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灰色の少女と黒い女  作者: 烏羽 真黒
東海道中女膝栗毛
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赤い壁のお話(2)

 雨避けの通路を、桜は歩いていた。

 方々から美味そうな焼き餅などの臭いが漂ってくるが、それに引き寄せられる事は無かった。軽い空腹は有るが、飢えは神経を鋭利に変える砥石なのだ。

 人間には三大欲求――食欲、性欲、睡眠欲が、生まれながらに備わっている。だが、雪月 桜という人間は、いつの頃からか、睡眠の欲求が他に比べて薄くなっていた。常人の半分も眠れば、身体機能の全てを十全に発揮する事が出来るのだ。

 それを埋めるように発達したものだろうか、桜にはもう一つの渇望が有る。何者かと戦い、力に任せて打ち倒したいという欲求――敢えて名づけるのならば、蹂躙欲とでも呼べば良いのだろうか。

 戦う事、そのものも好きだ。例え負けるかも知れない相手だろうが、噛みつき、酷く手傷を負わせてやるなど、想像するだに心の踊る事だ。だがそれ以上に、鍛え上げた力を以て一方的に他者を捻り潰すのは大好きだった。

 自分自身の歪んだ嗜虐性を、桜は理解している。それを満たす為、どれ程に自堕落な生活を送ろうが、己を鍛える事は怠らずに居た。異常の域に達する身体能力と技量は、情欲を支えに発達したものなのだ。

 この日もまた、嗜虐性向の飢えを宥める為、桜は剣術の道場を訪れていた。門下生は多ければ多い程に良い。気風が荒ければ荒い程に良い。竹刀木刀では飽き足らず真剣長槍まで持ち出してくれるなら、狂喜は抑えがたく、床に就いてさえ淫らな熱の様に身を焼く事だろう。

 願わくば満ち足りる程の戦いを与えてくれ。桜は祈る様な思いで、町の道場の門を押し開いた。


「頼もう、看板を貰い受けに来た! 臆病と笑われたくなくば面を出せ!」


 看板など、本当は要らない。こう言えば、自らの武に誇りを持つ者は、無礼な訪問者に譲るものは無いといきり立ってくれる。それが堪らなくそそるという訳だ。

 然しこの日は、用聞きの末端の弟子さえ、声に答えなかった。人の気配は多々あるのに、だ。それどころか、玄関先から一段高くなった板張りの廊下に、泥の着いた草鞋跡が、奥の戸まで続いている。


「ち、先んじられたか……仕方がないな」


 大方、自分と同じ道場破りの中で、特に無礼な奴が先客として来ているのだろう。足袋が汚れるのを嫌った桜は、自分もまた草履を履いたまま、練習場の戸を開けた。


「……おおぅ、これはまた……」


 無礼を働くからには、腕に覚えのある者だろうとは思っていた。だが、眼前に展開された光景は、桜の想像をもう一段ほど上回るものだった。

 木刀を持った男が二人、血に塗れて仰向けになっている。桜が見るに、出血は何れも腕から。命は有るが呼吸が浅い、背か胸を強く打ったらしかった。年の頃を見るに、何れも道場では端の者であるのだろう。

 高弟達、そして道場主と思われる中年の男は、何れも真剣を構え、無礼なる道場破りを取り囲んでいた。彼ら八人の血走った目は、潰された面子を回復する為に殺人をも辞さない、武道の狂気を垣間見せる。桜は、囲まれているのが自分で無いのが、酷く悔しかった。

 だが、彼らの中心に佇む男を見れば――恋愛感情とはほど遠いが、心奪われたと言って良いだろう。身長六尺六寸(198cm)、然して柳の様に細くしなやかなその男は、徒手空拳で道場門下と対峙していたのだ。

 男は、この暑く湿った天候だというのに、丈の長い洋風の外套を羽織り、やはり洋装に似合いの中折れ帽を被っていた。足元の草履だけが日の本風で、桜には不釣り合いにみえてならなかった。


「き、貴様ァ……此処を兵道無涯流の道場と知っての狼藉かッ!」


「……良いから寄こせよ、金。道場ってのは、来る奴来る奴に頭を下げて、金を払う場所なんだろう?」


 道場主の大喝も、男は僅かにも動じる事なく、俗な要求を返していた。どの様な表情をしているかは、高い襟と帽子の鍔の為に見えない。だが、きっとこの状況を楽しんでさえいないのだろうと、桜は直感的に悟っていた。


「ぅ、ぅうおおおおおおあああぁっ!!」


「……くれねえのか、金」


 男を囲んでいた道場門下達の中で、桜の見立てでは一番未熟であろう一人が、刀の切っ先を男に向けて体当たりを繰り出した。この流派はどうやら、突きを得意とする流派であるらしい。

 男は長い腕を利して、刀を握る手を掴み、切っ先を体の外へ向けさせた。そして、もう片手でその首を掴み、締めあげながら引き寄せる。自分と同じ、掴んで投げ捨てる戦法を中心にする男かと早合点した桜は――次の瞬間、大きく目を見開き、思わず一歩踏み出していた。


「――!? ァ!? ァアアアアグ、アアギャアア!?」


「はっ……おへえよ、おはえ(おせえよ、お前)」


 男は、門下生の手首に噛みつき、その骨までを圧縮して噛み砕いていたのだ。絶叫と共に指の力が消え失せ、刀が床に落ちて突き刺さる。門下生は必死の形相で逃れようとしているが、肉を貫通して骨に食い込んだ男の歯は、釘が角材を固定するように、彼が逃げる事を許さなかった。

 数で優位なのは道場側。だと言うのに、男は先手を取った。上体と首を捻り、まるで手でそうするかの様に、噛みついた門下生を投げたのだ。首と顎を起点に射出した人間砲弾は、受け止めようとした門下生二人を巻き添えに、道場の壁に罅を入れた。


「金くれねえんならよ、良いよお前ら」


「く、未熟者が……掛かれ、掛かれ!」


 道場主は、先走ってやられた弟子への怒りを、苦々しげに吐き捨て、一斉に斬りかかる様にと号令を出した――既に、この時点で負けだ。自分一人では勝ち目が無いと、臆病を見せてしまったのだから。

 やはり先んじて動くのは外套の男。最も近くに居た一人に踊りかかり、やはり刀を持つ手を掴み、引き寄せ、噛みつく。

 だが、今度は投げなかった。噛みついたまま首を左右に振る事で、噛まれた門下生を振り回し、自分の武器に変えたのだ。


「……おお、おぉ……」


 桜は感嘆し、また興奮していた。手を使えば、自分はあれよりも派手に、人間を振り回したり投げたりは出来る。だが、口で同じ事が出来るかと考えると難しいだろう。顎の可動範囲の問題も有るが、筋力と技術もまた足りないかも知れない。

 一人、また一人、振り回された門下生の脚や腕に当たり、軽々と吹き飛ばされていく。振り回されている門下生自身も、手足の骨がおかしな方向に曲がり、鼻からは遠心力で出血してしまっていた。やがて、道場に立っているのが桜と男、そして道場主の三人だけになってから、その門下生はようやく解放された。噛みつかれていた手首は、腱まで潰れただろう。おそらく、治療しても完全な動作は取り戻せまい。


「素直に払っておけば、こうまではしねえってのに……」


「ぎ、ぐぐぐぐ……ぃい、ええええいっ!!」


 口の周りを赤く染めて近づく男に、道場主も恐怖を抑えきれなくなる。闇雲に突きを放った結果、呆気無く男に避けられた。伸びきった腕、流れた体、何れも男の噛みつきが決まる条件を、完全にお膳立てしている。


「ふん……あー、らぁっ!!」


 然し、男の歯が吸い込まれたのは、道場主の腕では無かった。それより更に上、右肩を男は噛み砕いていた。一噛みで肉を抉り、骨を砕き、腱を断ち、腕としての機能を奪い去る。枯れ木をへし折った様な心地よい音に、桜はそっと目を細めた。


「いや、ッギイ、ああああ!? ああ、私の腕、腕が、ああああああ!!」


 右腕が動かなくなり、ただ肩から肉と骨がぶら下がっているだけとなり、刀も握れなくなった。どうにか使える左手で患部を庇い、道場主は痛みに絶叫する。


「……おい、金。看板なんていらねえんだ、金をくれよ」


 男は道場主の胸倉を掴み、前後に強く揺すぶる。痛めつけるという行動は、所詮は目的ではないのだ。最初に金さえ渡されれば、きっと男は、誰を傷つける事なく去っていたに違いない。そう確信出来る程、男は金以外の事に無関心だった。

 道場主は、最後のあがきだろう、左手で男を殴りつける。まるで効き目は無い――が、その行動の結果が、もう一度、桜の目を大きく開かせる事になる。道場主の袖に引っ掛かり、男の被っていた中折れ帽が落ちたのだ。鍔が作っていた影が消え、男の顔がはっきりと晒された。

 男は、若さと力に溢れた、凶暴にして均整の取れた顔つきである。然して首からその頬の半ばまで、頭髪や髭とは明らかに質の違う体毛が生えていた。

 頭髪や体毛の色は、日の本の人間にしては薄く、茶色と黒が混ざり合っている。そして、頭髪を掻き分けて見えている耳は、明らかに人の物に比べて丸く、またそれ自体も体毛で覆われていた。


「……てめえ、こら、てめぇ」


 男は、憎々しげに歯を剥き出しにした。道場主の胸倉を掴んだ両手を、高く高く持ち上げる。襟が首に食い込んだ道場主は、呼吸さえ侭ならずもがくばかりだ。


「そこまでだ、そこまで。やり過ぎるな、誤魔化しが聞かなくなるぞ」


 これ以上やれば死ぬだろうと見て、桜はようやく止めに入る。男に近付き、その腕に触れ、手を降ろさせようとした。


「……あぁ……? ああ、居たっけな……」


 意外な事に、男は素直に従った。道場主を投げ落し、帽子を拾い上げて被り直して、それから桜の方を向く。余計なお節介を焼いた相手に、敵意などは持ち合わせていない様子だ。思考が熱しすぎていたのか、別に気配を隠していた訳でも無い桜に、今更気付いたらしい。


「見事なものだな、だが殺しては拙い。どこに人の目が有るか分からんのだ……ほれ、外套が赤備えになっているではないか」


 口の周りを血に塗れさせ、外套まで滴らせた男は、まるで人間を解体して喰らった後の様でさえある。指摘されて口を袖で拭い、男は桜を、山野の獣の様な目で観察していた。これが敵なのか餌なのか見極めようという、肉食獣に見られる、自分優位を前提とした目だ。


「何の用だ?」


「手合わせ願う、と言いたかった。が、これではまず医者を呼んで来ねばならんな。つまり、用などは無い」


「……そうかよ」


 歯で肉を切り裂かれた傷は、刃物ですっぱりと斬られた傷に比べて歪に開いている為、自然の止血が難しい。男も此処へ来て、少々やり過ぎだったと気付いたのだろうか。立ち尽くす事を止め、道場の奥、おそらくは道場主の部屋だろう方角へと足を進めていた。


「何処へ行く?」


「金だよ、幾らかは有るだろ」


 端的な答えに、桜は思わず笑っていた。欲求は直接的な物の方が、理解しやすくて好ましい。金銭欲だけで此処までやるからには、筋金入りの守銭奴だろう。


「お前、亜人だな? 珍しいな、大陸でもそう見た事は無いぞ」


 だが然し、桜はまた、男が感情を揺らがせた場面も見逃してはいなかった。家探しを始める男の背に、好奇心で問いかけた。


「……嘲笑わらうかよ、あぁ?」


「まさか、田舎者か年寄りならいざ知らず」


 背を向けたままの男だが、牙を剥いたような威圧感が、桜の肌を叩いた。然し、受け流す様な答えを返せば、空気の抜けた紙風船のように、男の長身も縮んでみえる。


「直ぐに医者を呼ぶ。逃げるなら早くしろよ?」


 自分自身の欲求は満たせなかったが、桜は十分に満ち足りていた。良く知らぬ町の事と言い訳をして、医者見つけるまでは随分と遠回りをした。





 さて、夜である。宿の用意した夕食も終わり、また各々銭湯から戻り、後は眠るだけの気楽な時間だ。

 桜とウルスラが聖書の学習を行っている隣室で、村雨は、智江に昼間の続きの講義を受けていた。


「まあそういう訳でして、この辺りまでが昼間のおさらい。んで、こっからが残した説明なんですが……たしか『えん』の部分からでしたねぇ」


「うん。エーテル体、或いは『無色の魔力』だっけ? 『硫黄』と『水銀』が対になってるのに、一つだけ別なものがあるの?」


 あの後、自分でも何度か教本を読み返した結果、村雨も少しは、魔術についての知識面での理解を深めていた。誰かに説明を受けると受けないでは、同じ内容を目にしても、頭に入る内容量が随分異なるのだ。


「ええ、ええ、その通り。『えん』ってのは、対になる二つの存在を繋ぎ合せる――つまりは、地水火風の四元素が流動する為の中間的要素、くっつける為の糊みたいなもんです。細かく言うと、違いはしますがね」


 生徒の理解の早さが楽しいのか、それとも常にこの表情なのかは分からないが、智江は昼間と同じ様に、人を安心させる笑みを見せていた。二度ほど頷いて、指を四本立て、それを反対側の手でぎゅっと握りこむ。これがどうやら、纏めるという行動を表す仕草らしい。


「最初に混乱させる様な事を言っちゃいますが、本っ当に厳密に分けると、『無色の魔力』と『エーテル体』ってのは違うものなんです」


「……はい? あれだけ同じ同じって言ってたのに?」


 理解した内容をいきなり覆されて、村雨はぽかんと口を開けてしまう。


「ええもう、こいつは余計な豆知識ってレベルなんですがね。『エーテル体』ってのは空より更に上、星の運行なんかを示す為に作られた概念みたいなもんなんです。運動とか霊とか、そういうどこかはっきりしないものを象徴させて、実際に起こっている現象を説明する……まあ、後付けですね」


「えーと、えーと……カッコーカッコーって啼く鳥がカッコウって名づけられるとか、そういう話?」


「ちょいとばかしずれてる気もしますが、そういう事にしときましょ」


 例えの妥当性に智江は首を傾げたが、大きく間違えているという事も無く感じ、特に否定はせずに話を進める。


「で、『無色の魔力』。これは単純に『力』なんですよ。何らかの特性を与えられずに居る、大きさだけを持った力の渦……それだけじゃあ何も出来ませんが、何になる事だって出来る。白い紙には絵だって文字だって書けるし、折れば動物の形も作れるでしょう?

 それと同じで、術者の力量次第であらゆる特性を持ち得るのが『無色の魔力』――四元素に対するエーテルの様に、分類出来ないけど確かに存在する物ってえ訳です。こっちは観察が出来ますし、第一にして大概の人は自分の体で作れますもんねぇ」


「ふんふん、そういうのは分かる。なんか他の魔力よりさっぱりしてる感じって言うか、薄い感じがする魔力って有るもんね」


「ですね、薄いってのは確かだ……と、話を進めましょう。そんな訳で西洋魔術の根幹は、無色の魔力を変換して使う、というのが基本的なやり方になっています。この変換の過程に必要なのが、世界に対する認識――敢えて言うなら『こじつけ』なんですがねぇ」


 一段落着いたと、智江は懐中時計を取り出して時間を確認する。まだまだ余裕のある時間帯らしく、懐に直ぐに戻し、軽く咳払いをした。

 村雨の知識と理解が完全に及ばなくなるのは、この辺りからである。世界に対する認識とは、一体どの様なものなのか、未だに納得のいく説明を受けた事が無い。それは、村雨に魔術を指導した者が、せいぜい母親くらいしか居なかったからでもあるのだが。


「その、こじつけって言うの……良く分からないんだよね。私が習ったのって、そこらに有る水を感じとって集めろ、って感じの大雑把なやり方だったから……」


「ふむ? 貴女のはどうやら、西洋魔術に属するやり方かも知れません……と、その辺りは後で説明しますが。さて、世界に対する認識の事ですが、こいつは本当に面倒です。世界には無限の要素があるのに、それを四つや五つの要素の組み合わせで理解しようなんて難しいでしょう? だからまあ、使わなきゃ無い部分だけ理解しようとすりゃいいんです。

 では聞きますが、そこらに生えてる木って、地水火風で考えると何だと思います?」


「え、木? ええと、えーと……」


 いきなりの質問だが、ここまで聞かされた話を振り返って、村雨はどうにか答えを探す。木、乾いていて不動、可視、体温は無い。


「……土、かな。地面から生えてるし、それがしっくりくるんじゃないかと思う」


「上出来。然しながら、もうちょっと深く考えてみましょう。木ってのは、傷つけると樹液を流します。葉っぱの瑞々しさを考えると、此処は水の特性を持ってると見ても良いのではないでしょうか?

 そう、そういう事。世界に対する認識、世界の解釈ってのは、ちょっとだけ複雑に物事を見て、分解して把握するってえことなんです。水の術を得意とする術者は、大気中からでも土中からでも、燃え盛る炎からでさえ、自分の手元に水を作り出す事が出来る。もっと言えば、それが水で作られていると本気で信じる事が出来たなら、他の誰が何と言おうが、貴女の世界ではそれが真実になるんですよ」


 西洋魔術は、錬金術に端を発したが為に、外から世界を観察する事に徹した体系を作り上げた。世界の全てを『自分が理解・使用できる物』に置き換えて解釈し、無色の魔力に特性を持たせ、それを再現する。故に、外に存在する魔力の扱いに長け、結果的に属性使役の魔術に長けている――例えば、燃え盛る火が持つ魔力は火の特性を、流れる川が持つ魔力は水の特性を、それぞれ内包するからだ。

 智江が村雨の術を、西洋魔術由来の体系と推測したのは、外にある水を感じとり集めるというやり方が、外界の魔力を自分の支配下に置く行程と似ている様に思えたからだ。厳しい風土に育った西洋魔術は常に、自然と向き合い、打破する為の技術でも有ったのだから。


「……そういう訳で、まず理論から身につけようと言うのなら、此処までの内容は話半分で構いません。ただ、世界に対する認識を確立させる事、自分なりの解釈を練り続ける事だけは忘れないでください。人間の寿命じゃあ完成出来る筈が無いとまで言われる内容ですから、ぶっちゃけ遅れて始めようがどーにかなるんです。のーんびり気を抜いて、ごろごろしながら考えてみなさいな……と、これで西洋魔術概論はおしまい! お疲れさまでしたー」


「お疲れさまでしたー……ふいー、色々詰め込み過ぎてなんか頭が重い……」


 終了の宣言と共に、同時に畳に仰向けになる村雨と智江。体への疲労は無いのだろうが、慣れぬ方向に頭を使った為、村雨は軽く額に熱を感じていた。所謂知恵熱という所だろうか。

 だが、知恵熱出たなどと言おうものなら、隣で転がっている相手の名前と被ってしまうとおかしな事が気になり、それを口にする事は避ける村雨であった。


「……で、いまさら何だけど、私は村雨。なんかさ、自己紹介する機会、完全に無くしてたよね」


「そーいやそうですねえ。それはお名前? それとも名字?」


「ん……名前、かな」


 代わりの話題と言うのも何かおかしいが、自分が名乗っていない事をようやく気付いた村雨。妙に濁した言葉に対し、智江は体を起こし、首を傾げた。だが、その点についての追及は無い。何か得心がいった様に、深く一度頷いたばかりだ。


「明日、続きでもやります? 東洋魔術は専門外なんですが」


「え? いや、明日って言っても……」


「どーせこの雨じゃ、明日止んだとしたって川止めは解除されませんってえ。西へ向かうんでしょ? こりゃ、あと数日は足止めを食らいますよ」


「まあ、そうだろうけどさ……」


 智江の言う事はもっともで、日中よりもいよいよ雨の勢いは強まり、川の増水も加速している事だろうと思われる。この調子ならば短くとも二日、長ければ五日以上も、この宿に滞在する事にはなるだろう。

 だが、赤の他人にそこまでしてもらうのも気が引ける。あまり一方的に好意を向けられると、村雨も、やはり不安にはなるのだ。


「だから、ねえ、良いでしょう? 貴女の用いる技術体系は、私の得意とする所。ちょいとばかし乗り気になってくれたら、この国じゃ身に付けられない最高レベルの学問まで……」


「っちか、近い近い、あんまり寄らないで。身の危険を感じるんだってば」


 果たして、不安が的中したのかも知れない。横になったままの村雨に覆い被さる様に、智江は身を乗り出してきた。顔の両脇に手を着かれ、後ずさりも出来ない。むやみやたらと近づいてくる顔を、村雨は両手を盾にして防いだ。


「いやいや、大丈夫大丈夫。ほら、天井の染みを数えてるうちに終わりますし?」


「全然大丈夫じゃない例えだよね? 寒村から売られてきた子への常套句みたいなものだよね?」


「あらん、思ったより悪い事を知ってる子。いけませんねえ、こんな子にはお仕置きをたっぷりと……」


「するなっ! どうしてもそっちの方に話を持って来なきゃ気が済まないの?」


「ええもうそりゃあ、美少年美少女はだーいすきですんで」


 何処かの誰かに強引さは似ているが、然し守備範囲は大幅に広い。思っていたより厄介な相手だったと、村雨は今頃になって、身に染みて実感する。とは言え然程力が強くない事もあり、手で顔を抑えられていれば、それ以上の事は何も出来ない智江である。色々と教えてもらった事も有り、何より彼女の笑みは不思議と安心感を与えてくれるものであった為、村雨もあまり強くは出られずに居た。


「もう、離れてくれないと怒るよ?」


「どうぞどうぞ。美少女に罵られるのもそれはそれでばっち来い」


「あ、駄目だこの人、駄目だ……じゃなーい、離れてー……!」


「むぐぐぐぐ、いーやーでーすー……!」


 だが、いつまでも上に圧し掛かられていても動けない。顔を押して引きはがそうとする村雨と、意地でも引っ付いて離れまいとする智江。赤ん坊をあやす際の百面相の様に、頬を耳の方向へ引っ張った顔になりながら、智江は村雨の手を放そうと悪戦苦闘していた。


「ぃ、きゃあああああああああぁっ――――」


「……!? 何、今の……?」


 何も知らない者が見れば、微笑ましいのかも知れない光景。それを破ったのは、耳をつんざくような悲鳴であった。反射的に村雨は、体を横に捩じって、智江を振り落として起き上がる。


「はら、悲鳴……今のは、玄関口の方?」


 畳に転がされる羽目になった智江は、立ち上がりはしないものの、耳を澄ませて様子を探っている様だった。顔から、あの笑みが消えている。笑わなくなると、存外に冷ややかな印象を与える顔立ちだと、村雨は今、初めて気がついた。


「……ちょっと見て来る、待ってて」


 襖を開け、廊下へと村雨は飛び出す。途端、濃密な血の臭いが鼻腔を刺した。確かに、臭いは玄関先。その場所にもう一つ、嗅ぎ慣れた臭いが有った事に気付いて、幾らかの安堵も混じっていたが。

 廊下を真っ直ぐに走り、突きあたりを右。そしてまた直ぐに右へ曲がると、玄関まで真っ直ぐに開けた通路に出る。


「桜、今のは!?」


「仕留めた。が、一人やられた……見覚えは無いか、こいつに」


 嗅ぎ慣れた臭いは、紛れもなく雪月 桜のもの。四尺の大太刀は、赤々と血に濡れていた。何かを斬った事は明らかだった。

 桜の足元には、両断された人体が一人分、つまりは二つ。下半身は、至って尋常の形状である。だが、上半身の方は、歪を纏めて作った様な、奇怪な形状をしていた。


「……これ、何? 確かに、似た物は見た事有るけど……」


 斬り捨てられた上半身は、胴体と首だけは人間のものだった。肩から先の形状、鋼の様な体毛が、明らかに人の物では無かった。大木の様な腕、太く長く鋭い爪は、蝦夷地のヒグマのそれである。


「……まさか、同じもの?」


「おそらくは。私が斬り、お前が壊した『あれ』と同じだ……拙いな」


 村雨と桜は、この怪物の名前は知らない。だが、この『人工亜人』の殺傷力、凶暴性、そして空腹性は十分すぎる程に理解している。


「他におらんか、お前の鼻で探れ。私でも刀が無くては少々手こずる、並みの魔術師などでは太刀打ちできんぞ」


「分かってる、今直ぐに――って、あ、桜! 外!」


「外がどうし――、おう!?」


 桜が村雨に、村雨が桜に気を取られた、ほんの一瞬の出来事だった。おそらくは『人工亜人』の爪で叩き壊されたのだろう玄関の外から、赤い光が差し込む。何事かと目を向ければ、其処には宿の外壁に隙間なく張り付くように、赤い壁が出現していた。

 程無く、宿の他の部屋からも、断末魔とは違うが、驚愕と恐怖に染まった悲鳴が上がり始める。壁が、赤い壁がと叫ぶ声は、小さな宿の中に伝染していった。

 桜は、壁に刺突を放つ。切っ先は壁に触れ、然し衝突音を僅かにも鳴らす事なく、桜の突きは止まっていた。


「……手応えが無い。手に反動すら返らん……なんだ、これは」


「何それ、どういう事……?」


「分からん。私の頭では、さっぱりわからんが――」


 背の鞘の蝶番を開き、太刀を納め、閉じる。怪物に叩き殺された宿の娘は、玄関先に横たえた侭にした。廊下を血で汚して歩きまわっては、余計な混乱を招くだけだ。急場にあって恐ろしいのは、下手に殺す事の出来ぬ味方である。


「――私達は、この宿に閉じ込められた。理由は知らんが、そういう事だろう」


 夜陰に行燈の灯りから、不気味に発光する壁の赤に、宿の景色は染められる。壁一面が血で染められた様な空間に、村雨は、単純な恐怖を覚えた。複雑な訳など存在しない直感、自分の身が危険に曝されているという、獣染みた確信であった。

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