最初のお話(3)
「お、お前はだ、ぎゃっ!」
「誰か、誰か……うげっ!」
「……あああああ、完全に見つかった……」
先に突っ込んでいってしまった雇い主、桜を追い掛けていく村雨の耳に、洞窟から悲鳴が二つ聞こえた。その内容を以て村雨は、こっそりと忍び込んで一網打尽という計画が、無残にも完全粉砕された事を知った。
洞窟に十分近づいてから分かった事だが、入口から入ってすぐの場所には、二人の見張りが立っていたらしい。誰かが近づいてきた事を逸早く察知し、中にいる者達に戦闘の用意をする猶予を与える為だ。
ここで『いたらしい』と過去推量の形にしたのは、村雨が洞窟に踏み込んだ時、既にその二人はひっくり返っていたからである。
「お前やるなぁ、大当たりではないか。ほれ、数打ちに鉈に、この悪そうな面構え。これが盗人に違いない」
顔面に大きな痣を作った見張り盗賊と対照的に、髪も乱れていない桜は、のんきに村雨を褒めていた。
「あ……あんた馬鹿だ、筋金入りの馬鹿だ……! どうして暗くなるまで待たないんですかー!」
「退屈だからだ! あんな何もない所で日没を待つなど耐えられん! 酒も美女も無いではないか」
早くも洞窟の奥からは、武装した人間が歩き回る金属音―――村雨の耳は、それが具足を着込んだ人間のものだと教えていた―――が、反響と共に聞こえてくる。
「さあて、ああだこうだと言っても始まらん、こうなったら全員仕留めるぞ」
「多勢に無勢って言葉が……」
桜は刀二振りの内、左手に脇差だけを抜いた。洞窟の狭さでは、打刀を振り回す訳にはいかないのだろう。まるで散歩にでも行くかの様に、桜は無造作に歩き始め、
「……念には念を、だな」
すぐさま踵を返し、昏倒している見張り二人の顔面を、それぞれ一回ずつ強く踏みつけた。見張りの後頭部が洞窟の石に打ちつけられ、ごん、と鈍い音がする。
見張りの片方は、意識を失って動かないまま。だがもう片方は、一瞬体が浮く程に背を逸らした後、耳から血を零し、『完全に』動きを止めた―――胸の上下さえ、だ。
「ぇ、ちょっと……?」
鉄の臭いが石床を濡らす。村雨は、呼吸さえ止まってしまった男の胸に耳を当てた。体温は有るが、心音が聞こえない。
奥へ進む桜を余所に、村雨は膝を下ろし、男の頬を叩く。反応はない。腕を掴んでゆすぶってみた、反応はない。耳たぶを強く噛んでやる、どうしても反応は見えない。
「……死ん、だ?」
洋装、ズボンなどと呼ばれる服に、男の血が染み込んでいた。村雨が上げた悲鳴は、洞窟の奥から聞こえる怒声に、そして絶叫にかき消された。
村雨は走った。外へ逃げるのではなく、奥へ進むため。桜の凶行を止める為に。
人の死体を見た事はある。人の尊厳とは、死体には適用されないものだ。自分の顔を保つという権利すら失った、無残な肉の塊を見た事がある。
だが、人が死体になる瞬間は、初めて見せられたものだった。つい数十秒前まで、その男は生きていた。
男がどういう人間だったのかは知らない。盗人の片棒を担ぐのなら、相応の悪人だろう。身に着けていた刀には脂の臭いが残っていた、もしかしたら人を斬ったことさえあるのかも知れない。
それでも人間が目の前で、別な人間に殺されたというのは、村雨を恐怖させるのに十分な出来事だった。その事実に被害者の善悪、加害者の善悪は介在の余地がない。
虫を潰すように、桜は人の命を終わらせた。それは取りも直さず、他者と虫を同列にしか感じていない事の表れではないのか。
村雨は、自分の隣を歩いていた女が、自分を虫のように見ていたかも知れないという事。そして、自分が虫のように潰されていたかも知れないと、他者の死を以て見せつけられたのだ。
『ぶっ殺せえェッ! どうせ一人だ、ぶった切れ!』
『勘弁してくれぇ、俺は逃げ―――あぁ、あ、来るな、来るなァッ!!』
『もう嫌だ、なんで俺が、嫌だあああああっ!?』
一本道の洞窟の奥からは、盗賊達のものだろう叫びが、壁に反響しながら聞こえてくる。
「止めて、もう止めて……!」
見えずとも分かる。それはただ、一方的な虐殺だった。
広くもない洞窟だ、村雨が実際に走ったのは二十秒というところだろうか。黒一色で塗りつぶされた桜は、やや開けた空間に立っていた。
彼女の足元には屍が四つ。仰向けに倒れたのが一つで、後は逃げようとして背中を斬られたか、うつ伏せになっている。
暗く狭い洞窟において、確実に一度の斬撃で命を絶っている。桜の剣の技量は、その道を知らぬ村雨でさえ背筋の凍る、空恐ろしいものだった。
「おお、何をしていた、半分は終わったぞ。後は六か、七か?」
揺れるように振り向いた桜は、氷の顔を刃同様、赤々と染めている。四人を斬って浴びた血は、桶でぶちまけた様な有り様だ。
「ぁ……た、は……」
「……ん?」
数に単位を付けない、桜の数え方。斬った相手を、これから斬る筈の相手を、一人と数えない。それに腹を立てて殴りかかる程には、村雨は度胸がなかった。他人の命を尊重する事を知らない桜を、人だとさえ今は思えなかった。
だが、村雨は口をつつしめなかった。怖いのに、こいつと言葉を交わすさえおぞましいというのに。
「ぁ、あんたは……何を考えてんの!? こんな、人を、何人も……」
「……なんだ、死体を見るのは初めてか? 直ぐに慣れる、気にするな」
「誰がそんな事を言った!? あんたはなんで、―――」
なんで簡単に、同族を殺せるんだ。言葉が喉に詰まる。逃げたかった。逃げたら、桜は他の盗賊も斬り殺すと分かっていた。
赤の他人が殺される、それが許せない正義の味方でもない。自分の目の前で、誰かが誰かを殺す事に耐えられなかったのだろう。人間が人間に対してこうも無情になれると、村雨は知りたくなかったのだ。
気付けば村雨は、先へ進もうとする桜の前に、手足を広げて立ちふさがっていた。
「何の真似だ」
「刀を収めて……殺さないって、約束しろ」
桜との距離は二歩。一歩詰められ、無意識に一歩、村雨は引きさがる。
「……理由は?」
「私が嫌だ、文句があるか!」
二歩詰められて、一歩だけ引きさがる。返り血を拭おうともしない桜の頬からは、赤い水が滴り落ちている。
「死ぬぞ、お前」
「……やってみなよ」
更に一歩。血濡れの小袖がシャツに触れて、赤の色を移していく。鉄臭さに喉が痛くなり、村雨は吐き気を堪え、奥歯をギリと噛み締めた。
桜の手が、村雨の頭へと伸びる。あの手はきっと凶器で、触れられれば自分は死ぬか、良くて重症を負うのだろうと村雨は思った。
ぎりぎりまで引きつけて避け、顎を狙って意識を刈る。もう盗賊も怯えて追ってこないだろう、その内に引きずって逃げよう。ほら、もうすぐ髪に触れる、もう直ぐで皮膚に――
いざ、と行動に移そうとした村雨は、桜の右腕に抱きかかえられ、立ち位置を入れ替えられていた。知覚より早く入れ替わった世界。きん、きん、きん。どこかで金属音が三つ。
「はぁ……だから死ぬぞと言ったのだ、馬鹿。この馬鹿」
桜の刀は、洞窟の奥から飛来した矢を三本、全て鏃を捉えて叩き落としていた。矢の落ちた位置、先程の立ち位置からして、もしもあのまま村雨が立ちふさがっていれば――その背に、首に、矢が突き刺さっていた筈だ。
「……ぇ、……わ、あっ……!?」
「全く、鈍い! 弱い! 根性だけは買うがまるでなっとらんぞ!」
状況を村雨が把握する頃には、桜は村雨を片手に抱いたまま走り出していた。四の矢、五の矢が飛んでくる。事もなげに斬りおとし、射手に肉薄した。
「あ、駄目、殺しちゃ――」
「ああ煩い、舌を噛むぞ!」
弓を捨てて逃げようとした射手の背に蹴りを入れ、地面に這い蹲らせた桜。立ちあがる前に回り込み、顎を蹴りあげ昏倒させた。
「聞こえているか盗人ども! 得物を捨てておとなしく出てくれば良し、さもなくば皆殺しだ! 逃げようなどと思うなよ、地の果てまでも追いつめるぞ!」
ぱら、と天井から土くれが落ちてくる程の大音声。洞窟を震えさせ、桜は奥に隠れ潜む盗賊達を怯えさせる。そこに正義の矜持などはなく、ただ殺戮者が恐怖で弱者を律する、単純な上下関係が有るだけだった。
戦意を失った盗賊達は、武器を捨てて洞窟の最奥に並んでいた。その数六人。桜は丁寧に一人ずつを気絶させた上で、それぞれの腕と足を結び付ける、縛られた側が決して解けない拘束を施した。
その縄はどこから出てきたのかと言えば、洞窟の本当に奥の方は、一か所だけ分かれ道が有ったのだ。その奥は居住空間になり、更に宝物庫の様な状態にもなっていた。縄はおそらく仕事道具として備えてあったのだろう。
洞窟入り口でひっくり返っていた見張りと弓の射手も、やはり縛り上げて他の盗賊と合わせて転がしておき、桜は盗品の山を検分していた。
「取りも取ったり、これだけ積み重ねれば大したものだ。ただの盗人呼ばわりするも惜しいな」
「……うそー、これって……ひいふうみいよお、千両箱まで何個も何個も……」
村雨は目を丸くしていた。ケチな盗賊風情の隠れ家だと思っていたら、その盗品の数は、おそらく数件の大店が破産する程の金額はあるのではないか。千両箱、上等の反物、金の延べ棒やら銀貨の詰まった袋やら、何やら高級そうな壺、茶碗……。
「まさか、こいつら……『久賀の山猿』?」
「かも知れんな、そこの箱の紋は麻木屋のものだ。確かあそこが襲われたのは一月前……二日前も、何処かの反物屋がやられていた筈だ」
『久賀の山猿』は、ここ数カ月ばかりで名を広めた盗賊集団である。構成員の人数不明、棟梁の名前も不明、周防(現代でいう山口県)から流れてきたと言われている。不確定な事ばかり並ぶのは、この連中の仕事振りが原因だ。
顔を見られれば必ず殺す。目が醒めていたなら必ず殺す。この連中が押し入って生きていたのは、運良く眠りが深かった子供くらいのものだという。
問答無用で全員を斬り殺すのではなく、半端に情けを掛けるやり口が寧ろ恐ろしい。慈悲は有るくせに、その恩恵を誰かに与える事をしないで、一切合財を奪っていく盗人達。被害に遭った店は十七、殺された者は三十人を数えるという。
「通りすがりで入り込んだだけなのかも知れんな、あの家にも。盗むものもないから、安刀でも盗み出したか……ああ、これだこれ。本当に安物だな」
重ねられた盗品に圧倒される村雨を後目に、桜は一本の刀を引きずりだした。柄巻もほどけかけ、目抜きは弛み。きっと持ち主の死後、手入れができる者などいなかったのだろう。桜の見立てではその刀は、質屋もろくに引き取りはしないような有り様だった。
「……ふむ、後は役人の管轄だろう、私達の仕事は終わりだ。いや、思っていたより数倍も早く片付いたな、しかも余分なものまで釣れおった」
ボロ刀一振りを手に、桜は洞窟の外へと向かっていく。村雨は、小走りにその後を追った。
盗品に圧倒されていて忘れていたというよりは、あの光景に没頭して忘れようとしていた、という方が正しかったのだろう。
「……う、ぅ……」
収まっていた胸のむかつきがぶり返す。来た道をただ戻るだけなのに、脚が思うように動かない。差し迫る危険が何もないからこそ、村雨の背を押して走らせてくれる者もいなかったのだ。
死んでいる。胴体を、きっと肋骨を斬られて心臓にまで刃が達し、一瞬で出血多量に陥って、死んでいる。仰向けの死体が一つ、うつ伏せの死体が三つ。
踏みつけないように、足元を見る。仰向けの死体と目が合い、泣きそうになりながらも顔を上げた。恐る恐る足を進めると、四人分の血の池を踏み越える事になる。何時の間にやら飛んできた蝿が、死体の傷口に集まり始めている。
洞窟の入り口では、やはり一人、死んでいる。傷口は後頭部のものだけだろう。顔を潰された圧力で鼓膜が破れたか、出血は耳からのものの方がよほど多い。
村雨は、死体を見ないようにして、洞窟の外へ逃げた。光の当たる場所へ出れば、死に囲まれている恐怖から離れられると思ったのだ。実際に夏の日の光は眩し過ぎて、冷え切った体を暖めてくれた。
「帰る前に、服を洗うぞ。これではとても町を歩けん、水場はどこだ?」
「……あっち、です……って、わ、わ」
「暴れるな、落とすぞ。落としてまた拾い直すぞ」
脚の力が抜け、ぺたんと地面にへたり込む。立ち上がれないまま村雨は、自分の鼻が嗅ぎ付けた水苔の方角を指差した。良く耳を澄ませてみれば、確かに清流のせせらぎも聞こえてくる。
すると、桜は村雨をひょいと肩へ担ぎ、示された方角へと歩き始めた。細身とは言っても人間一人、その重さを苦にもしていない様で、足取りに一切のよどみはない。持ち上げられて揺す振られるのが、村雨は少しだけ苦しかった。
「うむ、悪くないな。もう少し広ければ、なお良かったが」
川は浅く、桜達が見つけた場所は、流れも穏やかだった。村雨を適当な場所へ下ろし、取り返した刀と、自分の刀二振りをその近くに置く。
小袖の帯を解き、袴の紐を緩め、桜はあっという間に衣服から逃れ、裸体を水に曝した。
血に染まっていた顔を洗えば、赤は流れ落ち、また氷の面貌が戻る。袖から入り込んで体を濡らした血が、川の水に薄められ、下流へ流れていく。
べっとりと汚れた小袖を洗い始めた桜を、村雨はぼうっと見ながら、過ぎてしまった光景に思いを巡らした。
きっとあの盗人達は大悪党だ。縄に掛けられれば磔は免れまい、或いは首を晒されるのだろうか。だがそれは、法の下に定められた刑罰の執行として、だ。
一介の人間が、いかなる理由があれど、別な人間を殺害し――こうも清々しい顔をして、血を洗い流すような事が有っていいのだろうか。
自分は一人も殺していない。もしかしたら、殺される筈だった人間を助けられたのかも知れない。だが、それを誇れるか? 人殺しの盗賊が殺されるのを止めた、それは誇るべきことなのか?
本当に人を助けたとふんぞり返りたいのなら、そもそも盗賊が殺した人間達を助けるべきだったのでは――
「お前、小難しい事を考えてはおらんか?」
「……え?」
村雨の思索は、桜の声に中断された。袴と小袖は、おおざっぱにしみ込んだ血を絞り、洗い流して赤を落としただけ。元が黒い上下は、乾けば然程血も目立たなくなるだろう。両手が空いた桜は、適当な岩に片肘を着き、もう片手で体を浮かせて、脚で水を跳ねさせていた。
「何を考えているかは知らんが、あいつらは人殺しだ。放っておけばまた何人も、あれの盗みの為に殺されただろう。ねぐらを見つけたお前は、大手柄を上げたのだぞ?」
「……見張りを見た時に、もうその事は分かってたの?」
「いいや、人を斬った刀だとは思ったが、『久賀の山猿』だとは知らなかった。全くの偶然だな」
「じゃあ同じじゃない! 後から理由を付けたって、あんたは人間を殺したんだ! 何人も、虫か野良犬みたいにあっさりと――」
「ふむ、では虫や野良犬は殺してもいいのか?」
「っ……そういう問題じゃないでしょ!?」
揶揄するかの言葉に、村雨は声を詰まらせる。
「はて、どうだかな。私が虫を潰しただけなら、確かにお前は何も言わなかっただろう。では、野良犬を斬った場合は?」
「それは……止めさせようとはしたよ、多分」
「だろうな、だが私の前に立ちはだかるまではしたか? 刀を持った血まみれの女の前に徒手で立ちふさがってまで、野良犬の命を救おうとしたか?」
岸で座り激する村雨に対し、桜は、なかば屁理屈のような言葉をを冷静に返していく。返り血が完全に流れ落ちた己の髪を手で掬い、肘を掛けた岩の上に広げた。
「私が殺さずとも、役人があいつらを殺すのだ。結果からすれば同じ事だ」
「役人は……そういう法の下に、正当な裁きとして殺すんだ、あんたみたいに……」
「いきなり殺しはしない、か? 法を作ったのも人間だぞ、執行するのも人間だ。人間の意思で人間が人間を殺すのだ、私だけが大きく外れている訳でもあるまい」
「人間は動物じゃない、ただ群れて生きる動物じゃない! 知恵がある、その知恵が作った規則がある、だから――」
刑罰による殺害と、一個人による他者の殺害が、同列である筈がない。前者は社会の制度であり、後者は社会の良識から大きく逸脱する行為だ。村雨は理屈としてそれを分かっていたから、尚更、桜の言葉に反論せざるを得なかった。
村雨の言葉が止まったのは、桜が川から上がり、隣に腰を下ろした時だった。
「……なあ。何故、ああできたのだ?」
「何がさ……あんたを止めた事?」
村雨の衣類は、未だに血の赤に染まったまま。染み込んだ血は肌に触れ、鉄の臭いは鼻を刺す。それと全く対照的な姿になった桜を、村雨は横目で見た。
濡れ羽の黒は流水に触れ、その名の通りの潤いを湛える。指を通したならば一度も引っ掛かる事なく、根元から毛先まで三尺、手櫛を通せるだろう。
水と戯れていた手足は、肉食の獣のように、余分な肉を捨てて引締まっている
腕は、脇腹は、古傷だらけだった。刃物の傷か獣の牙か、幾度の死地を超えたのだろう。薄くなった皮膚の上を水滴が転げ落ちていく。
何故だろうか。零れる水を掬いあげたくなり、村雨はそっと、膝を抱えていた手を伸ばした。
「ああ、それだ。お前、自分で気づいていたかは知らんが、泣いていたぞ?」
「っ……! あーそーですか、すいませんね!」
言葉が続けられて、村雨は、自分が質問を受けていた事を思い出す。桜の肌に触れる前に、ばね仕掛けのように手を引っ込めた。
「……お前だけではないさ、私が人を斬るのを止めようとしたのは。大概はお前と同じ様に理屈をこねるし、立ちはだかったりもしたな。肝の据わった奴などは、『そうまでするなら私を斬れ』などと言いだした。面倒だから殴って気絶させたが」
「……何人にも言われるくらいあんたがおかしい、って事でしょうが」
「黙って聞け。……それでもな、怖くて泣きながら脚を震わせながら、聞き取れもしない様な声で立ちふさがったのは……お前が初めてだ。ああも頼りない壁など見たことが無いぞ」
「悪うございました」
指摘され、初めて村雨は、己の頬にある、乾いた涙の痕に気付いた。
そうだ、あの時は怖かった。万が一に備えて勝つ算段は練っていたが、そんなものは無駄なあがきだと、本当は何処かで気付いていたのだ。桜が気まぐれを起こせば自分は死ぬ。そういう場面で村雨は、人が人を殺す場面を見たくないというだけで、人斬りの前に立ちふさがったのだ。
「……ん、ありゃ?」
弱さを改めて教えられ、さりとて否定も出来ず、村雨は膝を抱える様に俯く――と、なぜか視界が青空に切り替わった。肩に手を掛けられ、仰向けに引き倒されたのだ。
少し体を丸め、受け身を取る。自分が川辺で仰向けになっている理由を探そうと、村雨の脳はしばし麻痺した。
「いい女だ、欲しいな」
その胸に、人の重さが重なった。影が顔に掛かる。あまりにも近くに、黒い瞳が並んでいる。起き上がろうと頭を浮かせた瞬間、唇への濡れた感触とともに、村雨はまた川辺に押し戻された。桜の唇が、村雨に重ねられていた。
「……っ!? んー、んー……!」
引きはがそうと、顔に手を掛けた。手首を掴まれ、手の甲が地面に触れる。少しだけ浮かせて出来た隙間が、また潰される。顔を背けても逃げられない。蹴りあげようとすれば、器用に脚で脚を抑え込まれた。
抜け出そうと暴れて、口では息を吸えなくて、村雨の視界は涙で滲む。濡れて歪んだ景色の中に、桜の目を見てしまった。
桜の目は、どこか壊れていた。人を斬り悔みもしない、だが理性を失えなかった、破綻した人格の発露した瞳。村雨は、その瞳から目を逸らせなかった。桜は壊れていて、なのに――とても愛おしげな眼差しを、村雨に向けていたからだった。
どうしてそんな目が出来る、抑え込まれた体を引き抜いて言葉の限り詰ってやりたいと思った。誰かを殺したばかりの体で、それを良しとする言葉を綴った唇で、触れるんじゃないと突き飛ばしたかった。村雨は、そう出来る筈だった。
真夏日の太陽の下では、川の水で冷えた体が心地よい。言葉使いに似合わず桜の胸は、女らしさを主張する豊かな曲線を描いている。村雨の薄い胸に押しつけられて、近づいた二つの心音は、共に鼓の早打ちの様に鳴らされた。
動けないまま貪られる。おなじ女に蹂躙されているのに――背が撓む。体の芯から震えが起きる、触れあった唇は暖かい。
力が抜けていく。手首は解放され、桜の両手は村雨の頭を抱く。身を縛る枷が一つ消えた、逃げられるのだ。
のしかかる女を押し退ける代わり、その背に腕を回すと、翼のように広がった髪に手が触れた。
「……んむっ、ぅ……っぁ、あ……――」
口内に熱い塊が踊りこむ。桜の舌が村雨に、蛇のように絡みついた。舌を噛まないように、口を開いて迎え入れる。自分がなぜこうしているのか、村雨は考えようとしなくなった。頬の裏を這う蛇を、己の舌で捉えようとするばかりだった。
口移される唾液は蛇の毒液か。二匹の蛇が架けた橋を伝い、組み敷かれた村雨の咥内へ、混ざり合った毒が流れこむ。霞む意識の中、村雨はそれを貪婪に嚥下して――
全てが暗転する。体がそこにあるという感覚が消えていく。夜に床に就くように、村雨は意識を手放した。