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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
品川夏空模様
3/187

最初のお話(3)

「お、お前はだ、ぎゃっ!」


「誰か、誰か……うげっ!」


「……あああああ、完全に見つかった……」


 先に突っ込んでいってしまった雇い主、桜を追い掛けていく村雨の耳に、洞窟から悲鳴が二つ聞こえた。その内容を以て村雨は、こっそりと忍び込んで一網打尽という計画が、無残にも完全粉砕された事を知った。

 洞窟に十分近づいてから分かった事だが、入口から入ってすぐの場所には、二人の見張りが立っていたらしい。誰かが近づいてきた事を逸早く察知し、中にいる者達に戦闘の用意をする猶予を与える為だ。

 ここで『いたらしい』と過去推量の形にしたのは、村雨が洞窟に踏み込んだ時、既にその二人はひっくり返っていたからである。


「お前やるなぁ、大当たりではないか。ほれ、数打ちに鉈に、この悪そうな面構え。これが盗人に違いない」


 顔面に大きな痣を作った見張り盗賊と対照的に、髪も乱れていない桜は、のんきに村雨を褒めていた。


「あ……あんた馬鹿だ、筋金入りの馬鹿だ……! どうして暗くなるまで待たないんですかー!」


「退屈だからだ! あんな何もない所で日没を待つなど耐えられん! 酒も美女も無いではないか」


 早くも洞窟の奥からは、武装した人間が歩き回る金属音―――村雨の耳は、それが具足を着込んだ人間のものだと教えていた―――が、反響と共に聞こえてくる。


「さあて、ああだこうだと言っても始まらん、こうなったら全員仕留めるぞ」


「多勢に無勢って言葉が……」


 桜は刀二振りの内、左手に脇差だけを抜いた。洞窟の狭さでは、打刀を振り回す訳にはいかないのだろう。まるで散歩にでも行くかの様に、桜は無造作に歩き始め、


「……念には念を、だな」


 すぐさま踵を返し、昏倒している見張り二人の顔面を、それぞれ一回ずつ強く踏みつけた。見張りの後頭部が洞窟の石に打ちつけられ、ごん、と鈍い音がする。

 見張りの片方は、意識を失って動かないまま。だがもう片方は、一瞬体が浮く程に背を逸らした後、耳から血を零し、『完全に』動きを止めた―――胸の上下さえ、だ。


「ぇ、ちょっと……?」


 鉄の臭いが石床を濡らす。村雨は、呼吸さえ止まってしまった男の胸に耳を当てた。体温は有るが、心音が聞こえない。

 奥へ進む桜を余所に、村雨は膝を下ろし、男の頬を叩く。反応はない。腕を掴んでゆすぶってみた、反応はない。耳たぶを強く噛んでやる、どうしても反応は見えない。


「……死ん、だ?」


 洋装、ズボンなどと呼ばれる服に、男の血が染み込んでいた。村雨が上げた悲鳴は、洞窟の奥から聞こえる怒声に、そして絶叫にかき消された。




 村雨は走った。外へ逃げるのではなく、奥へ進むため。桜の凶行を止める為に。

 人の死体を見た事はある。人の尊厳とは、死体には適用されないものだ。自分の顔を保つという権利すら失った、無残な肉の塊を見た事がある。

 だが、人が死体になる瞬間は、初めて見せられたものだった。つい数十秒前まで、その男は生きていた。

 男がどういう人間だったのかは知らない。盗人の片棒を担ぐのなら、相応の悪人だろう。身に着けていた刀には脂の臭いが残っていた、もしかしたら人を斬ったことさえあるのかも知れない。

 それでも人間が目の前で、別な人間に殺されたというのは、村雨を恐怖させるのに十分な出来事だった。その事実に被害者の善悪、加害者の善悪は介在の余地がない。

 虫を潰すように、桜は人の命を終わらせた。それは取りも直さず、他者と虫を同列にしか感じていない事の表れではないのか。

 村雨は、自分の隣を歩いていた女が、自分を虫のように見ていたかも知れないという事。そして、自分が虫のように潰されていたかも知れないと、他者の死を以て見せつけられたのだ。


『ぶっ殺せえェッ! どうせ一人だ、ぶった切れ!』


『勘弁してくれぇ、俺は逃げ―――あぁ、あ、来るな、来るなァッ!!』


『もう嫌だ、なんで俺が、嫌だあああああっ!?』


 一本道の洞窟の奥からは、盗賊達のものだろう叫びが、壁に反響しながら聞こえてくる。


「止めて、もう止めて……!」


 見えずとも分かる。それはただ、一方的な虐殺だった。




 広くもない洞窟だ、村雨が実際に走ったのは二十秒というところだろうか。黒一色で塗りつぶされた桜は、やや開けた空間に立っていた。

 彼女の足元には屍が四つ。仰向けに倒れたのが一つで、後は逃げようとして背中を斬られたか、うつ伏せになっている。

 暗く狭い洞窟において、確実に一度の斬撃で命を絶っている。桜の剣の技量は、その道を知らぬ村雨でさえ背筋の凍る、空恐ろしいものだった。

「おお、何をしていた、半分は終わったぞ。後は六か、七か?」

 揺れるように振り向いた桜は、氷の顔を刃同様、赤々と染めている。四人を斬って浴びた血は、桶でぶちまけた様な有り様だ。


「ぁ……た、は……」


「……ん?」


 数に単位を付けない、桜の数え方。斬った相手を、これから斬る筈の相手を、一人と数えない。それに腹を立てて殴りかかる程には、村雨は度胸がなかった。他人の命を尊重する事を知らない桜を、人だとさえ今は思えなかった。

 だが、村雨は口をつつしめなかった。怖いのに、こいつと言葉を交わすさえおぞましいというのに。


「ぁ、あんたは……何を考えてんの!? こんな、人を、何人も……」


「……なんだ、死体を見るのは初めてか? 直ぐに慣れる、気にするな」


「誰がそんな事を言った!? あんたはなんで、―――」


 なんで簡単に、同族を殺せるんだ。言葉が喉に詰まる。逃げたかった。逃げたら、桜は他の盗賊も斬り殺すと分かっていた。

 赤の他人が殺される、それが許せない正義の味方でもない。自分の目の前で、誰かが誰かを殺す事に耐えられなかったのだろう。人間が人間に対してこうも無情になれると、村雨は知りたくなかったのだ。

 気付けば村雨は、先へ進もうとする桜の前に、手足を広げて立ちふさがっていた。


「何の真似だ」


「刀を収めて……殺さないって、約束しろ」


 桜との距離は二歩。一歩詰められ、無意識に一歩、村雨は引きさがる。


「……理由は?」


「私が嫌だ、文句があるか!」


 二歩詰められて、一歩だけ引きさがる。返り血を拭おうともしない桜の頬からは、赤い水が滴り落ちている。


「死ぬぞ、お前」


「……やってみなよ」


 更に一歩。血濡れの小袖がシャツに触れて、赤の色を移していく。鉄臭さに喉が痛くなり、村雨は吐き気を堪え、奥歯をギリと噛み締めた。


 桜の手が、村雨の頭へと伸びる。あの手はきっと凶器で、触れられれば自分は死ぬか、良くて重症を負うのだろうと村雨は思った。


 ぎりぎりまで引きつけて避け、顎を狙って意識を刈る。もう盗賊も怯えて追ってこないだろう、その内に引きずって逃げよう。ほら、もうすぐ髪に触れる、もう直ぐで皮膚に――


 いざ、と行動に移そうとした村雨は、桜の右腕に抱きかかえられ、立ち位置を入れ替えられていた。知覚より早く入れ替わった世界。きん、きん、きん。どこかで金属音が三つ。


「はぁ……だから死ぬぞと言ったのだ、馬鹿。この馬鹿」


 桜の刀は、洞窟の奥から飛来した矢を三本、全て鏃を捉えて叩き落としていた。矢の落ちた位置、先程の立ち位置からして、もしもあのまま村雨が立ちふさがっていれば――その背に、首に、矢が突き刺さっていた筈だ。


「……ぇ、……わ、あっ……!?」


「全く、鈍い! 弱い! 根性だけは買うがまるでなっとらんぞ!」

 状況を村雨が把握する頃には、桜は村雨を片手に抱いたまま走り出していた。四の矢、五の矢が飛んでくる。事もなげに斬りおとし、射手に肉薄した。


「あ、駄目、殺しちゃ――」


「ああ煩い、舌を噛むぞ!」


 弓を捨てて逃げようとした射手の背に蹴りを入れ、地面に這い蹲らせた桜。立ちあがる前に回り込み、顎を蹴りあげ昏倒させた。


「聞こえているか盗人ども! 得物を捨てておとなしく出てくれば良し、さもなくば皆殺しだ! 逃げようなどと思うなよ、地の果てまでも追いつめるぞ!」


 ぱら、と天井から土くれが落ちてくる程の大音声。洞窟を震えさせ、桜は奥に隠れ潜む盗賊達を怯えさせる。そこに正義の矜持などはなく、ただ殺戮者が恐怖で弱者を律する、単純な上下関係が有るだけだった。




 戦意を失った盗賊達は、武器を捨てて洞窟の最奥に並んでいた。その数六人。桜は丁寧に一人ずつを気絶させた上で、それぞれの腕と足を結び付ける、縛られた側が決して解けない拘束を施した。

 その縄はどこから出てきたのかと言えば、洞窟の本当に奥の方は、一か所だけ分かれ道が有ったのだ。その奥は居住空間になり、更に宝物庫の様な状態にもなっていた。縄はおそらく仕事道具として備えてあったのだろう。

 洞窟入り口でひっくり返っていた見張りと弓の射手も、やはり縛り上げて他の盗賊と合わせて転がしておき、桜は盗品の山を検分していた。


「取りも取ったり、これだけ積み重ねれば大したものだ。ただの盗人呼ばわりするも惜しいな」


「……うそー、これって……ひいふうみいよお、千両箱まで何個も何個も……」

 村雨は目を丸くしていた。ケチな盗賊風情の隠れ家だと思っていたら、その盗品の数は、おそらく数件の大店が破産する程の金額はあるのではないか。千両箱、上等の反物、金の延べ棒やら銀貨の詰まった袋やら、何やら高級そうな壺、茶碗……。


「まさか、こいつら……『久賀の山猿』?」


「かも知れんな、そこの箱の紋は麻木屋のものだ。確かあそこが襲われたのは一月前……二日前も、何処かの反物屋がやられていた筈だ」


 『久賀の山猿』は、ここ数カ月ばかりで名を広めた盗賊集団である。構成員の人数不明、棟梁の名前も不明、周防(現代でいう山口県)から流れてきたと言われている。不確定な事ばかり並ぶのは、この連中の仕事振りが原因だ。

 顔を見られれば必ず殺す。目が醒めていたなら必ず殺す。この連中が押し入って生きていたのは、運良く眠りが深かった子供くらいのものだという。

 問答無用で全員を斬り殺すのではなく、半端に情けを掛けるやり口が寧ろ恐ろしい。慈悲は有るくせに、その恩恵を誰かに与える事をしないで、一切合財を奪っていく盗人達。被害に遭った店は十七、殺された者は三十人を数えるという。


「通りすがりで入り込んだだけなのかも知れんな、あの家にも。盗むものもないから、安刀でも盗み出したか……ああ、これだこれ。本当に安物だな」


 重ねられた盗品に圧倒される村雨を後目に、桜は一本の刀を引きずりだした。柄巻もほどけかけ、目抜きは弛み。きっと持ち主の死後、手入れができる者などいなかったのだろう。桜の見立てではその刀は、質屋もろくに引き取りはしないような有り様だった。


「……ふむ、後は役人の管轄だろう、私達の仕事は終わりだ。いや、思っていたより数倍も早く片付いたな、しかも余分なものまで釣れおった」


 ボロ刀一振りを手に、桜は洞窟の外へと向かっていく。村雨は、小走りにその後を追った。





 盗品に圧倒されていて忘れていたというよりは、あの光景に没頭して忘れようとしていた、という方が正しかったのだろう。


「……う、ぅ……」


 収まっていた胸のむかつきがぶり返す。来た道をただ戻るだけなのに、脚が思うように動かない。差し迫る危険が何もないからこそ、村雨の背を押して走らせてくれる者もいなかったのだ。

 死んでいる。胴体を、きっと肋骨を斬られて心臓にまで刃が達し、一瞬で出血多量に陥って、死んでいる。仰向けの死体が一つ、うつ伏せの死体が三つ。

 踏みつけないように、足元を見る。仰向けの死体と目が合い、泣きそうになりながらも顔を上げた。恐る恐る足を進めると、四人分の血の池を踏み越える事になる。何時の間にやら飛んできた蝿が、死体の傷口に集まり始めている。

 洞窟の入り口では、やはり一人、死んでいる。傷口は後頭部のものだけだろう。顔を潰された圧力で鼓膜が破れたか、出血は耳からのものの方がよほど多い。

 村雨は、死体を見ないようにして、洞窟の外へ逃げた。光の当たる場所へ出れば、死に囲まれている恐怖から離れられると思ったのだ。実際に夏の日の光は眩し過ぎて、冷え切った体を暖めてくれた。


「帰る前に、服を洗うぞ。これではとても町を歩けん、水場はどこだ?」

「……あっち、です……って、わ、わ」


「暴れるな、落とすぞ。落としてまた拾い直すぞ」


 脚の力が抜け、ぺたんと地面にへたり込む。立ち上がれないまま村雨は、自分の鼻が嗅ぎ付けた水苔の方角を指差した。良く耳を澄ませてみれば、確かに清流のせせらぎも聞こえてくる。

 すると、桜は村雨をひょいと肩へ担ぎ、示された方角へと歩き始めた。細身とは言っても人間一人、その重さを苦にもしていない様で、足取りに一切のよどみはない。持ち上げられて揺す振られるのが、村雨は少しだけ苦しかった。





「うむ、悪くないな。もう少し広ければ、なお良かったが」


 川は浅く、桜達が見つけた場所は、流れも穏やかだった。村雨を適当な場所へ下ろし、取り返した刀と、自分の刀二振りをその近くに置く。

 小袖の帯を解き、袴の紐を緩め、桜はあっという間に衣服から逃れ、裸体を水に曝した。

 血に染まっていた顔を洗えば、赤は流れ落ち、また氷の面貌が戻る。袖から入り込んで体を濡らした血が、川の水に薄められ、下流へ流れていく。

 べっとりと汚れた小袖を洗い始めた桜を、村雨はぼうっと見ながら、過ぎてしまった光景に思いを巡らした。

 きっとあの盗人達は大悪党だ。縄に掛けられれば磔は免れまい、或いは首を晒されるのだろうか。だがそれは、法の下に定められた刑罰の執行として、だ。

 一介の人間が、いかなる理由があれど、別な人間を殺害し――こうも清々しい顔をして、血を洗い流すような事が有っていいのだろうか。

 自分は一人も殺していない。もしかしたら、殺される筈だった人間を助けられたのかも知れない。だが、それを誇れるか? 人殺しの盗賊が殺されるのを止めた、それは誇るべきことなのか?

 本当に人を助けたとふんぞり返りたいのなら、そもそも盗賊が殺した人間達を助けるべきだったのでは――


「お前、小難しい事を考えてはおらんか?」


「……え?」


 村雨の思索は、桜の声に中断された。袴と小袖は、おおざっぱにしみ込んだ血を絞り、洗い流して赤を落としただけ。元が黒い上下は、乾けば然程血も目立たなくなるだろう。両手が空いた桜は、適当な岩に片肘を着き、もう片手で体を浮かせて、脚で水を跳ねさせていた。


「何を考えているかは知らんが、あいつらは人殺しだ。放っておけばまた何人も、あれの盗みの為に殺されただろう。ねぐらを見つけたお前は、大手柄を上げたのだぞ?」


「……見張りを見た時に、もうその事は分かってたの?」


「いいや、人を斬った刀だとは思ったが、『久賀の山猿』だとは知らなかった。全くの偶然だな」


「じゃあ同じじゃない! 後から理由を付けたって、あんたは人間を殺したんだ! 何人も、虫か野良犬みたいにあっさりと――」


「ふむ、では虫や野良犬は殺してもいいのか?」


「っ……そういう問題じゃないでしょ!?」


 揶揄するかの言葉に、村雨は声を詰まらせる。


「はて、どうだかな。私が虫を潰しただけなら、確かにお前は何も言わなかっただろう。では、野良犬を斬った場合は?」


「それは……止めさせようとはしたよ、多分」


「だろうな、だが私の前に立ちはだかるまではしたか? 刀を持った血まみれの女の前に徒手で立ちふさがってまで、野良犬の命を救おうとしたか?」


 岸で座り激する村雨に対し、桜は、なかば屁理屈のような言葉をを冷静に返していく。返り血が完全に流れ落ちた己の髪を手で掬い、肘を掛けた岩の上に広げた。


「私が殺さずとも、役人があいつらを殺すのだ。結果からすれば同じ事だ」


「役人は……そういう法の下に、正当な裁きとして殺すんだ、あんたみたいに……」


「いきなり殺しはしない、か? 法を作ったのも人間だぞ、執行するのも人間だ。人間の意思で人間が人間を殺すのだ、私だけが大きく外れている訳でもあるまい」


「人間は動物じゃない、ただ群れて生きる動物じゃない! 知恵がある、その知恵が作った規則がある、だから――」


 刑罰による殺害と、一個人による他者の殺害が、同列である筈がない。前者は社会の制度であり、後者は社会の良識から大きく逸脱する行為だ。村雨は理屈としてそれを分かっていたから、尚更、桜の言葉に反論せざるを得なかった。

 村雨の言葉が止まったのは、桜が川から上がり、隣に腰を下ろした時だった。


「……なあ。何故、ああできたのだ?」


「何がさ……あんたを止めた事?」


 村雨の衣類は、未だに血の赤に染まったまま。染み込んだ血は肌に触れ、鉄の臭いは鼻を刺す。それと全く対照的な姿になった桜を、村雨は横目で見た。

 濡れ羽の黒は流水に触れ、その名の通りの潤いを湛える。指を通したならば一度も引っ掛かる事なく、根元から毛先まで三尺、手櫛を通せるだろう。

 水と戯れていた手足は、肉食の獣のように、余分な肉を捨てて引締まっている

 腕は、脇腹は、古傷だらけだった。刃物の傷か獣の牙か、幾度の死地を超えたのだろう。薄くなった皮膚の上を水滴が転げ落ちていく。

 何故だろうか。零れる水を掬いあげたくなり、村雨はそっと、膝を抱えていた手を伸ばした。


「ああ、それだ。お前、自分で気づいていたかは知らんが、泣いていたぞ?」


「っ……! あーそーですか、すいませんね!」


 言葉が続けられて、村雨は、自分が質問を受けていた事を思い出す。桜の肌に触れる前に、ばね仕掛けのように手を引っ込めた。


「……お前だけではないさ、私が人を斬るのを止めようとしたのは。大概はお前と同じ様に理屈をこねるし、立ちはだかったりもしたな。肝の据わった奴などは、『そうまでするなら私を斬れ』などと言いだした。面倒だから殴って気絶させたが」


「……何人にも言われるくらいあんたがおかしい、って事でしょうが」


「黙って聞け。……それでもな、怖くて泣きながら脚を震わせながら、聞き取れもしない様な声で立ちふさがったのは……お前が初めてだ。ああも頼りない壁など見たことが無いぞ」


「悪うございました」


 指摘され、初めて村雨は、己の頬にある、乾いた涙の痕に気付いた。

 そうだ、あの時は怖かった。万が一に備えて勝つ算段は練っていたが、そんなものは無駄なあがきだと、本当は何処かで気付いていたのだ。桜が気まぐれを起こせば自分は死ぬ。そういう場面で村雨は、人が人を殺す場面を見たくないというだけで、人斬りの前に立ちふさがったのだ。


「……ん、ありゃ?」


 弱さを改めて教えられ、さりとて否定も出来ず、村雨は膝を抱える様に俯く――と、なぜか視界が青空に切り替わった。肩に手を掛けられ、仰向けに引き倒されたのだ。

 少し体を丸め、受け身を取る。自分が川辺で仰向けになっている理由を探そうと、村雨の脳はしばし麻痺した。


「いい女だ、欲しいな」


 その胸に、人の重さが重なった。影が顔に掛かる。あまりにも近くに、黒い瞳が並んでいる。起き上がろうと頭を浮かせた瞬間、唇への濡れた感触とともに、村雨はまた川辺に押し戻された。桜の唇が、村雨に重ねられていた。


「……っ!? んー、んー……!」


 引きはがそうと、顔に手を掛けた。手首を掴まれ、手の甲が地面に触れる。少しだけ浮かせて出来た隙間が、また潰される。顔を背けても逃げられない。蹴りあげようとすれば、器用に脚で脚を抑え込まれた。

 抜け出そうと暴れて、口では息を吸えなくて、村雨の視界は涙で滲む。濡れて歪んだ景色の中に、桜の目を見てしまった。

 桜の目は、どこか壊れていた。人を斬り悔みもしない、だが理性を失えなかった、破綻した人格の発露した瞳。村雨は、その瞳から目を逸らせなかった。桜は壊れていて、なのに――とても愛おしげな眼差しを、村雨に向けていたからだった。

 どうしてそんな目が出来る、抑え込まれた体を引き抜いて言葉の限りなじってやりたいと思った。誰かを殺したばかりの体で、それを良しとする言葉を綴った唇で、触れるんじゃないと突き飛ばしたかった。村雨は、そう出来る筈だった。

 真夏日の太陽の下では、川の水で冷えた体が心地よい。言葉使いに似合わず桜の胸は、女らしさを主張する豊かな曲線を描いている。村雨の薄い胸に押しつけられて、近づいた二つの心音は、共に鼓の早打ちの様に鳴らされた。

 動けないまま貪られる。おなじ女に蹂躙されているのに――背が撓む。体の芯から震えが起きる、触れあった唇は暖かい。

 力が抜けていく。手首は解放され、桜の両手は村雨の頭を抱く。身を縛る枷が一つ消えた、逃げられるのだ。

 のしかかる女を押し退ける代わり、その背に腕を回すと、翼のように広がった髪に手が触れた。


「……んむっ、ぅ……っぁ、あ……――」


 口内に熱い塊が踊りこむ。桜の舌が村雨に、蛇のように絡みついた。舌を噛まないように、口を開いて迎え入れる。自分がなぜこうしているのか、村雨は考えようとしなくなった。頬の裏を這う蛇を、己の舌で捉えようとするばかりだった。

 口移される唾液は蛇の毒液か。二匹の蛇が架けた橋を伝い、組み敷かれた村雨の咥内へ、混ざり合った毒が流れこむ。霞む意識の中、村雨はそれを貪婪に嚥下して――


 全てが暗転する。体がそこにあるという感覚が消えていく。夜に床に就くように、村雨は意識を手放した。

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