赤い壁のお話(3)
日の本の家屋というものは、基本的にはどの空間も開け放たれているようなものだ。障子や襖はただの紙と木、破ろうと思えば容易く破る事が出来る。その守りは、酷く脆弱と言うべきであろう。
即ち、いざ危機が迫れば、室内に立て籠るという選択は、賢いものではない。然し現在、この蓬莱屋という宿は、外界から遮断されている――突如出現した、赤く発光する不気味な壁によって。
この夜に宿泊していた旅人九名と、宿の主人を含む従業員五名から、玄関先で化け物に殺された一名を引いて十三名。この人数は自然と、最も広い一室に集まって、僅かでも安心を得ようとしていた。
「どうなってるんだ、ここはあんたの宿だろう!? こんな事をしでかしたのもあんたじゃないのか!?」
「い、いいえそんな滅相もございません! 私は決してその様な事は……」
子供と妻を連れた父親が、宿の主人に喰って掛かる。冷静さを失っている事は明らかだが、無理もない。この父親は玄関先で、あの死体を見てしまったのだから。妻と子に来るなと怒鳴りつけ、惨劇を見せなかったのは、称賛に値する機転であろう。
「お母様……ねえ、お外の赤いの、なあに……? なんだか、みんなが怖いです……」
「大丈夫よ、大丈夫だからね……ほら、抱っこしてあげるから寝てなさい……」
良く顔立ちの似た母子だ。宿の主人を怒鳴りつけている夫には、あまり似なかったらしい。紅葉の葉のように小さな手が、母親の顔をぺたぺたと触っている。
不慮の事態に巻き込まれた親子の不幸を、自分自身もまた当事者である筈の桜は、壁に寄りかかってじっと見つめていた。常日頃の、氷像のように凍てついた表情だ。動転も焦燥も見受けられない。だが、事を楽しむ余裕なども無い。
「桜、さっきからどうしたの?」
玄関先で怪物を斬り殺し、混乱する従業員を両手に一人ずつ引っ掴んでこの部屋に放り込んでから、桜は押し黙ったままだ。泣き騒ぐ宿の従業員、主人に半ば八つ当たりする父親、そして娘を宥める母を同時に視界に入れ、不動を貫いていた。
「……数を、数えていた。ここに居るだけでも、少々手に余るのだが……」
「何が?」
「二体ほどあの化け物が出た時、誰も殺さず斬り抜けられる人数か、だ」
「……珍しい事を言うね、桜にしては……ん。いや、そうでもないかな」
桜という人間に似つかわしくない言葉だと思ったが、村雨も直ぐに考えを改める。確かに桜は他人を見捨てる事は躊躇わないだろうが、かと言って積極的に見殺しにしようという人間でも無かった。それは、あの満月の夜の化け物騒ぎでも証明されている。自分に対して不利益を齎さない人間は、生きている事が望ましい。そういう考え方をするのが雪月 桜であった。
つまりは、人が多すぎるのだ。前回同様に二体の怪物が居た場合、片方を斬る間に、もう片方が誰かを殺してしまいかねない。桜の見立てでは、七人か八人なら、纏めて頭を抱えさせていれば、どうにか守りきれる。現状では、とてもではないが数が多すぎる。
村雨とウルスラの二人でも、あの化け物一体と互角に戦えるか、微妙な線だ。あの月の紅い夜ならば、村雨一人でも十分だっただろう。だが、今は駄目だ。知的労働を厭う桜だが、こと戦力の把握という点ならば、老練の将軍よりも長けている。
「頼みの綱は、あの男だが……」
珍しく溜息など吐きながら、桜が視線を向けた先には、屋内でも帽子を被った長身の男――あの道場破りの亜人である。あれならば、化け物と一対一にしても勝つだろう。そう、桜は身立てていたのだが――
「おうい、お前。力を貸す気は無いか?」
「金だ。幾ら出す?」
「……三百文くらいではどうだ?」
「話になんねえよ」
――予想はしていたが、この通りである。別に、目の届く範囲に化け物が現れさえすれば、あの男も戦いはするのだろう。然しながら、能動的に化け物を探して叩き潰すという案には、とても応じてくれそうにない。
ただ立て籠るだけならばまだ良い。問題は、外と内を遮断する壁の存在だ。自分の渾身で傷一つ付かないという事は、あれは物理的な衝撃で破壊出来る性質の物ではないのだ。自信過剰に思われるかも知れないが、桜はそう確信している。
あの壁がある限り、外に出る事も出来なければ、外から食糧を持ち込む事も出来ない。仮に井戸が壁の内側にあれば良いが、そうでなければ水も無い。厨房に残る食材も数えておかねばならないだろう。移動の用心に、やはり一人は戦える者が欲しい。
「……となると、頼りはやはりお前の鼻か。今のところ、化け物は?」
「血の臭いが濃過ぎるから辛いけど……少なくとも、この部屋の周りには居ない。出てくれば気付く……と思う」
「良し、信じるぞ。暫くは、他の連中の顔と臭いでも覚えておけ」
「了解。これくらいなら無理ないね」
暫く――少なくとも最初の混乱の波が引き、現状を全員が把握できるようになるまで、桜は動かない事を選択した。下手につついて勝手に動かれては困る。馬鹿が一人で死ぬのは構わないが、往々にして愚か者というのは、周囲を巻き込み悲劇を産むものだ。
村雨は、部屋の中を見渡し、そこに居る者の集まり方、集団の作り方を観察する。
この様な事態になっても、まだ見知らぬ者と関わろうとする者がいないのか、集団は非常に分かりやすい構成だ。親子連れ三人で一つ、宿の者が四人で一つ、それから自分達も三人で一つ。残った三人はそれぞれに、他の集団から離れて一人で居る。
一人は、桜と顔を合わせた事があるらしい長身の男。一人は、やたら周囲を気にしてきょろきょろと視線を動かしている、市目笠を腰に括りつけた女。そして後一人は、先程まで村雨と共に居た智江である。
最も慌てふためいているのは、見た所では宿の者達だ。同僚が死んだ事も大きいだろうし、宿の主人に関しては、宿泊客の命を預かるという意識も有るのだろうか、特に落ち着きが無い。妻子を連れた父親も焦りは見えているが、然し子供の前という事も有ってか、宿の者達に比べればまだ冷静だ。
桜に関しては言う事もない、この場の誰より安全だと、村雨は十分に知っている。群れを作らず一人で居る者達は、市目笠の女が挙動不審な以外、落ち着き払っている。
自分自身も、まだ心拍数は高いが、冷静に思考は出来ていると考えていた。そして残る一人に至っては――
「ウルスラ、居る?」
「隣に先程から、ずっと。何か御用でしょうか?」
姿も臭いも消し、会話の為に戻した声は、平時の様に冷めきっている。桜が玄関先で化け物を斬り捨てたその時から、実はウルスラは、ずっとその後ろを歩いていたのだ。
彼女の場合、動じていないと言うよりも、動じる理由を理解していないと言うのが正しいのだろう。物事を判断する力に著しく欠ける彼女は、もしかしたら、外と完全に遮断された現状さえ、正しく認知していないのかも知れない。
「……ええとね、あの女の人。一人で居て、周りを見てるあの人……分かるよね?」
「旅装束の典型例の女性ですね?」
「そう、それ。あの人の事、ちょっと見張ってて貰いたいの。あ、姿とかは消したまま、気付かれないようにね」
「はあ……はい、畏まりました」
連れだって歩いて分かった事だが、ウルスラは非常に従順だ。命令の理由を理解せぬまま、完全にそれを遂行しようとしてくれる。だが、そこには大きな盲点が有る。
「……一応言っておくけど、何か怪しい事をしようとしてたら止めるか、桜や私に伝える事」
「怪しい事とは、具体的にどの様な内容でしょう?」
「ええとね、魔術を使おうとしてたり、わざわざ人の居ない所へ行こうとしてたり……後は、誰かに危害を加えようとしたり……?」
ウルスラは、悲しい程に能動的な発想が無い。受けた命令は徹底するが、言葉として示されていない部分は一切行わない――と言うより、そこに考えが至らないし、考えようとさえしない。逐一指令を出してやらねば、見ていろと言えばただ見ているだけで、何が起ころうが報告さえしないという役立たずぶりを発揮してくれる訳だ。
「あの化け物――玄関で真っ二つになってた奴を見つけたら、直ぐに桜に教えて。目と鼻で獲物を探す奴だから、ウルスラなら簡単に逃げられる筈だし」
「承知しました、監視を始めます」
村雨がその場で思いつく限りに細かい指示を与えると、近くに有った気配が動き始める――確かに音も臭いも無いが、空気の流れが変わる事までは避けられないのだ、動いたという事実くらいは分かる。空気の流れだけで攻撃の挙動を一々読み取れる桜が異常なので有って、村雨が無能という訳では決してない。
気配が離れていく。おそらくは監視対象の女にぴたりと張り付くつもりなのだろう。見えはしないがウルスラが居るだろう方向へ何気なく目を向けると、何時の間にやらそこに智江が立っていた。何も無い空間を抱きしめているのは、きっとウルスラを捕えたのだろう。
「んん……? ふうむ、確かに此処に居る、魔力の流れも人のものだ、感触も確かに人間だ。しっかししかし見えない聞こえない、不思議なもんですねえ……」
「あー、あの、智江さん? ちょっと、その子を放してあげてくれないかなー……と言うか、どうやったのよ」
「おや、村雨ちゃん。私くらいの術者ともなれば、隠蔽魔術の一つや二つ見抜くのは朝飯前――ところでこの子、貴女と一緒にいたあの子?」
閉じ込められ、既に一人が死んでいるという異常事態にも、彼女の調子が狂う事は無いらしい。姿の見えないウルスラを抱きしめ、頭が有るのだろう場所に手を置いて、自分の体にぐいと引き寄せている。
智江の目には、強い好奇心の光が灯っていた。悪意は無いのだろう、ただ珍しいから捕まえて触れている、その程度の気持ちに過ぎない。
「んー、村雨ちゃんもちっちゃめで可愛いけど、こういうスレンダータイプでちょっと大人びて来た所の子もいいですねえ。ええと、ここが後頭部だーかーらー……」
訂正。邪念は多分に混じっているが、好奇心がそれを更に上書きしている。やはり誰かに良く似ていると呆れながらも、村雨は智江を引きはがしに掛かろうとした――が、先に桜が、そこに割り込んでいた。
「こらこら、あまり触り過ぎると料金を取るぞ。一応私の連れなのだ、そいつ」
「おや、保護者さん? この子、服を着てないみたいですが……貴女のご趣味で?」
手はやはりウルスラの頭に置いたまま、智江は桜の方に顔だけ向けた。桜を見上げずに会話する女性は、村雨は初めて見たかも知れない。何れも下手な男より背の高い二人は、こうして並べると中々に見栄えがする。
「趣味は趣味だが違うわ。そういう術なのだとよ……誰だ、お前?」
「ふむふむ、自分だけに作用する術でしょうか――あっと申し遅れました、私は杉根 智江、お宅のお嬢さんの恋人候補でございます」
「誰が恋人候補よ、誰が」
「そうだぞ、これは私のだ」
「だから違うっつーの……ええとね、なんだか良く分からないうちに知りあいになった人、魔術師。結構な腕利きだよ。それから智江さん、この人は雪月 桜、私の雇い主、危険人物。あまり近づかないように」
そして残念な事に、性格も割と似通ってしまっているらしい。普段なら一人の言葉だけ訂正していればいい所を、今回は労働量が二倍になる。村雨は早くも疲労感を覚える。
それでも、この進みそうにない会話に助け舟を出す程度の考えは回る。自己紹介だけで蝋燭の数本を溶かしかねない二人の代わりに、簡単に素性を説明した。
「智江さん、とりあえず手は放してあげてくれない?」
「ちぇー、さわり心地が良かったのにー。ああもう手が寂しい、代わりに村雨ちゃんカモーン」
「いや、行かないよ?」
ようやくウルスラは解放されるが、やはり智江の調子は変わらない。この状況下でここまで気楽に居られるのも、ある種の才覚だろう。
「……っと、いけないいけない、我欲に走り過ぎて本題忘れてました。玄関のあれ、斬ったのは貴女でよろしいんで?」
「ん? ああ、確かに私だが」
「ほう、成程成程。単刀直入に聞きますが、あれに苦戦するとお思いで?」
「いいや、周りに誰もいなければ一太刀で斬り伏せられる。あの腕は下手な刀なら弾くが、私の『斬城黒鴉』であれば、まるで問題にもならん」
話題を切り替える速度は、二人とも良い勝負。軽口の押収から一転、声に真剣味を存分に含ませ、智江はここから見えない玄関の方へ視線を向ける。
「……私もそこそこに覚えは有りますが、あの化け物を倒せる自信は無いんですよねぇ。いざとなりゃあ、貴女に頼らにゃならないと来た訳だ。ですが、貴女は二人はいない。そいつが問題な訳ですよ」
「それは考えていた。状況を把握しに行きたいが、確実に安全だと言い切れるのがウルスラしかおらん。あいつは機転が利かんからなぁ……」
本当に、宿から出る場所が無いのか。食糧はどの程度あり、水はどの程度確保できそうか。何時まで閉じ込められるかが分からないのだから、その程度は調べておきたい所だ。だが現状では、能動的にあの怪物と戦い勝利出来るのが桜しかいない。万が一の事を考えると、その視界から人をあまり外したくは無い。
「……そこでなんですがねぇ、お宅の村雨ちゃんを貸していただけませんか? わたしゃ勝てないが、逃げ足は自信がある。然しながら化け物が隠れていた場合、それを見つけるのはちょいと苦手な部類なんですよ」
「と言うと、お前が宿を見て回るつもりか?」
「はい、とりあえずは食糧を片っ端から持ってきます。腹が減っては戦が出来ぬ、飢えの恐怖は人を狂わせますからねぇ」
「……いいんじゃないかな、桜の居る所まで逃げるだけなら、出来ない事は無いと思う」
智江の提案は、桜にも村雨にも、最良とは言えないが良案である様に思われた。現状で冷静に行動出来る者の内、桜から見て信用が置ける者となれば、村雨くらいしかいない。だが、村雨一人で行動させるのは不安だ。桜には――この言い方は適切でないかも知れないが――弾除けとして、村雨の同行者が増える事は好ましかった。
村雨としても、智江の実力の程はまだ知らないが、魔術師と名乗る程の者が同行してくれるのならば心強い。一般的に、ただ魔術を扱えるというだけならば、魔術師と名乗る事は無い。相応の力量を持ち、それだけで生計を立てられる者をこそ、魔術師と呼ぶのだ。
「良し、決まりだ。智江と言ったな、お前の言に従おう……すぐ動くか?」
「そうですねぇ、食糧だけは直ぐにでも。脱出経路の探索は、ちょいとばかし時間を開けてからにしようと思います。他の方々の様子も知っておきたいですしねぇ」
「分かった。村雨、協力してやれ。どうにもならんと思ったら直ぐに叫べよ?」
「心持ち早めに呼ぶ事にするよ、大丈夫」
村雨は軽く脚を曲げ伸ばしして、何が起ころうとも最初から全力で走れるようにしておく。その横では智江が極短の詠唱を済ませ、左手の五指に手袋状の金属を纏わせた。拳を握る程度の柔軟性は有る様だが、然し村雨が見る限り、下手な刃物などでは貫通出来ない程度の強度も備えている様に見える。
「そんじゃ、行きましょうかねえ。さーてさて、怖い怖あい探索行の始まりですよお」
「あんまり縁起の悪い事を言わないでよー……」
気楽な気分では居られないが、重苦し過ぎては息が詰まる。廊下を歩いていく智江の直ぐ後ろに、警戒心を張りつめさせて、村雨は付いて歩き始めた。背に聞こえた声を聞く限り、まだあの親子連れは、完全に落ち着いたとは言えない様子だった。