偽教のお話(4)
正しく、驚き呆れるという言葉が適切だろう感情を、村雨は抱いていた。一体人はここまで、信じてもいない神に対して忠誠を示す事が出来るのか、と。
おおよそ雪月桜という人間を顧みるに、彼女の生き方に敬虔さという言葉は全く似つかわしくない。我欲に塗れ、殺生を躊躇わず、酒食女色を慎むそぶりさえ無く――そも、同性愛に耽溺する事が、耶蘇教の生き方から遠く外れていた。
一通りの悪徳に膝までを濡らした桜が、教会で聖句を説く。それはまさしく、冒涜者による礼賛であった。
「司祭を名乗りて異端を説く背教者、ガルシア太瀬に問う! 善良なる信徒を誑かし財を掠め取り偽の聖女に譲り渡す、その正義は何ぞや!」
脇差の切っ先を司祭に向け、桜は真なる怒りを腹中に留めるかの様な形相で、問答を仕掛けた。その怒気が偽りのものであろうと知りながら、村雨は、この一手が齎す効力を既に感じとっていた。
「偽の聖女とは、貴様こそ何を言うか! 我らが救世主は、信者が為の祈りの場をこの地上に齎すのだ! 財貨無くしてはただ一つの小屋も建たんわ!」
教えを誰かに説いている以上、その教えに関しての問答をし向けられたならば、答えない訳にはいかない。桜は、あの司祭がにわかの似非宗教家である事に、何か確信が有ったのだろう。そしてどういう事か、桜は耶蘇教の聖書とやらを、流れるように暗唱してのけるのだ。
「一体お前たちは神殿に祈るのか、それとも神に祈るのか。イエスは神殿を欲したか、この世の財を欲したか!? そうあれかしと祈るのであれば、この地上の如何なる不浄な場所であろうが、それは全て教えの庭となる。だからこそイエスは一所に留まらず、卑しき家の一つ一つまでを訪れたのだ!」
村雨には、桜の言葉の内容が、おそらくは半分程も理解出来ていなかっただろう。だが、男の些細な反論を掻き消す様に、桜がわざと声を張り上げている事は分かる。近くに立っていれば耳に痛みを感じる程の声量で次がれる言葉が、信者達の動揺を拡大していくのも、肌に感じとる事が出来る。
「続けて問う! お前達が聖女と奉ずる者は、如何なる道理の下に救世主の名を騙るのか!?」
「大聖女エリザベートは我らの罪を赦し、我らを天の国へ導いてくださるお方である! 彼女は言葉一つにて病をいやし、また祈り一つにて悪霊を払う。これが救世主で無くして何と呼ぼうか!」
だん、と力強く一歩を踏み出し、また桜は詰問する。司祭の顔は、事が思う様にならぬ怒りに赤く染まっていた。ここが信者達の前で無いのならば、問いを黙殺して、部下に命じて殺害させればよいだけだというのに――自分達の救世主の正当性を問われるというのは、この司祭には人質を取られているも同然だった。
「主は言えり、汝ら人に惑わされぬように心せよ、多くの者我が名を冒しけり我はキリストなりと言いて多くの人を惑わさんと! 人は人を赦す事は出来るが、人の罪を赦す事は能わず。罪を赦されるは主であり、また天であるとさえ知らぬか!」
床に突き立てた太刀を引き抜き、桜はまた一歩、足を踏み出す。既に切っ先は祭壇に届く距離。二つに割れた信者の波は、彼らが信心を寄せる司祭が、この世ならざる者に断罪されているのでは無いかと疑い始めた。一寸でもそう思ってしまえば、罅の入った心は容易く砕ける。
「全くこの男は、この教会は白い墓の様だ。美しく飾り立てられながら、その内面には背教が髑髏の様に収まっている! お前たちまでこの男の様になるか、似非信心の壁に囲まれた穢れに堕ちるか!?」
信者達の心の揺れが、どよめきとなって伝わったのだろう。桜は祭壇の前で信者達に向き直り、そして彼らの信心に止めを刺すべく、大口を開けて空気を肺に取りこんだ。
「救世主イエスの教えに従うそぶりを見せながら、この男がお前たちに、ろくに聖書を説くさえしなかった事が良く分かる。お前達が大聖女と崇める女が、お前達の無知を嘲笑い、地獄へ堕ちていく様を味わっている事が良く分かる! 誰一人疑問に思わないのか、悲願である『至天の塔』の冒涜を!」
誰かが答えを返す暇は与えない。床を踏み鳴らし、虚空に太刀の刃を走らせ、殺意を振りまいて牽制する。
「創世記に曰く、かつて天地の全てが一つの言葉を用いていた頃の話だ。シナルの地に集まった人々は、天に至る塔を建てんと欲した。名を高めんが為とも、神の座に近付こうとしたとも、またノアの洪水に対する復讐とも言われている――然し、それは赦されぬ事であった。故に主は降り立ち、人々の言葉を乱して済む地を散らし、人は異郷の者と語らう事さえ侭ならなくなったのだ」
信者達の動揺はここへ来て、司祭への不信感へ、そして教義への僅かな不信へと転化する。彼らの司祭は、尋問官を名乗る女に対して、何一つ有効な答えを示す事が出来ていない――そも、反論は声量で掻き消されているようなものだが。神の教えを説いて司祭に勝るその女が、次に批判の対象として掲げたのは、彼らが悲願とする『至天の塔』だった。
「分かるか? 既に神が赦されぬと定められた暴挙を、エリザベートという女は為そうと企てている。不浄の財を集め、不義の教えを説き、正しい祈りの言葉一つ、己を信じる者に与えはしない! これが悪魔の仕業でなくてなんだ、誘堕の蛇でないならば何だと言うのだ!?」
教えの根幹を否定され、反論の為の学は、信者達には与えられていない。上から押し付けられた教義を機械的に信仰し、教団に尽くす事が正しき在り方だと信じ込まされていたからだ。それが今、激しく揺らいでいる。
「……故に私は此処に使わされた、異端の教えを広める悪魔を殺せと命じられた。偽司祭ガルシア太瀬、お前には裁きが与えられる」
既に、一般の信者は無力化した。力を奮うにあたって、邪魔になる物は無い。桜はそう判断して、また司祭へと向き直り、一歩。とうとう四尺の太刀の切っ先が、司祭の喉元に届いた。
「ひぃ……こ、殺せっ! この女を殺せぇっ!!」
殺される、そう思ってしまえば、普段の様に外面を取り繕ってはいられない。信者達の中に――激しく動揺する彼らの中に紛れた、自分の部下。武装信者二十五名に、太瀬久蔵は命を下した。
桜はニィと唇だけで笑い、手の中で太刀と脇差の刃を返す。似合わぬ熱信教徒の仮面を捨て、ようやく本性に立ち返る事が出来るのだ。
まず二人、息を合わせて、短刀を腰に据えて体ごと飛び込んでくる。右手の太刀、左手の脇差、何れも峰を使い、その胴を厳しく打ち据えた。肉に刀身がめり込んでから、引くのではなく、更に力を入れて押し込む。外側へ腕を開き切れば、飛び込んだ二人はそれぞれ逆方向に飛び、壁に背を打ちつけて崩れ落ちた。
攻防の隙を狙った三人目が、右膝を砕こうと足から滑りこんでくる。右足を高く振り上げて回避し、顔面に足の裏を振り落とした。死なない程度の加減こそは有るが、後頭部を強かに打ちつけた武装信者は、一撃で完全に動きを止める。
四人目、五人目、六人目、次の攻め手は三者連続。先頭の一人が正面から飛びかかり、その体を遮蔽幕の代わりとして、二人が低い姿勢から喉を狙うものだった。踏みつけられて昏倒した武装信者を蹴り上げ、飛びかかってきた四人目を撃ち落とす。同時に喉を狙った刃は身を反らせて回避し、入れ違うように刃の峰を用い、彼らの脇の下を、体が吹き飛ぶ程に打ち据えた。
襲撃者の足並みに乱れが見えた。無鉄砲な者は我先にと進み、臆病者は立ちすくむ。賢い者は、どちらに併せて動けば良いかを思案した結果、一瞬だが行動が遅れた。
七人目、柄で顎を打たれる。八人目、突きを回避され、その隙に鳩尾へ膝蹴りを受ける。九人目、十人目、纏めて太刀の峰で薙ぎ払われた。十一人目が投げた短刀は、脇差にそのまま打ち返され――拙いと思った時には、踏み込んだ桜が、彼の胸の中心へ肘を打ち込み、体を打ち上げていた。
「……っく、近づくな、射を揃えろ!」
武装信者の中でも首領格と思われる男の号令に、五人が従った。二間間合いを取り――桜なら一足で踏み込める距離だが――腰に付けていた小弓に矢を番える。全員が番えたと見た瞬間、首領格の男が矢を放った。僅かに遅れて、残りの四人が、ほぼ同時に矢を射る。桜の前方百八十度に位置した射手の矢だ。魔術を以て防ごうにも、詠唱が間に合わぬ距離の筈であった。
最初の矢が弓から離れた瞬間、一切の前兆を伴わず、炎の壁が立ち上がる。それは物理的な硬度を融資、飛来した矢の全てを、まるで雪玉であるかの様に防ぎ落した。桜の持つ『代償』の力、視認するだけで発動する灼熱の防壁であった。
「汝殺すなかれと主はおおせになった。私は、お前達愚か者を殺さない。愚かな者にはまだ、救われる望みが有るからだ」
炎の壁の向こうで、桜は脇差を鞘に納める。太刀ただ一振りを右手で高らかに掲げ、地が震えて生まれた様な声で告げた。
炎が消えてしまうと同時に、首領格の男の首が、桜の左手に掴まれた。咄嗟にその手を掴み返した男だったが、強烈な頭突きを受け、意識が飛ぶ。力の抜けた男の体を、桜はまた、自分に矢を射かけた一人へ投げつけた――これで十三、過半数を無力化したのである。
「然し、邪悪な者は救われる事がない。この世に在りて害を無限に為す者は、誰かが殺さねばならぬのだ――例え殺した者が地獄に堕ちようとも」
既に率先して桜へ飛びかかる者はいない。誰かが一歩を踏み出すまで、自分もその場で足踏みを続ける日和見ばかりだ。相手が尋常の強さであるなら、数で押し切る事も出来よう。だが、この相手には自分が百人居ても足りぬかも知れぬと、彼らは恐れに飲み込まれていた。
「さあ一切の希望を捨てよ、これより私はカロンとなろう! 我が行く末は憤怒の地獄、貴様等が逝くは第六の火圏! 主の赦しを与えられぬままに死にたい者は、この白墓の内に留まるが良い!」
桜が、太刀の刃を返す。これまでの峰打ちを捨て、斬り殺していくとの意思表示だ。もはや勝ち目など無いと悟らされた武装信者十二名、そしてそも抗う術など持たない信者達に、桜は狂気を孕んだ笑みのままで近づいていく。
「に、逃げろ、逃げろーっ!」
誰か一人が叫んだ、それが堤防に開いた穴。信者達は雪崩を打つ様に、破られた正面の扉から教会を抜け出していく。信仰心を捨てた訳で無かった。信仰心を持つが故に、地獄に堕ちる事を恐れたのだ。悪魔と断じられた司祭の伴をし、悪の嚢に振り分けられる事を恐れたのだ。
詰め込まれた信者がいなくなってしまえば、そこは酷く寂しい空間だった。白壁に人の温かみは無く、飾りでしかない祭壇には、野卑を絵にした様な男が立っているだけ。怒りで顔を紅潮させながら、同時に恐怖で醜く歪んだ顔は、聖職者を騙るにはあまりに粗末な滑稽さであった。
「……色々と言いたい事は有るけど、お見事」
「お前こそ、中々に見事。良い仕上げであったぞ」
両掌を何度か打ち合わせながら、村雨は何かおかしなものを見る様な目で、桜の隣に立った。
実は、逃げろと叫んだあの声は、他ならぬ村雨の物であった。主体性を持たず、他者に流される事でここまで辿り着いた集団だ。切っ掛けを一つでも与えてやれば、瓦解するに違いないと踏んだのだ。
結果は、村雨の予想を超えて、意図せぬ領域で完全であった。信者達には聞き慣れぬ声音であっただろうが、百人を超える信者全てを記憶し、あの状況下で冷静に判別できる者などはまず居ない。
「全くもう、どこで覚えたのさあんなの……白々しさが凄くて、笑いを堪えるのに苦労したんだけど?」
「まあ、気にするな。教えてはやるが、今はあの男を締め上げるのが先だ。と言っても、もう邪魔をする力など残ってもおらんだろうが」
既に、司祭は手持ちの兵力を失ったも同然だ。一般信者の心は離れ、武装信者は戦闘継続が不可能。これまでの厳めしさの仮面を脱ぎ捨てたとは言え、刃渡り四尺の太刀を手にした桜は、依然として恐怖の対象である。
「くぅ、おお……! この、このクソ女、俺の教会のっ! 俺の、俺の信者をぉっ!」
歯ぎしりして喚いても、司祭ガルシア太瀬には、桜に対抗する手段が一つも無い。ただ喚き散らし、捉えられるばかりに思えた。
桜が伸ばした手が、虚空で何かに触れたかの様に食い止められる。それと同時、桜は、己の首に何かが巻きつく感触を、確かに味わった。
「……おい、村雨。お前の鼻は、何かを捉えているか?」
「え? 何かって、何を……?」
何の音も聞いていない。村雨も、臭いを感知していない。視線を落としてみても、自分の首には何も触れていない。だというのに桜には、間違いなく首を腕で絞められている実感が有った。首の筋肉で血管と気道をこそ守っているが、それは、決して愉快な感触では無かった。
「……っ、らあぁっ!」
桜は、左拳で、自分の後頭部より更に後ろを殴りつける。手応えはないが、同時に首が絞められる感触も消えた。
「外したか、ふむ」
「どういう首をしているのでしょうね。成程、此処の武装信者では勝てない訳です……だから、欲を出すものではないと進言しましたのに」
いぶかしげな顔で振り向いた桜の左手側、おそらくは三間程の距離から声が聞こえる。桜が聞いた限りでは、村雨よりは少しばかり大人びた、だがまだ少女と呼ぶが正しいだろう声。自分の攻撃の失敗を他人事のように語る、その感情の起伏の薄さが――どういうわけか、桜は気に入ってしまった。
「今の声は、え……? うそ、居ない、臭いが無い――」
「村雨、お前はそこの男を捕まえろ! 居るぞ、何かが確かに居る。これは面白い相手だ、私に寄こせ!」
「あ、うん……分かった!」
状況は把握出来ていないが、敵がいる事は分かった。そして、自分が何を求められているか、も。僅かに気を取られている間に、司祭は既に何処かへと逃げ出していた。だが、こちらは臭いを追う事が出来る。床に両手を付いた獣の姿勢から、村雨は逃げた司祭を捕えるべく走りだした。
村雨が向かったのは、居住区の方角。建物の中央に位置する教会には、何も知らぬ人が覗き込んだのなら、立っているのは桜だけだ。
「追うなよ、お前が追えば私もあちらに向かう。あいつなら生かして捕えるが、私ならまず斬り殺す」
「殺せば地獄に堕ちると、貴女自身がおっしゃったのでは?」
「聞いていたのか? 地獄など私は信じておらん」
だが、声は二つ。その内やや高い方は、教会の中を歩き回っている為か、音の出所が一定していない。
「信じぬものを理解している、とでもいうのですか?」
「信じるものを理解せぬ、それがお前達の在り方だろう。逆が存在せぬ道理が有るか」
姿は見えず、声はする。隠蔽魔術に長けた相手か、それともまた別種の異能か。それを探る事よりも、問いに答えてやる事の方が重要であると、なぜか桜は感じていた。不可視の敵もまた、存在遮断からの奇襲を刊行しようとしてこない。
「もしもエリザベート様の教えが偽の真理だと言うのなら、では何が正しい事なのでしょう」
「知らんわ。そんなものは自分で考えろ」
突き離す様な言葉を向けても、反応が見えないのはつまらないと思った。顔を見て答えてやりたかったが、その為にはまず捕まえる必要が有る。太刀も腰に戻し、桜は両手を軽く開き、正中線に沿わせて構えた。
「……私は、自分で考えた事が有りません。命令をこなしていれば、それで良かったので」
少女の声は、自分を嘆いたり悔んだりしている様には聞こえない。事実を挙げて、それに関して解けぬ疑問を見つけ、その前に立ち往生している様な――算術の問題に何処から手を付けて良いのか分からない、出来の悪い生徒の様な声であった。
「では、今受けている命令は?」
「教会の敵を排除せよ。つまり、貴女に対する殺害命令です」
命令の復唱は、思考をする必要が無い事だ。全く迷いなく、少女の声は言い切った。
「そうか。なら、やるとするか」
号砲の代わりは、そっけない一言。押し黙った少女は、その存在の手掛かりを完全に消し去ってしまった。
少女の放った一撃目は、いきなり桜の目を狙ったものだった。視覚を奪う意味も有るが、眼球は鍛えられない弱点である。右手親指と人差し指を使い放たれた一手を、桜は左手を軽く持ち上げて防ぐ。見えた訳ではない。顔の大半を大雑把に覆う事で、見えぬままに防御をしたのだ。
続けざまに右爪先蹴り、すかさず脚を引き左拳による鉤打ち、何れも桜の腹に突き刺さる。こちらは防御の横を通り抜け、遮る物もなしに命中した。
腹に感じた衝撃に併せ、桜が右手を伸ばし、肩の高さを横に薙ぎ払う。手応えは無い、避けられた。その時には少女は、床にしゃがみ込んでいた。床についた手を軸に体全体を回転させ、伸びた足で放つ水面蹴り。桜の右膝に、それが叩きこまれる。
跳ね起き、少女は桜の側面に回る。右拳で顎、左拳と右膝で脇腹と続けざまに打った。左背足による上段回し蹴りが後頭部を狙ったが、命中前に、桜が少女の居る方角へ向き直った事で、右側頭部を打ち据えるに留まる。
「ほう、これはこれは……」
頭に感じた衝撃を追って左手を伸ばす、空を切る。踏み込みと共に右手を伸ばす、指先が少女の体を掠めた。桜は打撃ではなく、掌握を狙って手を繰り出す。然し、少女は捕まらない。一つの流れを終えれば次、また次、位置を変えて攻撃を続けているのだ。
そしてまた、その打撃の一つ一つが、少女の物とは思えない程に重い。身体強化の術でも使っているのか、それとも質量変化と硬化の並列だろうか。体に触れてからの押し込み、芯まで響かせる力が極めて強いのだ。
桜は、心底愉快そうだった。顎を蹴り上げられながら、右手を伸ばす。中指が少女の首に引っ掛かった、直ぐに外された。かと思えば、背中を強く蹴りつけられる。振り向きざまに左手を伸ばすと、続けて放たれていたらしい蹴り足と、空中で衝突する。その反動で少女は後方に引いたのか、もう一度手を伸ばしても、何にも掠りはしなかった。
「楽しいなぁ、実に楽しい。全く全く、阿呆の司祭の下に置くには惜しいぞ」
最初の目を狙った一撃以外、どれ一つとして、桜は回避出来ていない。だというのに、やはり楽しげな様子は変わらないまま、桜は両腕を顔の高さにまで上げた。胸から上だけを守る、正面すらろくに見えない構え。それは、攻撃を捨て去った様にさえ、見えるのかも知れない。
然し、焦りを覚えていたのは少女だった。ここまで命中させた打撃に、何れも手心は加えていない。一つ一つが、或いは呼吸を断ち、或いは転倒させ、或いは意識を狩り取る為の打であったのだ。それが、桜には全く通用しない。
姿が見えない事を利点とし、予備動作の大きさを全く意に介さない、右足裏で押す様な蹴りを放つ。ガラ空きの桜の腹部にそれは命中し、然し後方に倒れたのは少女であった。壁を強く押した時と同じ様に、反動で後方に押し返されたのだ。
「くっ……ぇえ、いやぁっ!」
転倒し、すぐさま立ち上がり、裂帛の気合と共に拳を放つ。声は隠蔽魔術により完全に消し去り、拳は身体強化の術を用いて、並みの男なら軽く殴り倒せる程の威力を持たせてある。それがやはり腹へ命中して、桜は息を詰まらせる様子も無い。
拳を引いて反動を付け――と、悠長に戦えはしなかった。衝撃の向かってきた方向へと、桜は手を伸ばしてくる。この動きも少女から見れば、少しずつ早くなっている様に思えていた。
実際の所、手の動く速度は、あまり変わっていない。ただ、少女が攻撃してから桜が反撃に映るまでの時間が短くなっているのだ。最初は、三発も四発も拳を打ち込めそうだった。今は、一つ拳を打ち込んだなら、直ぐに離れなければ捕まるという予感が有る。
あと幾つ、拳を打ち込み、足を叩きつければ、この女は倒れるのだろう――僅かにでもよろめくのだろう。攻撃を与えている筈の少女だが、その手足は既に、痛みを訴える程の状況にあった。
「……ふむ。楽しいが、こんなものか……まだ温いな」
ついに、桜は、顔を守る腕さえ降ろした。ただ平然と立って、見えぬ相手を追いまわす事さえ止めてしまった。その構えは決して、戦場に有って良い類の平穏さではなく、
「どうした、疲れたか。それともまだ、聞きたい事でもあるのか?」
隙を見せた相手には、躊躇せずに攻めるべし。少女は、習った通りに実行に移す。全身に掛けていた身体強化の術を、右腕だけに集中して掛け直した。自分の動きは気取られる筈がない、正面から――念を入れて、慎重に足音を消して接近する。手の届く間合い、人差し指と中指だけを伸ばし、右手を掲げた。
一切の予兆を排除した、眼球への攻撃。眼球を抉り、眼窩から脳を狙う、慈悲を忘れた文字通りの必殺。身体強化が生んだ高速の、目でなくとも肉を抉る事は可能だろう指先の刺突は――
「無いなら、次は私の番だ。異論は認めんぞ」
いとも容易く、桜の左手に受け止められていた。指の股の間に中指を入れられ、残りの指を掌に包みこまれる、完全に捕えられた形で、だ。
右手を引きつつ、左手で桜を殴りつけて逃れようとした。楔を打たれた様に右手は動かず、左手は桜の顔に届く前に、軽く右手で打ち払われる。
「何で、見え――」
完全に姿は消していた筈だ、予兆など掴めない筈だった。そういう術だと教えられ、疑いもせずに使い続けてきた。信頼ではなく盲信、それ以外を知らぬという術が破られ、少女は次の手を見つけられず、捕えられたまま硬直した。
「手が此処で、腕がこう……肩、首。背は思ったより有るな、身も適度に締まっている。良い鍛練を受けてきた様だが……」
桜の右手が、少女の右手首を掴む。そこから前腕、肘、肩へと、指先が伝っていく。姿の見えない相手がどういう体付きなのか、脳裏に想像図を作る為だ。肩から鎖骨、一度降りて脇腹、また肩。その手に対して、少女は、これをどうしたら良いのかと迷い続けていた。
「……所詮、人形の侭では何も出来ぬのよ。少しは自分で考えろ、という事だ」
肩、鎖骨、桜の指が伝い――それが首に巻き付いた時、ようやく少女は、この場での対抗手段に思い当る。首を絞める手を引きはがし、呼吸と血流を確保せよ、身を守る手段のうちの一つだ。
「ぎぃ、ぁっ……ぐ、お゛お゛ぁ……、ぁ、っか……」
指の一本も外す事は出来ない。少女の苦しげな声は、やはり魔術の支配下に置かれ、外へ漏れる事は無い。抵抗する手の力が、桜の呼吸一つ毎に弱くなっていく。こめかみを内側から押し上げられる様な痛みが、視覚も聴覚も全て霞ませていく。
桜は左手を伸ばし、少女の左胸に触れさせた。心音は伝わる、まだ高い体温も伝わる、生きている。満足気な笑みを零し、見えぬ体を引き寄せた。
「考え方は教えられんが、知識ならばくれてやる。来るか?」
きっと耳が有るのだろう位置へ口を寄せ、薄れていく意識にも伝わる様に、桜は少女を――平たく言うなら、口説いた。
「……っぁ、が……、い、ぁ……――――」
どう答えよう、こんな場合のやり方を習った事はない。迷った少女だが、なぜか思いついてしまった言葉を口に出そうとした。押しつぶされた気道では正しい発音も出来ず、言い直す前に、少女の意識は途切れた。
「……さて、もう村雨も、あれを捕まえた頃だろう」
気絶した少女を肩に担ぎあげ、桜はのんびりと歩き始める。村雨の足なら、あの司祭を取り逃がす事も無いだろう。そして、実力行使の必要が出たのなら、まず負けはするまい。旅の相方として選んだ村雨を、桜は十分に信頼していた。
4話に納め損ねた(´・ω・`)