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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
東海道中女膝栗毛
30/187

赤い壁のお話(4)

 時間の経過と共に、激していた者達も、次第に状況を把握して冷静になっていく。

 例えば、妻子連れの父親は、いかに子供を飢えさせないかをまず考えている様だ。宿の従業員やら、外套の男やらの方に脚を運び、食糧を分けてもらえないかと相談を持ちかけている。

 然しながら、保存食などは持ち歩かないのが旅の慣習であり、一室に集まった全員が、干し芋や干し肉の一切れも持ち合わせていなかった。


「くそ、っくぅ……、ああ、すいませんそこの人。申し訳ないんですが……」


「無いぞ、何も。酒なら有るが、あれは飲むと喉が渇く」


 桜も、やはり話は持ちかけられたが、分けてやれる様な物は何も無い。突き離す様な言葉になってしまうのも、仕方が無い事ではあった。


「……こうなりゃ、外へ出るしかないか」


「こら待て、下手に動くな。面倒事を余計に増やすのではない」


 男は、護身用なのだろう脇差を鞘から抜いて、廊下へ出ていこうとした。その襟首を桜は後ろから掴み、室内へ引き戻す。


「食い物を探してくるんだ、あんただって飲まず食わずじゃ居られないだろう? こういう時は男が働くもんだ」


「その心意気は素晴らしいがな、危ないぞ。あの死体を見ただろうが」


 男の表情は俄かに曇る。顔が判別できない程に潰された女性従業員の死体を、そして胴から両断された怪物の死体を、思い出してしまったのだろう。あの化け物は、常人が武器を備え魔術を用いた所で、到底抵抗しえない存在だ。この父親は、彼我の技量を測る力に長けずとも、本能の領域で勝てない事を悟っている筈だ。


「……っだけど、だけどよ! このまま閉じこもってた所でどうにもならないんだぞ!? 外へ出る手段か、助けが来るまで食い繋ぐ手段を……」


「それは分かっているが、お前では駄目だ……と言うより、無理だ。大体な、子供連れが自分から死にに行く様な真似をしてどうするか、この馬鹿。頭を冷やして、ここに居る人数を数えてみろ」


 桜は、男の襟を高々と、猫を掴むように持ち上げた。女に持ち上げられるという異常事態に、父親は驚愕を顔に浮かべながらも、素直に室内の人数を数え始める。


「いち、にい、さん、よん……はち、きゅう、俺を入れて十。あ、ありゃ?」


「そうだ、十人。慌て過ぎて気付かなかったのかも知れんが、既に食糧を取りに二人――ん、んん?」


 もう別な誰かが動いている、と言う事を、桜は教えたかったのだ。だが、男が数え上げた人数と、自分の記憶している人数が合わない。部屋に集まったのは十三人だから、村雨と智江が抜け出しているなら、ここには十一人居る筈なのだ。


「ひい、ふう、みい、よお……確かに十人だな。んん……?」


 妻子連れの父親から手を放してやり、桜は改めて室内の人数を数える。やはり十人しかいない。誰が抜け出したものだろうと考え、それはあの外套の長身男だろうと気付いた。


「金の臭いでも嗅ぎつけたか……?」


 あの男なら心配も有るまいと、安堵の溜息を一つ。勝手に死なれる事よりも、混乱が広がる方が余程怖い。そのどちらも、あの男ならば問題は無いだろうと桜は考えていた。





「……よし、周りは安全。今の内に持っていこう」


「はい、はい、はいな。とは言うものの、このザマではねぇ……」


 村雨と智江は、別段何事もなく、厨房に到着していた。長居して楽しい場所でも無い故に、早々に食材や必要最低限の調理器具だけを持って戻りたい所である。幸いにも現在、周囲にあの化け物はいない。

 だが、村雨達の予想以上に、この厨房の食材は貧相であった。おそらくは、今日辺りに何処かから纏めて運び込む予定であり、それが大雨で果たせなくなったのだろう。

 大根やごぼう、なす、ふき、それに切り干し、豆腐、漬けものが何種類か、米、味噌、塩、醤油。魚の様に、極端に悪くなりやすいものは無かった。だが、どれもこれも、調理しない事には食えそうもない食品ばかり。辛うじて豆腐に醤油を掛けて食うとか、漬けものと味噌で飢えをしのぐという手段も有るだろうが――


「全部料理出来て、十三人なら三日か四日……水が使えなきゃ、今日一日で食いつくす程度ですかねえ……」


 ――とてもではないが、足りない。脱出の見通しが立っていない現在、この量の食糧しか無いのでは、とてもではないが安心などしていられない。


「油揚げとかありゃ良かったんですが、仕方がない。とりあえずこれだけでも運びましょ、何も無いよりゃ随分増しだ。夕食が済んでた事を幸運に思うべきですねぇ」


「本当にね。少なくとも、明日の昼くらいまでは食べ物の心配はしなくて良いし……」


 本当なら、それまでには脱出の術を見つけていたい。赤い壁からの光で照らされ続けるのは、灯りも無しに歩き回れるのは良いのだが、やはり心地好いとは言い難いのだ。

 だが、今は夜間。外からの助けは期待出来ないし、昼行性の生き物の性で、その内にどうしても眠気は訪れる。次に空腹を感じるまでに打開策を見つけられるなどと、自分に都合の良い未来を描ける村雨では無いのだ。


「さぁてさて、そんじゃ手に収まるだけでも運びましょ。そのまま食えるもんだけ今は運んで、残りは必要な時に取りに来りゃあ良い」


「そうだね、漬物の桶を私が運ぶから、豆腐と醤油と、あと――いいや、待って」


 荷車の様な物でも有れば良かったと思いつつも桶に手を掛けた村雨だが、直ぐにそれを手放し、人差し指を立てて唇に当てた。床に両手を付き、頭を低くする。鼻を小さく動かしながら、智江にも姿勢を低くする様にと、後ろに回した手で合図を出す。

 それが何を意味するものか、智江も直ぐに理解したのだろう。何を尋ねる事も無く床に膝を付き、村雨の耳元に口を寄せた。


「……出ましたかねぇ、何匹居ます?」


「近くに一、ちょっと離れて……多分、二。ヤバいよ、一気にこんなに……いきなり、出てきた」


「いきなり?」


「臭いも何も無い所に、いきなり臭いが出て――来る、しっ……」


 村雨達が居た場所は、厨房の入り口から見れば、棚に隠れられる位置。ここから動かない限り、直ぐには相手に察知されない筈だ。幾らかの安全を確保された場所から、村雨は近づいて来た臭いの元凶を、そっと覗きこんだ。

 足音だけを聞くなら、少し体重の重い人間のそれである。影の形も、ぱっと一目見るだけならば、人間と思い込む事も有ったかも知れない。然し、やはりその怪物の両腕は、巨大なヒグマのそれであった。半開きで涎を零す口、意思の力の無い目などは、それに知性と呼べる物が備わっていない事を示している。


「……入口、塞がれちゃいました?」


「うん、最悪だ。動くまで待とうか……」


 廊下に繋がるただ一つの場所に、あの怪物が居る。正面から突っ込んでどうにかなる相手でないと言う事は、村雨は、自分の身で散々に知らされている。棚の影から様子を窺い、逃げるか先手を打って怯ませるか、そのどちらかを選べる好機を待つ。

 あの化け物の脅威は、腕と爪の威力もさる事ながら、異常な反射速度にも由来する。二歩の距離が有れば、おそらく今の村雨の全速を以てしても、易々と丸太の様な腕に防御されてしまうだろう。かといって逃げようと考えるなら、智江の脚力が如何程かは分からないが、五歩以上の距離が無ければ、爪の餌食になりかねない。

 現在、怪物との距離は三から四歩という所だろう。どちらの行動に出るにも半端で、危険な距離であった。

 焦慮が募る。桜にこの状況を知らせたいが、叫べば自分達の位置が怪物に伝わる。化け物は少なくとも三匹。桜がこちらへ来れば、残り二匹があの部屋に踊りこむかも知れない。


「智江さん、いけそう?」


「正直、ありゃあちょいと怖いですが……あと三歩、入口から離れてくれれば……」


 ばり、ぼり、と咀嚼音が聞こえてくる。音の瑞々しさからすれば、生の野菜を喰っている音なのだろう。歪に小さな体に長い脚、巨大な腕、幾ら喰おうが体を養いきれない不完全な生物。貴重な食料が減っていく。あれは常に餓えているのだ。

 手の届く範囲の野菜を喰い荒し、一歩。そこから豆を口に運ぼうとして、大雑把な作りの手がそれを零す。腹立ちを示す様に、村雨達が隠れる棚を、反対側から爪が一撃した。幸いにも破壊はされず、倒れもしなかった。ただ、激しく揺れただけだ。

 また一歩、米櫃に爪を引っかけた。床にぶちまけられた白米を、這い蹲る様にして口に入れていく化け物。人間の顔をしながら、人間の様な行動を取れないそれを、村雨はただおぞましく感じた。あんなものが、昔は人間だったのかも知れないと、考えたくも無かった。

 あと一歩、入口から離れて欲しい。そうすれば、化け物の後ろを通り抜け廊下にまで逃げ切れる。そのまま追いつかれずに、あの部屋まで戻る事が出来るだろう。既に走り出す構えは取った。

 然し、村雨の祈りは天に通じない。化け物は向きを変え、自分が一撃を食らわせた棚の方に近付いてきたのだ。まだ、村雨達に気付いてはいないのだろう。気付いているなら、棚ごと叩き潰す様に爪を振るって来かねない。とは言えど、状況が悪化した事に代わりは無い。

 悟られるまい、悟られるまいと息を殺す。身じろぎ一つせず、耳と鼻に全ての意識を集中させる。こうなれば、いっそ見つけられた瞬間、脚に体当たりを仕掛け、そのまま押し倒して走り抜けるべきか――と、逡巡さえ終わらぬ間の出来事であった。

 化け物の頭に、天井の板が落下、直撃する。当然だが、その程度で負傷する様な化け物では無い。が、何事かと上を向いた。


「シャアアアッ!」


「……!? あれは、たしか……!」


 小型の獣の様な、甲高い叫びであった。天井板に遅れる事一拍、見上げる化け物の顔目掛けて落下してきたのは、あの外套の男の右手だった。咄嗟に化け物は、右の爪を以て、その首を叩き落とそうとする。振るわれた掌に掌を打ち合わせる事で、男は側面の壁に自ら弾き飛ばされ、そこから床に降り立った。

 倒立落下により帽子が床に落ちた様を改めて見れば、異相の男である。首から頬の半ばまでを覆う、黒よりは寧ろ茶に近い体毛。開いた口の隙間に、僅かに見えた乱杭歯。長い腕の先には筋張った手。爪は短いが、それは猛禽の様な厚みを誇っている。

 化け物は、男の頭を叩き潰さんと腕を振るう。化け物の背丈はおよそ六尺、外套の男より六寸低い。頭部を狙う横薙ぎの爪は、自然と打ち上げる様な軌道を描く。その下を潜り、男は易々と、化け物の背後を取った。

 そして、大口を開けて喰らい付く。頭を横へ傾け、化け物の背後から、その首を完全に挟み潰す様に。乱杭歯が肉を貫き、血管を切り裂いた。


「……ィッガッ、ギィオ、アギッ!? ギャッ!!」


 ヒグマの腕では、背後の敵を叩けない。化け物は腕を振り回して暴れるが、外套の男には爪が届かない。

 そして、化け物の足が床から浮いた。二十五貫(約90kg)の肉の塊が、顎と首の力だけで持ち上げられた。男が顔を天井に向けた事で、化け物は大きく背を反らせ、喉を天井へ向ける様な形になる。


「ゥゥゥウウオオオオアァッッ!!」


 獲物に噛み付いたまま、男が吠えた。動脈血で顔を染めながら、男の牙は化け物の頸椎に到達した。新鮮な肉と血の臭いに、村雨の食欲が湧きたてられる。一方で、人だっただろう生き物を、人型の生き物が殺す事に嫌悪感も湧く。眉を顰めながら、頬に飛んだ血を無意識に拭い、舐めた。

 化け物の頸椎は完全に押しつぶされ、胴体と頭部が男の牙によって分断される。床に転げ落ちた化け物の頭を、男は足の甲で拾い上げ、毬か何かの様に天井裏に蹴り込んだ。

 残された胴体の腹に分厚い爪を喰い込ませる。手足に比べて弱い肉に指先は容易く沈みこみ、化け物の腹筋は左右に引き裂かれた。男は、屍の腹中から零れる臓物に喰らい付き、首を振って引き千切り、天井を向いて喉を開き、飲み込んでいく。


「うわぁお、こいつは驚いた、まさかまさかまさか――」


 凄惨な食事の光景、床に溢れる血で足を汚す事も厭わず、智江は歓喜を正直に表に出し男の傍らに立った。手を伸ばし、男の首の体毛に触れる。鬱陶しそうに男はその手を払ったが、智江は退く様子を見せない。


「亜人でしょう? 亜人ですよね? それも貴方は……混血種だ、そうでしょう? 嗚呼、嗚呼、こいつぁ凄い! まっさかこの国で見かけるなんて……! ねね、ちょっと手足触って良いですか?」


 伊達で知られた若者に出会った、町娘の様に。或いは、念願の伊勢参りを十数年越しに果たした貧者の様に、智江はこの僥倖に感謝していた。男の二の腕に外套越しに触れ、振り払われてもまた直ぐに、次は背中に触れる。軽く突き飛ばされて血溜まりに尻もちを付いてもまるで堪えもせず、次は正面に回り込み、食事の光景を覗きこむ。


「うん、間違いない。イタチにも似た耳の形状、牙の作り、頑強な四肢に顎と来たならば、ねえ? 容姿や皮膚から察するに、半分はこの国の――」


「煩えぞ女、口を閉じろ」


 智江の胸倉を右手で掴み、男は立ち上がる。女性としては長身の智江だが、この男に掛かればやはり小柄な女でしかない。足が床から浮いた。

 それでも、智江は喜ばしげであった。自分を掴む男の手に触れ、肌の感触、爪の固さを楽しんでいた。それが男の怒りを更に掻き立てたのだろう。左手が拳を作り、止まらない口を潰そうと振るわれた。

 それを防いだのは村雨である。智江を体で突き飛ばしつつ、男の手を、両腕使って真上にかち上げた。床に落下する智江の頭上を、男の拳が素通りする。


「……おい、この――」


「いい加減にしろっ!」


 邪魔をするなと、男は村雨に警告しようとした。村雨は男を見ず、それどころか智江を怒鳴りつけ、更にはその頬を殴り付けた。

 男の拳に比べれば威力は低いとは言え、智江は体勢を崩しており、村雨は同世代の平均より遥かに身体能力が高い。智江は大きく数歩後退し、背を棚に打ち付け、大量の皿と共に床に倒れた。


「……村雨ちゃん? 貴女……」


 頬を抑えながら、智江は上半身だけ起き上がらせる。目の焦点が定まっていない、直ぐに立ち上がる事は出来ないだろう。何が起こったかは分かるが、どうしてそうなったかが分からない、そんな表情を、智江は見せていた。常に浮かべている笑みは、何処かへ消え失せてしまっていた。

 男もまた、奇異な物へ向ける目で村雨を見ていた。受けられた拳を引く事も忘れて、自分より一尺六寸も背が低い少女の突発的な激情に、只でさえ少ない言葉を更に失っていた。


「あ……! あ、ごめん、その……えと、ごめん……」


 だが、この三者で最も動転していたのは、誰あろう村雨である。自分の拳を無かった事にしたいかの様に両手を背に回し、智江から必死に隠していた。詫びる声に、普段の快活さは無い。自分に過失が有ると自覚する者の卑屈さだけが見受けられた。

 割れた皿の中で智江が立ち上がる。破片で切ってしまったのか、掌から幾つかの出血が見られる。表情の抜け落ちた顔のままで浴衣を払い落す彼女に、村雨はまた何度か、ごめんと呟くように繰り返した。


「……さーてさて、戻りますよ。村雨ちゃん、確か臭いは三頭って言ってましたよね?」


「あ……! いけない、早く戻らないと……!」


 謝罪が聞こえていないかの様に、智江は厨房に残った食材の内、調理せずに食べられるものだけを拾い集めた。漬物の桶は重量が有る為、ここでは諦めた――と、外套の男が、片手に一つ、桶を掴んだ。

 村雨は逃げる様に厨房を抜け、廊下を走っていく。二十も数える頃には、あの部屋に戻っているだろうか。その後ろを智江が、そして外套の男が、周囲の警戒を怠らず歩いて追随した。





 避難所の様相を呈する部屋は、咽返る様な血の臭いに塗れていた。部屋の入り口、本来なら襖が閉じている筈の場所に、仰向けに倒れた死体が原因である。

 ヒグマの腕を持つその化け物は、心臓を一刺しに貫かれていた。惨たらしい死体を作る事は、恐怖と混乱を更に煽りたててしまうだろうという、桜の配慮である。然し、出血量までは抑える事が出来なかった。畳は、板張りの廊下は、赤から黒へ塗りつぶされていく。

 何の前兆も無かった、ただ気配を感じただけだ。目を向ければ、そこに化け物がいた。警告も何も無く、先手を取って殺害したが、それこそが最善手であろうと桜は考えていた。

 この化け物は喰らう目的で人を殺し、然して肉の一切れも飲み込めない矛盾した生物だ。生きている限り、意識のある限り、生物を襲って捕食を試みる。生物としての設計が、人間と決して相容れぬ存在なのだ。


「早いな……もう次か」


 最初の襲撃から四半刻と経過していない。幸いな事に今回の死傷者は無いが、然し室内にはまた恐怖と混乱が広がり始めていた。


「ぃい、い、いや……なんでよぅ、なんでまだいるのよぅ……! もう死んだんじゃなかったの……?」


 宿の従業員の一人が、部屋の隅で身を縮めて啜り泣く。彼女は最初の襲撃で、目の前で同僚を惨殺されていた。怪物への恐怖心は、この部屋の誰よりも辛いだろう。従業員の中で最年長だろう老婆が、その肩を抱いて慰めている。


「ねえお母様、怖いです、ねえってば……」


「お前は寝るの、もう遅いのよ……ほうら、安心して、ね……?」


 家族連れの母親は、娘の目に黒い布を巻き、何も見せないようにしていた。子を落ち着かせようとする彼女自身、目に涙を浮かべ、声も弱弱しく震えている。その横では父親が、たった一つの異変さえ見逃すまいと、脇差に手を掛けて目を光らせる。

 気の休まらぬ状況だ。戦場の最前線に在る心持ちで、太刀は鞘に納めず、血を払うだけに留める。刃渡り四尺『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』の黒刀身は、荒く振るって欠けも歪みも無い。

 部屋の中央に立ち、耳を澄ます。すると、小刻みな軽い足音がこの部屋を目指していた。村雨が戻ったのだろうと、ほう、と一息吐き出した。


「桜、まだ居る!」


「……は?」


 油断はしていなかった。ただ桜は、自分の連れが無事に戻った事に安堵してしまっただけだ。襲撃に備えていた心と体が緩み、太刀の切っ先を床に向けてしまったその時、先に思い当るべき事を聞かされた。

 しくじった、息を吸い上げて止める。太刀の柄を、再び両手で握りこむ。既に手遅れであった。部屋の隅の壁が砕け、そこから化け物の手が入り込んでいた。


「うわ、ああわああああああああっ!?」


 宿の主人が絶叫する。その足元には二つの首が転がった。啜り泣いていた女と、それを慰めていた老婆の首だ。壁ごと、二人纏めて、首を跳ね飛ばされたのだ。

 常人なら十歩はあろう距離を、桜は一足で半分まで詰めた。化け物はもう一度腕を振るい、宿の主人を庇おうとした若者――腕利きの板前の右腕、そして右脇腹の肉をごっそりと削ぎ落した。


「ぃいえええやあぁっ!!」


 続けざま、宿の主人の頭上に、化け物の爪が迫る。それを、気勢と共に振るわれた太刀が斬り落とす。本当は胴体ごと斬り落とすのを狙ったのだ。自らの失態への焦りが、正確無比の太刀筋を狂わせた。

 然し、化け物の凶行はそれで止まる。壁の穴から室内に入り込んでいた化け物の上半身が、ばね仕掛けの様な動きで、部屋の外へ引きずり出されたのだ。


「ッギイ、ゴ、ガアアアアァッ!? ギャ、ギャアガッ、ガギイイイアアアアァァァァァツ!!!」


 化け物の断末魔、骨が砕ける音、咀嚼音、血の滴る音――ありとあらゆる、人の恐怖心を煽る音。壁の向こうで化け物が解体ばらされ喰われている。抵抗を示す床の振動は、一際大きくぶつりと音が聞こえた時から、ぱったりと止んだ。

 瞬き二つ程の間に、二人が殺された。一人は重傷、直ぐにでも手当をしなければ助かるまい。化け物は一体ではないと、この場の皆が知った。

 未だに戌の刻、夜明けまで四刻。蓬莱屋において生存者は十一名。宿を囲む壁の赤が、心なしか強くなった様な、そんな気がした。

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