赤い壁のお話(6)
化け物による再度の襲撃から、三刻程が経過した。
その間に睡眠を取ったのは村雨と智江、それから親子連れの娘の三人――に加え、未だに意識の戻らない板前で合計四人。桜、外套の男、宿の主人、子連れの夫婦、合わせて五人は一睡もしていない。
そも、夫婦や宿の主人に至っては、恐怖から眠気も湧かないのだろう。血走った目を落ち付き無く左右に彷徨わせ、彼らは息を殺していた。
「戻らんな、やられたか……?」
桜は座りもせず、部屋の入り口を睨みつけていた。市目笠の女とウルスラは、これ程の時間が経過しても戻っていない。己の知らぬ所で捕えられたなどとは思いもつかず、襲われて殺されたかと、最悪の想像をしていた。
探しに行きたいが、この部屋を離れる訳にもいかない。仮に次、化け物が襲撃してきた際、外套の男一人で対処しきれるかどうかが分からない。一体ならどうという事も無かろうが、二体も同時に出てしまえば――また数人、殺される事になるだろう。
決断しなければならない。他を完全に切り捨てて、自分達だけが迅速に脱出する事を図るか、それとも可能な限り多くを助けて脱出するか。
「村雨、お前ならどうする……いいや、聞くまでも無いか。見殺しは嫌いなのだろう?」
「勿論。目の前で死なれるとか、寝覚めが最悪だもん……ああ、嫌な夢見た」
「……何だ、起きてたのか」
眠っていると思って問いかけてみれば、期待せずして答えが返る。体を起こした村雨は、疲れ切った表情に反し、顔色は随分良くなっていた。無理にでも休ませた効果は有ったのだろう。桜は、僅かに唇の端を持ち上げた。
「ウルスラは……?」
「まだ戻らん、探しに行く。智江も起こしておけ」
板前に治癒魔術を施した後、仰向けの大の字になって、智江は高鼾を掻いていた。こちらは悪夢を見ている様子も無く、真に幸せそうな寝顔である。起こせと言われた村雨が、肩を揺する事を一拍躊躇した程だ。結局は敢行し、智江は目を擦り擦り起き上がった。
「んー、朝ですかー……?」
「さあな、赤一色で何も分からん……私は少々部屋を開けるぞ」
呑気にあくびをする智江にそれだけ言って、桜は太刀を構えたまま、部屋から出ていく。既に『斬城黒鴉』の刀身からは、完全に血の赤が落ちていた。代わりに桜が立っていた畳の足元は、黒く鉄臭く穢れていた。
人が死ぬ光景を振り払う為に寝て、夢の中でも人が死んだ。体の疲れは取れても、精神は未だに休まらない。心を擦り減らすような焦燥の中、村雨は部屋の中央で座っていた。壁際では、あの化け物の奇襲を受けた際、察知する前に首が飛びかねないからだ。
先程から、軽い喉の渇きを感じている。何もせずに座っていると、空腹感も徐々に増してくる。一か所に集められた食糧に視線が向いた――と、宿の主人と、親子連れと、それぞれに目が合った。
皆、腹は減っているし、食糧は欲しいのだ。だが、自分からそれを言い出す事も出来ず、なぜか牽制しあう様な状況になっている。何て無益な事だろうと村雨は思ったが、同時に、無理のない事なのかも知れないと嘆くように首を振った。
「……はい、ちょっと聞いて。このままじゃあ持たないよ、特に小さい子」
同じ境遇の者同士で睨み合っていても仕方がない。誰かが切り出せば、周りも行動しやすいだろう。そう考えた村雨は、食糧の分配を提案した。
一人一人に同じ量の食糧を与え、その使い道は当人に決めさせる。直ぐに食べても良し、後に残しても良し。ただし、この一回で、この場に存在する食糧は全て分配し切る。他の食糧を見つける事が出来なければ、再分配は無し。
村雨にしてみれば、これが一番平等なやり方だった。提案の時点では、誰かが反対する事も無かった。だから、このまま丸く収まるのではと期待していたのだ。
「……まず、おじいさんと、そこの人。二人分」
「おい、待ってくれ、そりゃおかしいだろう?」
宿の主人と板前とに、漬物や豆腐などの一部を分配。早速異論が上がる――親子連れの、あの父親だ。名を貫三郎と言うらしい。
「おかしいかな? 私はちゃんと、人数を考えて分けてるつもりだけど……?」
「おかしいだろ、そりゃあ! そいつが飯を喰える状態かよ、どう見ても無理だろう? だったらその分を――」
「お前、なんちゅう事を……! その言い様、許さんぞ、この……!」
未だに意識の戻らない重症患者に食糧を振り分ける。無意味な行動だという声も、まるで理が無いとは言い難い。然し宿の主人の側からしてみれば、板前は自分の宿で働いていた我が子同然の従業員であり、まだ生きている人間だ。死人同然の言われ方をすれば、怒りを覚えて然るべきだろう。
「許さないからなんだよ!? こんな場所に閉じ込められて、食糧も無くて……大体、なんで宿にこれっぽちしか食い物がないんだ!?」
「お天道様の機嫌に儂がとやかく言えたものか! 竜蔵は生きておる、もうすぐ目も開けるわい!」
「目を開けた所で、腹が抉られてたら同じだろう!?」
宿の主人が、貫三郎に掴みかかった。殴りつけようと拳を作り、それを必死で理性が留めている。貫三郎の方も、殴られれば殴り返すとの警告か、同じように拳を作り、これ見よがしに掲げていた。
「……ぇ、待ってよ二人とも、ねえ……こんな事で、いきなり喧嘩してちゃ……」
村雨はその間に割って入り、二人を引きはがそうとする。流石に第三者に殴りかかる程に追いつめられてはいないのか、互いに険悪な視線をぶつけ合いながらも、村雨に従って数歩の距離を開けた。
「ここに居ない奴らの分は、どうするつもりだ」
争いの気配が僅かに遠ざかった所に、外套の男の低い声が刺し込まれた。言わんとする所は、村雨には分かっている。桜の様に戻る確証がある人間ではなく、あの市目笠の女やウルスラの様に、戻るかどうか分からない者の事だ。
「……当然、一人として数えるよ。生きてるかも知れない――いや、生きてるに決まってるもん」
「それでこいつらが納得するのか? そこで生きてる奴に飯をやるかどうか、それだけで揉めてんだぞ」
外套の男は、親指で、先程まで争っていた二人の方を指し示す。非難めいた言葉に腹を立てたらしい貫三郎だが、外套の男が睨みつければ、蛇を前にした蛙のように小さくなった。
「する、しないじゃなく……納得してもらう。子供でも大人でも、男性でも女性でも、此処に居ても居なくても、一人は一人だよ」
「お前に何の権利があるんだよ!?」
喰い下がる貫三郎の事情を、村雨も分からない訳ではない。妻と子が飢え、更には何時襲われて殺されるか分からない状況下だ。自分が守らねばならないという意識が嵩じて、周囲全てに攻撃的になっているのだろう。その点に関しては、村雨は、自分に非難する権利は無いと感じていた。
だが実際問題、食糧の分配だけは平等に済ませたい。引きさがる事は出来ない。先程の様な睨み合いを、宿の主人に代わり、今度は村雨が繰り広げる事になった。
まるで方策が見えなくなる。感情を理屈で抑え込める程、村雨は口が上手くない。村雨自身が相手の心情に幾分か同調してしまっている現状では、尚更に解決は難しい様に思える。
「おい、食糧ならあるぞ。足りねえって言うなら特別だ、ただでくれてやる」
この状況での外套の男の言葉は、その場に居た者の意識を、一瞬で集めるものであった。彼はのそりと立ち上がり、化け物が開けた壁の穴の向こうに手を伸ばし――
「火は無えけど、な」
肩から切断された化け物の腕を二本、畳の上にごろりと転がした。血は抜けきって、死後硬直も解けた――村雨にしてみるなら、食べごろの肉であった。
「くっ、喰える訳ないだろう!? そんなもの、あの化け物の肉なんて……」
「人間の肉じゃねえ、熊の肉だ。食おうと思えば喰える筈だぞ……生、だが」
外套の男はそう言うと、化け物の腕に噛みつき、肉を噛み千切る。本当に自分自身で、それが食えるという事を証明して見せたのか。或いは、恫喝目的であるのだろうか。
それでも、自分から食うと言いだす者は、やはり現れない。人間の胴体から生えていた腕は、やはり人間の物であると感じてしまったのだろう。食糧は少ないが、尽きてはいない。今、共食いの真似事をしたがる者など、居る筈も無かった。
「怪我人や女から食い物取り上げるよりは、この方がマシだろうが……気に入らねえなら仕方ねえな」
化け物の腕を二本重ね、その上に外套の男は座り込む。帽子を畳の上に置いた。首から頬に掛けての体毛が、口の中の乱杭歯が露わになり、部屋の中の空気が張り詰めた。それは、男が純粋な人間ではないという証拠だったのだから。
「決めろ。そこの女に従って飯を分けるか、化け物の肉を食うか、どれも嫌なら俺に食われるかだ。この図体だ、腹が減ってんだよ」
皆、粛々と、村雨の分配に従った。
「……ありがとうね」
「あぁ?」
村雨は漬かりきっていない漬物を口に運びながら、外套の男の隣に座った。ヒグマの骨の一部を楊枝代わりに咥えたまま、男は視線だけ横に向けた。
「二人の喧嘩、止めてくれたじゃない。私、どうして良いか分からなかったから……それに、さっきもさ」
同じ境遇に置かれた者同士が、食糧が原因で争う様な惨事を、村雨は見たいとは思っていなかった。この男の様に、自分を共通の敵としてでも止めてくれる者が居た事は、期待だにしない幸運だったのだ。
思えば、助けられたのは初めてではない。智江と共に厨房に向かった時も、この男は天井裏から現れ、化け物を仕留めた。あれが無ければ、無事に部屋にまで戻る事が出来たかどうか――出来たとして、それが何時になっただろう。
「……鼠を狩ってただけだ」
「え……鼠?」
「飯が少なくて腹が減ったから……屋根裏の鼠を追いまわしてた。そしたらあの化け物が出た。美味そうだから狩っただけだ」
「……ぷっ、っく、あははは」
村雨は、思わず噴き出した。この長身の男が屋根裏で身を縮め、小さな鼠と駆け比べを演じる様子を想像してしまったからだ。何とも似合わず、おかしな光景だろう。
「それでもいいや、助かったし。捕まらないでいた鼠に感謝って所かな」
「捕まえたよ。食う所が少ねえんだよ。腹に溜まらねえんだよ」
自分は無能な狩人ではないとの主張は忘れない、外套の男。確かに鼠の一匹や二匹では、この男の腹を満たす事は叶うまい。
一通り笑った村雨は、ふと周囲を見回した。宿の主人やあの親子から、怯えと侮蔑の混ざった視線が、男へ向けられている事に気付いた。
「それに、隠してた正体まで見せて……嫌だったよね、本当なら。自分の生まれを、脅しの道具に使うなんて」
男に向けられている視線の冷たさは、男の人格だけに由来するものではない。亜人という生物に対する、日の本に特有の差別意識が、その大きな原因なのだ。
そも亜人とは、人間に近いながら、その上で獣の性質を強く持つ種族を差す。彼らは基本的に、人間より身体能力に優れ、知性も決して劣らない。反面、寿命が短い他、繁殖力に極めて難があり、確認されている個体数はかなり少ない。
特に日の本には、数百体程度しか亜人が生息していない。その多くは、山や森の奥深くに潜み、滅多に姿を見せる事は無い。その為に日の本の人間は、亜人という存在に慣れておらず、親しみも無い。それどころか、多くは恐怖心と敵意を抱いていた。
日の本で、亜人が人間に関わる事態と言うのは、多くの場合は悲劇的な結果を招いた。亜人の縄張りを踏み荒らし帰らぬ人となる者、獣と間違え亜人を殺してしまい報復される猟師、近親交配を避ける為に攫われる若い女、等々。そして、それに人間が抵抗し、多くは数の暴力で人間が勝利する。
自分達より優れていて自分達に好意を持たない存在が、生活区域の近くに潜んでいるかも知れない。過去の日の本では、亜人は伝承の鬼よりもさらに恐れられた存在であった。
然し、魔術の伝来と浸透により、その力関係は変わる。魔術とは人間の為に作られた技術体系であり、亜人の様な特殊な波長の魔力には馴染まないものなのだ。身体能力の差など如何様にも埋められる様になった以上、亜人に対する遠慮など、人間は一切考えない。ただ、頭を垂れて尻尾を振るのなら生かしてやっても良いと見下した。
個々人の見解などではない、もはや社会の常識として組み込まれた思想なのだ。例えどれ程に善良に生まれた人間であろうとも、日の本の常識だけで育ったならば、亜人は鞭でしつけるべき存在だと自然に見下す。それが、正しい在り方だと信じているのだから。
「どうでもいいんだよ、どうでも。生まれなんざ糞だ、金がありゃ何でも出来るんだ」
「嘘だよ、どうでもいい筈がない。自分が自分だってだけで、あんな目で見られるなんて……」
楊枝代わりの骨を噛み砕き、破片と共に言葉を吐き捨てる男。それが本心では無いだろうと、村雨は感じていた。智江の胸倉を掴んだ時の男は、確かに怒りを露わにしていた筈だ。
「……酷いよね、本当に。絶対におかしいよ」
男の横で、村雨は膝を抱える。長い年月を経て生まれた偏見は、それが理不尽でしかなくとも、覆す事など出来ない。それを良く知っているからこそ、悲しいのだ。
「何で、あの女を殴った?」
「……なんでかな、なんでだろ」
村雨は大陸の生まれだ。この国を訪れるまで、亜人が忌み嫌われる文化が有るという事さえ知らなかった。それを知ってしまった時の衝撃は未だに忘れる事が出来ないでいる。親身に話し合いに乗ってくれた人が、村雨に笑いかけたのと同じ口で、畜生の子よ穢れた半獣よと他者を罵る忌まわしい光景だ。
智江を殴り付けた理由など、単純に腹が立ったからでしかない。頭が真っ白になる程に怒ったから、何も考えずに殴ったのだ。強いて理由を上げるなら、我慢が限界に達したのがあの瞬間だったと、それだけの事なのだろう。
「食うか? 無駄に量は有るが、明日にはかなり腐ってるぞ」
「ううん、いらない。やっぱりさ、人の肉じゃないかって思うと……」
「味は熊肉なんだがな……まあ、いい」
男が差し出した肉を、手で押してつっ返す。それが熊の肉でしか無い事は、過去に自分自身で確かめてしまった。だが、もう一度味わう気分にはなれなかった。
「あなた、名前は?」
「……葛桐だ」
つっ返された肉を噛みながら、男はくぐもった声で答えた。
「そう、葛桐……私は村雨、よろしくね」
名乗り返した村雨に、葛桐はほんの僅か、首ごと顔を向けた。直ぐに視線を外し、自分の食事を継続した。
「ああら、あらあら、二人とも仲良くなっちゃってえ。ひゅーひゅー、お熱いですねぇ」
束の間の平和を乱す声は、食糧を全て食べつくし横になっていた智江のものだった。相変わらずの、人に安心感を与える笑み――然し、先入観を持って見れば、それは慣れ慣れしく厚かましい表情にも見えた。
「何の用だ、おい」
葛桐は慳貪だ。無理も無い、智江の葛桐に対する態度は、見世物小屋に珍獣を見に来る客と同じだったのだから。
「用ですか? いやいや、これと言う程の事も無いのですが……ちょいちょい、村雨ちゃん、失礼します」
「え? ……あ、ちょ、何?」
自分への冷ややかな態度を気に掛ける事もなく、智江は村雨の正面に周り、その顔を覗き込む。村雨は訝しげに眉を顰めた。
突如、智江の目が、髪の色と同じ程に赤く光った。目を逸らせず、村雨は、じっとその光を覗きこんだ。視界が暗くなっていく、そんな錯覚を受ける。夜の闇の中に提灯が浮かぶような、ぼうと滲んだ光だった。
「『お眠りなさい』、夢も見ずに安らかに。『お眠りなさい』、どうせ何時かは覚める夢。夢の終わりを遠ざけたいなら、素直に寝りゃあ良いんです」
声が遠くなる。意思に関わらず、瞼を開けて居られなくなる。膝を抱えた姿勢のまま、村雨は横向きに、畳の上に倒れ込んだ。すうすうと、穏やかな寝息を立てていた。
「……てめぇ、何をしやがった……!?」
「『The Hanging Tree』――あの桜という方がここを離れたのは、全くの幸運でした」
智江が村雨に、何らかの魔術を行使したのは明らかだ。理由を問いただそうと葛桐は手を伸ばしたが、手首に突如糸が絡み付き、首に沿うように締めあげられ、壁に張り付けられる。
そして、部屋に白い霧が充満する。気付けばあの親子連れも宿の主人も、一様に畳に伏していた。
「やっかいものは彼女一人、乾きで弱るまで放置しましょ。その間の玩具と実験動物も確保ー、私ったらなんて手際の良い!」
部屋の中、立って動けるのは智江ただ一人。眠る村雨を、壁に張り付いた葛桐を、骨董品にする様に撫で回す。
「アッハッハッハッハ、さーあて彼女が戻る前に運びますよー、『Dimension Gate』!」
耳の奥に針を刺されたかの様な、甲高い音が響く。部屋に籠る霧が消えた時、そこには誰も残っていなかった。ただ、部屋の中央に、固く閉ざされた鉄の扉が存在するだけだった。