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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
東海道中女膝栗毛
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赤い壁のお話(5)

 悲鳴を上げる人間が減ってしまい、寧ろ静かなものだった。親子連れが身を寄せて抱き合い、宿の主人は放心状態で、従業員の血の中に座り込んでいる。桜は己への苛立ちを隠さず、床を強く踏みつけた。


「ああくそ、無駄な死人を……!」


 例え壁の向こうであったとは言え、日本家屋の薄壁だ。あれほどに奇怪な気配の存在、全く気付けない理由も無い。一体を殺し、村雨の無事を確認した時点で気を抜きさえしなければ、まだどうにかなったのではないか。

 いや、実際は無理だっただろう。例え行動が一歩早まったとしても、あと一歩の距離で、やはり二人は首を飛ばされた。助かるとしたら、今現在腹を抉られて瀕死の板前、ただ一人だけだろう。


「おい主人、薬と包帯、針と糸! どこにある、さっさと教えろ!」


「あぁ、ああああ……は? はり、薬、え……?」


 二人分の首からの鮮血の中で、宿の主人は未だに呆けたまま、真っ当な会話も成り立たない。桜に詰め寄られても尚、自分が置かれた状況を理解できず、立ち上がろうともしなかった。


「そりゃあ無理ってもんです、縫い合わせてどうにかなる状態じゃあない。肉がごっそり取られてるんだ、普通じゃあ血が止まりませんよ」


 壁の穴から、智江が室内に戻ってくる。両手に抱えた食糧は、見た限り十分とは言い難い。不幸にして食事を出来る人間が二人――重症患者も無理と考えれば三人減った為、少しばかりは余裕が出来てしまっているのだが。


「……では、どうする。見殺しか?」


 こうなってしまっては、もう混乱を避けるという考えも無意味だ。助けられるなら良いが、助からないなら仕方がない。過ぎてしまった事と、桜は普段の非情の思考を取り戻し始めた。


「いえいえ、ちょいと避けてくださいな……ううわ、浴衣がべちゃべちゃ。もう何色だか分からないですねえこりゃ……」


 だが、桜の思考は剣士の物である。魔術師である智江ならば、この状況はまだ、手遅れとは考えない。腹を抉られた板前の横に胡坐を掻いて、傷口の引き裂かれた肉に指を触れさせた。


「いいですか? 獣の爪や牙ってのは毒を塗った鏃みたいなもんだ、まんま傷を塞いだだけじゃあどうにもならない。傷が腐って肉を落とさない為にゃあ、消毒ってもんが必要なんです……『purification』」


 その詠唱は、日の本の人間には聞き慣れぬ響きであった。単語一つの極短詠唱、智江の指先から無色透明の液体が染み出し、板前の傷口に、膜状に張り付いていく。


「それは……所謂、治癒魔術という奴か?」


「ご名答。『I command』、消毒さえ澄ませば、後は血が流れきる前に傷を塞ぎ、欠けた血肉を補えば良い。『alternative flesh and blood』、このやり方、寿命を年単位で持っていっちゃうから好きになれないんですがねぇ」


 透明な膜の下、傷口の肉が、植物が伸びていく行程を早回しにするかの様に回復していく。形状は歪で皮膚も薄く、元程の強度は無いのだろう事は明白だが、それは桜にして見れば奇跡の様な光景であった。

 傷口の治癒は、極めて難易度の高い術だ。指先の皮膚を切ってしまったという程度なら、皮膚同士を癒着させれば良いだけだから話は早い。だが、肉が抉られたり骨を欠損したり、或いは内臓に負傷を受けた場合は、相当に高位の術者であっても回復させる事は難しい。その理由は偏に、人体の複雑さに在る。

 精確に人体の構造を把握し、適切な箇所に適切な部品を宛がい、正しい比率で調節された体液を補填し、血管や神経の繋がりを忠実に再現する。魔術だけに生を注いでいては、これらの条件を満たして治療魔術を行使する事は出来ない。


「……本職は、医者か?」


 書物からの知識では補えない、真に人体との戦いを重ねた者だけが許される技術。智江の魔術は桜の目に、正しく魔の領域と映った。


「どちらも本職です。生憎と死なせる方が得意な医者ですけれどねえアッハッハ……と、これが限度でしょうか」


 指が離れた頃には、板前の抉れた傷口は、元よりは少ないながら筋肉が再生している。その上に張られた皮膚も、妙に白く毛穴も見えない様な物ながら、紛れも無く皮膚として機能していた。


「あんまり動かさないでくださいよ、内側の方はまだちょいとくっついてない部分がある。明日まで食事は禁止、寿命は多分三年から五年は縮みました。脇腹は痛みが残るでしょうし、腕の方はかなり動作が鈍くなりますが……まあ、生きては行けますよ、ええ」


 酷な宣告だが、命には代えられない。桜も、横から咎めだてする気にはなれなかった。

 智江は板前から離れた場所で、疲労も露わに畳に転がる。治療からそこまでの一連の光景を見届けた桜の下に、村雨が駆け寄った。


「大丈夫だった……みたいだね」


「私はな。他はこの通りだ……食糧はあれだけか? 水は?」


「大分喰い荒された、後は漬物が樽二つ。水は厨房には無かったよ」


「そうか、分かった……かなり辛い状況だな」


 村雨は、ただでさえ白い肌を青ざめさせていた。人間がこうも簡単に死んでいく、死の瞬間をいくつも見せられた、鋭敏な嗅覚は殆ど血の臭いしか捉えない。体よりも精神の消耗が激しい事は、桜には一目で見て取れた。


「暫く寝ろ、脱出手段の捜索は後だ」


「え……? でも桜、今の状況じゃ」


「良いから寝ろ、雇用主命令だ。お前一人寝た所で、戦力はさして変わらんわ」


 気乗りしていない村雨の肩を抑え、無理やり座らせ、仰向けにさせる。布団や枕は無いが、夏ならば寒さを感じる事も有るまい。無理にでも休息を取らせておかねば、後々に何が起こるか分からないと、桜は考えたのだ。自己本位の考え方ではあるが、今ならばまだ弾除けも多いのだから。


「……! おい、お前は……それをどうする気だ、答えい!?」


 宿の主人は、やっと言葉を取り戻した様だ。外套の男に掴みかかっている。男は右肩に従業員の首無し死体を二つ抱え、左手に首を二つ抱えていた――あの怯え啜り泣いていた女と、慰めていた老婆の物だ。


「腐る前に捨てる。喰えねえだろう?」


「お前っ……! 許さんぞ、そんな事は決して!」


「じゃあどうする。放置して、あの化け物を呼ぶ餌にするか? それとも虫を沸かせるか?」


「ぐ、ううぅ……!」


 理屈だけで言うなら、外套の男の言う事は正しいのだろう。言い返せず、だが感情では納得がいかず、宿の主人は歯ぎしりをする。強く握りしめた拳は、爪が掌に刺さったのか血を流していた。小肝ながら従業員を思う、優しい老翁であるらしかった。

 死体が運ばれていくのを、桜は何の感慨も無く見送った。全く妥当な、必要な措置であると思った。少しばかり広くなりすぎた部屋を見回し、ふと気付く。


「……ウルスラ、居るか?」


 返事は無い。ウルスラに見張らせていた市目笠の女が、いつの間にか部屋から消えていた。





「くふふ、くふ……みぃんな皆いいカモね! ……あ、こっちにも有った有った」


 化け物の襲撃で、宿に居た者は皆、一室に集まってしまっている。慌てて走った者などは、財布も部屋に残したままだ。そういう状況下では、欲を出してしまう者もいる。例えばこの女――たまという名の護摩の灰など、好例と言えよう。

 普段は旅の男に目を付け、言葉巧みに擦り寄り宿を共にし、そして夜の間に財布を盗んで逃げていく。どれ程に脆い生垣であろうが、一切傷を付けずにするりと抜ける腕前から、この女は仲間内で、垣抜けの珠と呼ばれていた。

 その珠が何故此処に居るのかと言えば、皆の目が化け物に破られた壁に向いた瞬間、さっと部屋を抜けてきただけの事であった。戻ればあれこれ咎められるかも知れないが、厠へ行っていたと言えばそこは女人たる己の事、酷く追及もされまいと踏んでいる。


「おー、大金じゃん。しかも財布は印伝よ、これは高く売れる……!」


 珠が手にしていた財布は、あの親子連れが部屋に残していた物の様だ。就寝前のこと故、財布を懐に入れていては寝心地も悪いと、風呂敷に包んでいたものであろう。

 桜や外套の男、それに智江などは、財布を持ち歩いている。流石の珠も、人ごみに紛れられない状況では、スリをしようとは思わない。そんな方法よりもっと賢いやり方を、幾つも幾つも知っていたのだから。


「これでー……いち、にいの、さん! きゃーん、あたしったらお金持ち! そうよ、金は天下の回し者っていうもんねー」


 ことわざを少しばかり間違えながら、珠は財布を三つ、お手玉のように弄んでいた。一つが、今此処で荷物から抜き取ったもの。そして残り二つは、従業員の荷物が有った部屋から盗んだ物――つまりは、持ち主が既に死んでしまった財布である。

 死体から直接に金目の物を剥ぎ取れば、悪鬼餓鬼の所業と謗られる。だが、誰ももう見向きもしなくなった物をこっそり拝借するのは、慎ましく謙虚な良い盗みではないかと、それが珠の主張であった。

 期待以上の収入に、思わず天井に届くまで財布を投げ上げてしまい――その財布が、自分の頭上で静止したのを見て、珠は元々丸い目を更に丸くした。


「……盗みは悪い事らしいですよ? 捕まらなかったり、ばれなかったりしても、やっぱり駄目だそうです」


「だだだだだれっ!? 誰なの!? え、お化け? 化けて出た!?」


 声は珠の背後から聞こえたが、振り返っても誰もいない。財布はやはり頭上に浮いたまま、落下して来ようとしない。お役人と幽霊が好きになれない珠は、よもや死人が財布に未練を残したかと冷や汗を掻いた。 

 逃げ腰になっている珠の前で、まず小袖だけが、ついで中身の人間が、透明化を解除する。亡者かとの懸念を打ち消す様に、虚空に突如出現したのはウルスラであった。


「悪い事らしいんですけど……どうしましょう。止めた方がいいんでしょうか?」


「は、はあ? ……いや、あたしに聞かれても」


「そうですか。では、桜に聞きましょう。皆の所へ戻りますよ」


「え、あいやいや待って、ちょっと待って!」


 むんずと珠の手首を掴み、ウルスラは桜達と合流しようと歩きだす。逆方向に体を傾けて、珠はどうにか踏みとどまった。お手玉の最中だった財布を二つ落としてしまったからだ。この切迫した状況での執着に、ウルスラはまた興味を抱いてしまった。


「そんなに、お金は大事な物のですか?」


「え? そりゃあ大事に決まってるじゃないの」


「現状で桜から離れる事は、自分の命を危険に曝す事になると思うのですが。お金とは、命に代えられる程の価値を持っているのですか?」


 実際の所、珠も命より金が大事な守銭奴という訳ではない。ただ、今の危険を甘く見て、盗みを実行に移せる好機であると誤謬に辿り着いただけである。こうして疑問の形にされると、相手を納得させ得る答えが見つからず、珠は渋い顔をする。


「……あんた、なんか変な子ね」


「そうでしょうか? 自覚は無いのですが」


 こういう手合いは、素直に言う事に従えば、あまり厄介な事にはならない。そういう経験則に従い、財布を拾った珠は、腕を引かれるでもなく戻ろうと歩き出す。

 まさにその時、白い縄の様な物が二本、珠とウルスラの首を狙って飛来する。彼女達が、それぞれの生業に由来する直感によって、左右に飛び退いたのは全くの同時であった。

 回避され、後方の壁に張り付いたのを見る限り、その糸は粘着性と強度に優れた物であるらしい。壁の一部が片方の糸に引っぺがされ、射出元へと引きずられていった。


「きゃ、何!? え、蜘蛛!? 蜘蛛のお化け!?」


「これは……西洋魔術の……?」


 ウルスラの知識の中に、これに近いものは存在する。地と水の要素からなる、植物の樹液の粘性を極端に増幅させた糸だ。最も、壁の一部を引っ張って抉る様な力を発揮する物となると、実際に見た事は無い。ウルスラ自身、得意な分野とは大きく外れている為、真似が出来る物では無かった。


「誰ですか? こういう行動を取られると、あまり愉快には感じないのですが」


 返事は返らない。自分に好意を持っている相手で無い事は確かだと認識した瞬間、ウルスラの姿は徐々に消え始めた。

 ウルスラの隠蔽術は、自分自身の体に作用させる時に最高効率を発揮し、衣服などに適用させる場合には魔力消費が大きくなる。その為、完全に姿が消えるとほぼ同時に、ウルスラは身につけていた小袖から脱皮する様に抜けだし、すぐさま壁際でしゃがみ込んだ。

 斜め後方、珠が困惑している声は意識から切り放し、未だに一本伸びている糸の先、射出した術者を探す。姿を隠している訳では無かった為、それは直ぐに見つける事が出来た。

 袖の無い、まるで飾り気も無い一枚の布で作られた羽織の様な衣服――ウルスラは知らないが、諸外国ではレインコートなどと呼ばれる、開発されて日もまだ浅い外套――を身に付けた、一人の少女がそこに居た。肌は浅黒いが、しかし夜の黒に紛れる程に暗い色ではない。髪の色合いは日の本の黒に近いが、この国ではあまり見られない、自然と波打つ髪質をしていた。


「透明化とは、器用な芸を身につけていらっしゃりやがる様ですね。あの『人工亜人できそこない』の餌の挽肉にでもしてやろうかと思いましたが……ええ、あの歩く傍迷惑もはしゃぎ腐るでしょう」


 敬語に、敬意を一切感じない粗野な言葉が混ざる、独特の口調。対象をただの道具か、せいぜいは実験動物としてしか見ない、見下した視線。ウルスラはほぼ直感的に、これが今回の件の原因――の、少なくとも一つでは有ると理解していた。


「捕獲します、動きやがったら頭に風穴ぶち開きますから気を付けて」


「ご親切にどうも。忠告を受けたら礼を返せ、と習いました」


 レインコートの少女が、弓を引く様な姿勢を取る。矢を番える形の右手からは、未だに一本、あの白い糸が伸びたまま。先程見た光景を元に、背後から飛来する壁の破片を、ウルスラは警戒した。

 そして、狙うのは先手では無く、後手。視覚聴覚の両面から完全に隠蔽されたウルスラは、相手に気付かれぬまま接近する事を得意とする。何らかの集団で攻撃を行おうとして空振りしたその瞬間、顎を打ち抜いて意識を落とす。これまでに幾度となく繰り返した戦術は、敵の技量が精確に掴めない時、やはり最も信用のおける攻撃手段である。


「な、何がなんだか分からないけど、とにかくあたしも!」


 斜め後方、珠が何か武器を構えたらしい事は、音を聞けば推測出来た。体格からすれば、小刀か脇差だろうか。何れにせよ、手が二本増えればそれだけ有利になる。心強く思い、右足を前に出して体重を掛け、機と見れば直ぐに飛び出せるように構えた。


「後ろの貴女は要らねえんですよ、この低俗卑賤のみすぼらしいこそ泥風情が……『sublimate』」


 突如、少女の手から伸びていた糸が、大気中に溶けるように霧散した。白い霧がウルスラと珠を覆うように広がり、忽ちに二人の視界を奪ってしまった。無臭の気体である、吸いこんでも呼吸が阻害される感覚は無い。だが、霧の中では、透明化したウルスラも、体の輪郭が浮かび上がり、位置が明確に特定されてしまう。


「成程、こういう手段が有る訳ですか……参考になります」


「余裕ぶっかまして下さってる場合でございやがりますか? 後ろ、後ろ」


 霧の向こう、姿は見えないが、少女が何かを告げる。思わず促されるまま、ウルスラは背後を振り返った。短刀を構えた珠が立っているだけだ――いやに、足元がふらついているが。


「……しまった」


 咄嗟に、機を窺う事さえ捨て、見えぬ敵へと目掛けて走り出す。三歩と行かず、ウルスラは床に倒れ込んだ。

 無臭、呼吸器には無害の煙幕。あまりに優しすぎる術では有るが、その実は肺から手足に浸透する麻痺毒。気付いた時にはもう立ち上がれなくなっていた。おそらく背後では、珠も同じ様に、廊下に倒れている事だろう。

 首も曲がらない。床を見つめていると、裸足の足音が近づく。音はかなり軽い。


「実験動物、二匹確保。くそ簡単な仕事でございましたね」


 ウルスラの首に、糸が束ねられて出来た縄が巻きつく。呼吸と脳への血流を阻害され、間もなく彼女の意識は闇に消えた。

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