赤い壁のお話(1)
道連れが一人増えてしまった日から更に三日が過ぎて、桜達は島田宿へと到着していた。
島田宿の名物と言えば、越すに越されぬ大井川の存在と、それに伴って発展した周囲の娯楽施設、宿泊施設である。万が一の反乱の際に容易く兵を渡らせぬようにと、大井川には橋が掛かっていない。旅人は人足の肩車か輿で川を渡るのだが、増水時はそれも出来ず、島田宿で足止めを食らう事になるのだ。ともなれば、長雨に無聊を慰める為、多種多様の施設が集まるのは当然の事であろう。
遊女屋、賭場、酒屋は言うに及ばず、按摩に座敷芸、貸本屋、針灸。旅費が尽きた者の為には金貸しや質屋まで、ありとあらゆる設備が整っている。江戸まで行かずに江戸の気風を楽しめるという事で、外来人なども多く立ち寄る様になった。
その様な理由で島田宿は、東海道中で指折りの大宿場街として栄えているのであった。
話は変わって、蓬莱屋という宿の一室。雪月桜は畳に仰向けになり、もう何回目になるであろう独り言を零していた。
「雨だなぁ……やれ、困った」
窓の外では、空が滝に置き換わったのではと疑わんばかりの豪雨が、土を叩いて抉っている。大井川は大幅に増水し荒れ狂い、とてもではないが、人足の一人として踏み込めぬ激流と化していた。
思えば昨日、ぽつぽつと雨が降り始めた所から、嫌な予感がしていたのだ。夜になっても雨は止まず、深夜にふと目を覚ましてみれば、寧ろ雨足は強くなっていた。結果、見事に川止めを喰らってしまい、先へ進む事が出来なくなったのだ。
「荷物さえ無ければなぁ、泳いで渡るものを……いや、流石に流されるな」
何事も正面から無理を押しとおす桜であっても、大井川の濁流と競おうという好奇心は起こさなかった。負けるとは思っていないのだが、痛手を負うとは自覚しているのだ。自然とは人間にとって、永遠に打破しきれぬ最強の敵なのである。
従って、早朝から昼に至るまで、桜は退屈を持て余していた。一人旅、且つ資金が潤沢にあるのなら、遊女屋にでも出向いていた所だろう。が、女遊びは村雨に固く禁じられている。下手な事をしてへそを曲げられては面倒だと、目を盗んで抜け出そうという気にもならなかった。
「……これでは体が鈍るな……よし、決めた」
部屋の端から端までの寝返りを一往復、突然桜は立ちあがる。脇差を腰に差し、太刀を背負い、ふらりと歩き始めた。
その向かう先は、宿から続く渡り廊下である。川止めでの客を当て込んだ宿場町である島田では、店と店を屋根付きの廊下で繋ぎ、客人を雨に濡らさないという工夫が広まっていた。
桜が向かった先は、剣術の道場である。道場破りで運動を、ついでに小遣い稼ぎでもしようと企んだのだ。
一方で、桜が退屈を訴えていた隣室では、村雨が座禅を組んでウンウン唸っていた。
「うぅー……ねえウルスラ、さっきから全然進展が無いような気がするんだけど?」
「おかしいですね、これで正しい筈なのですが……何故でしょう?」
「私に聞かれても困るよ」
ウルスラと呼ばれた少女こそ、あの隠蔽魔術を得手とする彼女である――ちなみに、この名前は洗礼名だ。桜に誘われ、また断る理由も特に見つからず同行した彼女は、村雨の正面で正座していた。
彼女達の間には、一冊の書物が置いてある。やや頁の擦り切れた質の悪い紙の束には、子供でも読めるようにとの配慮か、簡単な文字と言葉を選んで文章が綴られていた。
「それでは……そうですね、最初からまた順を追ってやり直しましょう」
「また? 別に暇だからいいけどさー、これで三回目なんだけど……」
ウルスラがぱらぱらと頁を捲れば、村雨は溜息を付いた。一言一句同じ台詞を聞かされるのが、村雨の主張の通り、これで三回目なのだ。
二人が間に挟んでいるのは、『初等魔術入門』という教本である。その名称の通り、魔術という学問の道に入るに際して、身につけねばならない基本的な事項が記されている書物だ。家庭から寺子屋、はては藩校にいたるまで、おそらくこの一冊を手に取らず、魔術を修めた者はいるまいと言われる程の名著である。
村雨が行っているのは、その書の中でも中盤の項目、体内の魔力を何らかの形で駆動させる修練だ。兎角どのような形でもいいから、魔力を使う事自体に慣れようという内容――難易度で言えば、魔術の道に入って一週間も有れば、辿り着ける内容なのだが。
「まずは深く息を吸い、止め、目を閉じる。自分の魔力の起点を意識し、それが火を噴く様な、或いは水を流す様な意識を保ち――」
「もうそこから分からない! 魔力の起点って何なのさー、もー……」
「……私も実際の所、良く分かりません。何なんでしょう?」
村雨も、全く魔術を使えない訳ではない。少量の水を小さく、纏めて固体とする術を身につけている。だからこの過程など確認だけで済むだろうと思っていたウルスラは、すっかり途方に暮れた様子だった。
そも、なぜこの二人が学問に興じているかと言うと、桜の命令である。聖書の内容を暗唱する程度には知識が有る桜だが、ウルスラはそれを習いたいと申し出た。すると、桜はその代金として、村雨に魔術を習わせろと要求したのだ。
高度な隠蔽魔術に身体強化の術と、ウルスラは高位の魔術師である。だから、きっと指導も分かりやすい物になるに違いないと村雨は思っていたのだが――残念ながら、そうはならなかった。
そも、能動的に思考する事を極端に苦手とするウルスラは、何かの指導者としての適性が無いに等しいのだ。教えられた内容は忠実に実行できるが、自分で方法を考えて問題を解決する事が出来ない。その為、村雨の予想外の習熟度の低さに、完全に手詰まりに追い込まれていたのであった。
「ええと、座学に内容を変更しましょうか?」
「今でも十分座ってます……そうしましょ、ずっとこの姿勢は疲れたし……」
結局のところ、このままどれだけ続けても埒が明かないという事で、指導内容は変更と相成った。更なる基礎にして、究めようとすれば無限の時が必要とされる基本概念、『世界解釈』の講義である。
「ええと、これに書いてある事によると……そうそう、まずは此処からでした。最初に確認しておきますが、貴女が学んだ魔術の道は、洋の東西の何れに分類されるものでしょうか?」
「……ごめん、最初から分からない。いやさ、お母さんが大雑把な教え方してくれて、その後もちゃんと勉強する機会が無くってさ……」
「分かりました、一つ一つの項目を説明していきます」
正座をし、またぴしりと背筋を伸ばしたウルスラに釣られるように、村雨も姿勢を改めて座っている。奇妙なお見合いの様な状況で、ウルスラは、定型文を読み上げる機械の様な口調で講義を開始した。
曰く、この世界の魔術を大別すれば、錬金術を基盤とした西洋魔術と、五行を基盤とした東洋魔術に分けられるのだという。後者の歴史は前者に比べてやや浅く、普及度もまた前者が圧倒的に高い。これは魔術の効力の優位性というより、歴史に由来するものである。
然しながら、日の本一国だけで見るならば、西洋魔術の普及率はかなり低いと言える――正確に言うなら、純粋な西洋魔術の、だ。古来より外来文化を飲み下す事に長ける日の本の人間は、西洋魔術も東洋魔術も同時に取りこんだ上で、更に京に根付く陰陽道とまで混ぜ合わせた。まさしく混沌とした学術体系を生み出していたのだ。
「とは言いましても、やはり陰陽道に端を発するこの国の技術は、西洋魔術の影響は薄いと言えます。大きく影響しているのは『塩』或いは『エーテル体』と呼ばれる概念ですが、ここは一先ず置いておきましょう。必要なのは、貴女の魔術が、どの技術体系から生まれているものなのかを知る事です」
「ちょっと頭が容量超えそうだけど……うん、続けて」
必要無い部分を端折らず、重要な部分もあまり強調せず、ウルスラの説明は分かりづらい事この上ない。知恵熱が出るのではないかと危惧しながらも、村雨は話の続きを促す。
「西洋魔術の母体である錬金術は、世界を三原質と四元素に分けて考えます。一方で陰陽五行を母体とした東洋魔術では、木火土金水の五つに陰陽の二種を掛け合わせて事物を受けとめ――」
「ちょちょちょちょちょ、待って待って待って、もう分かんない、追いつけない」
危惧がもう実現してしまいそうだった。次から次へと新しい単語が出る上に、その単語の意味が殆ど理解できない。難解な研究書物を読まされている気分だ。これが本当に初等教育における魔術の教書なのかと、疑いさえ覚えてしまう始末だ。
「えーと、さ……ほら、もっと簡単に説明できないかな? 固有名詞とか出来るだけ無くして……」
「はあ、簡単にですか……簡単に、簡単に……うう、どうすれば良いのでしょう?」
「私に聞かれても……あーもー、これも桜の思いつきが悪いんだー!」
結果的に、今回に限ってはあまり悪くない桜に対し八つ当たりをしながら、仰向けになって手足をじたばたさせる村雨。ウルスラは未だ正座したままで、与えられた命令を遂行するにはどうしたものかと頭を悩ませていた。
「ええい、じれったあああい! ノンノン、文献を頭から読むだけで学習とは片腹痛ぁし!」
襖の外から突然叫ばれたのは、その時であった。先程から行ったり来たりしていた臭いがこの部屋を窺っていたのだと、村雨は初めて気付く。
「――、誰だ!?」
「ああ、あああら、っどあったぁ!?」
咄嗟に跳ね起き、襖を思い切り横に引く。すると、それに寄りかかっていた女が、派手にすっ転んで前転しながら部屋に入り込んできた。
「っおおおおぉ……腰が、腰がちょっとグキっていったグキって! 人でなし!」
一回転し、腰を抑えて蹲っているのは、火の様に紅い髪をした女であった。痩躯だが、背丈は桜よりもさらに上、五尺八寸という所だろうか。流麗に日の本の言葉を使っているが、目鼻立ちのはっきりした顔は大陸の、それも西洋の人間の物に見えた。
「……ええと、誰よ。ウルスラ、あなたの知り合い?」
「いいえ、賊徒の類では無いでしょうか。襖から部屋の内を窺う者は、無警告で確保せよと習いまいたので……」
村雨にもウルスラにも、その顔に見覚えは無い。どうやら全く無関係の、ただの通りすがりの者である様だ。正座の姿勢からすうと立ちあがったウルスラに、女は両掌を向けて後ずさる。
「ストップ、ストーップ! あ、待った待った! いや、怪しいものじゃあ無いですってえ、ただちょおっと覗き趣味があるだけの――」
「ウルスラ、私が殴るからいいよ。今なら一発で落とせる気がする」
「ごめんなさい、口が滑りました。真面目に答えますんでその拳を降ろしてください怖い」
赤髪の女は、背中にばねでも仕掛けてあるかの如き挙動で土下座をした。丸められた背、畳に押しつけられる額、己の非力さと惨めさをこれでもかと主張するその姿。まさに非の打ちどころの無い完全な土下座、悲しいかな熟練の技術であった。
あまりに見事な土下座を魅せつけられ怯んだ村雨の前で、女はパッと起き上がり、恐ろしく邪気の無い笑顔を作る。
「私は杉根 智江、旅の魔術師でありまして。ちょいと通りがかった所、何やら懐かしい練習内容が漏れ聞こえ、ついついこちらに来てしまった次第……貴女、魔術師見習いで?」
「杉根……え、この国の人?」
「いえ、外国人。こちらの国が気に入ったので、郷に入りては郷に従え、まず名前から従ってみたってえ寸法ですよぉ」
偶に妙な間延びがある他は、発音まで全く不自然さの無い日の本言葉だ。名前までそうならもしや、とも思ったが、それは本人に否定される。それでも村雨は、やはり珍しい物を見る様な表情を隠せなかった。
「まあまあ、私の事はさておきましょう。それより貴女方、錬金術についてはどれ程の理解があります? 三原質と四元素、こいつがまた面倒なもんでしてねぇ」
そんな村雨の顔つきを意にも介さないように、智江は愛想良く頬笑みながら、ぐいと身を乗り出す様にウルスラに近付いた。
「基本的な分類の仕方は。詳細な世界解釈に付いては、必要ないと判断され、指導されませんでした」
「ふむふむ成程成程、ではではそちらのお嬢さんは? 話を窺っていた所、殆ど知識は無い様に感じとれましたが……」
腰を支点に上半身を旋回させ、今度は村雨の方へと向き直る。ウルスラは動じていなかったが、村雨は思わず仰け反ってしまいながら、どうにか答えは返す。
「残念だけど、そんな感じ。まず三原質って何か、って所から始めなきゃないくらいなんだよねー……」
「ほうほう了解了解、全く問題ありゃあしません! まあちょいと長くなりますが、寝そべるなり何なりしてゆるぅりと聞いてくださいな」
斯く言う本人は正座をして、畳に置かれたままの教本を捲り、錬金術についての記述がある頁を村雨の方に向けた。
「そも錬金術の考え方と言いますのは、世界は神に作られた完全な一であり、全てはその一が特性を変えたものだ、という事なんですねぇ。特性を自由に操る事が出来れば、万物を人間の手で作り出す事が出来るだろう。こういう考えから、西洋魔術は生まれています」
「ふんふん……良く分からない様な、分かる様な」
少なくとも、ウルスラの話に比べれば、出てくる単語が幾らか簡単だ。完全な理解には至らないながら、村雨は相槌を打つ。
「まあ、完璧な物質が一つ有ると過程してくださいな。その物質がこの世界に存在する場合、三種類の性質のどれかを持つ事になるんです。それが三原質――硫黄、水銀、塩という訳ですね」
「あ、この辺りから分からなくなる……名前がちょっと増えすぎるからさー」
「大丈夫大丈夫。分からなくなるのは、名前だけ覚えようとするからです。性質を理解すれば、名前なんざ自然に頭に残る。さらーっと流す様にお聞きなさいな」
先の難解な講義で苦手意識を持ってしまったのか、早々に弱音を吐く村雨。智江はそれを宥めすかし、教本のページを一つ捲る。
「硫黄と水銀、これは対の性質ですね。硫黄は能動的、自分から外側へ影響を及ぼす事が多い性質の事。対して水銀とは、自分自身が影響を及ぼされる――つまり、受動的な性質を持っている訳です」
「ええと……温泉にある硫黄とか、鉱山にある水銀とかは別物なの?」
「はい、別ですねぇ。飽く迄も性質の名称として『硫黄』『水銀』と纏められているだけですから。複数の性質を一語で説明する為のやり方、という考え方で良いでしょう……此処まで、分かります?」
「んー……まあまあ、なんとか?」
村雨もいつの間にか、思った程は難しい話でも無いな、と思えるようになってきていた。名前は仰々しいが、要は世の中を三つに分けるやりかたが有り、分け方に基準が有るというだけだ。
「ええとね、それじゃあ……四元素っていうのも、三原質と同じ、性質の名前なの?」
そうなると、四元素とやらも同じ様に、世界を四分割して考えるものなのか? 単純な思いつきを問いにして見ると、智江は一度大きく頷いてから、然し否定を口にする。
「似ちゃあいますが、ちょいと違う。四元素っていうのは状態です、地水火風って言葉くらいは聞いた事があるでしょ?」
「あ、うん、有る有る。なんとなく、属性が四つあるのかなーとか思ってたけど……」
「ふうむ、ざっくりとした教わり方をしたもんなんですねぇ。まあ良し良し、話を続けましょ」
続く内容も、知恵はあれこれと言葉を尽くし例えを尽くし、可能な限り単純な表現で村雨に説明を続けた。内容は、以下の通りであった。
地水火風というのも、やはり名詞そのものの意味では無く、状態に与えられた名である。熱と冷、湿と乾の性質の組み合わせで分類される。
乾は硫黄に分類され、湿は水銀に。乾にして冷の物を『土』、熱の物を『火』。湿にして冷の物を『水』、熱の物を『空気』すなわち『風』と呼ぶのだ。
つまり世界は、三つに分類できると同時に、四つに分類する事も出来る。二重の物の見方が存在する、と言えるだろう。
全ての物質は、これらの特性の比率を変化させる事により、別の特性を示す。これによって卑金属を貴金属へと、そしてやがては不完全な人を完全な不老不死へ導く事が、錬金術の目指す地平なのだ。
「はてさて、これらに加えて説明をすっ飛ばしました塩、或いはエーテル体。こいつは西洋魔術では『無色の魔力』とも称されます、が――あら、あら、あら、ちょいと長居をしすぎましたねぇ」
「え、もうそんな時か……って、分からないねこれじゃ」
「ほおら、この通り。見てくださいな、かれこれ二時間近くも話しこんじゃって。流石は私、赤の他人に遠慮が無いアッハッハ」
突然の智江の言葉に、村雨はほぼ反射的に、障子の隙間から外を眺めた。相変わらずの土砂降りと曇で、時間経過を測れる目印など見当たらない。
智江は懐中時計を取り出し、開いて村雨にも魅せた。西洋に存在する都市国家、ナートラで作られた自動巻き式懐中時計だ。持ち主の魔力をやたら食うという事で、高額な割には使い勝手が悪いと不評の一品である。
「んーん、半端ですねぇ。もうちょっとで西洋魔術の基礎説明が終わったのに……ううむ、惜しい惜しい。これで終わらせるってえのは勿体無い話だ……という事でちっちゃい貴女、夜に遊びに来てもオーケー? 残りの説明もしちゃいますんで」
膝を解いて一度立ち上がり、長い脚を曲げて、座ったままの村雨に顔を近づける智江。やはり背を反らせてそれから逃げるようにしながら、既に村雨は、その勢いに押し切られかけていた。
「誰がちっちゃいか……じゃなくて、随分強引だね……」
「ふっふーん、楽しそうな事がありゃ遠慮しないのが私です。ねえいいでしょー、そこらで月謝取ってる先生方より優秀ですよぉ私」
座ったまま後ろへ下がっていく村雨と、追い掛けて前進を続ける智江。ウルスラはそれを、何か考え事をしているのか、上の空の目で見ているばかりだ。
が、特に断る理由も無い。夜にする事がある訳ではないのだ、桜はウルスラに聖書の読み聞かせをするのだろうし。空いた時間で無料で学を身に付けられるなら、受けておいて損は無いだろうと思い、智江の額に片手を当てて押し留める。
「ん、来てくれるなら、こっちからお願いするよ。でもあんまり寄らないで、身の危険を感じる」
「いやいや私達は女同士、そんな危険な事を出来る器官は備わっちゃあいない訳でしてねぇ。ま、無理に押しても仕方がない、迫るのは後にしましょ」
「性別がどうとかそういう問題じゃなくってね、うん……でも、離れてくれると凄く助かる」
むやみやたらに近付きたがる智江を押し離し、村雨は夜の予定を話し合った。夕食を終えてから智江がこの部屋を訪れ、講釈の残りを行うという事に決まった。今日が初対面の、しかも部屋を覗き見していた相手とこうも話が進んでいる事に、村雨は何か奇妙な感覚も有ったのだが、利益は利益として受け取っておくべきだろうかとも考えたのだ。
それに何より、この智江という女の笑みは、人の警戒心を溶かす何かを持っていた。目の前の存在に対し、純粋に好意を抱いている事がはっきりと表れている、優しげな笑み。それが向けられている間、村雨は、智江を警戒しようという考えすら浮かばなかったのだ。
「それじゃ、ご飯の後で遊びに来ますよー。あ、お土産欲しい?」
「貰って困らない物だったら、割と」
「おーけい、適当に見繕って持ってきます、んでは!」
結局、登場から退散まで、一人で勢いを保ち続けた智江であった。襖が後ろ手に閉じられた瞬間、村雨にどっと疲れが押し寄せる。
「ひー……一体、なんだったんだろう」
「さあ、何だったのでしょうね?」
途中から、頷いて相槌を入れるだけになっていたウルスラが、久しぶりに口を開いた。居たのかという趣旨の事を、思わず村雨は呟いてしまったが、
「成程、教え方とはああいう風にすればいいのですか……ふむふむ、ふむ」
ウルスラはそれを気にする事もなく、智江の指導方に思う所が有ったのか、しきりに頷いていたのだった。




