苦しめ、悪逆非道の限りを尽くした罪は重い。市中引き回しの末、鋸挽を申しつける」


 光成は、この捌きは早く済ませるに限ると、急ぎ足で刑を告げた。これ以上、この女の口が動く事は、許してはならぬと感じたからである。

 人の罪を捌き、或る時は命をも奪う役職に居るこの男は、堅物ながら正義感に満ちていた。己の悪を矜持とする者の存在を、部下達に長々と見せる事が、光成には耐え難かったのだ。


「……ひったてい。馬上にて晒し、江戸まで運べ。執行は江戸にて行うものと――」


「おそれながら、お奉行」


 同心に脇を抱えられながら、智江は失った方の腕を光成に向ける。場の者の汗も引く程に、冷え切った声であった。


「捕えられてより今まで、大人しくはしておりましたが……どうにも貴方達、魔術師の扱いが下手な様ですねえ。魔術封じの結界を張るのは良い、術者を複数集めて崩されないようにするのも良い――が、一人一人が下手糞に過ぎるんですよ」


 庭の木に雷が落ちた様な、轟音が奉行所の内に鳴り響いた。智江に触れていた同心二名は、何れもが泡を吹いて、仰向けに倒れ込んだ。体内の電流を極度に増幅させ、触れた者を感電させる攻性魔術。光成を除いた全ての役人が、刀を、或いは槍を構えた。

 罪人の逃亡を許さぬ為に、お白州には、魔術を封じる事に長けた『封術師』が控えている。常ならば三名も居れば足りる所を、凶悪犯を捌く場だという事で、十人は動員していたのだ。彼らの作る結界の中では、魔術を発動する事はおろか、魔力を体に集める事さえ不可能である筈だった。


「……何を望むか」


 この場に控える総員で望むならば、智江を処刑する事は可能だろう。然し、犠牲は相応に払う事になる。十人がかりでも魔術を封じる事の出来ない相手――本物の、格の違う魔術師を一人殺すのは、刀を持った賊徒の二十人よりも厄介なのだ。

 だが、同時に光成は、この女の考えが分からなくなった。逃亡を図るのであれば、ここに引き出された時点で失敗だ。牢に入れられて直ぐ、または、役人の手に引き渡されたその瞬間、決行すべきだろう。

 敢えて、この場に出る事を望んだのならば――それはつまり、奉行に何事か述べようという企てであろうか。


「この国は弱い。魔術の理解度は薄く、また練兵の程も兵装も、列強と比べれば悲しくなる程に貧弱です。そりゃあ今の世の中、侵略戦争なんてのは流行りませんがねぇ。ちょいと何処かが本気を出せば、この国は藁の様に吹き飛ぶんだ。勤勉な国民性は買いますが、しかし追いつくには……あと、二十年くらいは掛かるんじゃあないですか?」


 もはや、往生際の良さなどかなぐり捨てて、智江は本性を露わにした。連なる早口は、そうせんと念じなければ聞き取るにも支障を来す程であったが、光成は何とか、一語と落とさず耳に入れた。


「……私ならそれを、五年は縮められる。どんな貧弱な男でも、腕一つで人間の首を落とす――そう、亜人の力を持たせて魅せましょう。魔術もそう、和洋ごちゃまぜの体系を一度整理し、新たに専門の学問所を設立する事を提案します。欧州でも受けられない世界最高峰の教育、私ならこの国の言語で披露出来ますよ?」


 智江の語る内容は、下級役人達からすれば、命惜しさの戯言でしかない。国だ何だと言い出す誇大妄想を、真面目に聞き入れる理由は無い。直ぐにでも、江戸まで運ばずこの場での処刑が最善手と感じられた。

 然し、光成は、その戯言にも一片の理を見出していた。諸外国よりの訪問者とも接する機会が多かった彼は、自国の劣等を肌で感じる機会も、また多かったのである。そして今また、自国の術者の無能を、己の目で見せられたばかりだ。


「五年、私に与えなさい。これからは、誰を殺さずとも続けられるくらいにまで、研究は進んでいます。どうしてもと望みますなら、明日までにまず一つ、私の技術力をお見せしましょう。さて、如何に?」




「ねえ、桜。あの時、本当はもう、殺すつもりは無かったよね……?」


「ん、やはり分かるか? そうだな、その通りだ」


 買い物も済ませ、宿の畳の上で、村雨はうつ伏せにへたばっていた。兎角、屋外も屋内も暑いのである。その横では桜が、黒の襦袢一枚で仰向けになっていた。


「……なんで? いや、良い事だよ。これからも、ああしてくれればいいんだけど……ほら、なんとなくね」


 村雨が桜を制止した時、既に桜は、脇差を振り下ろせる間合いに居た。本当に殺意が有ったのなら、あの場で腕を振り下ろすだけで良かった筈だ。そうしなかったのは、村雨には喜ばしい事でも有ったが――やはり、本心が分からねば気にはなるのだ。仏心が芽生えたのだとしたら、諸手を上げて歓迎せねばなるまい。


「私はな、あんな女と心中するのは御免だ」


 寝返りを一度、桜がうつ伏せになり、村雨の頭の側に移動する。首を上に向ければ、その顔は、苦々しさと愉悦が五分ずつという奇妙な物になっていた。


「殺そうと思えば殺せた。心中とは言ったが、私が死ぬ事も有るまい……が、手足のどれかは持っていかれる、それでは大損ではないか」


 桜は、杉根 智江という女に、今も激しい怒りを抱いている。だが一方で、何かねじれた友誼の様な――同調、共感の様な感情も覚えていた。


「良いか、村雨。手負いと子連れの獣は手ごわい、それはお前も知っているだろう。だがな、本当に恐ろしいのは――」


「恐ろしいのは?」


 桜は、自分の顔を指差し、氷の面を少しだけ溶かして薄い笑みを作る。それだけで、村雨には十分な答えであった。気恥かしくなり、桜の額に張り手を一つ。ぺちん、と間抜けな音がした。




「アッハッハッハッハッハ、あーくそ怖かったー! 生き延びたー!」


「死ぬかと思った、今度こそは死ぬかと思った……! 確実に寿命が十数年は縮まりましたよこのどチクショウ!?」


 日も届かない牢の中に、高らかな笑いが一つと、涙交じりの怒り声が一つ響いた。

 智江とサーヤは、一度牢に戻されて、奉行の沙汰を待つ事となった。その場で殺される事も、刑の執行を何時と定められる事も無かったのだ。急場しのぎの弁舌が功を奏した形となっただろう。

 あの時、桜と無理にでも戦っていれば、確実に自分は死んでいただろうと、智江は確信している。それならば一度捕まり、どうにか弁舌で切り抜ける事が出来れば――という考えも、正直に言えばかなり不安要素の多い案であった。

 何せ、悪党即ち死すべしの愚直者や、決まり切った手順を踏まねば気が済まない頑固者相手では、そもそも話を聞いてさえ貰えない。聞かせる事が出来た所で、その内容に価値無しとされれば、やはり無残に屍を晒す羽目になる。自分が不利な場面では、言葉の力は大きく減算されるのだ。


「いやはや、ハッハ……どーにかこーにか此処は切り抜けましたねえ。流石は私! 天才!」


「テンサイはテンサイでも災いの方でやがりましょうがアンタは! ここだけ凌いでどうすんですか!?」


 第一関門、奉行の説得は、完全とは言わないが成功した。おそらくはこの後、幕府のお偉方にでも掛けあうか、或いは政府軍部にでも話を持ちこむかで、暫くは時間が飽く事になるのだろう。智江達の処遇が決まるのは、それからだ。

 あの言が有用とされれば、少なくとも幾らか結果を出すまでは生き延びられる。無用とされればそれで御仕舞、死体は磔で晒される事になるだろう。

 かと言って、運良く誰かが智江の提案に興味を持ち、それに力を貸して結果を出した所で、その時点で用済みとされたならば? 引き回しが無くなる程度で、隠密裏に殺されるという最後が待ちうけているに違いない。

 直ぐに死ぬか、暫く後に死ぬか、運良く生き延びるかの三択で、最初の一つだけは無くなった。だが、まだ残り二つの内、可能性としては前者が大きい。


「ああもう、こんな事ならもう少し安全な獲物だけに目を付けてくれれば……大体アンタは高望みなさりすぎだって前々から言ってんでしょうが! それを聞かないからこうなる訳で――」


「だってー、なんか良さそうな子見つけちゃったら? 手を出さないと損な気がしますし? 趣味と実益って奴で、ねえ? あーほらほら、泣かないの」


 不必要に腹の据わった智江と対照的に、サーヤはまだ、震えが止まらない様であった。加害者として何人も殺している少女も、自分が死ぬかも知れないとなれば、恐怖を感じるものであるらしい。安堵と共に溢れてきた涙を、何度も何度も拭っている。頭を撫でてやろうと、智江は右手を伸ばし――そもそも、右手が無い事を思い出した。


「誰が泣いてますかこの間抜けの銀紙目玉! 欲張って無意味に大量に捕まえようとするし! お陰で脱走はされるし、私も蹴り飛ばされて棚に詰め込まれちまいましたよ! おまけにあんな女に殺されかけて、腕まで落として来て……っ!」


 智江は何も言わず、サーヤの体を抱き寄せた。背に回される手は、やはり一つだけ。抱え込む力も、まるで物足りず――少女の目に、また涙が滲んだ。


「……私が、私のっ……そんな、馬鹿な事で、腕まで無くして……!」


 実験動物の管理――つまり、捕まえた人間の管理は、サーヤの仕事であった。投薬の量、鎖の選定等々を見誤らねば、そもそも一人目の脱走者を許す事は無かった。その因果が巡り巡って、最終的には自分を庇う形で、主の腕を奪った――それが、彼女には悔しくてならなかったのだ。


「良し良し、いいんですよ。四本腕が三本になった所で、どーせ他の人間よりゃ一本多い。私の腕はここに有る……なーんにも困りゃしませんって」


 泣きじゃくるサーヤを抱きしめながら、智江は、彼女と出会った時の事を思い出していた。




 この褐色の少女が生まれたのは、大陸東南部に位置する島々の一つである。裕福な島とは言えぬながら、日々の生活には何ら困窮せずに居られる程度には、自然豊かな土地であった。父母が採ってくる食糧は多種多様で、彼女に飽きを覚えさせなかった。

 だが、或る時、彼女の住む集落を疫病が襲った。発症すれば高熱に見舞われ、全身の皮膚が爛れ、やがては死にいたる。感染力が高く、また致死率は極めて高く、僅か一月の内に、彼女の集落は半壊した。そして、少女の家族も、一人残らず、その病に感染した。

 父母兄弟が死に、自分自身も高熱で身動きが取れず、腐臭の漂う家に放置されて――霞む目の中に、赤い二つの目を見つけた。次に目覚めた時、サーヤの熱は引き、爛れた皮膚も回復を始めていた。

 感染の危険を知りながら少女を抱き上げ、運び、希少な薬品を投与し、治療する。まるで自分には利の無い行為だったが、その時の智江には――当時は、この偽名も用いていなかったが――不思議な事に、損得勘定がまるで思い浮かばなかったのだ。

 サーヤと言う名は、彼女が回復してから与えられた名だ――少女を侵した熱は、記憶の一部欠損という後遺症を残したのである。




「私はねぇ、あの桜さんに感謝してるんですよ」


「……かん、しゃ……?」


 少女の感情が収まるのを待って、智江の左手が、サーヤの背から離れる。波打つ髪を指に絡めて、手櫛で梳き通した。


「ええ、感謝。漸くね、私は見つけられた。もうこれ以上、誰かの腹をかっ捌く必要も無いでしょう」


 自分自身の欠落の、その理由はとうとう見つけられなかった。先天性の異常ならば、理由を求める事さえ無意味なのかも知れない。死後に頭蓋を切り開けば、きっと自分の脳髄は、一部分が抉れたり潰れたりしているのだろう。

 だが、欠落を埋める物は見つけた――いや、ずっと前から見つけていたのだ。

 生まれてついぞ不幸を感じなかった女、自分の死に際してさえ不幸を知らなかった女が、凶刃に己の腕を曝した理由。自分の身を捨ててまで、この少女を助けようとした理由――それは、少女の死こそが自分の不幸だと、気付いたからに他ならない。

 少女を生かす為であれば、腕の一本や二本どころか、四肢の全てさえ惜しくは無い――だが、自分の死は惜しい。自分が死ねば、少女が嘆き悲しむ事を知っているから。そして、彼女と共に居られなくなるから。

 つまる所この女は、サーヤという少女を、酷く愛してしまっているらしかった。


「おおう、我ながらロマンティストな」


「………………?」


 酷薄な自分にはまるで合わぬ考え方だと自嘲しながら、そのちぐはぐさも心地好くて堪らない。満ち足りた生に一つの傷が生まれた、それが喜ばしくて堪らない。

 幸福の大きさは、きっと振り子が決めるのだろう。不幸を感じた事のない彼女の振り子は、実は一度も、幸福の側にも振れていなかったのだ。彼女の生に於いては、ただの一度も、本当の幸福など存在しなかったのだ。

 腕を失った苦痛が、少女を失うかも知れないという恐怖が、彼女に幸福という概念を教えた。そして今はこの幸福を、決して手放したくないと心から願っている。


「さーあて、生き延びますよー! 見苦しく無様に不格好に、石に齧りついてでもねえ」


 探し求めていた不幸に漸く辿り着き、赤髪の女――ジーナ=ファイネストは、最高に幸福だった。




 大井川の増水も収まり、今日も人足の輿や肩車で、旅人達は西へ東へと渡って行く。

 八月二日、快晴。桜と村雨の道中は、これで丁度十日目。多難多楽の旅は、まだまだ続くのであった。

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