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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
東海道中女膝栗毛
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赤い壁のお話(9)

「……魔術耐性も物理的強度も、十分に備えてた筈なんですがねぇ……まさか、どちらでもない手段を持っているとは思いませんでした」


「反省したか? だが、改める機会はやらんぞ」


 智江のように卓越した技量を持つ魔術師であれば、己の術の支配下にある物体の状況などは、離れていても手に取る様に察知できる。貴重な実験台を幾つも入手出来た事にはしゃぎ、迂闊ながら気付くのが遅れたが、『Dimension Gate』の大扉はドロドロに融解していた。

 もはや扉は扉の役目を為さず、ただ、空間に切り取られた様に『歪み』が有るだけ。そこを桜は堂々と潜り、ここまで降りてきていたのだ。


「この目がな、動かんものには有効なのだ。うっかりと宿一つ焼き払ってしまったが、あの赤い壁さえ消えれば……外は雨だろう、すぐに消える。さて、村雨から離れてもらおうか」


 宿の壁から乾いた木材を剥ぎ取り、扉を埋めるように敷き詰めて、それらを一片に発火させる。念じ目視するだけで炎の壁を産む桜の目なら、火種などは必要無い。いかに堅牢な扉であろうが、形成する素材自体が融けてしまっては、防御の役を果たせなかった。扉を潜った後、畳から廊下へ、そして別な部屋へと炎が燃え広がっていった事は、桜はまるで気に掛けていない。


「……はは、こいつは大変だ。ちょいと嬉しくて舞い上がったばっかりに、こーんな単純なミステイクたぁねえ……っはははは――」


 智江の背を、冷たい汗が伝う。改造亜人を――智江自らが作ったそれなりに優秀な生物兵器を、ただの一刀で斬り殺す怪物が、目の前ではらわたを煮えくり返らせているのだ。刑場に引き出されて斬首を待つ罪人とて、こうも歯が鳴る思いはするまいと、彼女は止まらぬ寒気に苦しむ。


「――アッハッハッハッハハハハハ、こいつぁ良い! ぶっ壊れ気味の身体能力、『代償持ち』でしかも雌と来たもんだ! 体格上々! 超健康体! 年齢的にも申し分無ぁし!」


 だが、彼女もまた狂人なのだ。正常な理性を持つ者ならば、死の恐怖に竦みもしよう、涙も流そう。然し、智江は笑う。楽隊の指揮者のように両手を広げ、身を仰け反らせ天井を仰ぎ、けたたましく笑ってのける。


「これまで、『代償持ち』だけはかっ捌いた事が無かった、作り出す事も出来なかったんだ……記念すべき第一号! 貴女の胎からは、何人を作ってもらいましょうかねえ!」


 万象を不幸と感じた事が無い彼女だ。身に走る恐怖さえが心地好い。ましてや目の前に立つのは、望んでも得られぬ最高の実験台である。智江は、幸福の絶頂に在った。


「そうか。ならば、やりあうか。私が捕まるか、お前が死ぬかだ」


 桜は、背の鞘の留め金を外し、黒太刀を抜いた。刃渡り四尺『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』の、切っ先が智江の喉へ向けられる。あと四歩、桜が踏み込むだけで、柔らかい喉は無残にも切り裂かれるだろう。


「おおっと待ったあ! 貴女とまともに戦うなんざ馬鹿も馬鹿、でしょう? だからね、こうします」


 智江は構えない。代わりに、小さな鍵を懐から取り出し――村雨の手首を、鎖から解放した。


「……どうした、いやに素直だな……まあ、良いが。おい村雨、少しお前は離れて――」


 桜は拍子抜けして太刀を降ろし、未だに俯いている村雨に歩み寄った。本気で暴れまわるなら村雨の加勢は不要、寧ろ太刀の間合いに居ない方が戦い易い。桜は、村雨の肩に右手を置く。


「――ぉ、おっ……!?」


 視界の下端に陰が見え、反射的に桜は飛び退いた。村雨の右足が、天井を指す様に振り上げられていた。

 仮に回避をしくじれば、顎を下から叩き割られていたかも知れない。大概の打撃は防御さえしない桜が、そんな予感を覚える程、その蹴りは鋭かった。頬を撫でる風だけで、肌が切れたかとの錯覚さえ有った。


「さくらぁ……あは、やっと来てくれた……」


 やっと自由になった両手を床に着き、両足を前後にずらし、爪先だけを立てる。腰を高く上げたその形は、肉食の獣が敵を前にして、飛びかかる為に力を蓄える構えであった。


「お前、村雨に何をした……!?」


「なぁんにも。ちょっと素直になって貰っただけです……ええ、ちょっとだけ、ね」


 太刀を鞘に戻し、両足を開き、腰を深く落とす。空手でいう騎馬立ち――馬に跨る姿勢に似た構え――を取り、両手を開いたまま胸の前に置く。桜は、徒手にて迎撃する姿勢を取った。


「ねえ、遊んで、遊んでちょうだい――ねえ、良いよね?」


 音も無く村雨が跳躍する。口が裂けた様な笑みを、彼女は顔に張り付けていた。






 村雨と桜の体重差は、衣服の上から見るよりも、実際は更に大きい。

 桜はゆったりとした和装である上に、筋肉の密度は、並みの武術家の拳なら腹で受け切る程である。対して村雨は骨格から細身であるし、背丈も桜より七寸は低い。体重差はおおよそ五貫から六貫(19~22kg)、村雨の体重は桜の三分の二という所なのだ。

 並みの相手でも、これだけの体重比では有効打を与えるのは難しいというのに、まして村雨が踊りかかった相手は雪月 桜。一端の術者が強化魔術を用いて放った拳を、平然と耐えきる怪物である。


「あは、あははは……! 楽しい、すっごく楽しいよ、さくら!」


 だと言うのに、桜は防戦一方であった。繰りだされる拳足を打ち払い、叩き落とし、避ける事で手一杯となっていた。

 相手が村雨だから、非情な手段に出られないというのは、確かに理由の一つとして有る。だが、それを差し引いても、村雨の攻勢は苛烈であったのだ。

 低い姿勢から飛び込み、膝を拳で狙ったかと思えば、跳躍と同時に蹴りを二つ、鳩尾と喉に打ち分けてくる。抉る様に放たれた爪先を左前腕で受ければ、骨まで鈍痛が響く。右手で足首を捕まえようとしたが、その時には村雨の足は引き戻され、右脇腹目掛けて放たれていた。

 右肘で足の甲を打ち、その蹴りを落とす。村雨は落とされた足で踏み込みつつ、喉を掴もうと右手を伸ばす。

 握手をする様な形で捕まえようと、桜も右手を突き出した。掌同士が触れた瞬間、村雨は体ごと、桜の視界から消え去った。


「むぅ……!」


 姿勢を低くしながら側面へ回り込む、ただそれだけの動きだったのだが、一連の動作が恐ろしく早い。咄嗟に後退し視界を広く取り、右手側に村雨の影を捕えた桜は、右手による裏拳を放った。胸を打ち、瞬間的に空気を全て吐き出させる、動きを止める為の一打である。


「あはは、すごーい。手が落ちないんだ」


「……お前も大概だがな、全く」


 その拳の上に、村雨は易々と飛び乗って見せた。他に回避の手段は幾らでも有るだろうに、その中でも難易度の高い物を選んだ村雨には、さしもの桜も驚愕を隠せない。

 桜は知るよしも無いが、この技こそは、村雨が『人工亜人』と戦った時にも見せた奇手である。先天性の瞬発力と平衡感覚は、敵の凶器の上に安全地帯を見出す事さえ可能とし――更には、自分の攻撃へ転ずる助けとする。

 村雨の右足が高く振り上げられ、桜の頭部目掛けて振り下ろされる。それに対し、桜は右手を振り上げる事で、村雨を天井まで跳ねあげて回避した。

 浮いてから天井に打ちつけられ、そして落下するまでの時間は、いかに俊敏な村雨と言えど動けない。落ちてくる足を掴んで関節を極めようと狙った桜は――ほんの僅かに遅れて、振り上げた腕の手応えの奇妙に気付く。

 村雨は、自分からも跳躍する事で、体を上下逆に反転させながら舞い上がっていたのだ。桜の腕力を足しての跳躍は、易々と天井に辿り着き、一瞬だがそこに逆様に『立つ』ほどとなった。

 そして、村雨は天井を蹴り、自身の身を砲弾と変える。落下速度に脚力の加速を加えて、村雨が狙ったのは桜の頭。拳足ではなく、同じく頭から飛び込んだ。


「ぐおっ……!!」


「あはっ、頭、ぐらぐらするー……あははは、は」


 両者とも額が切れ、軽い脳震盪を起こす。首の強度故か、桜はまだ視界は正常だが、村雨は振り子のように揺れながら立っている。まるで自滅としか言い様が無い攻撃だ。自分が生き延びる事を考える戦い方とは、到底思えなかった。

 そうだ、今の村雨の異常性は、突きつめればその一点に辿り着く。鎖から解放された時、襲いかかる相手は他に二人――智江と、壁に張り付けられた葛桐が居た。なのに村雨は迷う事なく、桜にのみ攻撃を続けているのだ。

 ただ、戦いたいのではないだろう。ましてや、勝ちたいという思いなど持ち合せてはいるまい。


「戦闘狂……それが、お前の本質か」


 村雨が望んでいるのは、より強い相手と戦う事なのだ。それだけが望みだから、自分が傷つく事など意に介さないし、弱いと見て取った相手は目に入らない。今、この場で最強の敵――雪月 桜の他に、村雨の目は何者も映していないのだ。

 完全に立ち直る前に抑え込もうと、一歩の間合いを桜が詰める。右手を取り、投げを掛けようとしたが――そこで、桜の動きは止まってしまった。

 桜は、敵対する者を叩き伏せる技であれば、数十数百と列挙する事が出来る。然し、相手を傷つけないように無力化する技術には乏しい。自分はどの技を選び、村雨を止めればよいのか、桜は分からなくなってしまったのだ。

 僅かな躊躇の間に、村雨が息を吹き返す。回復速度もまた、桜が見てきた数々の敵の中でも傑出している。左手が目を抉ろうと伸びてきた、咄嗟に手首を掴んで避けた。


「……おい、頭を冷やせ! お前はそれ程に血が見たいか――っが、ぐぉ……!」


 両手を掴まれても、次は足。逃げられぬならば逃げられぬまま、村雨は桜の腹部へ、靴の爪先を繰り返し叩きこむ。

 蹴りの一発ごとに、桜の足が僅かに床から離れる。大きく動けない状況から、片脚の動きだけで生み出されるその威力は、雲を付く巨漢とさえ紛うばかりであった。




「如何です? 中々に面白い趣向でしょう――いえ、まあ、私も正直予想外だったんですけどね、ここまで極端なの。私も巻き添えっての覚悟の上だったんですが……世の中はなかなかに面白いもので」


 先程から高みの見物を決め込んでいた智江が、一方的に蹴りを受け続ける桜に、嘲笑うように語りかける。

 ここまで、横から桜に手を出す機会は幾らでも有った筈だ。なのに、その手段を選ばなかったのは、観察者に徹していたかったからだ。かたや金剛無双の怪力、かたや疾風迅雷の敏捷。この二人の戦いは、それが例え片方が戦法に枷を付けられていても、非常に見ごたえが有った。

 然し、戯れは十分に堪能したからなのだろう。二人から二歩離れた位置に立ち、智江は間隔の広い拍手を鳴らした。


「さてさて、桜さん。助けようとした相手に、こんな目にあわされるとは思わなかったでしょう? 全くだ、普通の人のする事じゃあ無い……例え理性を飛ばそうが、こんな発想、普通なら有り得ないんだ」


「長口舌なら聞く耳もたんぞ……っぐ、が、お……!」


「蹴られながら強がっても迫力ありませんよお? ……ま、お聞きなさい。貴女も知っといた方が良い事なんだから」


 桜の腹に打ち込まれた蹴りは、もう何十発になっただろうか。肘や膝を間に挟んで威力を殺してはいるが、それも積み重ねれば、やがては内臓にまで響いてくる筈だ。硬く食いしばった歯の隙間から、桜の苦悶の声が漏れ聞こえる。

 翻って、智江は、硬い床を靴の踵で叩きながら、実に平静そのものである。語り調子も、寺子屋の筆子に書を読み聞かせるように、明朗ながら落ち着いた様子であった。


「ねえ、村雨ちゃん。貴女の生まれの事は聞きませんでしたが、顔立ちなんかを見りゃ、大陸の方の生まれだってのは予想が付きます。付きますが、その中でもズバリ……イェニセイとツングースカの流れが合わさる、あの辺りの出身でしょう?」


 村雨の蹴りが、足を床に縫いつけられたかの様に止まった。掴まれた腕から桜に伝わる力も、智江のただ一言で失われた。


「……煩いな、黙っててよ」


「いやん、怖ーい。その態度、肯定と受け取ってよろしいんですよねぇ? いやはや、あの辺りはかなーり寒いそうで。流石に今は無きロマノフ王朝の元臣民達さえが、冬に薪切らせば余裕で死ねるとかなんとか……でも貴女、きっと薪を集めた事も無いでしょ? 火を起こして暖を取るなんて行為は――いいや、暖炉の有る家さえ知らないと見た。外から眺める程度の事ならしたでしょうがねえ」


 手首を掴まれたまま、村雨は己の身を抱く――震えている。北国の話を聞かされ、寒さを覚えたとでも言うのだろうか?

 違う、現実は夢想に比べれば、あまりに非情である。智江の指摘は、全てが正しかった。そして、村雨には、それが恐ろしくて仕方がなかった。鈍麻した理性でさえ、この先の言葉を聞く事を恐怖した。恐怖しながら、村雨は震えるばかりで、智江の口を塞ぐ事は思い当らなかった。


「銀色とも見紛う、白雪の凍土に紛れる灰色の体毛。頑強な四肢、顎。人に数倍――いやさ数十倍、数百倍、数千倍に及ぶやも知れない嗅覚。食事の嗜好はどうでした? 雑食ではあったでしょうが、大きく肉食に傾いていませんでしたか? 味覚は大雑把でしたでしょう?」


 桜は、初めて村雨と出会った夜の酒宴を思い出していた。あの夜の村雨は、生焼けの肉も良く焼けた肉も、まるで無差別に喰らってはいなかったか? いや、それどころか寧ろ、生焼けの部分を好んで食していた覚えさえある。


「反射神経、動体視力、スタミナ。荒く見えつつ、然して吸い込まれるように急所だけを狙う戦闘思考。そして、理性の枷から解放されれば親しい物にさえ襲いかかる、並み外れた凶暴性――いや、闘争への渇望とも言い変えましょうか。本当にその子は素晴らしい。私が探し求めてやまなかった、至宝の一つと呼んでさえ過言ではない!」


「……やめて、やめてよ! それ以上、やめて……」


 もはや、腕を掴んでおらずとも、村雨に抗う力は残っていない。床に腰を落とし、膝を腹に抱えるように身を縮め、望めぬ慈悲に与ろうと哀願する。然し、他者を虐げる事に楽しみを見出す智江には、その哀れさは寧ろ、舌禍を煽る物でしかない。


「異常な凶暴性で人間とぶつかった結果、生息域は今じゃ極少、個体数なんざ三千もいるか分からない希少生物。幾多の伝承に忌み嫌われた怪物――」


 そして、無情にも、それは告げられた。


「彼女こそ、Canulus marchosia――分かりやすく言うならば、人狼。獣型亜人の中で、最も危険な種族の一つです」

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