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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
東海道中女膝栗毛
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赤い壁のお話(10)

 一口に亜人と呼んでも、その形態は様々だ。陸を馳せる半獣半人もいれば、空を飛ぶ鳥人もいる。おおよそ人とはかけ離れた外観の虫人もいるし、一節には西洋の海には、鰓呼吸が可能の魚人もいるとされている。

 遥か南西の大陸では、獅子の亜人が神と同一視され、長らく王位に有った。獅子の胴に人の顔の石造は、彼らの勇猛果敢を湛えて作られた碑石でもあるのだ。巨躯、怪力無双、勇猛。獅子人は生まれながらに、最良の戦士たる種族である。

 遥か東の新大陸では、荒野を山岳を遥か高みより見下ろす、鷲人の一族が、文化の担い手となった。西洋諸国より伝来した知識は、開拓者の手により東西に、そして鳥人達の手により南北に広まった。

 また、欧州のとある国の伝承によれば、蜘蛛女は美人が多いが、然し顔を隠したがるのだという。長らくその理由は定かでは無かったが、実際に接触して尋ねた或る者の言によれば、目の集光能力が高すぎて眩しいからなのだそうだ。

 僅かに一端を覗き見るだけでも分かる様に、亜人は、人の世界と深く関わりながら存在する。生息数こそ少ないが、彼らの生命力、純粋な人間には無い野生の力は、歴史の新たな局面を切り開く原動力として作用してきたのだ。

 亜種を忌み嫌う地域など極めて少ない。せいぜいが大陸の極東、五指の龍が納める古王朝と、隣国の小さな島国――日の本程度である。それも、生息する亜人の個体数が少ない為に、長い歴史に於いて相互理解が測られなかった故の無知でしかない。



 然し、何事にも例外は存在する。全ての亜人種が、人間に快く受け入れられている訳ではないのだ。

 例えば、蛇人。楽園の蛇の例とはまた違うだろうが、彼らは非常に狡猾であり、俊敏であり、更には体内に猛毒を持つ者が多い。咬傷から回った毒で苦しむ獲物を、縦長の瞳孔で見下ろす様は、嫌悪と恐怖の対象となった。

 例えば、熊人。彼らは善良だが小心であり、些細な刺激で我を忘れがちになる。獅子人にも劣らぬ巨体に加え、比類なき腕力と鋭い爪は、レンガの壁も抉り取りかねない。彼らに悪意が無い事を知りながらも、人は自然と彼らを遠ざける。

 その他にも、気性や習性など、人が敬遠する種族は多々有るが――それらの上に、最も恐ろしい種族として君臨するのが狼の亜人、人狼である。



 彼ら人狼の最大の脅威は、自らが亜人である事を隠し通す、変化の能力である。大概の亜人は、誰が見ても分かる程度に、人間と異なる部分が存在する。耳や体毛、爪、牙、瞳孔などの形状が、顕著な例として上げられよう。

 人狼は、それらの特徴が極めて薄い。例え専門的な知識を持つ者でさえ、市中にて擦れ違った程度であれば決して気付かない程だ。その特性故に、長らく人里に住んでいた人狼が、何かの折に正体を現した時など、「人狼に噛まれて成り果てたのだ」と言う迷信が広まる原因となった。

 そしてまた、人狼は非常に凶暴であり、大型動物を好んで捕食する――この括りの中には、人間も含まれる。死肉より新鮮な肉を好み、群れで獲物を延々と、時には丸一日でも追いまわして捕える。獲物を素直に諦める事などは、決して無い。何処へ逃げようが鋭敏な嗅覚で追いつめる――家屋に逃げ込もうが、人の形をした捕食者の前には無意味なのだ。

 瞬間的な速力ならば、彼らに勝る獣も居よう。だが、一日に馳せる距離で彼らに勝るのは、平地を行く駿馬だけだ。しかも人狼は、雪原であろうが、速度を大きく落とす事なく走り抜ける。

 魔術という学問が確立するまで、彼らとの遭遇は、そのまま死を意味した。広く魔術が普及した今でさえ、人狼一頭に対しては、十人以上を以て立ち向かうのが鉄則である。自然が設計をしくじり作りだしてしまった、最悪の人喰い――人狼の学名を決定した生物学者は、彼ら種族に対し、この様な評価を下した。






「……何故、彼らは強大な獲物を好んで喰らうのか? 人を喰うよりは、鹿でも襲って食っていた方が良いのではないか? 散々に学者連中の頭を悩ませた問題は、捕獲された一頭の人狼が、端的な言葉で晴らしてくれました。『強い奴と戦うと、己が強くなるのだ。強ければ、より強い奴と戦えるのだ』……ああ、なんて大馬鹿な連中でしょう! 戦いの為に戦いを望む、腹ごしらえなんざおまけに過ぎないなんて!」


 膝に顔を埋め、耳を手で塞いでも、智江の声は村雨に聞こえている。忌むべき己の本質を、人喰いの獣の本性を暴く、腑分けの短刀のように突き刺さる声が聞こえている。

 止めて、もう言わないで。幾度心の中で繰り返しても、声帯が麻痺したように言葉が出ない。身を隠す場も無く、だからせめて、顔だけでも隠してしまおうと、村雨は無益にも足掻いていた。


「ねえ、桜さん、桜さん。私がその子に投与した薬は、望まぬ事は決してさせられない、極めて現実的な薬なんだ。彼女は誰の意思でも無く、自分自身の意思で、貴女に襲いかかった。きっと彼女は――貴女を殺して、あわよくば喰いたかったんだ」


 智江は、何一つ間違えていない。最初こそ、智江の喉を引き裂きたかったが、桜の姿を見た瞬間、その思いは消え去った。あの腹を裂き、眼球を抉り、者言わぬ骸に変えてしまいたいと――その時の村雨は、心から願ったのだ。


「……村雨、そうなのか?」


「聞かないで、来ないで……!」


 真偽を問う桜の声一つが、懲罰の鞭となる。我が身の浅ましさ、血の醜さに悩まされた事は幾度か有った――だが、こうも苦しめられた事は無かった。肺腑を刻む様な痛みの錯覚で、息を吐き出す事さえ覚束無い。

 如何なる神の差配であろう。人が人を殺す事を、村雨は激しく忌み嫌っている。だのにその村雨自身が、どの生き物よりも凄烈な殺人衝動を抱いているのだ。


「何時か村雨ちゃんは、となりで寝ている貴女の喉を、発作的に噛み千切るかも知れない。優しい子だって事は分かる、きっと大声を上げて泣くでしょう。でもね、やめられない。貴女の次に、別な誰かと親しくなって――何時かまた、殺してしまう。だからね、離れなさい。どちらも不幸になるよりゃ、幸せになる道を別に探した方が良いでしょう?」


 遠くない未来、自分が誰かを殺めてしまうだろうという確信を抱きながら、村雨は日の本に渡った。三年の年月、月に一度の衝動を抑えて生きてきた。もう、自分は大丈夫なのだと、腹の何処かで安心をしていた。


「……村雨」


 崩れ落ちた際の位置関係のまま。桜は、村雨を見下ろすように立っている。喉が震え、ただ一度叫ぶ為だけに、数度の呼吸を必要とした。


「離れてよ、どっか行ってよぉ! だって、だって私は――」


 あの日、美しい黒に絡め取られた日から、その衝動がまたふつふつと湧き上がりはじめた。そして、満月の夜――或いは、血の穢れを降す夜――初めての殺人を試みて、寸前で止められた。



 ――誰かを殺した事はあるか?


 言葉を濁し、逃げる様な答えを返した、あの日の事を覚えている。今の村雨には分かっている。あの時の自分が、本当は何を言いたかったのかと。


「――私は、あなたを殺したい」


 きっと、最初から自分は、彼女に惚れてしまっていたのだ、と。






「お取り込み中、申し訳ありませんが」


「――っぇ、あ、あっ!?」


 何も知らぬものが見れば、さぞや異様な光景であっただろう。膝に顔を埋めたままの姿勢で、村雨の体が浮き上がった。咄嗟に脚を伸ばして床を踏もうとしたが、やはり踵だけが浮いている。両腕は頭の後ろで、肘を重ねるように組み合わされていた。

 それは、対象を不必要に破壊せず拘束する為の、関節を極める技術であった。両肩に、首に圧迫感を覚え、村雨は体を動かせなくなる。


「何者……って、聞くまでも無いですよねぇ! ああくそサーヤ、逃がしちゃいましたね……!?」


 さも悔しそうに、智江が床を強く踏みつけた。その癇癪もどこ吹く風とウルスラは、どこから見つけたか、欧の学者風の白衣を纏って姿を現した。右腕は、村雨の右肩と首、更には肘を曲げさせて右手首を同時に抱え込み、左腕は左肩の下から潜らせて後頭部を抑つける。身体強化の魔術を用いての拘束は、亜人の力を以てしても振りほどけない程、硬く食い込んでいた。


「遅れました、桜。部屋が多かったもので」


「私は真っ直ぐ歩いただけで此処に着いたぞ。はっ……全く、なんという場面で出てくる奴だ。何処へ消えたかと思ったら」


 宿の中を探しても見つからず、檻に放り込まれたかも分からず、ウルスラへの心配とて桜は忘れていなかった。だと言うのに当の本人は、常と変わらず、しれっとした口調で現れたのだから、桜も思わず笑ってしまう。


「お邪魔でしたか? でしたら、一度離れてやり直しますが」


「いいや、完璧だ、良くやった。そのまま放すな、抑えていろ」


 脚以外は動かせない格好の村雨に、桜が近づく。顔を背けようとしても、頭を掴んで、それを許さない。無理に自分の方へ顔を向けさせながら、自分はと言えば、苦々しげな表情の智江を見た。


「まったく、面白い話を聞かせてもらったぞ。成程、今にして思えば納得だ……ふむ、そういう事であったか。だがな、智江とやら。離れろとはまた、どういう料簡だ?」


 桜は、もはや努めずとも平静であれた。連れの無事が確認できた事で張りつめた気も緩んだか、言葉もどこか普段のように、高圧的ながら鷹揚な響きが混ざる。


「――んっ、んぇ……!?」


 そして――そして桜は、身動きの取れぬ村雨に、背をやや曲げて唇を重ねた。有無を言わさず、嫌も応も無く、一方的に与えられる愛情行為。こんな事が何時かも有ったな等と、村雨は場違いな思いを抱いたまま、身を硬直させていた。

 だが、あの時の様に、互いを絡めて貪り合うようなやり方ではない。触れて柔らかさと暖かさを味わうだけの、初々しい口付けを、これ見よがしにしてのける。見せつけられた智江は、全く不興の様子だ。


「良いか良く聞け、村雨は私のものだ。こんな良い女、お前なんぞに誰がくれてやるか」


 あまりと言えばあまりに真っ直ぐで、意味を一つしか取れない言葉を吐いて、桜は誇らしげであった。天地に己に、恥じる事など何一つ無いと言わんばかりに胸を張って、不敵な笑みを浮かべていた。


「大体だな、人狼だろうが悪魔だろうが邪神だろうが知らんわ、私を殺せる者がいる訳無いのだから。それに殺意を向けてくる狂犬を、甘噛みを覚えるまで調教するのもまたいっきょ――ぉおごっ!」


 晴れやかな宣言は、村雨の蹴りで寸断された。顎を左爪先で捉える、正確無比の一撃である。


「あっ、あんたはまたこういう事を、この、この―――っ!!」


「どうどう、どうどう……落ち着きませんね」


 一瞬で、怒りやら羞恥やら入り混じった感情が沸点に届き、村雨は顔を朱に染めていた。腕が動かせるなら、きっと殴りかかる方が速いという事で、そちらを採用していただろう。ウルスラが馬を宥めるように声を掛けたが、効き目が有る様には見受けられない。


「おお、痛い痛い。お前、まだ薬が抜け切っていないな? が、活きが良くて何より何より。当座の問題はお前では無く――」


 左手で顎をさすりながら、右手で拳を作り、桜は低く馳せた。向かう先は、部屋の出口の扉――智江がこっそりと扉を閉め、桜達を閉じ込めようとしている所であった。


「そりゃばれますよねー、チキショウ!」


「当たり前だこの阿呆がぁ!」


 万力込めて振り抜かれた拳、騒動の元凶への初撃は、寺社の鐘の様な重低音を鳴らし、智江を扉ごと三間は吹き飛ばした。手応えはまだ軽い、仕留めた訳ではないだろう。だが、もう桜は、不慣れな守戦を続ける必要は無い。

 ここから先は、敵を問答無用に破壊するだけの戦い。それこそは、桜の最も得意とする所であるからだ。






「……落ち着きましたか?」


「ああ、うん……正直、まだ、誰かに噛みつきたくてしょうがない」


 戦闘の舞台が廊下に意向した事で、鉄の部屋の中は極めて静かになる。ウルスラは、村雨の関節を極めたままだった。

 驚かされるやら、腹が立つやらで薄れかけていた村雨の殺意が、また首をもたげる。幾らかは戻りかけているが、未だに薄っぺらな理性では、本能からの欲求を遮断し続ける事は出来ない。


「では一度、落とします。目が覚める頃には、薬も抜けているでしょう……多分」


「多分って……もう少し安心できる台詞を考えてよ……」


「もう考え過ぎて頭が疲れましたので。やはり慣れない事をするものではありませんね」


 拘束は硬い。おそらく村雨の力では、どれ程暴れても振り払う事は出来ないだろう。無理に抵抗すれば腱を痛めるか、最悪、関節が外れかねない。これだけ強力な押さえつけ方をしながら、ウルスラはあまりに普段通り、淡々と話している。

 暫しウルスラは、虚空に視線を飛ばし、何かを探している様な顔になった。五つも数える頃には、探し物を見つけたのか、視線を村雨の後頭部へと運ぶ。


「……私も、貴女は好きですよ。人狼でも、なんでも、割と」


「うん、ありがとう――割と、が要らなかったかなー」


 桜から向けられる好意とは別種、顔を赤くせずに正面から受け止められる感情。村雨の胸は、日差しを浴びたようにじんわりと暖かくなった。ただ二人に好かれているだけの事、自分は何も変わっていない。なのに、それが救いになるのだ。


「証拠に、私も口付けましょうか?」


「積極的に遠慮する」


「分かりました……では、暫くお眠りを」


 他人と違う時間を生きている様な、何かとずれた相手ではあるが――悪くない友人ではないかと思うと、村雨は嬉しくてたまらない。首に回されている腕に力が込められ、脳への血流が遮断される。意識が遠のく瞬間は、眠りに落ちる時の様に安らかであった。

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