赤い壁のお話(11)
「っくぁ、か~~~っ、効いたぁ……!」
全力で殴り抜かれた腹を抱えながらも、智江は存外に容易く立ち上がり、桜に背を向けて廊下を走っていた。
魔術師である彼女は、肉体の強度は決して高くないが、それを補って余りあるだけの身体強化魔術を使える。更には、ただの布でしかない衣服まで、鎧の様に硬化させる事で、桜の狂拳から内臓を守る事に成功したのだ。
然し、智江は脂汗が止まない。腹も服も、鉄板並みの強度まで引き上げた筈だった。だと言うのに、腹の内側では、消化器系全てが衝撃に驚き、てんでに震えたりせり上がったりしている。
兎に角、この場所では駄目だ。もっと広く、トラップなども用意してある、迎撃用の空間に移動しなければならない。一歩ごとに靴裏から暴風を起こし、自らを前方へと吹き飛ばして智江は走り――がくん、と右肩に衝撃。追いつかれ、桜に掴まれた。
「あだっ!? っく、『erupt』!!」
肩から、魔力を単純な衝撃に変えて放つ。手を打ち払う事には成功したが、触れられた瞬間、軽く筋肉の一部が潰された。
右肩を抑えながら振り向き、一歩だけ後退し、智江は桜と対峙した。もはや逃げる事さえ、この相手には難しいと判断したのだ。痛む右肩を抑えながら、智江はやはり笑っていた。
「……っはは、あの子より貴女の方が、よほど獣染みてますねぇ。何を食ったらそうなるんです?」
「米と肉だな、それ以外は要らん……そうら、無駄口叩くな!」
廊下で、大太刀は振り回しづらい。自然と桜の攻撃は、拳によるものに統一される。大きな踏み込みから、小指が上を向くまで捩じりこむ右正拳が、智江の胸の中心を捉えた。
加減を捨てた桜の前には、人間の体重など毬も同然。暴れ馬に跳ね飛ばされたかの様に、智江は床を転がった。強化魔術の防壁も、肋骨が折れないようにするのが限界で、肺が痺れて呼吸が浅くなる。
「はは、酷い……たった二発ですよ、二発……それでこのザマたぁ、なんて、なんて……ッハッハッハッハッハァ……!!」
「楽しそうだ、なっ!」
開いた三歩の距離を、桜は大きな跳躍一つで埋め、床に這う智江の後頭部めがけ左足を振り下ろす。辛うじて避けはした智江の目の前で、床に罅が走り、白い石材が破片となって飛び散った。
「おお怖っ! 『water』『wave』『wall』!」
その罅を指差し、三単語の即興詠唱。大気中の水分を一点収束、激しい震動を起こさせながら打ち上げる――さながら、小規模の間欠泉のように。足を持ちあげられ、僅かだが桜が体勢を崩した。
打ちあがった水は天井付近で固体化、常温の氷という奇妙な物体となり、桜の足目掛けて落下する。左腕で弾こうとすると、それの一部だけが突然液体に戻り、桜の腕を飲み込んでしまった。
「お――お?」
左腕前腕に、一辺が二尺の、水に満ちた立方体が括りつけられたのだ。桜がどれ程の力を持とうと、重心の外側に自重並みの重量物が有っては、どうしても体は傾く。既に姿勢を崩してしまっていた桜は、左半身から床に倒れ込んだ。
「こういう地味な手こそ優秀って訳ですねぇ。『Mica in mist, Diamond in drizzle――』」
転倒した桜が、左腕を低く下ろして立ち上がるまで、殆ど時間は掛からなかった。然し智江はその間に、次の一手を用意する。単語の組み合わせだけでの行う簡易・即興の詠唱では無い。己の中に確と定められた世界解釈による、魔術師の完全な定型詠唱――
「――『I send the command NYCTOPHOBIA』」
桜の視界から、全ての光が消え失せた。
智江が用いたのは、幻術『ニクトフォビア』――世界を騙す術である。
物体を視認する為には、それに反射した光が目に届くという行程を踏まねばならない。この幻術はその段階の内、〝光が物体に反射する〟事を禁じてしまうのだ――大気中の塵の一つに至るまで。
効果範囲は、最大数十間の範囲で術者の任意に定められる――今この瞬間は、桜を中心とした半径一間の円柱。その中は、梟にさえ見通す事は能わぬ真の闇となる。
「くそ、多芸な奴だ……!」
「いや何、まだまだ出し物は途中ですよぉ?」
立ち上がり、左腕の水塊は膝に叩きつけて破裂させ、桜は何も見えないままに走った。先程まで智江が居た筈の空間を、思い切り右腕で薙ぎ払う。手応え無し、避けられたと知った。
然し、この程度の苦境などは物の数にも入らない。見えない敵とならば、つい最近戦ったばかりだ。あの時に比べて、寧ろ音が消されていないだけやりやすい。桜は、風の流れと足に伝わる振動に意識を集中させ、智江の位置を割り出そうとする。
「おや、動かなくなった。大方、声が聞こえていれば大丈夫ーとか考えてるんですかねえ? はっは、私はここですよー」
探るまでもなく、口を閉じていられない性質の智江は、自ら居場所を明かした。迷わず、桜は馳せ――両肩を、腹を、何かに強く打ち据えられた。
「――っあ、が……!?」
肩は何も問題ない、前進する勢いを殺されただけだが、問題は腹。村雨に散々蹴りつけられ損傷が蓄積した部位に、不可視の衝撃を与えられては、さしもの桜も目を見開き喉を引き攣らす。
「だから、途中だって言ったのに……そうら、次、次ぃ!」
桜の体を打ち据えたのは、三つの拳大の鉱石であった。何れも無色透明で、だが硝子の様に脆いものではない。智江の魔力を喰って高速飛翔する鉱石の威力は、生半な鍛え方であれば肉をごっそりと抉り取られる程だ。
闇の中から抜け、天井を削りながら旋回、再び円柱の中心へと飛ぶ。鈍い衝突音に僅かに遅れて、再び闇の外へ姿を見せる。
その殺傷性能は、もはや鈍器に類するものではなく、寧ろ石斧の様な荒い刃物に近付いているらしい。桜の皮膚を裂き、血に染まり、透明鉱石は紅玉へ化けていく。
「アッハッハッハッハ……さー、また次! 『decompression』!」
それでも、智江は手を緩めなかった。敵に対して、一種の信頼染みた認識を抱いていたからだ。
桜は、この程度では死なないどころか、膝を付かせる事さえ出来ないだろう。喜ばしいが、それは困る。智江は、桜を生け捕りにしたいのだ――可能ならば、四肢を除いた機能は完全なままで。
動けない程度まで弱らせる。その為に引きずり出したのは、十数丁の短銃であった。物体圧縮の術を掛けてもち歩いていたそれは、解凍の命令を与えられると、智江の腕の高さに浮かんで二列に並んだ。
「変なところに当たったらごめんなさいねー、ファイアァ!」
二丁を掴み、撃つ。単発銃だ、弾込めはせずに投げ捨てて、次に二丁。長篠の三段打ちの様に、休みなく銃声を鳴らし、鉛玉を叩きつける。狙いは闇の中心、腰から下の高さ――足を砕くつもりなのだ。
最後の二丁を撃ち切り、投げ捨て、床に転がる十六の短銃。立ち昇る硝煙を息で散らし、床に転がった金属の小筒――新式弾薬に用いられる、薬莢という部品――を蹴り飛ばし、智江はほくそ笑む。
「おお、反動が気持ちいぃ~……L・B社の新式銃、流通もまだの特注品ですからねぇ」
火薬の爆発で加速された鉛の塊は、貫通力という点だけで見れば、下手な魔術の乱発をも大きく上回る。鉱石による斬殴打が通用しない相手だろうが、これならば十分に膝を砕き、地に這い蹲らせるに足る威力が有る。
「はてな、何か物足りない、ふーむ……」
それでも、何か頭の片隅に、釣り針の様に食い込んで抜けない疑念が有る。自らの目で、ひれ伏した獲物を見届けてやろうと、『ニクトフォビア』の闇を解除し――
「――勘弁してくださいよ、もう……!」
光の戻った桜の周囲は、炎の壁に覆われていた。
智江が撃ちこんだ十六の弾丸は、全てがその壁に阻まれて床に落ち、融解を始めている。透明鉱石三つは砕け、無数の破片となって散らばっていた。
桜の目、『代償』の力は、視界範囲内に炎の防壁を創り出す――そこが完全の無明であろうが、目を灼く鋭光の中であろうが、構わずに。桜は何も見ぬままに攻撃を予知し、鋼の鎧にも勝る防御を展開したのだ。
「……太鼓持ち、芸は終いか?」
炎の壁が砕けて消え、智江の背後に、天井までの高さで再形成される。背に感じた熱に反射的に振り返ってしまい、すぐさま理性で視線を引き戻せば、そこには鬼の形相の桜が居た。
「アッハハハ、ヤッベ――」
左胸に拳が撃ちこまれる。智江は、己の肋骨が砕け散る音を聞いた。衝撃に肺が強制圧縮され、喉を大量の息が、血と共に掛け抜ける。
後方に吹き飛ぶ事さえ許されない。灼熱の壁に背を叩きつけられ、焼かれ、智江は無残に床に倒れ伏した。
桜は、口内に溜まった血を床に吐き出した。
負傷と呼べる負傷を負った事など、果たしていつ以来だろうか。称賛を――勿論、勝者としての高慢から生まれる物だが――送りながら、桜は脇差に手を伸ばした。
脇差・相模玄斎『灰狼』。一尺七寸の刃は改めて見れば、獣の牙の様に癖のある反りをしていた。
「……人の悪い爺め、知っていたなら早く言わんか」
逆手に構え、振り上げる。智江はまだ動いているが、立ち上がる事も、床を転がり逃れる事も出来ない。切っ先を首筋に向けて振り下ろし――背後から何かが飛来する。反射的に刃の行く先を、智江の首から飛来物へと切り替えた。
弾かれ床に転がったのは、切れ味鋭そうな鋏。投擲、いや射出したのは、桜の後方三間程の位置に立つ、褐色肌の少女――智江の助手、サーヤであった。
「もう一人、居たのか」
「侵入者様、そこの腐れ頭の駄目女を引き渡してくれやがりはしませんか?」
相手をまるで敬わない敬語で、自分の主人の引き渡しを要求しながらも、彼女の足は酷く頼りなくふらついていた。意識を取り戻してすぐ、戦闘音を聞きつけて駆けつけたのだろう。完全に体を回復させる時間など無かったに違いない。
それを見逃す桜ではない。まるで警戒には値しないとばかり、言葉も返さず笑い飛ばし、興味の対象を智江に戻した。
「……舐めてくださるんじゃあねえっ、『short circuit』!」
背を向けた桜へ、サーヤは走り寄る。レインコートの袖から、右手で一本の金属棒を抜き取った。途端、火中の栗が爆ぜた様な破裂音。金属棒が赤熱する。
多大な電圧を掛け、熱を金属に纏わせる、猛獣鎮圧にさえ有用な攻性魔術。それが桜の背骨目掛けて付き出され――後ろを向いたままの桜は、たった一歩だけ左に体をずらし、それを呆気なく回避する。
「こんちくしょうがぁっ!」
「お前、弱いな」
空振りした腕を返して外側へと振るい、桜に帯電金属を触れさせようとするサーヤ。やはり届かず、肘を下から蹴りあげられ、唯一の武器を手放してしまう――それを認識する前に、高く上がった桜の爪先が、喉を目掛けて突き出された。
「げ、ぁ……っ!?」
気道を押しつぶされ、息を吸う事も吐き出す事もままならない。痛みと苦しみで蹲ったサーヤを、大上段に脇差を構えて、桜は見下ろした。
「邪魔をするな……片腕貰うぞ」
桜は、智江を殺そうとしていた。それを邪魔する者は、どの様な手段でも排除しなければならない。初めて見た顔、名も知らぬ少女であったが、それに刃を向ける事も躊躇わない。怒りは時として、人の心を食いつぶす。
か、と一声の下に放たれた斬撃は、過たず少女の右肩へと落とされ――跳ね起きた智江の右前腕を、断面に一つのささくれも無く斬り落とした。
「ぉ……」
「は――ば、馬鹿ですかあんたはっ!?」
サーヤは、床にうつ伏せにされていた。足を掴まれ引きずり倒されたのだ。波打つ黒髪に血の雨が降る。転げ落ちた智江の腕を、思わず少女は罵倒した。
「『freeze』……あーくそ、すっげえ痛い……」
斬り落とされた腕が、智江の腕の断面が、瞬間的に凍結する。出血はそれで収まったかも知れないが、智江の顔は酷く青ざめている。
脂汗を流し、軽度の貧血で膝を振るわせながら、智江は壁に寄りかかって顔を上げた。それが――理論的には説明できないが――桜には、近づいてはならぬ物に見えた。自分自身が気付かぬまま、一歩後退していた。
「……参りました」
その眼前で、跪き、床に額を付ける智江。
「とっ捕まえた人、全員返します。宿に仕掛けた遮蔽結界も解除します。役人を呼んできてください、素直にお縄に掛かりましょう」
あまりに諦めが早く、そして駆け引きも何も無い、全面的な降服。普段の間延びした声は、その面影を完全に潜めていた。
「智江さん、あんた……」
「いいからほら、貴女も頭下げなさい」
無事に繋がっている左手で、少女の頭も同じように床に押し付ける。その様は無防備で、上から刀を振り落とせば、首を飛ばす事は容易い筈だ。だが、桜は構えを取ったまま、一歩と近づこうとはしない。
「虫が良い話だな」
追い詰められた今、提示する条件ではない。桜がその言を聞き入れる、理屈も道理も無い筈だ。
「ええ、私もそう思います……ので、私の首くらいならどうぞ、ご自由に。その代わりと言っちゃなんですが……この子、ちょっと逃がして上げられませんかね?」
道理も何も、そんなものは最初から持ち合せていないのが、智江という女であった。我欲の為に、他者の命も尊厳も踏みにじり、一顧だにしない悪徳の塊。それが惨めに額づいて許しを乞うている。
「断ると言ったら?」
桜の殺意は未だに消えていない。然し――
「刺し違えましょう。私と、貴女と」
体を起こした智江は、隣に控える少女さえ知らなかった顔をしていた。遠い目標を手繰り寄せる為、自らの全てを投げ打つ事さえ厭わない者の――それは、決死の覚悟の色だった。
「駄目……殺したら、駄目!」
迷いを覚えた切っ先が、行く末を定めない内に、桜の後方から声がした。聞きなれた声である。振り向かずとも、誰であるかは知れた。
「もう、大丈夫なのか?」
「多分ね、多分。それより桜、刀を納めてちょうだい」
村雨の声音は、あの狂熱の余韻も無く、程良く冷えて在った。桜の肩に触れ、腕をそっと下ろさせる。
「……何人死んだと思っている。お前とて、何も無かったという訳ではあるまい」
三人が化け物に殺され、一人が重傷を負った。村雨も薬物を投与され、後遺症は無いにせよ、本心とは裏腹に――本性には沿うが――桜と戦わされた。生かしておけばまた同じ事をするだけだと、桜は言う。
「それでも、殺すのは駄目。あなたは役人でも何でも無いでしょ、殺したらあなただって罪人だよ。それに……私が嫌なの、文句有る?」
桜と智江の間に、ぐいと身を割りこませて、村雨は両手を広げる。何時かも有った図式だが――あの時と違い、村雨に怯えは無い。寧ろ桜を気圧さんばかりに、一本芯の通った強さを見せていた。
「……いいや、異論は無い。思うようにしろ」
桜は、笑って刀を修めた。床に伏す二人を、もう忘れてしまったかの様に、施設の入り口へと歩いていく。
「帰るぞ、腹が減った。今日は派手に散財といこうではないか」
「じゃ、牛鍋でも頼んでみる? 洋風の料理店、確かこの辺りにも出来てた筈だし」
その後を村雨が追い――暫く遅れて、智江とサーヤの拘束を済ませたウルスラが続く。
『Dimension Gate』の歪みを潜って、焼け残った宿の跡地に着けば、中天に太陽が輝いていた。暑い、暑い、夏日の正午の事であった。