赤い壁のお話(8)
眠りを妨げる者は何もおらず、桜は自分が予定したより長く、三刻ほど眠ってから目を覚ました。
相も変わらず、誰もこの部屋に戻っていない。死体さえ消えてしまったのは、腐臭の原因が無くなったと考えれば良い事かも知れず――食糧が無くなったと考えれば、損失なのかも知れない。
これ見よがしに怪しさを漂わせる鉄の扉は、一寸の緩みも無く、支えも無しに、畳の上に立っていた。躊躇せず、拳をそれに叩きつけた。
鈍い音がして、相応の反動が手に返る。その程度で砕ける拳では無いが、然し扉も動きはしない。見た目通りの強度であれば、一撃では壊せずとも、少々は歪ませる事が出来る筈であった。恐ろしく、固い。
だが、宿を覆う赤い壁に比べれば、まだ手応えがあるだけ良い。あの壁は物理的な衝撃を完全に吸収してしまう様な感覚さえ有る。あれは壊せない物だと、桜はほぼ直感で悟っていた。
「ふー……ぅらっ!」
もう一つ、拳を扉に打ち込む。やはり、扉が開く様子は無い。
扉を破るまで、この調子ではどれだけの時間が掛かるだろうか。水も食糧も無い空間で、然し桜は、未だに絶望などは感じていなかった。
自分の力で突破できなかった事態は、これまでに一つも無い。ならば今回も上手く切り抜けて見せる。そういう、過剰とさえ言える自信を持ち合わせている桜には、潔く諦めるという考えなど無い。
何度も、何度も、何度も、骨と鉄がぶつかり合う、硬質の鈍い音が続いた。
褐色肌の少女、サーヤは、智江に命じられて採取した体液や体細胞などの分析を行う為、中層実験器具区画を歩いていた。捕獲した実験動物の体調、体質の特性を把握しておくのは、彼女達の行う実験では欠かせない事なのだ。
今回の場合、非常に貴重な生物――亜人と人間のハーフ、雄――が捕獲出来た。あまりに凶暴、かつ怪力である為、完全に眠らせていなければ検温さえ満足に出来ないのが問題では有るが、その不満を補って余りある希少種だ。
「……まったく、あの女は同性の胎ってもんを何だと考えてやがるんでございましょうかね、もう」
他に捕まえてきた人間に、女が多かった事も、智江を大いに喜ばせていた。亜人は、ハーフになると獣の血が色濃く浮き出るが、クォーターになると一転して、人の血が強く出るという特性がある。その為、天然物のクォーターは、発見からして難しいのだ。
亜人のハーフの男――葛桐と言う名前だった筈だ――から精子を採取し、捕獲した女の排卵の時期に合わせて、人工的な受精を試みる。そうして出産に至らせて、確実に亜人のクォーターを、何個体か確保しようというのが、智江の腹積もりである。
が、実験動物を管理するサーヤの立場としてみれば、母体の扱いは慎重を期さねばならず、かなり面倒くさいというのが本音だ。同時に何個体も妊娠させるなどしたら、何をするにも手間が掛かって仕方が無い。
大体にしてあの女は、妊婦というものの扱いの厄介さを軽視しているのだと、サーヤは内心毒づいていた。本人も体験した事は有る癖に、いや体験した事が有るからこそ、どうという事は無いと誤認しているのだろうか。
「はぁ……一辺腐れた脳味噌を取り出して洗浄して差し上げたい、心の底から……」
そうは言うものの、あれも主人であると自分の心に言い聞かせ、目的の部屋に到着する。気も狂わんばかりの白壁、白床、白天井に、白い棚と机だけが置かれた部屋だ。棚の中に並ぶ薬瓶や実験器具だけが、辛うじて異なる色彩を与えている。仮に智江が気まぐれで、「この器具も全部白塗りにしなさい」などと言いだしたら、不労運動でもしてやろうかとさえ考える程、居心地の悪い部屋であった。
まずは血液の分析から。硝子製の透明な皿に、採取した血液を垂らし、特殊な試薬と混ぜ合わせて何分か待つ。魔術的な加工を施された試薬が検出するのは、その血の持ち主の魔力特性や、そもそもどういう種族であるのか、など。
とは言っても、普通は、そうそう面白い結果など出てこない。重要なのは、これ以降の体細胞の分析であり、血液分析は飽く迄、通例だから行っている様なものだ。
一人目、あの母娘の内、母親の方。試薬を血液に混ぜ、硝子から研磨したレンズを覗く。示す反応は、もう何かの資料に照らし合わせずとも、祖語一つ無いと断言できる。
「特性無し、種族人間……一般人でございますね、次」
特性無しというのは、才能が無いという事では無く、一つに偏っていないという事を表す――つまり、平凡かつ理想的という事だ。
何も面白みのない結果を端的に呟き、二人目、三人目と勧めていく。
「娘の方は……同じ、次。あの盗人女……これも同じ、次。魔術師の女は――」
ウルスラの血液を分析し始めると、とたんサーヤの顔は、好奇心を刺激された研究者のものになる。
「へぇ……特性が歪な零、珍しい。だからあんな器用な芸当ができる訳で……へえ」
何度も頷きながら、細筆を用意して、質の悪そうな紙に何事か走り書きを綴っていく。一尺の正方形の紙にして、三枚を綴り終えた後、更に次へ。最後の血は、村雨の物。試薬の反応が出てきた頃、レンズを覗きこむと――
「特性は水で、種族――あんにゃろう、こんな面白い事を黙ってやがりましたかちくしょうめ」
此処に居ない自分の主に悪態を付きながらも、サーヤが浮かべた笑みは、智江が普段見せているそれに良く似ていた。慈悲を見せてはいるが、その実は対象を物としか見ていない、温情の籠らない笑みだった。
先程と同じ様に、細筆で走り書き。ただし今回は、小さな紙にただ一行、大きな字で書きこんだだけ。詳細な記述の時間が惜しいというように、書き終えれば筆を放り投げた。
他の調査などはどうでもいい、とにかくあの灰色頭を見に行こう。レインコートの裾を翻らせたサーヤは、見えない壁に衝突した。
「った……! んな、んですかこりゃ――っが!?」
全く予想の外の事であり、盛大に尻もちを付き、鼻もぶつけてしまったサーヤ。涙目になりながら、何も無い空間を睨みつける――視線が、首ごと右に振り切られた。左頬に痛みを感じた次の瞬間には、彼女は床と口付けを交わしながら意識を失った。
「成程、そういう訳だったのですか。良い勉強になりました」
まるで目に映らない為にサーヤはついぞ知る事が無かったが、彼女が血液分析を行っている一部始終を、ウルスラは姿を消して、背後から覗きこんでいたのだ。走り出そうとして転倒したサーヤの頭に、右足甲での痛烈な回し蹴りを打ち込み、意識を歯の一本と共に狩り取ったウルスラは、彼女のレインコートのポケットを探り始める。
「私の特性が零……道理で、こういう芸当ができる訳で……っと、これでしょうか」
何事か納得した様な面持ちのウルスラが見つけたのは、金属の輪で閉じられた、十数本の鍵の束。どれがどの扉のものか、正直検討も付かないが、おそらく最下層の檻の物であろう。
「……さて、どうしましょうか」
鍵を手に入れた、までは良い。だが、そこから先をどうするべきか、ウルスラには何の案も無かった。何かに使える物さえ拾えば、他の誰かが次の行動方針を示してくれる、それが彼女の生き方だったからだ。
鍵は、扉を開けるのに使える。それでは、今から鍵を開けてこようか――と、短絡的な思考に辿り着くが、首を振ってその考えを散らす。
肝心なのは、檻から脱走させる事では無く、この施設から脱出する事だ。出口を見つけていないのに、足手纏いを何人も抱え込む事は出来ない。自分一人で行動している方が安全だろう。
自分で考えて行動しろと、桜に言われた事を思い出す。自発的な思考は苦手だが、今こそ、それが必要な時だ。得意で無いならそれ相応に、より熟慮しなければならない。
「……まず、構造の把握をしましょうか。それと、この少女は……」
意識を失ったサーヤを引きずり、室内の棚に放り込み、戸を閉めた。鍵も掛けられれば良かったが、生憎とこの棚は、鍵穴は付いていない。
姿も音も消したまま、ウルスラは廊下へ出て歩きだす。昇り階段を探し、登れる所まで登ったら、また最下層まで戻ろうか。散策でもするような気構えながら、両の拳は固く握りしめられていた。
実験動物を放り込む檻にも、当然だが幾つかの種類がある。収容する動物の体格、習性、力などによって、適切な檻を選ぶべきなのだ。
例えばあの母娘の場合、石壁や床の、然程広くも無い部屋に、首の鎖一つだけで拘束しているが、それで問題は無い。夫の方は、脅迫用に鉄張りの部屋に放り込んだが、あそこまでする必要は、本来なら無い。何処かの盗賊崩れの小娘は、手足を背中側で縛りつけた上で、大きく体を動かせない、狭い部屋に放り込んである。
その様に、用途の分かれた部屋の中で、特に頑丈な一室が有る。壁も床も天井も、数センチメートルの厚さの金属で作られた、要塞の城壁にも勝る強度の檻だ。扉の重い事と言ったら、智江の細腕では、強化魔術を二重掛けして漸く動かせる程度である。
「あぁら、そちらはお目覚めですか? やっぱり体大きいと麻酔の効き目が悪いですねぇ……ふむ、ご機嫌いかがで?」
「最低だ、さっさと鎖を解け! さもねえとぶっ殺すぞ!」
「アッハッハッハ、解いたら殺されちゃいますもん、いやですー。まま、楽にして楽にして、今は貴方と遊ぶ時間じゃあ有りません」
鬼でさえ隔離出来そうなこの部屋には、二人が壁に張り付けられて収容されている。その内の一人、葛桐――外套の長身男――は、乱杭歯を剥きだしにして吠えていた。
首、肩、肘、手首、腰、膝、足首、合計十二か所を金属の枷で固定されれば、彼の怪力もまるで意味を為さない。解放しろとどれ程に喚いても、目の前で毒々しく微笑む女はまるで聞く耳を持たない。
「……ねね、貴方、貴方。貴方の場合、御父上と御母上、どっちが亜人? この国の人間なら、大概は御父上ってなるんでしょうが……ねぇ、ほら、人攫いとかの事も有りますし?」
「うるせぇ、さっさと鎖を解け、このっ!!」
「おや、お答えになってくれない。それは困りました困りました、それじゃあ……うふふふふのふー」
出生に関する話題は、葛桐が最も触れられたくない事だ――日の本では、亜人は害獣と同等の扱いを受けている。ガチガチと獅子舞の様に歯を噛み鳴らし、最大限の敵意を示す彼を、智江はやはり鼻にもかけぬと笑いとばす。
そして、彼が張り付けられているのと、反対側の壁へと向かう――そこには村雨が、両腕を高く上げた状態で、手首を括りつけられて座り込んでいた。
意識は無い。余程深い眠りの中に有る様で、普通ならば少々の苦痛を感じる体勢だろうに、まるで目を覚まそうとしない。智江の魔術による強制催眠は、村雨の体質に余程適していたのだろう。
安らかな寝息を立てる彼女の胸元に、智江はそっと、ナイフの切っ先を宛がった。
「ねえ、貴方。質問に答えてくれなきゃ、この子の服を一枚ずつ切っていきます」
「……んな……!?」
「んまあ、見てる分には楽しいでしょうねえ。切る服が無くなったら……あ、いやいや、この白い肌に傷を付けるなんてえ事はしませんよお。ただね、私、男の子でも女の子でもイケる口なんです。眠ってる女の子を弄ぶのって、結構楽しいんですよ?」
村雨のシャツの端に、ナイフの切っ先が吸い込まれる。切れ味はかなりの物であるらしく、指の先程度の長さの切れ込みが残された。これならば確かに、加減さえしなければ、衣服の一枚や二枚、ただの布切れにしてしまう事は可能だろう。
葛桐は憎らしげに、小動物ならば睨み殺せそうな程の視線を智江に向ける。だが、自分に害を為せない存在からの敵意など、この女は微塵も恐れないのだ。そしてまた、葛桐には、村雨を赤の他人とする事の出来ない理由が有った。
「……父親が、大陸の出の、グーロ。母親の方は良く知らねえが……この国の、どこかの村の女だったらしい」
「ふむふむ、って事はやっぱり掻っ攫ってきた結果の子供って訳ですねえ貴方。にしてもクズリたあ珍しい、そりゃあの顎の力も納得いくってもんです」
グーロ、クズリ(イタチの仲間の獣)の亜人の俗称である。西洋諸国の中でも、特に北に位置する国に住む種族である為、本来なら日の本で遭遇するという事は有り得ない。己の強運に、智江は唇の端を吊り上げる。
「結婚や、配偶者を妊娠させた経験は?」
「どっちもねえよ、女なんざ金で買えば良い」
「素晴らしく即物的で共感できますねぇ、はいはい」
ナイフは鞘に納めないまま、上着の内側へ。代わりに、試験管を一本取り出し蓋を開けると、村雨の首を、くいと上に向かせた。
「……おい、こら、てめぇ。何をする気だ? 答えたろうが」
「大丈夫、大丈夫。毒じゃありませんし、後遺症が残る様な薬でもありません。敢えていうなら……ちょっとだけ、自分に素直になるお薬? ぼーっとさせて、理性を麻痺させるだけ。なんて親切な薬効でしょうねぇ」
軽く顎に手を添えてやるだけで、健康な歯列の揃った口が開く。智江はその中へ、試験管の薬液を一息に注ぎ込むと、吐き出さないように掌を重ねた。
「おい! てめぇ、放しやがれ!」
「煩いですねえ、大丈夫ですってえの。あんまりしつこいと怒りますよ私……んーん、その点村雨ちゃんは素直で良いですねえ」
口内の液体を、意識の無い村雨は、躊躇する事さえ出来ずに飲み干した。智江の手が離れ、また顔が床を向く。寝息に乱れも無く、本当にあの薬品は、無害なものであるかのように思われた――その時であった。
「……ィ、ハアァァアアアアァア……」
その瞬間まで深い眠りに落ちていた筈の村雨が目を開き、唸り声と共に立ち上がった。金属張りの室内に響いたその音は、普段の快活な声では無い。
それは例えるならば、狂人の類が往来を行く際に上げる、理知を捨てた雑音。赤子が不満を訴える為に、手を振り回しながら上げる喚きにも似ていた。
手首を繋ぐ鎖を、叶わぬなら壁ごと引きずってやろうとでも言うかの様に、村雨は前へ前へ進もうと足を踏ん張る。金属の壁は、とても彼女の力で壊せるものではないのだが――気迫に智江も、反対側の壁に居る葛桐さえもたじろぐ。
村雨の顔からは、おおよそ知性と呼べるものが消え失せていた。今の彼女はきっと、本能だけで動いている状態なのだろう――が、ならばその本能、彼女の行動の根幹となる欲求は何なのだろうか。
葛桐は、それも直ぐに理解する。村雨の目は、拘束されている自分ではなく、自由の身の智江に向いていた。戦える状態に有る者に、今すぐにでも踊りかかりたいと、村雨は全身で願いを表していた。
「……ッハハハ、こいつぁ怖い。もうちょっとお待ちなさい、一日か二日か……それくらいしたら、貴女も満足できる。ええ、約束をしましょ――」
笑みを引きつらせながらも、智江はやはり、楽しんでいた。この女にとっては、他人の体に起こる異変というのは、全てが興味深い観察の対象なのだ。
「――ぅ、お?」
だから、その後に見せた狼狽は、村雨に起因するものではない。もっと別な――何か、よほど予想の外に有った出来事が実現してしまった。智江の表情は、そんな困惑を示していた。
「まさか、んな筈は。どんだけの魔術師だろうが、『Dimension Gate』をこうも短時間で――いやいやいや、待てよ……?」
足音が近付いて来る、鉄の扉の向こう側だ。立ち止まり、息を吐き出した。尋常ならざる殺気が、土石流のように智江に襲いかかる。
「……代償持ち、でしたか」
「いかにも」
鉄の大扉は、黒太刀のただの一振りで両断され、鐘付きの如き轟音を上げて倒れる。その向こうに居たのは、頭の天辺からつま先まで、黒一色に染められた女であった。
太刀風が、三尺の黒髪を巻き上げる。智江の目にはそれが、大鳥の翼にも見えた。
「私の連れを返してもらう……ついでに、腕の一本も頂くか」
これまでの人生、大概は上手く切り抜けてきたが、今回はヤバいぞと智江は悟る。雪月 桜は、おそらくは彼女の生に於いて初めてであろう程、静かに怒り狂っていた。




