赤い壁のお話(7)
宿の隅から隅までを歩き回って、桜は幾つかの事を理解した。
一つには、現状でこの宿以外、赤い壁の内側に取りこまれた施設は無いという事。別な施設へ繋がる通路は、その屋根を中央から叩き潰され、分断されてしまっていた。
二つには、壁の内側に、水を確保できる場所が無いという事。井戸も風呂場も、おそらくは赤い壁の外側にある。現状、飲み水は一滴たりと存在しない。
そして三つ目には、宿の中の何処にも、ウルスラは発見できなかったという事だ。呼びかけても声は返らず、然し死体も血痕も無い。屋根裏までは調べていないが、まさかその様な場所に隠れて、桜を欺く理由など無いだろう。
「……まいったな、これは……」
独り言が多くなる。桜とて人間であり、動き続ければ疲労は蓄積する。他者を守るなどと慣れぬ真似をしては尚更の事、無尽蔵の体力も氷の精神も、僅かずつ削られていた。
「一度戻るか、腹も減ってきた事だ……うむ」
食物の中から、水気の多い物を選んで摂取。しかる後に半刻も眠れば、また暫く行動するだけの体力は戻るだろう。あの外套の男が居れば、自分が眠っていても問題は有るまい。桜はそう判断し、皆の集まっていた部屋へと戻る事にした。
常に赤い光に照らされていて、時間の間隔は狂っている。外の音も聞こえない。宿の中は、自分の心音が喧しく感じる程に静かだ――静かすぎると疑念を抱き、桜は短い廊下を走った。
「くそ、こういう事か……!」
部屋はもぬけの殻となっていた。怪我人を含め、誰一人として姿も気配も無い。部屋の中央には鉄製の扉が、何の支えも無しに一つ、固く閉ざされて立っていた。
智江が持ってきた筈の食糧は、一欠片も残されていない。すぐさま廊下に出て玄関口まで走ったが、化け物の死体も忽然と消えていた。人間が食える物が、徹底的に排除されていたのだ。つまりは、兵糧攻めである。
この戦術を誰が仕掛けてきたか、桜はなんとなくではあるが読めた気がした。自分が皆から離れて一人になった瞬間行動を起こした――そうなれば、やはり内部に居た者の仕業と考えるべきだろう。桜の力で貫けぬ防壁、複数の人間を同時に消失させる、この様な芸当をやってのけるからには、腕利きの魔術師に違いない。となれば、明らかに怪しい者が一人居たではないか。
「止むを得ん……まずは寝る、全てはその後だ」
正体不明の大扉に寄りかかって座り、桜は睡眠だけでも取る事に決めた。食糧も水も無い分、二刻以上は眠っておきたい。いざと言う時に体力が足りぬでは困るのだ。
「村雨……どこへ行った……?」
目を閉じれば、直ぐに眠気が意識を運んでいく。答えの返らぬと分かった問いを呟き、桜は暫しの仮眠に入った。
涼やかな風の吹き抜ける、暗い暗い、土蔵の様な空間。床も壁も木では無く、石よりもう少しばかり柔らかい建材で作られている部屋。壁から伸びた鎖を首に繋がれて、露という名の女は震えていた。
露は、村雨達と共にあの部屋に居た家族連れの母親である。十になるかならぬかの娘を抱いて休ませていた所、突如抗えぬ眠気が襲い、目覚めてみればこの様な空間に居たのだ。
「ここは……あなた、どこに居るの? ねえ、どこに……」
露は、裕福な商家の生まれである。蝶よ花よと育てられた彼女は、何をまかり間違えたか、丁稚奉公していた男と恋仲になった。親の言葉に決して逆らわぬ露であったが、こと恋愛沙汰に関しては生来の芯の強さを見せ、母の口添えも有り、無事に今の夫――貫三郎と添う事が出来た。
露にとって夫の貫三郎とは、傍にただ居るだけで、無条件の安心を約束してくれる存在である。目覚めた時に、貫三郎が隣にいない。婚姻を結んでからこれまで、一度と無かった事だ。未だに眠る娘を抱えたままで、露は何度も、夫の名を呼んだ。
「おっ、こっちも目が覚めましたかぁ。よーしよし、調節は間違えてなかった、流石私!」
突如、部屋の戸が勢いよく蹴り開けられ、機嫌の好さそうな顔をした女が、部屋に入ってきた。血の様な赤い髪は、露にも見覚えがある。同じ部屋に非難していた、宿泊客の一人だった筈だ。
「あ、貴女は、確か……智江さん、だったかしら」
「はいはいご名答、杉根 智江と申します。覚えていて下さり光栄の至り……とまあ、堅苦しい挨拶は抜きにしましょ。ちょいと私に協力して欲しい事がございまして」
「……協力?」
はい、と智江は答え、壁の一つを軽く叩く。すると、壁は突如色を失い、向こうの景色を映し出した。鉄張りの床と壁に鉄格子、牢屋の中に一人の男が横たわっている。それは間違いなく、露の夫である貫三郎だった。
「あ……あなた!? どうしたの、ねえ……!」
「寝てるだけです、怪我一つありませんからご心配なく……ま、今はって条件付きですけどねぇ」
智江の声は、それ自体が粘性を持って耳に纏わりついてくる様な、粘っこい音をしている。笑みとは正反対、全ての安堵を根こそぎ攫って行く様な響きに、露は寒気を覚える。娘を智江から遠ざけようと後ずさりするが、直ぐに鎖の長さが限界に達した。
「条件とは、なんですか……?」
「おお、話が早くて何より何より。いやいや、そんな難しい事は申しません。貴女がほんの少しだけ協力してくれりゃあいい話。そう、例えば――」
これ以上逃げられない所まで下がった所で、智江は露にぐうと近づく。膝を曲げて顔の高さを合わせ、人の良さそうな笑みを最大限に魅せつけながら、続けて吐く言葉は悪辣であった。
「すいませんがちょいと、亜人の子供でも生んじゃ貰えませんかねえ?」
「――!? なっ、何を馬鹿な事っ!?」
大人しい露が、思わず声を荒げる。夫持ちの女に告げる言葉として、それは度を超えて悪い冗談に聞こえたのだ。まして露も日の本の人間、亜人に良い印象など抱かない。獣と睦み合えと言うも同様の言葉に、怒りを上回る恐怖を抱く。
「いやいや、大丈夫大丈夫。亜人の妊娠期間は短いし、生まれた子供は私が育てます。そうですねぇ、今回の入手固体から考えると……出産までは三か四か月って所でしょう。奥さんまだ私とそう年も変わらないようですし」
「じょ、冗談にも度が過ぎます、ふざけないで! よりにもよって獣の子などと、それに私は――」
私は貫三郎様の夫だと、強く宣言して顔を張ってやろうと、露は考えていた。急に冷めた智江の表情が、その覚悟を砕く。喉も腕も麻痺し、それどころか呼吸さえ、意識しなければ自由には行えない様な重圧を感じた。
「……ねえ、奥さん。あの部屋、壁も床も鉄で出来てるんですよ。なんでだと思います? 床下が竈になってるんです」
「竈……ま、まさか……!?」
「鉄の床の下で、竈の火を入れてごらんなさい。鉄はたちまちに熱を持つ、上に置かれた物を焼き焦がす程に。そうなりゃ旦那さん、どうなります? 内臓まで火が通っちゃって、美味しい美味しい焼き肉の完成ですよ?」
足元全てが灼熱と化す拷問の光景を、僅かにでも露は想像してしまう。生きて居られる筈がない。本当に実行されれば、夫は炭の塊に成り果てる事は分かりきっている。震えは収まらず、奥歯がかちかちと打ち合わされ、気付けば涙が襟を重くしていた。
「なんで、そんな事を……そんな酷い事を出来るのよ、うぅ……!」
断る術を持たない露は、力の籠らぬ目で智江を睨みつける。良心を僅かにでも持つ人間ならば心も動かされよう、哀れな姿である。
「……なんで、ですか。ふぅむ、強いて言うなら……知りたいから、でしょうか」
然し、智江は眉一つ動かさないで、真剣味すら見える神妙な顔つきで、答えを真面目に探していた。
「私はどうもね、感性って奴が著しく他人とずれてるらしいんです。他人と幸福は共有できるんですが、不幸ってえ奴をどうしても理解できない。親を殺されたーだの、故郷を失ったーだの、集団で犯されたーだの、そんな感じの一般的な不幸がね。これって中々、本人からすれば奇妙な感覚なんですよ? 周りがびーびー泣き喚く様な状況でも、なぜか笑いが止まらなくて仕方がないってのはねぇ……」
智江の手が、露の頬に触れた。薬品や火で幾度となく焼け爛れたのだろう、ところどころ皮膚が薄い手。細く長い指は蜘蛛の脚の様で、露はおぞましさに身を竦ませる。
「実体験じゃないから分からないんだと思って、親を殺されてみました。ぜーんぜん泣けやしません。生まれた町を焼き払いました、暖かくて心地好いだけでした。輪姦の憂き目にあえば不幸も体験できるかと思いましたが、向こうが先に疲れちゃってお話になりゃしませんでした。それで悟った訳ですよ、私はどうも欠陥品らしいと。ですが、それじゃあ私と他の人間、他の生き物の違いって何?」
蜘蛛脚の指が、露の髪に巻き付いた。一房を手の中で纏め、吊り上げ、強引に上を向かせる。額を重ね、智江は笑った。毒々しい、彼岸花の様な笑みであった。
「腹をかっ捌けば分かりますか? 脳みそを捏ねまわせば分かりますか? あと何百のサンプルを見比べれば分かるんでしょうか? 私は知りたい、生物をもっと知りたい。そうすれば、私が頭おかしい理由だって分かるかも知れないんだ……だからねえ、協力してくださいな。若い経産婦ってのは、子宮が正常に機能してる可能性が高くて便利なんです。どうしても嫌だとおっしゃるなら、娘さんにお願いするしかありませんが――娘さん、見た感じで十才になるかならないか、ですよね?」
固まらない動脈血の様に紅い目が、そして愛する娘に毒牙が突き立てられるかも知れないという恐怖が、露の僅かに残る抵抗さえ奪い去った。滂沱の涙を流し、諦観に目を瞑り、露は一度だけ頷いた。
「ふっふっふ、よーしよしよしご好意感謝します。サーヤ、道具一式持って来なさい! まずは消毒、それから体温のチェック、体液の採集と分離! 数日ばかり検査に使って、それから本格的に実験開始といきましょう」
「……本当に他人の都合お構いなしの脅迫なんかしてやがりくさって、面倒な……はい、智江。器具の一切はもう揃えてございますよ」
部屋外へ智江が声を向けると、褐色肌のレインコート少女が、荷車の様な物を押して部屋に入って来た。荷車に山と積まれた金属製の道具や透明の筒は、それがどういう用途の物か分からないからこそ、露の恐怖心を余計に煽った。
髪を掴まれたまま天井を向かされ、口に漏斗を押し込まれる。漏斗の足が喉に届き、吐き気と屈辱感、これから我が身に降りかかるであろう虐待の予感に、露は気絶してしまいたいと強く願った。所詮、叶わぬ願いであった。
実験に先んずる検査と称しての暴虐を存分に満喫し、智江は、赤い液体の入った硝子の筒を手に廊下を歩いていた。
白い壁に白い天井、白い床。少なくとも此処は、彼女が宿泊していた蓬莱屋ではない。それどころかこの様な内装の建物は、島田宿のいずこにも存在しない筈だ。
然もあらん、此処は人里離れた山中の、更に地下に造られた施設。彼女の技術と知識の全てを注ぎ込んだ、おそらくは世界でも最高峰の設備を誇る研究施設なのだから。
彼女は――魔術師、杉根 智江は、端的に言うならば天才である。常人の数十倍の速度で物事を記憶し、その記憶を常時、同時に数十項目以上参照しながら、別件の思考を行う事が出来る。彼女は常に、自分に最適化された資料を閲覧しつつ、世界を見ている様なものなのだ。
過去に得た如何なる情報も、彼女は忘れる事がない。そして、例え眠っている時でさえ、彼女の脳内では常に情報が組み合わされ、新しい発想へと昇華されていく。
但しその天性の才は、歪みきった精神に支えられている。外部から与えられた変化ではなく、生まれ持った奇形の心に、だ。
他者が感じる不幸に共感出来ず、一方で悦楽は余計な程に感じてしまう、生まれ付いて幸福だけを過剰に与えられた人間。
不幸という物を知る為に他者を観察し続けた結果、不幸を産む事そのものにさえ愉悦を感じる様に成り果て、外形だけが正常を保つ人間。
欠落を覆いに自覚する彼女自身が、自分を評した言葉は、『できそこない』であった。
「……ふーむ、流石に血が綺麗だ。野菜中心の食生活、悪くないですねぇ……或いは魚が原因? お昼はアジなんてどーでしょ、大根おろしも添えてね」
「こんな山中に魚が貯蔵されてる訳がないという考えにさえ至らないんでございますかこのすっとこどっこい」
然しながら、硝子の筒に収まった血液を、外から差し込む日に透かして歩く智江の言葉や表情は、その才智を窺えるものではない。隣を歩くサーヤという褐色肌の少女が、智江の腰骨を拳で殴りつける。智江は一瞬だけ体をくの字に曲げたが、足を止めはしなかった。
「……あのままで良いのでございますか?」
「ん、何がで?」
「あの黒尽くめの女剣士、放置したままで。『Dimension Gate』の防壁も絶対ではないのでしょう?」
殴った手が痛いのか、拳に息を吹きかけながらサーヤが尋ねる。『Dimension Gate』とは、とある任意の空間二点を繋ぎ合せる転移魔術だ。実行には多数の制約があり、また術の難易度も極めて高いものの、極めて利便性に優れた魔術である。
事前に用意した多数の魔法陣を起点に、空間と空間を繋げる扉を出現させる。開いている間は誰でも空間転移を可能とし、そして閉じてしまえば術者の意思無くては開かない――と、いう触れ込みの術なのだが、問題も一つ。
「そうですねえ、あの人なんか凄い馬鹿力ですし……気付かれたら、二日もありゃ破られるでしょうねぇ」
扉は極めて強度が高いが、それが破壊されてしまえば、術自体を解除しない限り出入りし放題なのだ。そしてこの施設、『Dimension Gate』で出入りする事を前提に作っている為、術を完全に解除する訳にはいかない。
「二日、って……とてもじゃございませんが、あの無駄にでかい獣人の検査さえ終わりやがりませんよ? あんな化け物に踏みこまれたんじゃ、まさか迎撃するにしても――」
「飲まず食わずで二日も放置されりゃ、人間どうやっても弱るもんです。弱って、それでも最後の力を振り絞って扉を破って来たのなら、私が仕留めて捕獲すりゃいいだけだ。扉が破れず仕舞いなら、死ぬ寸前で回収してきます。あれだけ鍛え上げられた固体だ、是非とも調べたいし、ついでにあれの子供が欲しい」
「――相変わらず、遠回りな手ばかり選びくさる方でございますこと」
破られるなら破られてもいいと、智江は考えている。いや――むしろ、破られるだろうと予想をしている。
宿の周囲に張り巡らした赤の防壁は、少なくとも三日か四日は、食わせた魔力を残したまま機能する。相手が同じく高位の術者ならば兎も角、剣士であるなら、破る事はまず不可能だ。反面『Dimension Gate』の扉は、頑強では有るが、物理的な衝撃だけで十分に破壊する事が出来る。
智江からすれば桜は、何もせずにただ座して過ごす気性には到底見えなかった。遅かれ早かれ、扉への攻撃という手段を取るだろう。飢えと渇きに苦しみながら、なけなしの体力を浪費して。
「さあてさて、次は村雨ちゃんで遊んできましょーっと。あの子もあの子で、かなーり面白いものを持ってますからねえ」
「人名と遊ぶという動詞の間には、『と』という音を入れるのが相応しいかと思う次第なのでございますが」
智江の作り上げた研究施設は、決して広いものではない。最上階に智江達の居住区、中層が実験器具等々を置く区画、そして最下層は実験動物を放り込む檻。金属の壁、床、そして扉で固く守られたその階は、滅多な事では脱走者を出しはしない。
「……そろそろ、頃合いでしょうか。とは言っても、この鉄格子が厄介ですが……」
檻の一つの中、首と手に掛けられた鎖を外し、ウルスラは問題解決の為に頭を回転させていた。
麻痺毒によって捕獲され、更に睡眠薬まで投与されたウルスラであったが、彼女は暗殺の目的で鍛えられた術者である。大概の薬物には耐性が有るし、体内に入り込んだ薬物を分解する為の術を幾つか身につけている。例えば、血管中の血液を一度破壊、再構成する方式で有ったり、代謝を高めて肝臓任せにしたり、と。
鎖もまた、彼女の持つ『身体操作』の術を以てすれば、抜けられぬ物では無い。筋力を増幅させた上で、金属部分の継ぎ目を地道に壁と擦りつけ、更に術で炎を起こして炙り、逆に氷を生成して急激に冷やす。それを繰り返す事によって鎖の強度を落とし、腫れて自由の身となった。
「やはり、同じ手が……いえ、もう少し良い方法も有ります、か。何も折る必要は無いのですよね……」
牢屋の扉も、所詮は幾つかの部品を組み合わせて作った物だ。必ず継ぎ目が有り、継ぎ目は他の部位より強度が劣る。其処へウルスラの指先から、小さな釘の様な物が、幾度も打ち込まれては弾かれていく。
一撃で鉄格子を吹き飛ばす様な、華々しい術は持たないが、彼女もまた一端の術者である。蝶番が完全に破壊されるのは、それから半刻ほど後の事であった。